2013年7月28日日曜日

それでも明日を生きて行く

「会津観光史学」というのがあります。
以前からあった言葉ですが、「八重の桜」の放送開始を機に、以前よりも頻繁に耳にするようになった気がします。
一般認識としての浸透はまだまだだと思いますので、もしかしたら今この言葉を初めて耳にされた方もおられるやもしれません。
さて、その「会津観光史学」とは何ぞやと思われるかもしれませんが、これが一口には非常に説明しにくいものでして・・・。
ネットなどで調べて頂くと、もっと分かりやすく説明して下さってる方がいますが、私は「会津戦争で亡くなった人を讃美」「会津戦争で生き残った人を批判的に見る」、という概念だと、個人的にはそう理解しております。

今まで、会津戦争の女性と言えばまず間違いなく「中野竹子」でした(一般的な話をしています)。
「山本八重」なんて、ごく一部の人が口にするだけで、評価という点では乏しいものでした。
けれども「八重の桜」をご覧になった方はお分かりでしょうが、竹子さんも八重さんも、評価される点に大きな差があるようには思えません。
どちらも等しく評価を受けて良い女性であるのにも拘らず、どうして現実問題、「中野竹子」と「山本八重」の取り上げられ方には温度差があったのか。
あるいは飯盛山で自刃した「白虎隊士中二番隊」の悲劇性を取り上げ、会津に殉ずる形となった死を讃美する一方で、戦後もなお生き続けた人の大部分に素直な評価が与えられないのは何故でしょうか。
そこに、「会津観光史学」という歪んだものが絡んでいると私は思っております。
今現在「八重の桜」でも視聴者の皆様にお馴染みの面々、たとえば山本覚馬さん、秋月悌次郎さんや佐川官兵衛さん、梶原平馬さん達は、ここ最近になって再評価された方々です。
それは賊軍の汚名を着せられていた会津藩士だったからだとか、薩長史観のせいだとかではなく、ほかならぬ郷土の「会津観光史学」によって埋もれさせられていた部分も大いにあるのではないかと私は思っています。
つまり皆様、竹子さんや白虎隊と違って、会津戦争後も生きておられるのですよ。
「会津観光史学」が会津戦争に殉じた人々を讃美する傾向にあるのなら、「会津観光史学」の評価の時間軸は「会津降伏」より先に進まないことになります。

薩長史観に塗れた幕末史にメスを入れ、会津藩を描く、そのドラマの主人公が何故「山本八重」なのか。
この答えが、「会津戦争を描きたいからではない」からのひと言に尽きるというのは、私が何度も言っていることです。
会津戦争を描きたくて、女性主人公にしたいのなら、主人公は「中野竹子」で良い。
ですが、会津降伏を終点にせず、会津の人々が降伏のどん底から這い上がって、桜を咲かせる、それが今年の大河の大きな流れなのです。
会津戦争で亡くなった方には、それが出来ません。
生き残った方々でないと、それは出来ないことなのです。
そもそも生き残った以上、彼らは生きるしかないのです。
それをどうして現代人の、しかも他ならぬ郷土の人達が冷たい目で見てきたのか、正直私は理解に苦しみます。

今でこそ大河ドラマのお蔭で知名度も上がり、会津でも八重さんは大いに取り上げられています。
しかし会津の一部の方(つまり会津観光史学)は、戊辰戦争後に郷土を離れて京都で暮らした八重さん及び山本一家を、何処か「裏切者」視していました。
(そういう方々が、ちゃっかり「八重の桜」ブームに乗って八重さん賞賛したりしてるのは少々如何なものか(貴方たち今まで何を主張してきたんですかと言う意味で)と思わなくもないですが、今はそれを論じたい訳ではないので割愛)
別に八重さん達は、郷土を離れただけで会津を裏切ったわけでもなく、また会津の人々ともずっと深い繋がりがありました。
それは明治以降、八重さんのことを調べればすぐに分かることです。
「裏切者」視される理由は何処にもないのに、郷土から「裏切者」視されて来た「山本八重」と言う人物を主人公にすると言う点、「八重の桜」は会津観光史学に塗れた会津史にもメスを入れているように私は感じます。

・・・段々何が言いたいのか分からなくなってきましたが(私の筆が纏まらないのはいつものことですが)、今日から始まる明治編も楽しみですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年7月23日火曜日

第29回「鶴ヶ城開城」

明治元年9月15日(1868年10月30日)、新政府軍総攻撃から二日目。
兵糧の尽きかけた城では、補給路再開のために決死隊が結成され、権八さんもそれに参加することになります。
決死隊でなくても、砲撃の止んだ隙(夜間)に城下の我が家に行って、庭に埋めていた兵糧などを掘り返してくる人もいました。
けれども城下には新政府軍がうじゃうじゃいるので、命がけの行為でした。

八重、わしらが城門を出る時は、にしが鉄砲隊を指揮して守っでくれ
こった砲撃の中、打って出るのは無茶でごぜいます。作戦の変更を
誰かが行かねばなんねぇ
だけんじょ
砲撃が止むのが先か飢え死にするのが先か、どっちが先か分かんねぇ。このままでは、砲撃が納まった時に戦える人間がいなくなってしまう

そう言って出陣して行く権八さんから始まりました、第29回。
回数的に言えば、大河ドラマは全50回なので25回が折り返し地点になるのでしょうが、「八重の桜」に限っては今回が前半最後となるのは、タイトルの「鶴ヶ城開城」を見ても分かる通りです。

我が米沢藩は、新政府軍に降ったものの、会津と戦を交えるは忍びなく、戦況を鑑みれば松平肥後守に於いては最早・・・・・・降伏の道を、探るが最前
米沢は、会津に降伏せよと申すか
それだけならまだしも、いずれ新政府軍として、我が藩の攻撃に加わるものかと

公式に米沢藩が新政府軍に降伏したのは9月に入ってからですが、8月には非公式で既に米沢藩は降伏してました。
会津藩以外で最後の最後まで頑張ってたのは庄内藩くらいでして、庄内藩の降伏は会津降伏よりも後の明治元年9月26日(1868年11月10日)の話です。

敵は・・・雪が降る前に、戦を終わらせるつもりか・・・
兵糧が尽き掛けている故、決死隊を組み、調達に行っておりやす。精鋭の者どもなれば必ずや戻って参ります。冬まで持ちこたえれば、戦況は変わりやしょう。この総攻撃、敵方が会津の冬を恐れている証拠!
冬、か・・・

しかし軍議の場で、誰もが思っています、「冬まで城が持つわけがない」と。
ぼんやりと、自分達は既に負けたのだという自覚もあるでしょうし、降伏するか玉砕するかしかないというのも分かっているはずです。
それでも、誰もこの場で「降伏」の二文字を口に出すことが出来ないのは、自分達が散々否定して挙句城外追放にまで追いやった西郷さんのことがあるからでしょう。
西郷さんの唱えていた降伏を自分達が唱えてしまったら、西郷さんを城外追放した自分達の間違いを認めることになりますよね。

