2013年3月27日水曜日

第12回「蛤御門の戦い」

戦闘意欲の異様に高い長州サイドから始まりました、第12回。
更に援兵600が来るとのことで、ますます長州の士気は高まります。
一方の会津本陣。
広沢さんが持ってきた情報によりますと、長州は諸藩邸や公家に意見書を送り付け、この度の長州の行動を正当化する工作を行っているそうです。
そしてその意見書の中で、奸物として名指しにされたのが容保様です。
天下騒乱の大本は容保様が守護職に就いたからとか、完全に長州視点での物の考え方だな~とも思うのですが・・・。
あと繰り返しますが、長州サイドの第一目的は藩主父子の汚名を雪ぐことでありまして・・・。
いえ、それを建前と考える人もいますけど、まあ会津憎し一色での挙兵ではないのです。
ともあれ軍議の元、既に出兵の命が下っていた会津は、一番隊が伏見街道へ、二番隊は御所の警固に、大筒隊は御所と伏見の二手に分かれて進軍することが決まります。
長州の主力は、伏見にいる福原越後勢だと意気込む皆様ですが、覚馬さんだけは胸に引っ掛かりを覚えます。

伏見の軍勢、まごどに長州の主力が・・・
陣将の福原越後は総大将です。まず間違いはねぇでしょう
んだげんじょ、八幡宮で気焔を上げでだ来島は、嵯峨天龍寺から攻めで来る。真木や久坂は天王山です

覚馬さんは真木さんや久坂さんが主力と睨んでいる様子ですね。

ドラマでも出てましたが、地図上で把握しますと、長州の陣は御所から見てこの図のような距離にあります。
そして覚馬さんが睨んでいた通り、伏見街道の軍勢が会津を引き付けている間隙を縫って、天王山の久坂さん達が御所に攻め入る、というのが長州の作戦でした。
ちなみに長州は、嵯峨天龍寺が約800人、伏見が約700人、天王山が約600人という人数の振り分けです。
天龍寺には、このとき布陣した長州兵の付けた刀傷が、今でも残っています。

戦までのカウントダウンが始まる都とは打って変わって、会津。

合う蓋が、合わねぇ蓋が・・・上手くいきゃ一挙両得ど良がんべが・・・しくじったら台無しだ

そう何やら難し顔で唸って、部屋に籠りに行ってしまう権八さん。
様子をこっそり伺っていた八重さんとうらさんは、訳が分からず首を傾げます。
佐久さんだったら何か知っているかもと思いきや、その佐久さんは権八さんと一緒に部屋に籠っているとお吉さんから聞いた八重さん達。
まさか都の覚馬さんに何かあったのではと、応じる声を聞く前に襖に手をかけて権八さんに詰め寄ります。
ところが、権八さんの口から出たのは思いもよらぬ言葉でした。

覚馬は無事だ。案ずるごどはねぇ。話っつうのはな・・・八重の縁談だ。にし、尚之助殿と夫婦になれ。これは覚馬の考えだ。・・・長ぇごど仕官の願いは叶わながったげんじょ、八重の婿っつうごどになっと、話は違ってくる。藩士になれば例の新式銃の話も進められんべ。うめぇごど考えたもんだ

語ってる内に何となくひとりで、そうだそうだこれは妙案だぞ、と納得しつつある権八さんの傍らで、佐久さんが無理にとは言ってない、二人の考えもあるし、と絶妙なフォローを入れますが、権八さんが「やっぱり良い話だからこの縁談進めよう」と、当人である八重さんを置いてけぼりにします。
佐久さんの折角のフォローが台無しです。
そして八重さんの反応はと言えば、「いやでごぜぃやす」。
そりゃそうでしょう、と視聴者の皆様も思われたのではないでしょうか。

父と兄が決めだ話だ。つべこべ言うな
そんじも、嫌でごぜいやす
何が不足だ!人物は申し分ねえ。蘭学所教授の身分もある。仕官が叶えば会津にとって、どんだけお役に立づが

