2013年4月5日金曜日

第13回「鉄砲と花嫁」

禁門の変から、長州征伐へ移ろうところから始まりました第13回。
都の焼け跡の惨状に衝撃を受けていた覚馬さんですが、如何呑み込んだのか、今週は明るい表情で復興に尽力しています。
俵をひょいと持ち上げてましたが、妹の八重さんが出来るのですから、お兄さんの覚馬さんも一俵持ち上げるのくらいは朝飯前なのでしょうね。
しかし運ばれてきた米に喜んでいる人の描写を見る限り、とても前回会津を鬼だの何だのと言っていたのと同じ場所の方々には見えないのですが・・・。
冷たい視線を向ける人もいる反面、まだ温かく受け入れてくれる人もいるということなのでしょうか。
ちなみに「会津は都では嫌われ者だった」「長州は都で人気があった」というのが幕末史の一般認識ですが、長州は都での金払いが良かったんですね。
都の方から見ると、そんな長州は要は経済の歯車を回してくれる存在になるわけです。
逆を言えば、会津はそんな長州を追い出した悪者に映ってしまうんですよね、都の方には。
まあ経済回してくれる人がいなくなると、自分たちの生活にも直接的な打撃を被ることになるわけですから、現実的に物を考えれば・・・ね。
人間なんですもん、やはり自分が生きていく方に有益齎してくれる方に傾くのが心理でしょう。

元治元年8月、官兵衛さんが藩士を率いて上洛しました。

戦の報せを聞いて、急ぎ参じましたなれど、叶いませず、残念にごぜいやした

謹慎していた官兵衛さんは、容保様と対面するのは実に7年ぶりだそうです。
その官兵衛さんが率いて来た藩士たちには
「別撰組」という名を与えられ、隊長を官兵衛さんに任じると共に市中警固を命ぜられました。
慶応四年以降だったら別撰「隊」になってたのでしょうかね。
新選組の池田屋でのことなどを聞いて、あれだけ国許の会津で身を揉んでいた官兵衛さんですから、喜びも一入だったことでしょう。

その頃会津では、国許に帰って来ている悌次郎さんが、山本家を訪ねていました。
余談ですが悌次郎さん、このときの帰国の際に結婚されてます。
お相手は遠藤美枝さんといって、祖は正之公の近習の御家柄の方です。
悌次郎さん42歳にして、美枝さん24歳ですから、当時から考えると特に美枝さんはなかなか結婚が遅かったようにも思えますが、この頃の会津は藩内の若い人たちが、京都守護職のお役目として殆ど都にいるので、なかなか国許の娘さんたちはそう言ったご縁に恵まれなかったのが会津の現状だったようです。
相手がいないと結婚出来ませんからね。
勿論、結婚する人たちがいないと子供も生まれませんので、産婆さんは商売あがったりの状態だったみたいで・・・。
財政的な問題と並行して、そういったことも会津の国許ではぽつぽつ問題として芽吹き出しています。
それは今はちょっと横に置いておきましょうか、脱線しますので(笑)。

おー、お見事!話には聞いでだが、大した腕だ
私の腕は未熟だけんじょ、この銃はなかなかのもんでごぜいやす

悌次郎さんは銃を見せて貰い、尚之助さんが改良を重ねたことに頷きながら「これなら会津でなくても高く腕を買うところはある」と言います。
その言葉に、きょとん、とする尚之助さん。
悌次郎さんはとあることを、少し言い出しにくそうに切り出します。

実は、都を発づ時に覚馬さんに頼まれてな。もし川崎殿が会津を離れるごどを望むなら、余所で働げるよう力添えをよろしぐど

これが今日の用向きだったのでしょう。
常々このブログでも触れていますが、悌次郎さんはおそらく会津藩で一番他藩に人脈を持っていて、多方面に顔が効きます。
だから、会津ではない、尚之助さんを正当に評価してくれるところへ導くことも出来るのですよね。
誰も尚之助さんに会津に留まれと、縛り付けるようなことは誰も言ってません。
そういう何処にもまだ根を張ってない存在であるからこそ、出来るならば会津に根を下ろして欲しいという先週の覚馬さんの文があったわけでして。
なので、先週と言ってること違うのでは?と視聴者としては首を傾げたくなりますし、尚之助さんもそれを指摘していますが、どうやら先週とは状況が変わったようです。

覚馬さんは迷ってだ。川崎殿を会津に留めで良いものがど
私の腕は、もう要らぬということですか?
いや、そったことではねぇんだ
でしたら
象山先生が落命されだごど、お聞き及びが?