さて、総攻撃によって1日2000発以上は撃ち込まれたという新政府軍の砲撃の中、登勢さんが被弾し、命を落とします。
死者は城内の空井戸に葬られてましたが、登勢さんは大蔵さんの部下が遺体を鎧櫃に入れて懇ろに葬られました。
お二人の間には子はおらず、大蔵さんも後妻は迎えていなかったように記憶しています(訂正:大蔵さん、明治期に入って後妻を迎えているようです)。

八重さんに呼ばれて、大蔵さんは登勢さんの亡骸と対面することは叶いましたが、しかし布団越しとはいえ榴弾が体の真下で爆発したとは思えぬ仏さんの綺麗さは、ちょっとリアリティーに欠けるなと思いました(汗)。
あれではまるで、病で逝ったようです。
着替えさせたんじゃないの?という声も出て来そうですが、登勢さんの怪我は衣服を脱がせることなど到底出来ない重傷なレベルでした。
まず破片の被弾箇所は脛から腿にかけて、脇腹、右肩の三か所。
特に出血が酷かったのが脇腹で、右肩の箇所は破片が着物を体内に押し込んでしまっていて、着物を引き出すとそこからも大量出血しました。
なので、あんなに綺麗な状態でいられるわけがないのですが・・・まあドラマですからね。
立派な最期だったと誰もが登勢さんを悼む中、義姉が深手を負ったと聞いた健次郎さんもその場に駆け付けます。
が、そんな弟を、大蔵さんは厳しい表情で叱責します。

城外の出撃はどうなった!?
敵の、砲撃が激しく・・・敗走してまいり

と、健次郎さんの言葉の途中で容赦ない大蔵さんの平手打ちが飛びます。

何故討死しなかった!?なじょして帰って来た!?
申し訳ごぜいません!
女でさえ、命を落としてる!・・・腹を斬れ。今ここで腹を斬れ!

やめてくなんしょ、と止める八重さんの言葉も聞かず、弟を庭に放り投げてどっかと座り、腹を斬るように迫る大蔵さん。
長く続く絶対的に不利な籠城戦で、大蔵さんでさえ精神的に追い詰められてて冷静さを欠いている、と取れる場面ではありますが、実は実弟の健次郎さんに「腹を斬れ」とは言ってませんが、「何故死ぬつもりで戦わぬ!」と叱責したエピソードは史実として残っています。
これに不甲斐無さを感じた健次郎さんは、西出丸の塹壕で寝泊まりしたんだとか。
大蔵さんの沸点の低さを良く伝えている話ではあると思いますが、切腹を迫る分、ドラマの大蔵さんは史実をも凌駕する沸点の低さです。
意を決した健次郎さんが脇差を抜いて、切腹を試みようとすると、艶さんと二葉さんが駆け寄ってそれを押し止めます。

もう良い。もう十分だ!これ以上死ぬごどはねぇ!

正直、健次郎さんがここで腹を斬っても何も変わらないのですよ。
そしてこれを契機に、艶さんから飛び出たひと言は、城内の人ほとんどの心中の代弁を演出的に匂わせているようにも感じました。
登勢さんを喪ったばかりだから、健次郎さんまで喪うようなことはしたくない、というのが艶さんの本音ではありましょうが。
そしてそのやりとりを、少し離れた場所で見ていた容保様・・・籠城する側の精神が、もう限界に近いことを目の当たりにした瞬間だったのでしょうか。

その夜、八重さんは尚之助さんから、今日だけで少なくとも2000発は砲弾が撃ち込まれたと教えられます。

尚之助様・・・敵は、どんだけいんだべか?
分かりません。・・・ただ、降伏した諸藩も、先陣に加わって、向かって来ているはずです。大軍であることに、代わりはないようです

そう話している間にも、八重さん達の頭上を砲弾が飛び交います。
八重さんは何十発も砲撃を受けてもななお崩れない城を見て、「崩れねぇのが、不思議なくらいだなし」と明るく言います。
会津戦争でぼろぼろになった鶴ヶ城の写真は、皆様も見たことはあるでしょうが、私も初めてあれを見た時には「よく崩れなかったな」と思いました。
明治になって、あの写真は土産物か何かで売られるようになったのですが、八重さんも名刺サイズのそれを持っていたそうです。
今は努めて明るく「よく崩れないな」言ってる八重さんですが、後年はどんな気持ちで写真を眺めていたのでしょうね。

会津は、打たれ強い。私は、国とは、そこに住む人のことだと思っています。会津は・・・八重さん、あなたは強い
そんなら、尚之助様も、すっかり、会津のお国の人だ
んだなし

今まで標準語(というものはこの頃まだ存在しませんが、現代の私たちが分かり易いように敢えてこの表現を使います)だった尚之助さんの、最初で、そしておそらく最後の会津弁。
本当ささやかな場面ですし、時間にすれば僅かなシーンですし、会話のほのぼのに反してBGMは砲撃音だし・・・ですが、作中凄く好きな場面トップ3にランクインしました。
国が人を、ではなく、人が国を作ってるんですよね。
なので会津人が全滅すれば、会津と言う国もなくなってしまう。
逆に会津という藩がなくなってしまっても、八重さんのような人がいる限り、会津という国はいつまでもなくならないのです。

さて、密命を帯びた悌次郎さんが、途中まで八重さんに護衛されて城を発ちました。
残り25発しか弾がなかったはずのスペンサー銃が何故弾切れにならずいるのかという疑問はさて置き、この密命は降伏の使者ですね。
ドラマでは悌次郎さん単独でしたが、実際の使者はふたりでして、もうひとりは手代木直右衛門さん(京都見廻組の佐々木只三郎さんの実兄)でした。
使者は土佐藩陣所を目指したのですが、場所が分からなかったのでまず最初に米沢藩の陣に行って、そこから案内してもらって土佐藩の陣に行きました。
坂下で米沢藩と合流したのが17日、18日に森台村を経て19日にふたりは土佐藩陣所の米沢屋へと送り届けられました。
そこで会ったのは板垣さんの甥で、大軍監だった高屋佐兵衛さん。
悌次郎さん達は使者の証である振旗を携えていたとはいえ、命がけの敵中突破だったことに変わりありません。
何より土佐藩本陣へ辿り着くその道中、きっと新政府軍が会津城下で分捕って来た着物や刀や調度が売られてたでしょうから、屈辱の道のりだったでしょう。

9月17日(1868年11月1日)、新政府軍総攻撃開始から4日が経過したこの日、容保様は降伏を決意した心中を、照姫様に零します。
神前で、己の愚かさを責める容保様。

何もかも、戦で燃やしてしまった・・・。代々築き上げて来た会津の、誇りまでも汚した。己が許せぬ

愚かと言ってしまえば身も蓋もありません、容保様は愚直だったのです。
城下の盟、という言葉がありますが、それは武家にとって、これ以上ない屈辱的なことでした。
その屈辱と、朝敵逆賊の汚名を雪げないこと、それが会津の誇りを汚したと容保様はお考えのようですが、藩祖正之公が、徳川宗家を第一に考えるようにとの家訓を遺したまさにその通りに生きた結果が、現状に繋がっているともいえると思います。
徳川に従って従って、その結果天地がひっくり返ったときに徳川と一緒に逆賊にされて、その徳川の恨みを一心に抱く形となって、国を焼いた。
悲惨な顛末ではありますが、それは正之公の遺訓に何処までも忠実で、故に容保様がそれを汚したようには見えないのです。
自責の念に駆られる容保様に、照姫様はそっと言います。