しかし八重さんはけんもほほろに、部屋を出て行ってしまいます。
権八さんが「何が気に入らねぇっうんだ! 親の気も知らねぇで!」と言ってますが、まあ切り出し方にまず問題がありましたよね。
直球だと駄目だから、変化球で切り出さないとなと、ひとりでぶつぶつ言ってたはずですのに、結局投げたのは直球だったという(笑)。
いやでも、変化球だろうが何だろうが、最終的には「尚之助さんと夫婦になる」ですからね。
無理でしょう・・・八重さんもうらさんに言ってましたが、今までひとつ屋根の下で暮らしてきたんですよ?
兄だと思って暮らして来た人と夫婦になるって、それって何処の光源氏と紫の上でしょうか、な状態ですよね。
八重さんの脳裏に光源氏と紫の上のことが過ったかどうかは兎に角、ぼんやりしてしまうのは無理もないと思います。
夕方角場にて、尚之助さんに何気なく縁談のことを切り出される八重さんですが、尚之助さんも不器用なんだか何なのか、結構失礼なことを言ってます。

無茶ですよね。私も、お断りするつもりでした。鉄砲隊の改革のためとはいえ、小細工を弄するとは覚馬さんらしからぬ愚策ですよ

そこじゃない、とどれだけ突っ込みたくなったことやら・・・いえ、そこなんでしょうけど、そこじゃないんです。
鉄砲隊うんぬん関係なく、あなたは男として私をお嫁に貰うことをどう考えてるの?と、多分八重さんの心境的にはそこが聞きたかったんじゃないでしょうか。
なのに尚之助さんの反応がそんななので、見え見えの嘘を吐いて角場から逃げるように離れた八重さん。
複雑なものを胸中に抱えていたら、そりゃ遭遇した三郎さんにも八つ当たりしてしまいますよね。
当たられた三郎さんには少々不憫ですが。

元治元年7月18日(1864年8月19日)深夜、長州勢が嵯峨天龍寺、天王山、伏見の三方から進軍したとの知らせが入ります。
馬上の慶喜さんは豪くやる気満々で・・・先週出兵を渋っていた人物とは到底同一人物には思えないのですが、実際の慶喜さんがこんなに戦意高かったとはちょっと考えにくいですね。
後、仮にも禁裏御守衛総督という、この戦の実質的な大将の身分にある人間が、鼓舞の為かどうかは知りませんがほいほいとお味方に気軽にお声をかけるのは、指揮系統目茶苦茶にし過ぎでは?
これが容保様だったら問題はないのでしょうが・・・小うるさく言いすぎでしょうか。

さて、戦が勃発する前に、各藩の御所守備位置を確認していきたいと思います。
上から順番に、薩摩藩は乾御門、筑前藩と一橋兵は中立売御門、会津藩(二番隊)は蛤御門、桑名藩は下立売御門、筑前藩は堺町御門。
その他、越前、淀、彦根藩などが御所の守備に就いています。
長州が西側から攻めてくるので、自然、御所の守りも西側が厚くなってることが、図に興せば一目瞭然ですね。

一方、伏見街道に向かった大蔵さんら会津藩一番隊。
覚馬さんは二番隊に所属して御所の方にいますが、資料などによると、本当は大蔵さん達と一緒に一番隊に所属して、伏見街道の方にいたみたいです。
だから本当だったらこの場面に覚馬さんが居て然るべきなのですが・・・まあドラマですからね。
伏見に着いた一番隊の皆様が遭遇したのは、既に大垣藩によって負かされていた長州兵の姿でした。
「大垣藩が追い打ちをかけてる」という言葉や、それを受けて新選組の近藤さんが「手柄を横取りされた」などとぼやいておりましたが、これは大きな誤りです。
新選組が布陣していたのは九条河原の銭取橋付近なのですが、伏見街道を上って来た長州勢との戦いが起こったのは藤ノ森の辺りでして、新選組はそこで大垣藩の助勢に加わっています。
どころか、逃げて行く長州兵を追撃しない大垣藩に、大垣藩が追撃しないならと追撃をしたのも新選組です。
なので、ここに大垣藩が居なくて新選組がいるのは変な話になりますし、新選組が手柄横取りされたと歯噛みするのもおかしな話になります。
・・・まあ、それはさておき。
あまりにあっけない伏見の長州兵に、大蔵さんも覚馬さんが覚えたような引っ掛かりを感じます。
そこでひとつの結論に至りました。

もしや、伏見の軍勢は囮では?嵯峨や天王山の方は抑えが手薄にごぜいやす。守りの隙を突いて都に攻め入る策がもしんねぇ!

