2013年3月13日水曜日

第10回「池田屋事件」

洋装鞍の白馬に堂々たる風情で跨り、それをかっぽかっぽとさせて都の通りを往く御仁の登場から始まりました、第10回。
馬上の御仁は象山先生です。
このとき53歳、数えで54歳。
ドラマでは数週間ぶりですが、実は象山先生が国許蟄居を命じられてからこのときまで10年経っております。
象山先生はこの年の3月29日(1864年5月4日)に将軍家茂さんの命によって上洛しました。
ちなみにこの白馬は象山先生の愛馬で、名前を王庭(おうば)と言います。
上洛の際に「都路」と改名されたのですが、後程山階宮晃親王の御前で西洋式の乗馬を披露したのを機に、再び王庭に戻されます。
このときはまだ山階宮晃親王の御前に出てないので、馬の名前は都路です。
都路に跨った象山先生が訪ねてきたのは、覚馬さんが開いた京都会津藩洋学所。
中では外国語の勉強や、覚馬さんが「せぱすとほーる」では34の砲台に1400門の砲台が据えられていた・・・など、クリミア戦争の戦闘を元に色々と講義をしていたりと、なかなかに先進的です。
そこに顔を出した象山先生。
10年ぶりの再会ですので、覚馬さんも顔を輝かせます。
ちなみに覚馬さんの隣にいるのは、数回前から出ている会津公用方、広沢安任さん通称富次郎さんです。

木挽町の我が塾とよく似ている・・・。ここでは、洋学を志す者は他藩の者も受け入れているそうだな
それも先生の塾に倣いました。殿も、快ぐお許し下さいまして
いやあ、会津は旧弊なお国柄と聞いたが、殿様は物の分かるお方と見えるな

それはそうと、象山先生が何故上洛したのかと言いますと、曰く「わしにしか出来ぬ役目があるというのでな」ということみたいです。

止まった歯車を回し、時を前に進めるのだ

すなわち朝廷に開国を説くということみたいです。
ちょっぴり背景を補足しますと、長州が象山先生を招こうとしているという噂があったので、先手を打って長州に呼ばれる前に幕府側に引き留めておいた、というのもあります。
4月3日(1864年5月8日)に、象山先生が幕府から海陸備向掛手附雇を命じられ、扶持二十人に加えて手当金十五両が支給されているのもそのためかと思います。
そういう経緯で幕府側に留め置かれたことを知っているのか知らないのか、象山先生は異人大嫌いの孝明天皇を中心とする朝廷に、開国を説くのは自分しか出来ないと自負しておりますが・・・。
どう考えたって、簡単なことではありません。
しかし簡単でない分、朝廷が仮にこの時点で開国を受け容れててたら、後の歴史の様相は大きく変わっていたでしょうね。

会津では、時尾さんが照姫様の祐筆としてお城に上がる日が刻一刻と近付いており、残された時間を惜しむように過ごす八重さんと時尾さん。
ですが、こういう状況に於かれたからこそ、今まで封じていた言葉も出てくるものでして。
時尾さんは、男の子と争ったり、鉄砲撃ったり、そんな八重さんをはらはら見ていた一方で、羨ましくも思っていたと言います。
「女性の規範」の中でかっつり生きている時尾さんには、人に何を言われてもやりたいことをやる八重さんが、眩しく映っていたのでしょう。
そしてここでちょっと吃驚したのが、大蔵さんもそんな八重さんをいつも見ていたというのを、八重さんに伝えたこと。
大蔵さんの気持ちに全く気付いていない八重さんに言っていいのだろうか・・・ともちょっと思いました。
いえ、言って悪いわけではないのですが、気持ちに気付いてないと「何でここで大蔵様が出てくるの?」と八重さんの場合なるんじゃないかなと。