・・・過日、凧揚げをする子供たちを見ました。戦の最中だと言うのに、目を輝かせる子供らの逞しさを、誇らしく思いました。また、会津の空に、子供らの凧が揚がるのを、見とう御座います
子供らか
ご立派なご決断と、存じ上げまする

視聴者はここで初めて、容保様が降伏の決断を下したことを悟ります。
照姫様の「また会津の空に子供らの凧が揚がる」と言う光景は、このまま頑なに籠城を続けていては決して見ることの出来ない、それこそ全員討死してしまってはもう来ない未来の話になりますもんね。
この容保様の苦渋の決断を、受け止めてくれた人が照姫様で良かったなと、心底思いました。
こう、容保様は大殿なので、藩内で自分より上の立場の人間っていないわけなのですが(強いて云うなら喜徳さん?)、照姫様は容保様の「姉」という、立場が上と言うわけではありませんが、容保様に敬われる立場にあるお方なのですよ。
その立場の人間から見て、自分の決断は如何なのか、という言葉が欲しかったんじゃないのかなと、個人的にこのシーンはそのように解釈しました。

恐ろしい砲弾も、時間の経過と共に慣れてしまうものなのか、爆音の中を平然と歩く時尾さんは、ふと城内に負傷した斎藤さんを発見します。
砲弾が恐ろしくないのかと尋ねた斎藤さんに、時尾さんが返したのは「ありがとなし」と、会津のために戦ってくれたことへの感謝の気持ちでした。

私は、春の会津が一番好きでごぜいやす。ゆーっくり春が来て、綺麗な桜が咲いて。・・・口惜しゅうごぜいやす

これは言外に、もう会津は春まで持たないという認識を時尾さんが持っていることになりますね。
ともあれ後にこのふたりは夫婦になるわけですが、春の会津に訪れることの出来る日を、密やかにお待ちしたいと思います。

その頃、決死隊に参加して城内に米を運び入れることに成功した権八さんですが、その任務の最中右胸に被弾します。
戸板に乗せられて運ばれて来た権八さんに駆け寄る山本家。
こんな状態になってもなお、「米を運んで来たぞ」というおとっつぁまの姿に、見ている此方側の涙腺も緩みます。

おなごが煤だらげで・・・。やっぱり、鉄砲を教えだのは間違いだ
おとっつぁま・・・
八重、にしは、わしの誇りだ・・・。皆を守れ・・・

権八さんはそれを最期の言葉に、微笑むように息を引き取ります。
「皆を守れ」というこの権八さんの最期の言葉(ちなみに皆は、山本家と解釈しております)は、この後戦が終わって、自身のアイデンティティーでもあった鉄砲の必要性を喪失することになった八重さんの行動指針みたいなのになります。
その展開は、明治編を待つことにしましょう。
権八さん、数えで60の人生でした。
厳格だけど時々おちゃめで・・・本当に良い「おとっつぁま」でした。

9月20日、新政府軍総攻撃開始から7日が経過したこの日、土佐藩に降伏を申し入れ、その返事を貰った悌次郎さんが、白旗を手に鶴ヶ城へ帰ってきます。
城方は悌次郎さん達の戻りが遅いので、新たに鈴木為輔さんと河村三介さんを使者に立ててます。
4人が鶴ヶ城に帰城したのは、この日の正午過ぎのことでした。
敵方からの砲撃がすっかり止んでおりますが、これは悌次郎さん達4人が土佐陣営から発った時点で砲撃中止が命じられたからです。
新政府軍の条件としては、「降参の字の書いた白旗を北出丸から出したら、それを合図に矢玉止めの令を出す」というのでしたが、降伏の使者が途中で被爆したら洒落になりませんのでね。
ですが、城方の一部以外は、悌次郎さん達が密命を帯びて降伏の使者として城を出たことを知らないわけですから、戻ってくるときに使者のアイコンである白旗が必要なのですね。
(味方に撃たれたら、それもまた洒落になりませんので)
翌日の21日、城内の女たちには照姫様から、降伏の内容が伝えられます。

此度、大殿が、重いご決断を下されました。会津は恭順し、城を空け渡します。大殿様と若殿様は、明日、開城降伏の式にお出ましになり、その後、謹慎所へ向かわれることとなりました
照姫様も、お立ち退きになられます

十五に満たない幼い者と、六十歳以上の者と、女は不問、藩士は猪苗代で謹慎という旨を時尾さんが伝え終えた時、啜り泣きだった女達が涙を零し始めます。
一方、藩士には容保様からその旨が伝えられました。

罪は、我が一身にあり。この上は、この一命をもって会津を、皆の行く末を守る。何があっても、生き延びよ!最後の君命じゃ、生きよ!!!

ところで、城内には降伏に憤怒のあまり自刃する藩士も数人いました。
描かれてはいませんが、容保様の最後の君命である「生きよ!」を守りたくても守れない人もいたんです。
そんな容保様を、末席から「間違っている」と言ったのは八重さんでした。
戦中に側女中格に昇格させられた八重さんが、女達とではなく当たり前のように藩士と此処にいるのはおかしな話なのですが、次に続く八重さんの台詞のためだと思えば、違和感なぞ何のその。

何があっても、お殿様には、生きて頂かねばなりませぬ!私は、何度考えても分がらねぇ。天子様のため、公方様のため尽くして来た会津が、なじょして逆賊と言われねばならねぇのが。会津の者なら皆知ってる!悔しくて堪んねぇ・・・。死んだ皆様は、会津の誇りを守るために、命を使っだのです。どうか、それを無駄にしねぇで下さい!本当は日本中に言いてぇ!会津は逆賊ではねぇ!だげんじょ、それを証明出来んのは、殿様しかいねぇのです。だがら、何があっても、生きて下せぇまし!