どうやら蛤御門のことは会津に届いていても、その数日前に起こった象山先生の訃報は届いていなかったようです。
というか、この場合は蛤御門のことが情報としては重要性と緊急性が濃厚だったので、象山先生のことが後からの出来事に掻き消されるような形になってしまったのでしょう。

刺客に襲われで亡ぐなられたのだ。その後、佐久間家がなじょなったが・・・お取り潰しだ
そんな・・・
象山先生のお働ぐに、松代藩は何ひとつ報いながった。それどころが、煙たがる向ぎさえあったど聞ぐ

・・・うーん、象山先生のことについて再三突っ込んではいることですが、佐久間家お取り潰しは松代藩の方々が象山先生の働きを認めてなかった云々よりも、象山先生の人間性がおそろしく藩の中で嫌悪されていたということをちょっとこのドラマではスルーし過ぎではないでしょうか。
これだと松代藩の方々が単にイヤな奴集団になっちゃうような・・・いえ、象山先生に好意的だった人たちから見れば、松代藩がそう見えるのは当然かもしれませんが。
まあ、要は物事に於ける視点の置き方ですけども。
覚馬さんも仰ってたように、悌次郎さんも象山先生の一件から、会津も他藩のことは言えないと言います。

秋月様。会津は、そんな薄情などごろではねえがらし
うむ。んだげんじょ、会津は頑固で新しいものを容易ぐは認めねえ。その銃にしてもそうだ。川崎殿がどんだけ力を尽ぐしても、それに見合うだけの地位を得るのは難しかんべ。それでも会津に留まることを良しとすんのか

史実はどうであったのか、詳しい部分は勉強不足故私は知りません。
でもこの象山先生の一件から、果たして尚之助さんを会津という畑に根付かせたところで、という考えの変化を展開させていくのは上手い運び方だなと思いました。
ただ、当人の八重さんと尚之助さんにすれば、振り回されていい迷惑だったでしょうが(苦笑)。

覚馬さんからふたりへの言伝だ。遠慮も気兼ねもいらねぇ。己を生かす道は、己の考えで決めで貰いでえ、ど

勝手だな、と思わない辺り、本当八重さんと尚之助さん良い人ですね。
さて、縛るものが何もないという現状と、象山先生の訃報。
このときの尚之助さんの心に重く圧し掛かったのは後者でしょうが

何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め

この台詞は象山先生から覚馬さんへの言葉でしたが、言葉自体を直接受け取ったのは尚之助さんでしたよね。
その言葉を思い出し、角場で落涙する尚之助さん。
何かを始めて、阻害されて、蹴散らしたけれども蹴散らし方が拙くて死後もなお阻害される象山先生。
覚馬さんはこの言葉を第3回で受け取ってますので、今度は尚之助さんの番、というのは少し変かも知れませんが、今後自分は如何していくのか。
蹴散らして行くのか、邪魔の入らない開明的な場所へその身を移すのか。
八重さんとの縁談云々を抜きに考えても、尚之助さんの選択の時ですよね。

手紙やら伝言やらで、散々国許のふたりを振り回しているなど全く気にしていない(というかきっと悪気が皆無)覚馬さんは、上洛した官兵衛さんに会いに行きます。
官兵衛さんは別撰組の隊士に槍の稽古を付けている最中でした。
隊士たちが持っていた稽古用の槍が、会津で覚馬さんたちが道場で使っていたにもそうですが十文字槍なのは宝蔵院流槍術だからでしょう。
官兵衛さんは、蛤御門で手柄を立てた覚馬さんたちには負けてられないと意気込みますが、それにしても長州攻めはいつ始まるのだと声を荒げます。