時尾さんに何かあったら、いづでもお城さ飛んでいぐがら
鉄砲担いで?
うん。友達だもの

時尾さん、このとき18歳、数えで19歳。
八重さん、このとき18歳、数えで20歳。
4年後にはこの言葉が現実となる日が来るだ何て、思わなかったでしょうね。

その4年後の出来事の原因を作る人こと桂さんは、このとき「逃げの小五郎」の名に恥じぬ逃げっぷりを披露してました。
このとき30歳、数えで32歳。
何とか新選組の斎藤さんから逃げ切って、長州藩邸に駆け込みます。
斎藤さんが「長州藩邸か」とつぶやいたきり、踏み込まなかったのは、長州に限らず藩邸というのはいわゆる治外法権を持っており、 幕府と雖も踏み込むことは出来ない領域だったからです。
如何に新選組が不逞浪士の捕縛と取締りの権利を有しているとはいえ、それは上の会津から与えられた権利ですので、藩邸の持つ治外法権を侵せるものではなかったのです。
故に、藩邸に逃げ込まれたら手も足も出ないんですね。
逆に浪士達は、死にもぐるいで走って、藩邸にさえ入ればセーフなわけです。
都はそんな情況なので、政変後も相変わらず不穏な空気が拭えません。
そんな状況下で二条城に集まったのは慶喜さんと、容保様と、容保様の実弟で桑名藩主の松平定敬さん。
慶喜さんは将軍後見職という立場にあったと皆様記憶されていると思いますが(そのことでブチブチ言ってましたし)、3月25日(1864年4月30日)に朝廷からの沙汰でそれを解任、別に禁裏御守衛総督と摂海防御指揮に任命されていました。
まあ、この過程で朝廷・慶喜さん・幕閣の間で色々あって、見ていると慶喜さん相当幕閣の方々怒らせたんじゃないのかなとも感じますが、この話は今は関係ないので割愛。

桑名公は会津殿の実の弟だそうじゃの
はっ、同じ美濃の高須家の生まれに御座います
良い方が所司代となった。兄を援け、お役目に励まれよ

容保様と生家の美濃高須家については、以前の記事でも少し触れましたが、容保様が七男、定敬さんが八男です。
慶勝さん、茂徳さんと併せて「高須四兄弟」ですね。
定敬さんは弘化3年12月2日(1847年1月18日)のお生まれですので、このとき16歳、数えで18歳。
慶喜さんの言葉に所司代となった、とあるように、4月11日(1864年5月16日)に定敬さんは京都所司代に命ぜられています。
定敬さんを京都所司代に任命したのは、以前より守護職辞任を願い出る容保様の外堀を埋めるための手段だったように思えます。
以前の記事で、春嶽さんが京都守護職に任じられたこと、会津がずっと京都守護職をやっていたわけではないこと、しかし結局京都守護職は会津にブーメランな感じで戻ってくること、などを触れました。
そのブーメランが、戻ってきたのが正にこの頃です。
実は3月13日(1864年4月18日)、春嶽さんが京都守護職を辞任して帰国、再び容保様に京都守護職復職の可能性が出てくる事態になりました。
容保様を始め、藩士一同は守護職辞任に奔走します。
容保様のお体の具合が優れなかったのも事実で、それを主な理由にしていたのですが、幕府側は4月7日(1864年5月12日)に容保様京都守護職復職の幕命を下します。
会津はそれでも辞任運動を続けますが、容保様のお体の具合が優れないのを口実にしていたのを揚げ足のように取られ、「病が癒えてから出勤するように」と非情にも命じます。
病の原因は精神的なストレスな可能性が大なので、それだと一生癒えないと思うのですが・・・と、幕府も人がいないのが分かりますが、ブーメランを食らった会津が不憫すぎます。

養生しながらでも勤められるが良い。何しろ、貴公は帝のご信任が殊の外篤い
身に過ぎたお言葉
辞められては余も困る。会津の力添えがなくては、都はとても治めきれぬ

こういう背景事情のやり取りあっての、慶喜さんと容保様のこのやり取りかと。
しかしどうも・・・私は慶喜さんの言葉の裏を読んでしまいます。
「共に命を捨てる覚悟で」とか白々しく聞こえてしまって・・・(苦笑)。
容保様の例の漢詩をご存知の方なら、今後も私と同じ反応を以って慶喜さんを見て行くことになるのでしょうね。
ともあれここに、一会桑(=一橋・会津・桑名)が集結します。
会津が中心のドラマですので、一会桑にも大きくスポットが当たるのでしょうか、楽しみです。

さて、象山先生は中川宮に世界地図などを見せて、攘夷が如何に無謀かを説いたそうです。
5月3日(1864年6月6日)のときのことですかね? ちょっと分かりませんが。
中川宮は、象山先生の話から得心が行ったらしく、このままいけば攘夷の督促もやむだろうと。