私の言いたいこと、全部八重さんが代弁してくれました。
以前の記事でも少し触れたことですが、汚名を雪ぐべく容保様が声を張り上げたわけではありませんが、孝明天皇のご宸翰を肌身放さず持ちながら、明治の世を生き抜きました。
そのご宸翰の存在が後世に伝えられ、紆余曲折を経て、巡りに巡って今に至るというわけです。
容保様があそこで首を差し出してしまってたのなら、「今」とは違う「今」が横たわっていたはずですし、その「今」が会津の汚名を雪がれたものとも限りません。
しかしながら、ここでひとつ見落としていることがあります。
もしかしたら藩士や家老の中には感付いた方もおられるでしょうが、八重さんは絶対に分かってませんね。
そうです、容保様の首を繋げるということは、他の誰かの首を差し出す必要が出てくるということです。
殿は我らが命に代えてでも守ります故」の大蔵さんの言葉に偽りはなかったのでしょうが・・・いえ、容保様の代わりとなるなら、藩士は喜んで首を差し出しますかね(ちなみに差し出すのは大蔵さんではありません)。

降伏の白旗を用意する必要があったのですが、城内にあった白い布はことごとく負傷者の包帯として使われていて底をついており、白地の布を集めるのもひと苦労だったそうです。
なので、あるだけの白い布を集めて継ぎ接ぎにしました。
ドラマでの白布が、一枚布ではないのがそのためです。
白旗には「降伏」の二文字を大書するよう言われていたのですが、二葉さんはその二文字が、辛くて書けない。
当たり前の心境だと思います。
二葉さんでなくても、あの場ではただひとりを除いては誰にも書けなかったでしょう、「降伏」なんて。
書けるとしたら照姫様くらいでして、その役目は上に立つ者の責務でもあったと思います。
だから誰もが「降伏」と書かれた白旗に痛ましい視線を投げかける中、照姫様は瞳を僅かも揺らさず、毅然としております。

明治元年9月22日(1868年11月6日)四つ刻(午前10時)、降参と書かれた白旗三本が、北追手門前に掲げられます。
開城降伏式の進行役を一任された悌次郎さんの采配で、北出丸の前にある西郷家跡とその隣の内藤家の間、甲賀町通りの一角に緋毛氈が敷かれ、幔幕が張り巡らされて式場が整えられます。
そこへ北追手門から、麻裃を纏って白足袋草履姿の容保様と喜徳さんを先頭に、平馬さんや内藤さん、大目付の清水佐右衛門さんに目付の野矢良助さんが列をなして現れ、降伏式へ臨みます。
その列を八重さんは面を上げて見ていましたし、立ち上がって容保様を見送ってる人もいましたが、本来ならば面を上げてはいけない状況です。
容保様は板垣さんと大山さんに、降伏謝罪の親書を渡します。
この親書の中で、「痛苦の情実察し入り賜りたく候」と、会津藩士たちについて敬語を使っている文があるのは有名です。
最後まで籠城戦に付き合ってくれた藩士達への、容保様からの思いやりを感じます。
ドラマでは登場していませんでしたが、容保様から降伏謝罪の書を受け取ったのは唯九十九さんと言う方で、その後書は中村半次郎さんに渡されました。
続いて平馬さんが九十九さんに、容保様と喜徳さんの助命嘆願所を出し、式はそれで終了となりました。
その後容保様は謹慎所の妙国寺へ向かわれ、供侍三十人余りがそれに付き添いました。
この式の最中に敷いていた緋毛氈は、会津藩士たちの間で一片ずつ切り分けられ、「泣血氈」と呼ばれ、この日の屈辱を忘れずに次なる一歩を踏み出せるようにという想いをこめて、配られたのでした。

その夜、八重さんは三の丸雑穀蔵に笄で、歌を一つ刻みます。

あすの夜は何国の誰かながむらむなれにし御城に残す月かげ

この馴れ親しんだ故郷の城の月影を、一体明日は何処の誰が眺めているのだろうかと、故郷を離れる立場になった八重さんの苦しくてやるせない心境が詠み込まれています。
そうして月を眺めている八重さんに、綺麗な月だと佐久さんが声を掛けて来ます。

明日から一体、どうするべな。何処に身を寄せんべな。城下は、ぜーんぶ、焼がれちまったな
おっかさま、私・・・
お前の考えでることは分かる。男に混じって、猪苗代の謹慎所に行ぐつもりだべ

しかし猪苗代に送られたら殺されるかもしれない。
娘の決意を察知していても、佐久さんは切なさをやり切れません。

これは、辞世の歌のつもりが?私は、お前まで亡くさねばなんねぇのが?
ごめんなんしょ
いぐら鉄砲が上手くても、立派な手柄立てでも、お前は・・・私の、たった一人のめごい娘だ

別れを惜しむ母娘の影を、尚之助さんが少し離れていたところで見ていました。
おそらくあの距離なので会話は聞こえていたでしょう、妻の決意を聞いて、夫の彼は一体何を思ったのでしょうか・・・。

新政府軍に鶴ヶ城が明け渡される9月23日(1868年11月7日)、二葉さん達は最後に城内を拭き清めます。
明け渡すのにどうして掃除する必要があるのかと、無邪気に問い掛けて来た妹に、二葉さんはこう返します。

咲、戦に負げても、誇りは失っちゃなんねぇ。綺麗に渡さねば、会津のおなごの恥だ

しかし開城された鶴ヶ城に踏み込んだ新政府軍は土足のまま城へ上がり、二葉さん達が清めた廊下を汚して行きます。
板垣さんは床が綺麗なことに気付き、自分達の足跡を見て呆然となります。
この僅かな時間の演出が、「会津の誇り」「会津の踏まれても屈しない気高さ」「そこに土足で踏み込んだ新政府軍」、という「会津戦争」というものの全てが凝縮されているなと思いました。

猪苗代へ行く藩士たちが集められたのは、三の丸操練場です。
米沢藩の好意で帯刀は許されていましたが、誰一人として抜く藩士がいなかったのは、何かしでかすと妙国寺に入った容保様の身に何が起こるか分からないからというのがあったからです。
余談ですが、容保様と共に照姫様も駕籠で妙国寺に行かれたのですが、その道中照姫様が大層見目麗しいと聞いた新政府軍の兵は、駕籠にワラワラ近付いて行って中を覗こうとするわ何だの、最低の振る舞いをしたみたいですね。
本当かどうかは知りませんが。
そして勝者ゆえの優越感か、会津藩士らに対しても礼を失した態度で接する新政府軍の兵達。
その中には、男に混じって「山本三郎」を自称する八重さんも混じっていましたが、誰もが遣る瀬無い思いを抱く中、不意に会津藩士の一人が玄如節を歌い出します。
それを皮切りに、新政府軍の兵士が止めるのも聞かずに、その場は玄如節の音頭に包まれます。
賑やかになった周りの様子に、八重さんはそっと強張らせていた表情を和らげました。

懐かしいな・・・。祝言の日。あんつぁまのくれた紅は、結局紅すぎて、付けて行くところがなかったがし

そこから、ほんの一瞬の間に、尚之助さんの頭の中で凄い速さで思考が巡ったはずです。
八重さんと佐久さんとの会話を聞いていた尚之助さんは、八重さんが「山本三郎」として猪苗代へ行くことを分かっていたでしょうし、それを止めようとはきっと思ってなかった。
でもこの瞬間、ふと祝言のことを八重さんから漏らされた時に、ああこの人は「山本三郎」ではなく、「山本八重」という自分の妻であり、女なのだと、思い出させられる。
ならば、猪苗代には連れて行けない。
しかし、実の母親の言葉ですら止められなかった八重さんを、何なら止められるのか。
・・・力技にはなりますが、第三者に介入して貰って引き剥がして貰うのが一番ですよね。

女だ!女が紛れているぞ!