もしそうだとしたら、危ないのは禁裏です。
事実その通りで、結果論になりますが、大蔵さん達一番隊は完全に裏をかかれました。

その頃御所近くには、嵯峨天龍寺からの長州勢が迫ります。
彼らは一条戻橋付近で三手に分かれ、国司信濃隊は中立売御門、来島又兵衛隊は蛤御門、児玉小民部隊は下立売御門にそれぞれ向かいました。
やがて会津藩二番隊の守る蛤御門に、その来島隊が「討会奸薩賊」「尊王攘夷」と書いた旗を掲げて現れます。
立ち去れという言葉も聞かず進み出るだけでなく、御所に銃を向ける来島隊。
それに対して、鉄砲隊を有していながら会津の槍隊が突撃するのはどうなのかなぁ、とちょっぴり苦笑いモノでした。
槍VS鉄砲だと、相手に刃が届く前に撃たれることを誰よりも分かっている覚馬さんが居るのに、その覚馬さん(強いて云うならあの覚馬さん)が何も言わないって・・・。
本来なら覚馬さんはここにいた人物ではなかったとはいえ、いるんだったらいるで、例えば「鉄砲相手に槍隊じゃ無理だ」と叱咤するようなひと言が欲しかったなと思うのは贅沢でしょうか。
私の欲はさて置き、覚馬さんも鉄砲隊を指揮し、両陣営、超至近距離での銃撃戦が始まります。
この至近距離戦というのも、当時の蛤御門を見れば頷けることでして。

現在の蛤御門は上の写真のように、道路に面して建っています。
ところが、幕末時の蛤御門は、以下の地図のように、90度角度がずれた形で建っていました。
厳密に言うなら、現在の場所から100メートルほど御所寄りに、北を向いて門がありました。

なので門を突破するには、突破されないように守るには、必然的に図のように布陣せねばならず、故にあの超接近戦となったのです。
門を突破されてからも、蛤御門から内裏の南正門にあたる建礼門まで直線距離、当時でしたら200メートルくらいでしょうか。
そんなところに軍勢押しかけて、両軍で鉄砲撃ち合ってたのですから、きっと実際はドラマよりも人と人とが犇めき合って、かつ血まみれ硝煙まみれの戦場となっていたのでしょうね。
そんな激戦の中、覚馬さんが馬上の来島さんを狙撃します。

現在御所に行くと、蛤御門と建礼門の間あたりに椋の巨木があるのですが、来島さんはこの樹の付近で討ち死にしたと伝わっています。
史実では覚馬さんはこの場にいなかったわけですから、それでは誰が来島さんを討ったのかということになりますが、伝わっている話ですと薩摩藩士の川路利良さんに胸を撃ち抜かれたそうです。
さて、大将格とも言うべき来島さんを狙撃したことで戦況が変わるかと思いきや、中立売御門と下立売御門が突破され、このままでは蛤御門にいる会津が三方から攻められるとの伝令が飛んで来ます。

その頃、内裏では、参内していた容保様が御前に控えていました。
居合わせた公家達は、砲弾の音や銃声にすっかり怯え切って、口々に勝手なことを言います。
やれ、和睦しろだの、長州を怒らせたのは会津だの、帝を御所から安全な場所へ連れて行っては、だの・・・。
公家は本当身勝手にころころと意見を変えて、だからこそこういう公家の性質を理解していた慶喜さんは、こんな公家達をバックにして戦うのが嫌だったんでしょうね。
少しでも情勢不利になれば、たちまち背後の味方だと思っていた公家に手の平返されることが普通にあるのですから。
それにしても燭台が倒れたので慌てて駆け寄って、掌で火を握り消す容保様の健気な忠心・・・ほんの少しでも腰の定まらない公家達は見習うべきだよと思いました。

