2013年3月4日月曜日

物言わぬ竹筒

三条実美さんたち急進派公家による偽勅。
己の意思や言葉が捻じ曲げられて、「勅命」とされる事実に孝明天皇のご心痛は如何ほどだったのでしょうか。
そんな状況下で、孝明天皇が実美さん達の視線に細心の注意を払いつつ、急進派の公家たちの目を掻い潜るようにして容保様の元へ届けられた宸翰がありました。
それが第8回で出てきた、あの宸翰です。
それからというものを、孝明天皇の容保様に対する信頼は篤くなる一方で、今週は御製(天皇のお詠みになった和歌)を与えられていましたね。
今回はこれについて、後日談がありますのでご紹介しておきます。
有名なので、ご存知の方も多いかと思います。
ドラマはまだ幕末の最中ですが、明治に入ってから、「朝敵」の烙印を押された容保様は常に20cmほどの細い竹筒を身に着けていました。
紐を通して首からぶら下げていたようなのですが、入浴時以外は肌身から離さず、そのため家族たちも一体あれは何なのだろうかと思っていましたが、容保様がそれについて話すことはありませんでした。
そのまま容保様は竹筒について口を閉ざしたまま、1893年(明治26年)12月5日、その生涯を終えられました。
そのお通夜の席で、遺族が容保様が生涯口を閉ざし続けたその竹筒を開けます。
すると中から出てきたのは宸翰と御製。
つまり今週出てきた、あの歌が書かれた紙です。
維新後、朝敵と遇され続けた容保様は、どんな思いでこれを身に着けておられたのか・・・。
そしてそれを誇示するように振り翳して、己の正当性を主張しなかったのも、高潔な容保様らしいような気がします。
この話を耳にした、当時熊本にあった第五高等学校教授となっていた悌次郎さんが長州出身の三浦吾楼に話し、その吾楼さんからひょんなことから山縣有朋さんの耳に入れてしまいます。
故意なのかは不明ですが、山縣さんといえば会津と敵対した長州の大物です。
その竹筒の存在を知った山縣さんからすれば、これは捨てておけない事態なんですね。
先帝にそれだけ愛された容保様を、朝敵として祭り上げ散々踏み躙った基盤の上に明治政府は建っているといっても過言ではないのですから。
しかも長州と言えば、それを中心となってやった藩です。
竹筒のことが明らかになれば、自分たちの正当性の根本が危ういものになるのは誰にだって分かることです。
そういうわけで山縣さんはこれを買い取ろうと、松平家に交渉の人間を向かわせます。
提示額は5万円。
明治26年時の5万円がどのくらいかを少し検証してみましょう。
比較対象として、1902年(明治35年)9月19日に没した正岡子規の墓碑銘を参考にしたいと思います。
以下がその墓碑銘です。
尚、墓碑銘は子規の生前の明治31年7月、河東碧梧桐のお兄さん、可全に宛てた手紙に添えられていたものです。
  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円 
月給四十円、と最後にあるのがおわかりでしょうか。
これを参考に、5万円の価値を割り出していきたいと思います。
まあ平たく言えば、明治のこの頃の1円が今でいういくらだったのかということですよね。
結論から述べさせて頂きますと、大体1万円です。
1円=2万円という方もおられますが、明治は時期によって物価変動が厳しいので、どちらも考えられますが、ここでは1万円とさせて頂きます。
つまり子規の月給は今でいうところの約40万円。
で、その計算式を当て嵌めますと、山縣さん側が提示した5万円という額は、今でいう5億円ということになります。
この金額の大きさから、山縣さん側の必死さが非常に良く分かる気がします。
しかし松平家ではこの交渉を拒絶し、宸翰と御歌の入った竹筒は東京銀行の金庫に預けられました。
今でも多分往時から動かされることなく、そこで眠っていると思うのですが、それにしても山縣さんが手に入れてたらどうするつもりだったか・・・。
絶対に都合の悪いものとして、闇に葬り去ってましたよね。


ではでは、此度はこのあたりで。


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