だがその程度では足りぬ。全てを覆し、新しい流れを作らねば。帝より、開国こそが国是であると、朝廷から天下に号令して頂くのだ

しかし、出来るのか、という覚馬さんと広沢さんに、やるのだ、と象山先生。
やらなければいずれメリケンの二の舞になり、国を二分する内乱が起こると。
で、ここからが象山先生の本題です。
朝廷が開国の号令を出すとなれば、勿論黙っていないのが攘夷派や急進派です。
彼らは開国の勅旨を阻むために、御所を襲う無茶すらするかもしれないという象山先生は、帝を守るために会津の力を借りたいのだと言います。

御所の守備を固めよと?
いや、しばらくの間、帝には都を留守にして頂くのだ

吃驚仰天なこの発案の内容は少し後に触れるとして、覚馬さんにそれを託した象山先生は洋学所を立ち去ります。
その際、象山先生の恰好が派手なので、目立って、目を付けられやすくて危ないのではと案じる覚馬さん。

折にあえば散るもめでたし山桜、よ。花はふさわしき時が来れば堂々と散る。命を惜しんで地味な装いをしたんでは、我が信条に反するわ

凄くカッコ良い台詞にも聞こえますが、象山先生の辞世は、「折にあえば散るもめでたし山桜めづるは花の盛りのみかは」です。
ああ、もう何なんだろうこの伏線・・・と思いながら、都路に乗った象山先生の後姿を見送る私でした。
それはさておき、象山先生による吃驚仰天発案を、覚馬さんは平馬さんの家にて話します。
列席するのは覚馬さん、広沢さん、それに平馬さんと大蔵さん。
その内容は、帝を彦根城に移す、ということでした。

都は不穏すぎやす。それに、御所は城と違って戦をするようには出来てねぇ
大軍で攻められたら、守りようがありませんね
この際、御所を城構えに作り変えることも考えた方が良いかもしれねぇ
なるほど、彦根遷座とは奇策のようだが、ながながの妙案ですね。私から上の方々に諮ってみましょう

確かに妙案は妙案ですが、恰好より白馬で洛中乗り回していることより、それを発した象山先生自信が危ないということは見落とされているのでしょうか・・・。
この計画、現時点で言えば象山先生がばっさりやられてしまうと、全て水泡に帰すわけですよね。
妙案に目が向いて、皆様そっちには目が行ってないような気もしましたが、そんなところへ丸髷を結った二葉さんが善を運んできました。
うちの妹とは大違いという覚馬さんに、八重さんの縁談は決まったかと尋ねた二葉さんの言葉にばっちり反応してしまう大蔵さんが何とも(笑)。
あなた、奥さん娶ったでしょうが!と見ていて突っ込み飛びましたよ。
二葉さんは二葉さんで、平馬さんに祇園祭の山鉾を観に行こうと誘われて、何を着て行こうかといつもはお固目な表情を綻ばせてますし・・・何だか、先程まで政治の話をしていたとは思えぬ、打って変った雰囲気ですね。
そんな場の中で、覚馬さんが八重さんもそろそろ・・・と思っていた頃、丁度会津では八重さんのところに縁談が来ていました。
が、破談になってまして・・・でも、このあんつぁまなら「それでも良い」って笑い飛ばしそうな気もしますけどね。

その縁談が立ち消えた八重さん。
とはいっても、先方は昨年、病で奥さんを亡くされた方のようで・・・つまり八重さんは後添えにと望まれていたわけなので・・・とは思いますが、先程も触れたように八重さんは数えで20。
当時の時代感覚で言いますと、確かにそろそろ嫁さねば行かず後家になってしまいますね。
けれどもあんまり本人気にしてないのか、尚之助さんと新式銃の改良に熱中する日々を送っているようです。

仕掛けはほぼ出来上がりました。これならゲベールの3倍は早く撃てる。後は精度を上げて数を多く作ることですが・・・それには藩の後押しがいります
きっと認めでいただげます。洋式銃が優れでいるごどは、今では子供でも知ってるんですから
ええ。ただ、私から願い出ることは出来ぬので・・・。仕官などどうでも良いと思ってきました
でもそれは覚馬さんがいればこそで