臣容保、誓って主上を守護し奉りまする

そういう容保様に、それなら長州の求めに応じてお前が禁裏の外に出ろ、と公家に言われる始末。
それで和睦になるからと。
つまり、容保様に自分の安全のために死んで来い、って言ってるようなものですよね。
いやはや、本当公家というのは・・・(苦笑)。
しかし、ここで力強い容保様の味方、孝明天皇が口を開きます。

和睦などは思いもよらんことや。禁裏に発砲する賊徒、退けて御所を守護せよ

ちなみにこのとき御所内にいた12歳、数えで13歳の祐宮さん(後の明治天皇)が、聞こえてくる銃声などに怯えて失禁したそうです。
それほどまでに禁裏に近い場所で人と人との殺し合いが起こっていた、ということですね。

南北から挟み撃ちにされる形となった会津藩二番隊。
それでも怯まず、覚馬さんも鉄砲隊の采配を振るい続けますが、じりじりと追い込まれていきます。
そこに登場したのが、丸に十の字の旗印を掲げた薩摩藩。
乾御門を守っていた彼らは、下図の矢印の通りに蛤御門付近へ南下してきたのです。


薩摩藩士、西郷吉之助。ご助勢仕る!

このとき西郷どん36歳、数えで37歳。
五月塾豚騒動で顔を合わせていた覚馬さんとは10年ぶりの再会ですね。
どう見たって騎乗の西郷どんの薩摩兵は、鎧甲冑着込んでいる他の藩と比べて戦をする格好じゃないように見えますが、冷静に考えればあの洋装が今後近代化に伴った軍装になってくるのですよね。
そして洋装に身を包んだ薩摩の鉄砲隊が持っているのはエンフィールド銃。
飛距離が900メートルで、精度は会津の持ってるゲーベル銃の約4倍もあります。
薩摩がどうしてそんな最新武器を持っているかと言えば、昨年の薩英戦争が大きく絡んでます。
あの戦の後、薩摩はイギリスからエンフィールド銃を4300挺購入したのです。
そのエンフィールド銃が、いまここにあると。
出来事ひとつひとつがリンクしているのですね。
戦国時代に鉄砲が伝来してから、戦や軍の様相は大きな転換を見せましたが、エンフィールド銃の登場は歩兵部隊の様相を大きく変えることにもなったのではないでしょうか。
だって、必殺距離はさて置き飛距離が900メートルということは、900メートル前方は守備範囲の内ということですよ。
つまり簡単に足を踏み入れられないということでして、飛距離が短かった頃の火縄銃やゲーベル銃の概念が通じなくなるわけだと思うのです。
あまり軍事的なことに詳しくないので、断言は致しかねますが。
あ、でもどの銃にも銃剣がついてないのはちょっと不思議かも・・・そんなことってあるのかな。
ともあれ、エンフィールド銃の性能に感激しつつ、薩摩は強いなどと言っていた覚馬さん、テンションが上がったのか興奮のあまりリミッターが外れてしまったのか、銃弾を見切って躱すという人外の離れ業までやってのける始末(笑)。
しかし次の瞬間、傍で大砲の弾が炸裂し、爆風と破片に吹っ飛ばされる覚馬さん。
ここでまた、演出が細かかったですね。
吹き飛ばされた覚馬さんが真っ赤な血を流した時から、画面の色が鮮明になるのです。
それまでずっと、硝煙漂うような、ちょっと靄がかってて鮮明じゃなかったので、この前後の違いで、覚馬さんの流血が物凄く印象に残りますね。
少し明るくなった画面で、再び西郷さんと覚馬さん。

我らはこれより、河原町の長州藩邸に向かいもす
ご加勢、かたじけねぇ。会津藩、山本覚馬です
いずれまた

このときの薄い交わりが、やがて月日を経て縁となるのですよね。
ともあれ、格好良く去って行く西郷どんですが、確か史実だとこの後か何かに足に銃弾食らってたような・・・。

一方、天王山から攻め寄せた久坂さん、真木さん達です。
戦況の旗色を悪く見た久坂さんは、堺町御門近くの鷹司邸に立て籠り、鷹司輔煕さんに内裏への参内の供をさせて欲しいと哀願しました。
一緒に行って、帝に直談判を狙ったのでしょうね。
しかし頼みにした輔煕さんはこれを拒絶し、邸から出て行ってしまいます。
既に邸の周りは彦根藩や桑名藩に包囲されており、石を投げて久坂さんに自分の存在を悟らせた桂さんは、蛤御門も敗走して残ってるのはここだけだから、早く逃げようと言います。
しかし真木さんが、このまま時を稼げば臆病な公家が長州方に寝返るはず、と言います。
久坂さんも、参内して自分たちに義のあることを帝に申しあげねばなないと。

僕は死んでも退けん!君は行け!