ご公儀の方針が定まらねぇみでえです
殿は、公方様がご上洛され、全軍の指揮をお執りになるよう、江戸に進言しておいでなのですが・・・

確かに理想で言えば、幕府の棟梁である将軍が勇ましく指揮を執って長州征伐に乗り出すのが絵になるのでしょうが、如何せん将軍が上洛して、その上戦に赴くとなれば莫大な費用が掛かります。
残念なことに幕府には、その費用を賄うことが出来ないのです。
武家の棟梁として保つべき面子という面倒くさいものがありますので、みすぼらしいなりで将軍を送り出すわけにも行きませんしね。
これは幕府を情けない、と言うよりは、じゃんじゃか諸外国に喧嘩を吹っかけてるのに賠償金請求書は全部幕府に回す一部の藩とか、黒船来航による物価高騰から始まる不景気とか、そう言った経済的な背景事情もあります。
いえ、確かに情けないと言えばそうですが、当時の人たちだって「無い袖は振れん!」と思っていた部分もきっとあるでしょう。
あと家茂さんが江戸から出して貰えなかったという節もありますね。
その辺りを大奥サイドから見た話については、『篤姫』参照で。
そんな一同のところへ、広沢さんが戦の報せを持って来ます。
主語が抜けてたので、てっきり長州征伐だと思い腰を浮かせた官兵衛さんですが、戦は戦でも長州と異国の戦でした。
元治元年8月5日(1864年9月5日)から始まった四国艦隊下関砲撃事件です。
馬関戦争とお呼びした方が多少は皆様にも馴染みがあるでしょうか。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国に長州が攻撃された事件です。
事の発端は、長州が文久3年5月10日(1863年6月25日)にやった攘夷実行にあります。
以前の記事でも触れましたが、あの時の要は報復がこのときですね。
当たり前というのも何だか変な表現ですが、この事件は長州の惨敗です。
近代兵器を積んでる17隻の艦隊と、大砲の数さえ足りずで覚束無かった長州では、火力差に雲泥の差があります。
まず大砲の飛距離からして違いますから、長州の大砲が敵艦には届かないのに、敵艦の大砲は長州に届くということになります。
その結果、5日に前田浜占拠、6日に壇ノ浦占拠、7日彦島占拠・・・と、ことごとく長州は艦隊にやられました。

(画像:Wikipediaより拝借)
フェリーチェ・ベアトの撮影したこの写真は日本史の教科書などでもお馴染みですが、これは前田砲台を占領したイギリス軍です。(訂正:この写真は実際は「洲岬砲台」とのご指摘を受けました。ベアトが写真説明の時に「前田地区の砲台で撮影」と記したので、おそらく「前田砲台」になってしまったと思われるとのことです。ご指摘とご教授感謝いたします)
惨敗を喫した長州はこの一件をターニングポイントに、無謀に攘夷を唱える姿勢から、開国勤王へと舵取りの方向を変えていきます。

時代は日を追うごとに確実に動き始めている中、主人公の八重さんにも大きな転機が訪れました。
改良に改良を重ね、元込め式のライフルを作ることに成功した尚之助さん。

筒の内側に螺旋の溝を彫りました。異国製のようにはいきませんが、ずっと命中しやすくなったはずです

私は銃には不勉強なので詳しくどうこう解説は致しかねますが、そういうことのようです。
試し撃ちは八重さんではなく尚之助さんが。
尚之助さんが銃を撃つのは何だかとても久し振りのような気がしますが、弾は見事的の真ん中に命中。
そのことに最後の自信を得たかのように、尚之助さんは八重さんに毅然と向き合って言います。

八重さん
はい
夫婦になりましょう
え?
私の妻になって下さい
そったごど・・・あんつぁまの文のごどは忘れるようにど、秋月様が言わっちゃ。んだがら、縁組のことは、もう・・・
文のことはどうでも良い。私が自分で考えて、決めたことです。お父上にお許しは頂きました。八重さん、一緒になりましょう
駄目です!それは出来ねぇす
何故ですか?私では頼りないですか?八重さんに相応しい男ではないと思っていました。だから、一度は縁談をお断りしたのですが・・・なれど、これを作ることが出来た。日本で最も進んだ銃だと自負しています。たとえ生涯浪人でも、この腕があれば生きて行ける
んだがら・・・ならぬのです。尚之助様を、会津に縛り付けではなんねぇのです。・・・あんつぁまの文が来た時から私はそう思っていやした
八重さん
ずっと仕官に拘ってだのはあんつぁまだ。尚之助様は昔がら、そったごどちっとも望んでおられながった。いづでも、何処にでも旅立って良いのです。やりでぇごどを、おやりになって頂ぎでぇのです!
私はここで生きたい。・・・八重さんと共に、会津で生きたいのです