子供でも、というのは、前回の悌次郎さんや盛之輔さんのことを言ってるのでしょうね。
いえ、しかし彼らは既成概念にまだ染まり切ってないから純粋にそう思えてるだけだと思うんですけどね。
既成概念(=藩風)にがっつり染まってしまっている大人たち相手に、新式銃の良さが何処まで浸透するかとなれば、やはり難しいものがあると思います。
加えて手痛いのが、尚之助さんが相変わらず藩士として取り立てて貰えないこと。
つまり尚之助さんの身分は未だに出石脱藩浪士に過ぎず、浪人に過ぎず、故に会津に何かを言える立場では到底ないのですね。
おそらくこの銃の件については、覚馬さんがいない以上、権八さんを通じて藩上層部に掛け合うことになるのでしょう。

せめて私が撃ぢ方をご披露出来れば良いのですが・・・

八重さんはそう言いますが、尚之助さんが会津藩士になるために、単純明快な上策があるのですよね。
それを覚馬さんが都から言ってくるのは、もう少し後の話でしょうか。

元治元年6月5日(1864年7月8日)。
京都河原町四条上ル東にある薪炭商枡屋の表戸を叩き、何やら騒がしい声がします。
主人が開けると、そこには新選組の姿が。

朝はようから、何の騒ぎですやろ
京都守護職お抱え新選組、御用改めである

そう高らかに宣言して、局長の近藤勇さんが店に押し入り、隊士らもそれに続きます。
店内を調べていると、斎藤さんが鉄砲の入った長持を見つけます。
武器商なら鉄砲の入った長持が置いてあっても不自然ではありませんが、薪炭商にあったら明らかにこれはおかしいですよね。

枡屋喜右衛門、古高俊太郎、屯所まで同道願う

土方さんはそう言って、枡屋喜右衛門と名前を偽っていた、古高俊太郎さんを壬生の屯所に連行し、前川邸の東蔵にて二階から吊るし、拷問にかけます。
それでも口を割らない古高さんに、最後は足の裏に五寸釘が打ち込まれ、蝋燭が垂らされるのですが、しかしそれでも自分が古高俊太郎であるという名前以外は口を割りません。
では後程会津藩にも報告が行ったあれは、一体何処から出たのかと言いますと、枡屋から押収した書付や武器弾薬から発覚したのです。
事の次第はすぐさま黒谷にも伝えられます。
浪士達の狙いは、烈風を恃んで御所に放火し、中川宮と容保様が急いで参内するところを襲撃するという計画しでした。
これに「帝を長州に連れ去る」という一文が加えられているのをよくお見かけしますが、帝を長州に連れ去る計画はこれよりずっと以前から巷間で流れていたものです。
この頃、朝に新選組が踏み込んだ古高さんの屋敷の見張りが破られ、何者かが武器弾薬を奪取しました。
浪士達の計画の内容が明らかになった今、それは行動を起こすための前触れではないかと会津は危ぶみますが、でもそのためには今後のことを決めるために何処かに集まっての話し合いが欠かせません。
且つ、彼らは古高さん奪還も目論んでましたので、その話し合いも必要です。
出動して、上手くいけば不逞浪士を一掃出来るいい機会ですが、肝心の場所が分かりません。

こごはまず、一橋様と京都所司代に知らせて兵を集め、一斉に捕り物にかがるべきがど存じまする
そげな悠長なことしてて、取り逃がしたらどうする
手勢を増やし、取り囲んで穏便に捕縛するのが得策にごぜいます。斬り合いどなれば浪士どもが捨て身となり、それこそ町に火を放つやもしれませぬ

容保様は悌次郎さんのその進言に従うことにし、新選組には祗園会所から共に出動するように下知するよう命じます。

祇園会所は現在の八坂神社前で、今は往時の影はなく、コンビニエンスストアが建っています。
新選組は壬生の屯所から、祇園宵宮の人混みに紛れ、3~5人のバラバラでここに集合しました。
よく新選組はこのとき病人が多くて、出動可能隊士数が30名ほどしかいませんでした。
そして近藤組と土方組の二組に分かれて御用改めを行った、とも言われていますが、これもちょっと誤りで、実際は四条方面近藤組十名、祇園方面に土方組十二名と井上組の十二名に分けての捜査でした。
当たりの池田屋を引いたのは近藤隊ですね。
この近藤隊には局長の近藤勇さんを始め、沖田総司さん、永倉新八さん、藤堂平助さん、までははっきりと分かっていますが、実は残りの顔ぶれが誰だったのかは未だはっきりとは分かっていません。
近藤隊が池田屋に到着したのは夜四ツ(22時頃)でした。
ドラマでは最初から池田屋に一直線しているようにも見えましたが、実際は祇園会所から四条方面を、ローラー作戦は流石にしてないでしょうが、不逞浪士の良く使う場所などは把握してたでしょうので、その目星を付けた場所を回って行って、たまたま池田屋に辿り着いた、というのが本当のところです。
(前略)午後七時頃当初茶屋中ヲ調ルイエトモ壱人モヲラズ皆逃去リ夫より川端タ三条小橋北側ニテ池田屋ト申旅籠屋アリ、右ノ内ニ長州人居ル趣(後略)(木村幸比古『新選組戦場日記』、1996、PH研究所)