と、八重さんが女であることを新政府軍(=第三者)に暴露したのは、そういう考えからかなと。
新政府軍は事情も何も知りませんから、「女だから」という理由だけで、尚之助さんが読んだ通り八重さんの猪苗代行きを阻止してくれます。
それは、「私は山本三郎」と思っている八重さんの気持ちを踏み躙った形にもなりますが、踏み躙ってでも尚之助さんは八重さんを猪苗代から先に待っているであろう苛酷な道に巻き込みたくなかったのでしょう(女は不問ですし)。
八重さんが女だと分かった新政府軍は、八重さんをその場からつまみ出そうとしますが、八重さんは一緒に行かせて欲しいと懇願します。
自分は薩長の兵を殺したというのは、逆上させるつもりで言ったのでしょうが、男の彼らからすれば女の八重さんに仲間を殺されたことは恥以外の何物でもないのです。
だから取り合って貰えません。
結局羽交い絞めにされた八重さんは、黙って自分の前から立ち去って行く尚之助さんの姿を見送ることしか出来ませんでした。
幼い頃から拠り所にしてきた鉄砲が、降伏と共に無意味と化し、尚之助さんには猪苗代行き同行を拒まれた八重さんは、女ばかりになった山本家を「皆を守れ」の言葉の通り、これから引っ張って行きます。
しかし、それで八重さんの喪失感は埋まりません。
その喪失感を埋めてくれるのが、襄さんであり、キリスト教との出会いなんだろうな、と私は思っています。

・・・そんじも空は、変わらねぇのが

満身創痍の鶴ヶ城天守を仰ぎ見ながら、八重さんはそう呟きます。

これで前半部分終了ですが、この先に話が続くからこその「八重の桜」だと思います。
会津観光史学、及びそれに没頭している皆様、会津を見る上で大切なのはここから先、会津戦争の先なのですよ。
そのための山本八重が主人公なのですよ。
なので、ここから先はつまらない、などと決して投げ出さないで欲しいと思います(じゃないと会津観光史学の観点で止まっちゃうので)。
マイナス地点のスタートラインにまで叩き落された会津の皆様が、八重さんが、どうやって明治を生きて行くのか、どうか最後の最後まで見ていてあげて下さい。
八重さんは再び桜を咲かせるんです!
・・・そう思うと見たくありません?

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年7月17日水曜日

第28回「自慢の娘」

彼岸獅子と共に、鮮やかに敵中を突破して城へ入った大蔵さん。
これに城内は沸き立ちますが、その一方で会津の存亡を願う西郷さんは、容保様と対立することになり、城外追放となります。
開かれた軍議で、西郷さんの姿がないことに気付いた大蔵さんがそのことを指摘すると、「あの方がいては足並みが揃わぬ」と何とも言えぬ答えが平馬さんから返って来ました。

何か?
恭順など馬鹿馬鹿しい。弱虫の家老がいて、兵達が命がけで戦えるが

西郷さんを排除した抗戦派の空気を目の当たりにした大蔵さん。
この状況で内部分裂してる場合じゃないだろっていうのと、内部分裂するのが拙いからその原因となる人間を除くのは理にかなってるよね、というのと。
どちらも納得出来ますが、西郷さんがいなくなった後にじゃあ会津上層部が纏まってましたかと言われれば、一概にそうとも言えません。
指導体制こそ、軍事は大蔵さん、政務は平馬さん、城外は官兵衛さん・・・などと割り振られていましたが、それぞれの主張はばらばらでした。
平馬さんは米沢へ脱出する論を唱え、それに官兵衛さんと山川さんが「それでは自らの敗北を認めることに繋がる」異議を唱え、と、正に船頭がいっぱいいて舵が取れてないとはこんな状況のことを言うのでしょう。
ちなみに大蔵さんが兵を率いて入城しましたが、薩長連合軍にも続々と増援が来ているわけでして、この時点で会津軍約五千に対して薩長連合軍三万ほど。
戦国時代、籠城した城を落とすには、ざっと十倍の兵力で当たらなければならない、と何かの本で読んだことがあるのですが、大砲や銃の性能がぐんとあがった幕末のこのときですと、六倍の兵でも城を落とすには十分だったでしょう。

一方で八重さん。
スペンサー銃の弾が、装填している分を除くと残り25個しかないことに気付きます。

もうこれしがねぇ・・・。弾が切れたら、なじょすんべ・・・

前にも触れたことですが、八重さんが籠城時に家から持って来たスペンサー銃の弾は100個。
24日の時からバンバン撃ってるように見えましたが、逆算すると2日で70発くらいしか撃ってなかったのですね、ちょっと意外です。
そして何より意外だったのが、スペンサー銃が籠城戦の途中で弾切れになることもちゃんとドラマで描こうとしていること。
夜襲の時にもゲーベル銃ではなくスペンサー銃を持って行かせてたので、てっきり最後の最後まで「八重さん+スペンサー銃」の絵図を貫くものと思ってました。
そこへ、深刻そうな顔をした秋月さんがやって来ます。

困ったことになったぞ・・・
何が?
頼母様が、お城を出られる。いや・・・お城を、追われる

去る者と迎えられる者、ということで始まりました、第28回。
夕暮れの中、嫡男の吉十郎さんと城を後にする西郷さんを、八重さんと秋月さんが呼び止めます。

お城を出て、何処に向かわるんですか?
殿のご下命を・・・萱野殿に伝えに行く
ご子息を連れて行くのは・・・お城に戻らぬおつもりだからですか?

秋月さんの問い掛けには答えず、一礼をして踵を返した西郷さんの背中に、「お逃げになんのがし!?」と八重さんの追及が突き刺さります。

ご家老様は、お城を捨てんのがし!?
八重殿っ!
なじょしてお殿様は、頼母様を追い出すんだし?
出過ぎたことを申すな!

秋月さんの制止も聞かずに「なじょして」を繰り返す八重さんに、西郷さんの一喝が飛びます。

人にはそれぞれ、道があんだ。なじょしても譲れぬ、道があんだ。臆病者と謗られようと、真っ直ぐにしか進めぬ、わしの道があんだ。この西郷頼母にも、たまわぬ節がある

会津の頑固さは八重さんも知っているでしょうが、頑固と頑固がぶつかり合ったとき、双方譲れないままになります。
八重さんは西郷さんを理解出来ないと言わんばかりの顔をしていましたが、それは八重さんがきっと「強さ」や「勇気」というものの意味を履き違えているからでしょう。
その証拠に、西郷さんは恭順を唱えていたと聞くと、「そった弱腰な」と言います。
官兵衛さん達と同じ感想ですね。
スペンサー銃で敵を仕留めることや、女だてらに戦功を挙げることや、戦線に立つことが「強さ」や「勇気」じゃないんです。
秋月さんが言った「恭順を唱えることの方が今は寧ろ勇気がいんだ」という言葉が、この状況での「強さ」と「勇気」の意味の全てです。
感情論に委ねていては、何も残せないまま全滅します。
城を枕に討死玉砕覚悟も辞さない覚悟を決めている抗戦派ですが、それだと展望がまるでない。
彼らの意見のまま行くと、先に待ってるのは国破れて山河あり、の状態です。
現実を見据えた意見が大切なんです、たとえその意見がどれだけ会津にとって屈辱なものであっても。
それが行く行くは、特報動画などで出て来てる容保様の「最後の君命」すなわち「生きよ!」に繋がってくるのかなと。
ところでこの西郷さんの会津退場、実はこんな人知れずではなく、黒金門で容保様と喜徳さんに挨拶をして、太鼓門のところで簗瀬三左衛門さんと言葉を交わしてから出て行ってます。
この後平馬さんが、西郷さん暗殺のために刺客を放ったようですが、見失ったということで引き揚げたそうです(刺客がそれで良いのかとも思いますが)。
尚この刺客を命じたのは容保様だという意見もありますが、明治期に西郷さんの就職先まで世話している容保様ですから、そう考えればここで西郷さんを殺すように差し向けるのは少しおかしな話になりますので、違うんじゃないかと私は思っております。
西郷さんはこの後、高久にいる萱野さん達に会い、米沢を経て仙台に向かい、榎本艦隊に身を投じて北の大地へ転戦して行きます。
彼が再び会津の土を踏むのは、およそ二十年後のことになります。
余談ですが、『幕末会津志士傳稿本』には、「身は権勢の家に生まれ、学術あり、また識見ありといえども、この未曾有の困難に会し、なんら能くなす所なくして一生を畢しはけだし時の不遇なるか、将又みずから招く所なるか、嗚」という西郷さんの寸評があります。