道が幾つあっても、人ひとりが選べる道はいつだってひとつですからね。
八重さんは尚之助さんの求婚を受け入れました。
その昔、八重さんに「会津は頑固」というのを言葉に出して教えてくれたのは尚之助さんで。
尚之助さんは頑固の国(会津)ではない場所でも十分通用するだけの能力を備えていて、八重さんもそれを十二分知ってて。
でもそんな尚之助さんが、この先その能力を阻むことになるかもしれない頑固な会津で、自分と生きることを選んでくれた。
あなたは会津そのものだから、と八重さんに言ったのは大蔵さんですが、尚之助さんにとっては、八重さんが会津で生きていく理由なのですね。
つまり会津残留は八重さんあってのこと。
しかも八重さんは八重さんで、普通のおなごではないことを自覚して生きて来て、照姫様ご祐筆選抜騒動の時に改めてそれを痛感させられた部分があります。
あの時普通ではない自分を認め、必要としてくれたのは尚之助さんでしたが、今度はそんな自分と一緒に「生きたい」とまで言われましたからね。
嬉しくないわけないでしょう。
八重さんの嫁入り決定に、山本家も嬉々とした雰囲気に包まれます。
下女と下男のお吉さんと徳造さんも大喜びで、しかし山本家を離れるわけではないので「嫁に行く」と言うわけでもなく、しかし「婿取り」というわけでもなく。
こういう場合の仲人もどうしたら良いのだろうかとも頭を悩ませつつ、でもまあ嫁入り道具は人並みに揃えてやろうと、顔を綻ばす権八さんが何とも言えない幸せそうな表情なのが、見ているこちらまでつられて笑顔になります。

元治元年9月15日(1864年10月15日)、ほの温かい空気の会津から一転しまして、大坂の専稱寺に現れた西郷どん。
大坂の専稱寺そのもの今は残っていませんが、場所は以下の地図付近だったと思われます。

大きな地図で見る
勝さんを訪ねて来た西郷さんではありますが、流石に庭で薪を割ってる男が当人だとは思わなかったようです。
後の江戸城無血開城で顔を合わせるふたりですが、名乗り合ってましたし、初めて顔を合わせたのはこのときだと思います。
(ドラマでは皐月塾に西郷さんが訪ねて来てましたが、あそこでは顔を合わせてなかったということでしょうかね)

勝先生、征討令が下ってふた月が経つっちゅうのに、幕府はぐずぐずと時を無駄にしちょいもす。どげんしたら良かかと
何故、それを私に聞くんです?
亡き先君に申しつかりもした。国事に迷った時は、勝先生をお訪ねせよと
斉彬公ですか。お懐かしい・・・。で、アンタは長州を如何したいのです
無論、厳罰に処するべきと。領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす
挙国一致して、長州を討つってわけか。マアおよしなさい。そんな戦、幕府のためにはなるかしれねえが、日本のためにゃなりませんよ。そもそも内乱なんぞにうつつを抜かしている時ですか?下関を襲った異国の艦隊が、もし摂津の海を攻め込んで来たらどうします?腰砕けの幕府にゃ、打つ手はねえでしょう

ならどうするのが良策かと問う西郷どんに、勝さんは幕府だけに任せるのではなく、国を動かしていく新しい仕組み=共和政治を作るのだと言います。
幕臣である勝さんが、封建制で保たれて来た徳川幕府のやり方を否定してることになりますが、勝さんってこういう方ですもんね。

日本中には優れた殿さまが幾人かはいる。越前の春嶽公、土佐の容堂公、それから薩摩だ。雄藩諸侯が揃って会議を開き、国の舵取りをするんです

斉彬さんもこの政治体制を目指しておられました。
しかしこの体制については、前年(文久3年)に参預会議が数カ月で崩壊、この2年後に将軍となった慶喜さんの元で設けられた四侯会議が、慶喜さんの性格が災いしてすぐに崩壊してしまうという・・・(苦笑)。
2年後の失敗はこの時点ではまだ勿論発生していないわけですが、参与会議が短期間で崩壊したことについては勝さんは如何思っておられたのでしょうかね。