池田屋に実際に踏み込んだ永倉さんの以上の回想からも、それが伺えます。
通ったルートは以下の地図のこの色の線です。


会津藩お預かり、新選組である!

そういって近藤さんが池田屋に踏み込んでいくのは、もう池田屋事件が描かれる時の定番ですね。
階段落ち(今回は階段ダイブ?)も鉄板の定番です。
ただ色々と突っ込ませて頂くのなら、階段落ちはなかったですし、池田屋の内部も京都の旅籠にしてはあり得ない内部だった気がして・・・。
でもまあドラマですからね、広々とした空間の中での殺陣は良かったと思います。
胴で刃受けたり相手の刀を叩き折ったりしてたのは永倉さんでしょうかね。
相手を押し倒して肘鉄とか食らわせてたのは藤堂さんかな。
近藤さんはまさに獅子奮迅の活躍でしたね。
史実でも、沖田さんは病気で離脱、藤堂さんは額を割られて重傷になっていたので、残った近藤さんと永倉さんが獅子奮迅の活躍を見せました。
二階を担当していた沖田さんは喀血してしまいますが、その傍には宮部さんの姿が。

ぬしたちには、大義が分からんのか。ばかたれが!

そう言って宮部さんは自分を腹を切るわけですが、宮部さんの自刃場所は階段下じゃなかったかな・・・まあいいか。
吉田稔麿さんも分からないままだったな・・・。
乱戦状態になった池田屋に、土方隊が到着して、史実ならここから捕縛に切り替えるはずなのですが、到着するや否や土方さんも斎藤さんもばっさり浪士斬っちゃってます(苦笑)。
会津が池田屋に到着したのは、近藤隊が池田屋に討ち入ってからおそよ一時後(約2時間後)。
このとき既に戦闘は終わってました。
そもそも会津藩が新選組と待ち合わせていたのは夜五ツ(21時頃)だったのですが、実際に諸藩の兵が出動したのは夜四ツ(22時頃)頃でした。
池田屋に到着した覚馬さん達は、その惨状に唖然とします。
表に出ていた、返り血だらけの土方さんには遅延を皮肉られ、取縄の準備でもしておくようにと言われる始末。
でも新選組も新選組でフライングしたのですから、ここで土方さんが「いまご到着ですか」と皮肉るのは何かが違う気がします。
睨み合う大蔵さんと斎藤さんを押しのけて、覚馬さんが池田屋の中に入ると、文字通りそこは血の海。
屍の中に、面識のあった宮部さんを見つけ、新選組の戦いぶりに苦言を呈する覚馬さん。

にしら、何故勝手な真似を。誰が斬れど命じだ!
我らも命がけで御座る。お手前らのように悠然と構えていては、敵に逃げられる

これについては全面的に土方さんの言い分が正しいような気がします。
土方さんからすれば、汚れ仕事を新選組にやらせておいて、誰が斬れと言ったんだと言われても・・・という心境でしょう。
それに人数差が、新選組側が圧倒的に勝ってたら捕縛出来たでしょうが、実質最初に池田屋に踏み込んだの5人以下ですから斬らなきゃ自分が死にます。
でも人数が揃わなかったのは、新選組がフライングしたからでしょう?という反論の声もあるかもしれませんが、新選組がフライングしたから近藤隊はまだ池田屋に浪士がいる間に池田屋に踏み込めたわけでして、悠長に会津待ってたらそれこそ浪士を取り逃がしてたかもしれない。
取り逃がしてたら計画が実行されて、極論になりますが容保様のお命すら狙われることになっていた。
だから後々で会津は新選組に、フライングの件は不問にして池田屋の報奨金を下賜したのでしょう。
という背景から考えたら、面識ある人間が斬られた覚馬さんが新選組に激昂するのは筋が通りますし新鮮な描写ではありましたが、その他の皆様が新選組の行為を詰るような視線をするのは(屍の中に知り合いがいたのなら別ですが)何かかなり不自然な図に見えました。
しかし新選組側でも気になるのが、新選組の皆様の、会津への礼儀。
近藤さんすら一瞥もせずに素通りって、ちょっと無礼にもほどがあり過ぎるのではないかい、と見ていて苦笑を禁じえません。
色々書いてますが、まあ大河ドラマと雖もドラマですので一から十まで必ずしも史実にぴったりそってなくて良いとは思いますし、最新の研究を取り入れる必要もないとは思いますが、それでも大河ドラマだから、という部分はあるのではないかと。
まあ、その話をここでしても詮無きことですね。