籠城した女性たちが、炊事場でせっせと玄米の握り飯を作っています。
以前の記事でも触れましたが、鶴ヶ城内に貯蔵されている兵糧に白米はなく、全て玄米でした。
白米の事前貯蔵については、籠城戦などないと決めつけていた上層部によって一蹴されていたようです。
しかし玄米を白米に精米している暇などないので、大きな釜に沢山の湯を沸かし、その中に玄米を入れ、掻き回す風にして炊いたそうです。
熱くて手の皮が剥けるので、女性たちはそれを水で冷やしながら握りました。
副菜はと言えば、やはり籠城戦を想定の範囲にいれていなかったので、漬物程度しかなかったそうです。
女性たちは玄米ではなく、道明寺粉(糯米を蒸して乾燥させ、挽いて粉にしたもの)を湯に入れて汁に啜る、というのが主な食事でした。
しかしその道明寺粉も、数年前の物だったので虫が湧いているなど、宜しくない状態だったみたいです。
二葉さんが言っていたように、女性たちは零れたお米、地面に落ちたお米などを丁寧に拾い集め、それを薄い雑炊にもしていました。
そこへ登勢さんが、孝子さん達の帰還の報せを持って来ます。

戻って来た・・・竹子様が

喜びを顔に咲かせて、照姫様のところへ駆け付ける八重さんですが、そこで知らされたのは竹子さん討死の事実でした。
ちなみにこの婦女隊、城は敵に包囲されているのに、一体何処から入って来たのかと言いますと、大蔵さんの彼岸獅子が入って来た西出丸からです。
しかし前回の彼岸獅子入城の様子を見ていても分かる通り、西出丸付近にも敵兵がうじゃうじゃいます。
そんな中、大蔵さんのように奇策を用いるのでもなく、一体彼女たちがどうやってすんなり入って来たのかは、手元の資料を探ってみましたが、はっきりとしたことは判りませんでした。
ただ、西出丸付近に布陣していた敵軍は、大蔵さんら彼岸獅子に続いて、またもや失態を重ねてしまったのですね。

もののふの猛き心にくらぶれば・・・。あの歌の通り、雄々しく戦ったのだな

照姫様からそんなお言葉を頂戴した孝子さんは、竹子さんが城に戻ったら八重さんに鉄砲を教えて貰おうと言っていた、と八重さんに伝えます。
竹子さんの妹、優子さんは、このとき八重さんに「何故婦女隊に参加して戦わなかったのだ」と詰ったようですが、八重さんは「自分は鉄砲で戦うつもりでした(=戦う武器が違う)」と答えたようです。
最初はそんな八重さんのことをあまり良く思っていなかった優子さんですが、姉を殺した鉄砲の威力が分かっていたのでしょう、後に八重さんから鉄砲を教わっています。

一緒に生ぎて来た人だちが、ひとりひとり、いなぐなんな・・・
戦だから・・・。立ち止まってはいられねぇ・・・

ところが、悲しみに打ちひしがれる暇もなく、突然砲撃音が鳴り響きます。
あの方角は、と八重さんは外に飛び出して行き、スペンサー銃を持って大砲隊を指揮している尚之助さんのところへ駆け付けます。

今の砲撃は、小田山からだべか?
どうやら、桁違いの大砲がある
弾の音が、違いやした
上野の戦争で使われた、アームストロング砲でしょう

尚之助さんお察しの通り、この日佐賀藩多久兵がアームストロング砲を小田山山上に運び上げています。
佐賀藩が所有していたアームストロング砲は後装6ポンド砲で、砲弾は榴弾、射程距離は約3000メートル(資料によってまちまち)、小田山から鶴ヶ城までは十四丁(約1530m)なので、十分すぎる射程距離圏内です。
しかも、あちら側が高所という。
こちらからも撃ち返そうと八重さんは言いますが、こちらから撃った四斤砲があちらに届くか、難しい顔をする尚之助さんに、ならばと八重さんは火薬の量をぎりぎりまで増やしてみれば良いと言います。
弾の爆発力を上げて遠くまで飛ばそうという発想なのでしょうが、「砲身が持たない」という兵の突っ込み以前に、物理的に不可能な気がするのですが如何でしょうか(苦笑)。
いえ、詳しいことは専門外なので断言しかねますが・・・でもやっぱり不可能だと思うんですよね。
砲術を携わってる人間にしては、場違いというかあり得ない発言じゃないかと・・・まあこれはドラマなので良いですけど。
まあ実際可能か不可能かは別として、「やるか」という尚之助さんの指示のもと、硝薬十三匁増した弾が発射され、四斤砲を据えていた台は反動でひっくり返りますが、弾は無事に当たったようです。
そこへ権八さんが早足でやって来て、「一発撃ち込んだからには今度はここが的にされる」と言います。
大砲とはそう言う物でして、撃ったら向こう側の人間が、相手の大砲がどのくらい離れたところから、どの角度から撃って来て、果ては大砲の位置を特定するのです。
勿論、言葉で言うほど簡単なことではありませんが。
権八さんは、後は自分達に任せて八重さんには持ち場に戻るよう言います。

八重、北出丸で鉄砲隊を指揮したそうだな
はい
山本家の名に恥じぬ働きであったと聞く。よぐやった。小田山からの砲撃で城内は狼狽えでいる。皆が、恐れ怯えることのねぇように、にしが鎮めて参れ
んだげんじょ
それも、砲術の家の者の役目だ。早く行け!