退かない久坂さん、退いて逃げる桂さん。
少し話が逸れますが、安政6年(1859)に高杉晋作さんが、師の松陰さんに「男子たるもの死すべきところは何処なのか?」と問いました。
松陰さん答えて曰く、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」。
この詞の、「死して」の部分が久坂さんで、「生きて」の部分が桂さんなのだろうなと、ふとそんなことを感じておりました。

その頃鷹司邸の外は、彦根藩と会津藩に包囲されており、塀に阻まれて攻められないのなら塀を大砲で打ち崩して攻め入るべしという覚馬さんの進言に従い、邸の西北の角を見事に打ち崩します。
しかし・・・明らかに弾道上や前方にお味方が居たような気がするのに、撃って良かったのですか、覚馬さん、とちょっぴり苦笑いを禁じえませんでした・・・。
ともあれ崩れた壁から会津と彦根の兵が突入、邸には火が放たれ、真木さんは後日の再挙を狙って天王山に引いて行きます。
それでも久坂さんは留まり続けます。

僕が死んでも、後に続く者たちがいる。最早時の流れは止められんぞ!

そう叫びながら、向かってくる兵をばっさばっさと斬り捨てて行く久坂さん。
その久坂さんも、銃弾に足を撃ち抜かれ、最早これまでと悟って自刃します。
ドラマですと単独の自刃になってましたが、実際は久坂さんは寺島忠三郎さんと共に自刃しました。
「さきに寝る あとの戸締り 頼むぞよ」は触れられませんでしたね・・・。

さて、鷹司邸から出た火と、河原町長州藩邸から出た火と相俟って、折からの強風に煽られ市中に燃え広がって行きました。
三日間燃え続けた日は「どんどん焼け」と呼ばれ、被災戸数は約2万8千。
どれだけの規模市中が焼けたのかについては、「京都大火之略図」を調べて頂ければ一目瞭然でお分かり頂けると思います。
この火災の被害状況は当時の瓦版でたくさん報道されており、こちらのサイト様にその瓦版が多く掲載されていますので、気になったお方は是非ご覧になってみて下さい。
瓦版によっては数に多少の差がありますが、町屋約120、家屋約42000、土蔵約1500、寺社塔頭約500、武家屋敷約600が焼けました。
ちなみにこの火は、池田屋事件の発端となって政治犯として捕らわれていた古高俊太郎さんたちを収容していた六角獄舎付近にまで迫り、中にいた大勢の尊王過激攘夷派の浪士たちは「火の混乱に乗じて逃亡されるのではないか」と町奉行が恐れたことから獄中の三十数人を次々と斬首しました。
結果的に六角獄舎まで火は回って来なかったのですが・・・。
と、大蔵さんや新選組が天王山で残党狩りをし、真木さんが自刃している間に、そんな歴史の裏話も少し。