肝要なのは、己や藩の利害を越え、公論を以って国を動かすことです

とは仰いますが、徳川幕府が「幕府」である限り、幕府は己の利害を必ず考えるでしょうね。
面子は捨てられない、最高権力者の地位にいたい、・・・と、後の慶喜さんを見ていれば何となく感じることですが(個人的に)。
そういう風に幕府の性格みたいなのをなぞって行くと、共和政治を実現させるためには何が一番それを阻んでいるのかがくっきりと見えてきます。

わかいもした。・・・たった今、おいは目が覚めもした。天下んために何をすべきか、はっきりとわかいもした。あいがとごわした

勝さんとの会話のやり取りで、西郷どんも斉彬さんが提唱してた共和政治を阻むものの姿がくっきりと浮かび上がったのでしょうね。
だからこそこの発言だと私は捉えたのですが、如何でしょうか。
そして西郷どん開眼発言に、少し喋りすぎたかも、と苦い反省をする勝さんでしたが、既に後の祭りです(笑)。

元治元年10月22日(1864年11月21日)、大坂にて長州征長の軍議が開かれます。
総督は安政の大獄の時に、春嶽さんと一緒に隠居・謹慎の処分に下された尾張元藩主・徳川慶恕さん改め慶勝さん。
前にも触れましたが、容保様の実のお兄さんです。
ドラマでは尾張藩主、としていましたが、この時点では藩主の座は退いでいると思います。
文政7年3月15日(1824年4月14日)のお生まれですので、このとき40歳、数えで41歳。
副総督は、いつの間にかドラマでお見かけしなくなった春嶽さんの養子、松平茂昭さん。
天保7年8月7日(1836年9月17日)のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳。
征伐軍の参謀は西郷どんです。
しかしその参謀が、長州に恭順を勧めるべきだというのですから座はどよめきます。
それでは幕府の体面に関わると言う茂昭に、西郷どんは兵力さで幕府の威光を見せつけること、戦わずして勝つことが善の善なるもの、と孫子の兵法を引用して茂昭さんを論破します。
これによって征伐軍の方針は和平へと一転するのですが、「戦をしなくて良い」の意見に諸藩が飛びつくように右に倣えして、結果戦が起こらなかったのは、やはりここでも各藩の財政的な事情があったからだと思います。
西郷どんは勝さんに、「領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす」と仰ってましたが、 表向きには石高36万石の長州を征伐したところで、分け前の半分が朝廷に行くのでしたら残りは18万石。
それを征伐に参加する36藩で分け合うと、結局貰えるのは平均して50000石というささやかなものだけ。
手柄によって増減するでしょうから、下手をすれば貰えない可能性だってあるわけです。
しかし戦の出費は膨大且つ藩の財政に余裕がない。
この損得勘定のそろばんを弾けば、やる気も起きないというものです。
ひとつひとつの藩の動向を丁寧に探っていければ、幕末史がもっと面白くなるのでしょうが、生憎と36藩全部には手が回りません・・・(苦笑)。
そんなこんなで、長州征伐は一千も交えることなく、長州川が家老三人の首を差し出して恭順の意を示したところで終わりました。
それから八月十八日の政変の時に長州へ落ち延びた実美さんたちを、筑前藩大宰府に移す様に、というのも条件の中に含まれていました。
いずれも「朝敵」に対しては、随分と寛大な処置だったように思えます。
その処置に関して、二条城で納得いかないと憤慨している御仁がおりました。慶喜さんです。

征長総督め、薩摩の芋酒に酔って腑抜けになったとみえる
芋酒?
西郷という名の芋じゃ

ところが今度は、容保様が長州征伐に家茂さんの上洛を願い出たことを遠回しに批判めいて指摘します。
何かと以前から容保様にねちねちと嫌味っぽい慶喜さんですが、一会桑政権という連携がありますので、

江戸の老中は、京都守護職如きが将軍の進退に口を挟むべきではないと嘲笑しているようです。
何より江戸城に籠りっきりの幕府の偉い様方は、遠い都の現状を本当の意味で知りません。
そのため、慶喜さんや容保様が、朝廷の権威を笠に着て幕府を脅かすのでは、という噂まで立つ始末。
火のないところに何とやらとは申しますが、これは完全に誤解なのでしょうが、今のように即座に情報伝達が行える時代ではないので、これもまた仕方がないことではあるのでしょうが。