この池田屋事件は、新選組の名を一気に世に知らしめたと同時に、色んなところに波紋を呼びました。

愚かなことをしたものだ、お主らは火薬蔵に火を点けたのだぞ。長州は今に牙を剥いて襲ってくる

象山先生はそう言います。
象山先生に及ぶ波紋を言えば、宮部さんの仇として河上彦斎さんが入京し、その彦斎さんに象山先生は・・・ということになります。
池田屋が起こった今、会津の人間を連れていては却って狙われるという象山先生は、勝さんが贈ってくれたという六連発銃を見せ、これがあるから問題ないと言います。
六連発銃といえば、高杉さんが龍馬さんに贈ったS&W セカンド・モデルが有名ですが、これもそれでしょうかね。
一方で会津にも、池田屋事件のことはすぐに知らされました。

新選組はやりすぎる。これで会津は仇持ぢになった・・・
寄せ集めの浪士ごときに先んじられるどは、情げねぇ

何だか西郷さんと官兵衛さんの会話が微妙に噛み合ってない気がするのは気のせいかなと思いましたが、西郷さんもなんとなく「あ、噛み合ってないな」と気付いたような表情をしておられましたね。
でもそれを口に出さない辺り、蟄居中とはいえ流石はご家老です。
だけでなく、身を揉む官兵衛さんの心中も酌みつつ、今国許にいる自分が出来る最大限のことをします。

官兵衛、にし、都に行げ。横山様に代わって、神保内蔵助殿が京詰めどなる。官兵衛を都に呼び寄せて頂けるようわしが直々に内蔵助殿に願い出る

そして、一緒に藩士の次男三男の中から腕に覚えのあるものを選んで都に連れて行けと言います。
別選組のことですね。
ここまで来たら、兵力を増やすことでしか会津を守れない、というのが西郷さんの判断です。
在国兵力とか、国から男の姿が消えるとか、そういった問題が後々で生じてきますが、この時点の西郷さんにとっては、まずそれよりも都での会津を守らねばという一心だったのでしょうね。
本心には、これ以上の泥沼にはまる前に一日でも早く京都守護職を辞めて欲しい、というのがあったでしょうが。

けれども官兵衛さんが新たな兵力を率いて上洛するよりも早く、事態は進行していました。

いよいよ雪辱を果たすときです
今度は会津が都を追われる番だ

そう瞳を滾らせているのは甲冑を身に付けた久坂さんと真木さん。
おふたりがいるのは山崎の天王山です。
他にも嵯峨には来島又兵衛さんが陣を敷いてます。
更に長州藩家老の福原元僴さん、通称越後さんが1000の兵を率いて伏見の長州藩邸に入り、朝廷に入京を嘆願しました。
二条城でも在京諸侯が集められ、即座に評議が開かれます。

家老の福原越後を呼び出し問い質したところ藩主親子の罪一等が減じられれば兵たちも得心して退くと申すのだが
それでは後手に回りまする。叡慮に反する振る舞い、武力にて一掃すべきと存じます
守護職は、都で戦をするつもりか
伏見、山崎、あるいは街道にて食い止めまする
万が一ということもある。貴公、殊更に武力討伐を言い立てるは、長州の恨みを恐れるあまりか?池田屋では会津配下の者どもが要らざる斬り合いをした。長州が押し上ってきたのは、その恨みを晴らすためとも思えるが

