2013年3月22日金曜日

明保野亭事件

大河ドラマでは来週(3月24日放送分)で禁門の変を取り扱う様子ですが、実は池田屋事件と禁門の変の間に、「明保野亭事件」というものが起こっています。
今日はそれについて、少しお話させて頂きます。
明保野亭事件が起こったのは元治元年6月10日(1864年7月13日)、池田屋事件から5日後の出来事です。
事の始まりは、その池田屋での残党狩りを行っていた新選組が、東山にある料亭「明保野」に長州の浪士が潜伏しているとの情報を受け、そこに捕縛に向かったことにあります。

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A地点が現在でも残る明保野亭跡ですが、当時はもう少し北東にあったそうです。
さて、その捕縛に向かった面々は、新選組の武田観柳斎さん率いる新選組隊士15人と、会津藩から派遣されていた会津藩士5人。
会津からの藩士の派遣があったのは、池田屋事件後、新選組屯所襲撃の噂があり、その応援という形です。
その会津からの応援の中に、柴司さんという藩士がいました。
弘化元年2月14日(1844年4月1日)のお生まれですので、このとき21歳、数えでも21歳ですね。
その司さんは明保野亭に踏み込み、二階から浪人らしき男が二人逃げて来たところ、それを追跡して男たちを槍で突き、捕縛します。
ここまで書くと、司さんお手柄だったんですね、という感じになりますが、問題はこの後で起こりました。
実はこの捕縛してて傷を負わせたのが、長州の浪士ではなく、土佐藩家老福岡宮内さんの家臣、麻田時太郎さんだったのだから一大事です。
と言いますのも、会津は長州とは敵対する立場にありましたが、土佐とはそんな拗れた関係にはありません。
土佐藩からすれば、「会津の人間がいきなり自分の藩の人間斬りつけた!喧嘩売ってるのか!」ということになりますよね。
そういうわけで、事は土佐と会津の両藩を巡る大問題へと発展していきます。
時太郎さんは一旦身柄を町奉行所へ引き渡されました。
この誤認逮捕に土佐藩の在京藩士たちは激昂し、会津本陣に押し寄せようとか一緒にいた新選組の屯所を攻めようとか、血気盛んな相談をします。
それを京留守居の藩士がなだめなだめ、容保様も公用方を薩摩藩邸に派遣し、事態の収拾を計ろうとします。
同時に容保様は藩医を時太郎さんの元へ派遣し、土佐藩医と、別段時太郎さんの傷は命に別状はないと確認し合い、藩医が容保様にそう報告したのが11日の早朝です。
これで何とか収拾がつきそうだと、思わず安堵してしまいそうになるのですが、まだ終わらないのがこの事件です。
何と時太郎さんが武士の面目を保つために自刃してしまうのです。
(自刃するということは、司さんに負わされたのは後ろ傷だったのでしょうかね?)
誤認逮捕された時太郎さんが自刃して、誤認逮捕の原因を(悪気がなかったとはいえ)作った司さんが生きてるのは不公平ですよね。
そう土佐藩士らが騒ぎ出し、このままでは会津と土佐が一触発・・・という事態にまで追い込まれます。
そんな状態になったら・・・不公平を公平にすることでしか、両藩の衝突は避けられませんよね。
そういうわけで12日、司さんはお兄さんの介錯の元、切腹しました。
会津と土佐の関係のために、腹を斬ったのですね。
長州と会津の関係がクローズアップされがちですが、ここに散ったふたりの命の存在も、皆様の心の片隅に留めて頂ければと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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