江戸城の連中は何も知らぬ。そのくせ帝のご信任篤い我らを妬み、京都方などと名付けて痛くもない腹を探ってくる

今回ばかりは、慶喜さんに同情を覚えますね。
しかし日頃京都守護職として黒谷でお勤めされている容保様に対して、普段慶喜さんって何処で何やってるのかなあ、という印象がないわけでもないですが。
そしてこの江戸と京の間に起こる軋轢は、会津藩内でも発生してました。

江戸藩邸からも訴えが参っております。幕府の役人達が会津を京都方と呼び、何かと嫌がらせをすると
京都守護職は、ご公儀がら押し付けられだお役目ではねぇが。金ばかり嵩んで、国許も疲れ切っているどいうのに

修理さんに、土佐さんはそう零します。
しかしこの行き違い、そして国力の疲弊を放置しておくわけにも参りません。
容保様の体調のこともありますし、ここらが潮時か、とふたりは見極めます。

なあ、修理よ。我らは一体、何ど戦っているのであろう

幕府から貧乏籤を引かされ、役目に励めば今度は幕府から痛くもない腹を探られる。
怨みは買うは、国力疲弊するわ財政破綻寸前になるわ、唯一得たものと言えば孝明天皇からの熱い信頼だけ。
何とために会津から遥か遠いこんな場所で、毎日頑張っているのだろうと、ふっと疑問に浮かべてしまったこの土佐さんの一言、物凄く深いと感じました。

この年、覚馬さんは公用人に、大蔵さんは奏者番、平馬さんは若年寄に出世しました。
そのことについて平馬さん宅で、二葉さんがお祝いを言っていますが、砲術の家の人間である覚馬さんが、武ではなく公のことに関われる公用人に取り立てられたのって、実は凄いことなんじゃないだろうかと思うのですが、どうなんでしょう。
それはさておき、平馬さんが二葉さんに人形を贈ったこのやりとりが個人的に好きです。
ぎこちないんですけど(主に二葉さんがお固すぎて)、結婚前に「仲良くしましょう」と言った平馬さんの言葉はちゃんと守られようとしてるんだなと。
平馬さんは義弟にあたる大蔵さんに、大蔵さんも何か妻女が喜びそうなものを贈ってやれと言います。

櫛でも紅でも良いんだ。おなごはみな、そったもんを喜ぶ。・・・いや、みなどは言えんな。覚馬さんの妹御なら鉄砲の方が良さそうだ
紅白粉より鉄砲です。んだげんじょ、あれもとうとう縁付くごどどなりやした
はあ、そんな勇ましい御仁がいやしたか

縁付く、と聞いたときの大蔵さんの表情が一瞬止まるのは、最早お約束ですね。
お相手が尚之助さんだと聞くと、平馬さんは膝を打ちながら灯台下暗しだと言います。
良かった良かった、とおめでたモードの平馬さんに、驚いて膳のお銚子を倒してしまう二葉さん。
一方ひとり、黙り込んでいた大蔵さんでしたが、やっぱり八重さんに未練が残ってるのかな~好きだった人の結婚話なんて聞きたくないよね~などと思っておりましたが・・・。

良い・・・良いご縁です
え?
まごどに、良いご縁です。おめでとうごぜいやす

顔を上げてそう言った大蔵さんの表情が、国許を離れるとき(第8回)に八重さんに「あなたは会津そのものだから」と言った時のあの表情と非常に似ていました。
解釈は人それぞれでしょうが、やっぱりまだ八重さんへの気持ちは残ってるんじゃないのかな、と言う印象を受けました。
でも国許発ったときみたいに、はっきりと言葉では言い表さない。
この先も一生秘めていくおつもりでしょうか・・・そういう気持ちは引き摺っても全然軽くなってくれないものなんですけどね。
その大蔵さんも、八重さんのあれこれに反応を示しますが歴とした妻帯者なわけでして。
会津で家族が大蔵さんの昔ことを話している中に、大蔵さんの昔のことを知らないが故に輪に入っていけない登勢さんを、そっと気遣う艶さんが素敵でした。

季節が巡って、再び春・・・ということは元治2年(1865)でしょうか。
八重さんの花嫁衣裳である、純白の羽二重の打掛が届けられます。
それに淡い笑みを注ぐ権八さんの横顔が何とも言えず・・・これ、八重さんが家にいるままだからこうですが、嫁いで他の家に行くとかなってたら、絶対に権八さん泣いてたんじゃないのかな。
その場合、覚馬さんの時は大量に耳かきを作ってましたが、何を作ったのでしょうね(笑)。
近々花嫁衣装に袖を通す八重さんはといえば、三郎さんと角場にいました。
嫁入り前だというのに、何処までもいつも通りなのが却って八重さんらしいです。
角場であれこれいう八重さんに、三郎さんは口を少し尖らせて言います。