今回のタイトルにある「自慢の娘」の「娘」は、照姫様と孝子さんのやり取りから竹子さんのことも含まれているのでしょうが、やっぱりメインの意味での「娘」は八重さんのことを指しているのだなと思いました。
思えば八重さんって、鉄砲に関して権八さんに褒められたのはこれが初めてなんですよね。
(まあこんなことが起きなかったら、一生褒められなかったでしょうが・・・そう考えると少し複雑です)
けれども、渋々持ち場へ戻って行く八重さんに「ここは危な過ぎんだ」と呟いているのを見ても分かるように、やっぱり愛娘が戦線に立つというのは心配だし、親としてはどうしても賛成出来ないんですよね。
脇道になりますが、今年の大河で一番名誉挽回した人物は、紛れもなく尚之助さんだなと個人的に思っております。
ほんの数年前までは、尚之助さんは「会津戦争中に会津から逃げた」と臆病者扱いされていましたし、「八重の桜」が始まるまではほとんど研究進んでいませんでした。
それが研究者さん達のお蔭で、会津戦争も藩士として戦ったという事実が明らかになり、またドラマでもそのように描かれていますから。

容保様と城内を視察していた大蔵さんから、城内に水を絶やさないように、と言われた登勢さんは、言われた通り女性たちと協力して水を張った桶を幾つも用意します。
その間にも城の上空には敵の砲弾が横切り、絶え間ない爆発音が響きます。
そんな時、ひとつの弾が容保様の目に届く距離に落ちて来ます。
咄嗟に大蔵さんと平馬さんが容保様を庇い、近くにいた女達が悲鳴を上げて狼狽する中、駆け込んできた八重さんが手近にあった布団に水をかけ、砲弾に多い被せて発火を防ぎます。
誰もが爆発するのではないかと、じっと八重さんを見つめますが、「消えだ・・・もう大丈夫。この弾は爆発しねぇから」と言う八重さんの言葉に、一同安堵の表情を浮かべます。

今、何をしたんだし?
火消だ

二葉さんの問い掛けに、八重さんはそう答えます。
まるで迷いのない一連の動作は、砲弾を熟知している砲術の家の娘だからこそ出来たのでしょうが、しかしいつ爆発するか分からない砲弾に、濡れ布団ごと覆い被さって行けるのは凄い胆力と度胸です。
しかもこれが史実なのですから、平馬さんが目を見開いて仰天するのも無理ないかと。
容保様に活躍を見られていたなど知らぬ八重さんは、女性陣に先程自分がやった火消の手順を説明します。
(ちなみに史実ですと、最初に消火活動を行って、容保様から酒の杯を下賜されたのは孝子さんだったと思います)

上がら来る弾は、しっかり目開げて見っと、落ぢる先の検討が付きやす。もし近ぐに落ちたら、濡れ布団でここをしっかり押さえ込んで消し止める。んだげんじょ、弾はいづ爆発すっか分かんねぇから、これは、命がけの仕事です
やりやす。お城を守るために、入城したんだし

けれどもくれぐれも無茶はするな、と八重さんのいう言葉の通り、事は「濡れ布団被せるくらいなら」という単純に見えて単純ではありませんでした。
実際火消に失敗して被弾して命を落とした人も少なくなく、「命がけの仕事」は誇張表現でもなんでもありません。
それでも、城内の女たちが消火活動に怯えることはなかったというのですから、女達の強さが伺えます。

そんな八重さんに、先ほどの一部始終を見ていた容保様からお召しの声がかかります。
容保様のいる黒鉄門の陣に八重さんが参上すると、「先程は、見事であった」と容保様直々に声を掛けられます。
え?と言う顔をする八重さんに、平馬さんが砲弾を消し止めたところを見ていたのだと言います。

いい度胸だ
私はただ、すぐには爆発しねぇことを、存じていただけにごぜいやす
その仕掛け、詳しく聞かせよ
不発弾をここに

そして運ばれて来た不発弾を前に、八重さんは澱みない説明を始めます。
八重さんの目の前にあるのは榴弾と実体弾(?)でしょうか。
形も片や球状、片や椎実型(ちなみにこの椎実型の砲弾の実物は、幕末霊山博物館などで実際に展示されており、実際に触れることが出来ます)。
八重さんいわく、このふたつは形は違えど仕組みは同じで、弾を爆発させるために、信管(起爆装置)を使っているのだとか。
球状の方の弾(榴弾)は、信管から火薬に火が移った時に爆発する仕組みになっているそうです。
榴弾は中に鉄片が仕込まれており、これが四方八方に飛び散って損傷を大きくするのです。
ですが、露わになっている信管を濡らすことで、先程八重さんがやったように、火薬に火が付く前に消し止めることが可能と。
今敵が多く撃っているのはその弾のようです。
八重さんの話に真剣に耳を傾けていた容保様は、そっと八重さんに近付いて、八重さんが覚馬さんと似ていると言います。
そんな容保様に、八重さんは一度自分はお殿様にお会いしたことがあると昔の出来事を話します。

お殿様が、お国入りなされた年の、追鳥狩の時にごぜいました。私は、不躾にも木に上って落ちやした。卑怯ではねぇ、武士らしいと仰って頂いた時の嬉しさは、忘れられません。いつか強ぐなって、お役に立ちだいと願っておりやした。会津のために働きてぇと、ご家老様に申し上げたこともごぜいます
頼母か
はい。今がその時ど
余計な話はせずとも良い。大殿、そろそろ軍議を
お殿様、ひとり、またひとりと友や仲間を亡くしますが、残った者たちで力を合わせ、会津を守るお役に立ちたいと存じます

八重さんの原点回帰ですよね。
最初は純粋に兄や父の扱う鉄砲というものに憧れていましたが、追鳥狩のあの一件から、
尚も言葉を続けようとする八重さんに、下がれと平馬さんは言いますが、それを遮るように容保様が口を開きます。

八重。女も子供も、皆我が家臣。この後も、共に力を尽くせよ

感激した八重さんは、少しの間を置いて、皆で出来ることがあると進言します。
何かと思えば、ゲーベル銃の銃弾を作ることでした。
敵が撃って来て、城内に落ちている銃弾を子供たちが拾い集め、それを大人が鋳鍋で溶かして弾型に入れて鋳造します。
更にその弾を、女達が八重さんの指導の下に、パトロンに仕上げて行きます。

火薬と鉛玉を合わせで、こうして巻いで、端を捩じればゲベール中のパトロンの出来上がりです
敵の弾がこっちの武器に変わんだなと思うど、胸が空くな
んだべ

そうやって生き生きと働く八重さんを遠目で見ていた権八さんが、佐久さんに言います。

一度も、認めてやんながった。女子が鉄砲の腕など磨いても、何一づ良いごどはねぇ。いつが、身を滅ぼす元になんべ。そう思ってた
はい
んだげんじょ、八重が鉄砲を学んだごどは、間違いではながったがもしんねぇ。闇の中でも、小さな穴が一づあけば、光が一筋差し込んで来る
その穴を開けんのが、八重の鉄砲かも、しんねぇな