会津にも開戦の第一報が届けられました。

鉄砲、大砲を撃ぢ合っての戦いだ。双方無傷では済まねぇ

ささやかなことですが、こんな言葉が出てくるのは、やはり砲術の家の山本家ならではだな、と思いました。
そしてこの戦で鉄砲隊の値打も決まる、と考える辺りもやっぱり砲術の家ならではの味方ですね。
そこへ尚之助さんが駆け込んで来て、長州の敗走を伝えます。
それを聞いて第一に「覚馬は無事か?」ではなく、「殿は無事か?」というのも、ちゃんと会津人らしい筋が通ってて良いですよね。
どの作品とは言いませんが、某大河だったら絶対にその筋が目茶苦茶になってたと思います。
尚之助さんの持ってきた情報で、大砲が戦の役に立ったと知って嬉しそうな権八さん。
一方、口ごもってなかなか覚馬さんの安否を切り出せないうらさんに、きっぱりと「覚馬さんはきっとご無事です」と断言する尚之助さん。
根拠や知らせがあったわけではありませんが、味方が攻めあぐねているときに大砲で壁に穴開けて兵を突入させるなんて如何にも覚馬さんがやりそうなことだから、と。
確かに、大胆不敵な覚馬さんらしいですよね。
言うまでもなく覚馬さんのそんな性格を熟知している山本家の皆様は、そんなことをするのは間違いなく覚馬さんで、そんなことしてるということは間違いなく無事ということだと、安心感を得ます。
その夜、八重さんは自分も戦と聞いて狼狽えていた部分があるから、皆を安堵させてくれてありがとうと尚之助さんにお礼を言います。

武士の娘として覚悟が足りねぐて恥ずかしい・・・
無理もない。初めての戦ですからね
んだげんじょ・・・あんつぁま・・・ご無事だべが。弾に当たってねぇべが・・・

変な話、弾に当たっても、場所が場所だったら命を落とすわけじゃありませんしね。
でもそれは「生きて」はいるけど、「無事」とはちょっと言い難い。
それでなくても銃創というのは厄介ですから、鉄砲のことをよく知ってる分、「鉄砲と大砲を使った戦」がどういうものになるのか、少なくとも普通の人よりは現実味を帯びた形で八重さんは想像出来たんだと思います。
いやまあ、しかし、涙をこぼす八重さんのそれを拭おうと、そっと手を伸ばしてぎりぎりのところでやっぱり手を引くとか尚之助さん・・・。
しかもその後、取り繕うように本に向き合うから面白いです。

さあ、こっちも呑気にしてはいられない。戦は起きた。詳しい戦況が伝わって来れば、ご重臣方の考えも変わる。銃器を一新する良い折です

これは正論ですね。
久し振り過ぎるくらい久し振りに起きた戦で、旧弊がどこまで通用してどこまで通用しないのか、実戦に即して浮き出てきた部分は決して少なくないと思いますし。
しかし八重さんとのことも、呑気にしてちゃ駄目ですよ?と、ちょっぴりお節介ながらも思ってしまいました(笑)。

再び場所は戻って、都。
戦火で焼かれ、文字通り焼野原となった町を広沢さんと見回る覚馬さん。

ひどく焼げだな
応仁の乱以来の、大火だそうです
これが、戦が・・・。何百年もかがって築いた町を、たった一日で焼き尽ぐしちまった。元の姿に戻すのに、どれだけの時がかがっか・・・

覚馬さんは明治になって京都府庁に出仕し、京都の近代化と復興を担う人物になるのですが、この一言はその伏線も滲ませているのでしょうか。
お救い小屋の粥の列に並んでいる人や、子供たちから石や砂を投げられ、「鬼」だの「人でなし」だの憎悪の言葉を浴びせられる覚馬さん。
西郷さんや尚之助さんが言ってましたね、力を持つ者は最初は尊ばれ大事にされるけど、次第に恐れられ、最後は恨まれると。
その予言通りとなってしまった光景がこれなのでしょう。
己が正義だと思ってやってきたことへの民草のこの反応と、武士階級の自分に石を投げられた屈辱、覚馬さんは色んな意味でさぞかし衝撃的だったことと思います。
大垣屋清八(彼と彼の養子が新島襄と深い関わりを持つようになりますが、その話はまたいつか)さんの、「西洋の学問しても、町を焼かずに済む戦のやりようは分からんもんでっしゃろか?」という問いかけは、耳障りこそ滑らかに聞こえますが、痛烈な批判ですよね。
本音を建前でくるむのは京都の方の十八番。
西洋の学問究めたところで、民草を守れないようでは・・・と言うところでしょうか。
この「民の目線」からの問いかけに、覚馬さんはただ茫然としたまま答えることが出来ませんでした。
自分のすべてを以って、これに対する覚馬さんなりの示した答えが『管見』になるのかな、と思いましたが、さてさてどう繋げていくのやら。

ではでは、此度はこのあたりで。


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