あーあ。当てが外れだ
ん?
姉上が嫁に行けば、角場は俺の天下だと思ったげんじょ

現代で言う、お兄ちゃんが出て行ったら子供部屋は自分が使える、というのと似た感覚でしょうか。
しかし世界でたった三人の山本家の兄弟で、覚馬さんはずっと都というのもあるので、このふたりの絆みたいなのは、描かれてはいないけど色々と察することが出来ますよね。

姉上・・・おめでとうごぜいやす

弟からの言祝ぎに、八重さんは少し恥ずかしそうに微笑み返しました。
ゆっくりゆっくり幸せが向こうからやってくるような、緩やかな時間の運び方が好きです。

一方、西郷さんの栖雲亭を訪ねた悌次郎さんは、ふたり仲良く筍を七輪で焼きながら西郷さんに京の情勢などを話します。
筍が終始、物凄く美味しそうでした。
会津は京の丸太町に洋式調練の練兵場を開くことになったようで、蛤御門の件が軍事改革を促す良い呼び水になっているという現状は良い傾向かもしれませんが、会津の国許では単にそうとは捉えられません。
ただで軍事改革や洋式調練の練兵場を開くことは出来ません、当然お金がかかります。
ただでさえ守護職拝命前の時点で藩の財政が赤字だった会津ですが、その後赤字は酷くなる一方で、借財も増えるばかりです。
悌次郎さんも財政が苦しいことは薄々承知してたでしょうが、国許に帰国してからそれがよく分かったようです。
国許の人々が倹しい暮らしをしているのを、きっと目の当たりにしたのでしょうね。

公用方には不満を持づ者もいっぺいいんだ。国許がら見れば、都を我が者顔に仕切ってるように見えっからな。横山様の御尽力にも拘らず、にしにお役目が付かぬのもそごらあだりのごどだ

以前の記事でも触れたことですが、この時点で横山さんは亡くなっていると思うのですが・・・(横山さんは8月7日没)。
それはさて置き、そこへお茶を持って来た千恵さんによれば、八重さんの祝言の仲人は悌次郎さんが務めるようです。
ドラマの西郷さんは八重さんを気に入っている様子ですので、もし謹慎になっていなければ西郷さんが務めていたのでしょうね。
しかし仕官が敵っていない尚之助さんは、藩士でないので拝領屋敷がありません。
なので、何処に嫁「入り」は出来ず、嫁「入り」らしく送り出すことも出来ないのを少し気の毒そうに思う千恵さんですが、そういったことを気にしない山本家の面々ではあっても流石に・・・とおもった西郷さんは、ここでひとつ年長者(といってもこのとき34歳、数えで35歳ですが)の知恵を出します。

いや、折角の祝言がそれでは・・・。ああ、わしに考えがあんぞ


会津にも遅い春が訪れ、桜の花が爛漫と咲き誇る砌。
柔らかい陽光が差し込む秋月邸で、わたわたとせせこましい悌次郎さん。

仕度は整いましだがー?

と、開いた扉の向こうには白無垢で身を包み、綿帽子を被った八重さん。
見ているこちらも思わずうっとりしてしまうほどの美しさでしたので、悌次郎さんが感嘆するのも無理からぬ話ですね。

これは魂消だ。すっかり見違えだ
秋月様。今日はこちらのお宅がら嫁入りさせて頂ぐごどとなり、ありがとうごぜいます
いや何、頼母様のお知恵だ

どうやら西郷さんの「考え」とはこのことだったようで、秋月邸から嫁入り行列を出立させる、ということだったのですね。
これで八重さんも「嫁入り」が出来ることになりました。
勿論史実ではどうだったのかどうかは分かりませんが、ドラマの八重さんは色んな人に温かく見守られながら嫁いでいくのだなと、心がほっこりするシーンでしたね。
丁度この回の放送時(2013年3月31日)は、桜が綻び始めた砌でして、狙ったのかどうかは分かりませんが、現実とドラマの季節がぴったり重なっているなと思いました。


ではでは、此度はこのあたりで。


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