慶喜さんの言葉にあるように、池田屋事件が起こったから長州がやって来た、とよく誤解されがちなのですが、実は長州が兵を率いて上京することは、既に池田屋事件が起こった6月5日より以前に決定していたという説もあります。
一般的な捉えられ方として、池田屋事件が起こったから長州が兵を寄せて来て禁門の変が起こったと理解されていますが、その説が本当ならば、池田屋事件と禁門の変の関係も大きく変わってきますね。
それはさておき、諸大名の前で容保様への罵倒が止まらない慶喜さん。
定敬さんが「それは、あまりに」と言いますが、そんなものでは慶喜さんは止まりません。
挙句の果てには会津の戦には付き合えないと退室する始末。
ほんの少し前までは「命を捨てで共に都を守ろう」と言ってたのと同じ口で、よくもまあまあ、あの変わり身の早さは正しく慶喜さんだなと、皮肉をたっぷり込めて思わず感心してしまいましたよ。

我らは、会津のために働いて来たのではないのじゃ
はい。すべては、都を守護するためにごぜいます
このこと、主上だけは、お分かり下さるはず・・・

黒谷から戻った容保様は、修理さんに切実な心中をこぼします。
この容保様を見ているのが、修理さんだけというのもまた意味深いような気がしました。
自分の忠は帝だけは分かって下さるはず、という容保様を、後の修理さんも、自分の忠は殿だけが分かって下さると思いながら自刃したのかな、と。
そこに重ねてくのかなと、変に深読みをしてしまいました。

さて、ここで一弾となって容保様を支えてきた在京会津藩士の間で、亀裂が生じます。
その亀裂が生じて、悌次郎さんは公用方を外され、国許へ返されることになります。
それを聞いて覚馬さんは驚きを隠せません。

お待ぢ下さい。秋月さんがいなぐなったら、都はなじょなんです。他藩との繋ぎは?長州の動ぎの探索は?

悌次郎さんの持つ他藩とのパイプについては、以前の記事で既に触れましたが、悌次郎さんがいなくなるということはそれがごそっと会津から抜け落ちることにほかなりません。
外交的に大ダメージですよね。
ドラマでは、池田屋事件の責任を取らされて、という形になってましたが、実際悌次郎さんが左遷された理由はよく分かってませんが、上の妬みを受けたとみてまず間違いないです。
悌次郎さんはこの後、更に蝦夷地まで飛ばされます。
再び京に戻ってくるのは約2年9か月後になります。
この悌次郎さん空白期間が、後で振り返れば会津にとって痛いことになります。

厳しい現実は会津の尚之助さんにも降りかかってました。
改良を重ねた新式銃が、ろくに評議もされずにお取り下げになったことにあれだけ平生穏やかな尚之助さんが苛立ちを露わにします。

三倍の早さで撃つことが出来れば、兵が三倍いるのと同じだ。こんな容易い算術が、何故分からんのだ

自棄になって銃を撃ち続ける尚之助さんに、銃身が熱くなってもう危ないから辞めろと八重さんが止めます。

あんつぁまも同じでした。何を言っても聞いて頂けず、禁則のご処分も受げやした。会津は頑固で、たやすぐは動かねぇげんじょ、諦めではなりませぬ。認めでいだだげるまで、何度でも何度でも、作り直すべ。私が・・・私がずっと、お手伝い致しやす

八重さん、必死にになって言ってるので多分無意識なんでしょうが、プロポーズめいたこと言ってますよね。
いえ、本人に自覚はないのでしょうが。
しかし、会津が頑固だと八重さんに教えてくれたのは尚之助さんでしたが、今度はその八重さんに尚之助さんが教え返したのですね。

元治元年6月14日(1864年7月17日)、函館の外国人居留地に、数年前は新選組におられたと記憶しているお方の影が(笑)。
いつかの七五三太少年ですね。
今ではもう21歳、数えで22歳の立派な成年になっています。
その七五三太さんが、夜陰に紛れてこそこそ何をしているのかと言いますと、密航です。
確か、龍馬さんの従兄弟がこれに協力してくれたかと。
米船ベルリン号に乗り込んだ七五三太さんは、船底に隠れる前にもう一度だけ函館の陸地を振り返ります。

さらば、日本。・・・窮屈な私の国

彼が再び日本の土を踏むのは10年後の話です。
やっぱりアメリカ時代のこととかもちょくちょく触れられたりするのでしょうかね。
日本人初の学士の学位取得とか、その辺りも興味深いのですが。

ではでは、此度はこのあたりで。


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