権八さんが、初めて八重さんのことを素直に認めた瞬間でした(何となく旧約聖書創世記28章12節を彷彿させました)。
いえ、腕前自体は前々からとっくに認めていたのでしょうが、権八さん自身が仰ってたように、「女子が鉄砲の腕など磨いても、何一づ良いごどはねぇ」というのが、すっかり認めてしまうということに歯止めをかけていたのでしょう。
そういう微妙な親心を、わざわざ「自慢の娘」とあっさり安っぽくまとめてタイトルにしてしまうのも、如何なものかと思いますが・・・。
ともあれ、皮肉なことに、戦が起こって初めて輝いた八重さんの才能。
権八さんの複雑な気持ちはありましょうし、時代が彼女を求めただ何ても言いません。
でもこの会津戦争でスペンサー銃を片手に、会津のために戦うと言うのは、ある意味では「お殿様のお役に立ちたい」と幼き頃より願い続けて来た八重さんの想いの成就の場でもあったのです。
逆に、戦争が終われば八重さんの鉄砲の腕は、無用の産物と成り果てます。
所謂アイデンティティーの喪失でしょうか、そこから彼女がどう生きていくのか、そこを描いて行くのかが会津戦争後の明治編だと思います。

8月28日(1868年10月13日)、籠城5日目、小田山に据えられた大砲五門からの砲撃は止まず、どころか勢い付いて敵は日々兵力を増すばかりです。
薩長連合軍は城の東北から西北にかけて塁壁が築き、じりじりと会津を追い詰めていきます。

今の内に出撃し、囲みを破り、兵糧、火薬を運び込む道を開かねばなりませぬ
なじょしても、米沢藩と繋ぎを取らねば・・・

平馬さんはそう言いますが、この時点で平馬さんは米沢藩が変心していることを知っていたはずなのですが・・・(苦笑)。
ちなみに何故彼らがこんなにも米沢藩を頼みにするのかと言いますと、かつて米沢藩第三代藩主が嗣子の無いままに急死したとき、会津藩藩祖の保科正之さんが計らって、米沢藩が改易を免れたという、会津側からすれば「貸し」のような、米沢側からすれば「大恩」があるわけです。
軍議の結果、朱雀二番隊三番隊、別撰組、歩兵隊他、精鋭千人の指揮を官兵衛さんが執り、明日早朝前に奇襲をかけるということになります。
出撃する面々を見て頂いても薄々お分かりいただけるかと思いますが、この時点で残されてる会津のほぼ総力がここに投じられています。
その夜は兵士諸君それぞれ盃を交わし、「君と後会せむこといづれの処とか知らむ我が為に今朝一盃を尽せ」と白居易の『臨都驛送崔十八』を詠う者もおります。
官兵衛さんは別室にて容保様に刀を授けられ、「勝って、まめで、来る身を待つ」の出陣祝をされます。

この命は、捨てる覚悟で出陣致しまする。一度死んだ命で御座りまする故・・・。江戸で、人を斬り殺し、切腹申し付けられるところを、殿の情けにて、一命を救われました。それなのに、情けねぇ。力及ばず、殿を・・・会津を・・・お守り出来もせず、申し訳ごぜいません・・・
佐川官兵衛!そなたの力、恃みに思う
必ず、囲みを破り、米沢への道を開きまする。それが出来ねぇどきは、生きでは、城に戻らぬ覚悟

容保様から酒を注がれ、感無量でそれを乾す官兵衛さん。
ありがたき幸せと、無邪気に微笑むその顔は敵から「鬼の官兵衛」と呼ばれている人物とは思えません。
そのまま容保様の御前で酔い潰れて寝てしまった官兵衛さん。
誰も起こさなかったのかと不思議なのですが、兵が「皆支度を済ませ、佐川様の御出馬を待っております」と起こしに来たときにはもう卯の下刻(午前6時頃)。

しまった!寝過ごした!

跳ね起きる官兵衛さんですが、時既に遅し。
此方が奇襲するつもりが、指揮官寝坊遅刻のために出陣したのは辰の上刻(午前7時頃)、却って敵軍に待たれるという形となりました。
会津兵は皆遺書を懐に敵陣に突っ込みましたが、戦死者百人余りに及び、多くの将校を多数失うなど、会津は壊滅的な打撃を受けました。
尤も一方的な敗北であったわけではなく、この猛攻で長命寺付近を固めていた長州・備前らは苦戦、大垣藩は総崩れ、応援に駆け付けた土佐兵も大苦戦に陥ってます。
敵からも認められるほどの働きを官兵衛さんはここで見せたのですが、それだけに、奇襲が成功していればどんなにかと悔やまれてなりません。
ちなみに官兵衛さんは「城に戻らぬ覚悟」の言葉は守り通し、会津降伏の時まで城に戻るようなことはしませんでした。

慶応4年9月8日(1868年10月23日)、改元の詔が出され、「明治」となります。
遡って慶応4年1月1日から明治元年、としたようですが、実質的な意味では「明治元年1月1日~明治元年9月8日」は呼称のみ存在する暦となります。
実質的な意味で明治の暦が存在するのは、明治元年9月9日からですね。
またこれまでは、数年スパンで元号がころころ変わっていましたが、このときから一世一元の詔も併せて出され、天皇の在位中の改元は行わないものと定められました。
さて、その明治となった京都では、大垣屋さんから『管見』を手渡された岩倉さんが、覚馬さんを訪ねて来ます。
大垣屋さんと岩倉さんのラインを繋げるのには少し無理がある描写かなとも思いましたが(苦笑)。
あれはそもそも薩摩のお殿様に宛てたものだったと思いますので、中継地点は薩摩藩士の方がしっくり来るんですけどね。

これ書いた男に、会うてみとうなって来たんやが・・・この男、ほんまに会津の一藩士か?
へえ
三権分立、殖産興業、学校制度、新しい国の形が全部ここに書いてある

覚馬さんの書いた『管見』は、「政体」、「議事院」、「学校」、「変制」、「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、「女学」、「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国律」、「港制」、「救民」、「髪制」、「変佛法」、「商律」、「時法」、「暦法」、「官医」という二十二項目に亘って近代日本のグランドデザインを唱えています。
三権分立については、第一項「政体」のところで触れられています。

王政復古万機一途ニ出ルニ付テハ、普天率土忽風靡朝命ヲ不仰ハナシ、然ルニ皇国開闢以来綿々継統彼漢土ノ夏殷周其時代ニツレ法制損益アルトハ異ナル事ナレバ、我国体ヲ不異万世不易ノ準則ヲ立テ皇威赫然外国ト并立彼ノ侮リヲ受ケザルハ国民一致王室ヲ奉戴スルニアリ、政権ハ尽ク聖断ヲ待ツベキ筈ナレ共、サスレバ其弊習ナキニ非ズ、依テ臣下ニ権ヲ分ツヲ善トス、臣下ノ内議事者ハ事ヲ出スノ権ナク、事ヲ出ス者ハ背法者ヲ罪スルノ権ナク、其三ツノ中ニ権壱人ニ依ル事ナキヲ善トス、官爵ノ権、度重ノ権、神儒仏ノ権、議事院ノ吏長ヲ黜ル権是ハ専ラ王ニ帰スベキナリ。(青山霞村、昭和51年、山本覚馬傳、京都ライトハウス)

下線部をざっと訳すと、「臣下の内、議事を担当する者は政治に携わる権利がなく、政治を行う者は背法者を罰する権利がなく、その三つ(三権=立法・行政・司法)の中において権限が一人に依ってない状態が善い」と言うようなことが書いてあります。
ちなみに殖産興業については「商律」で
兵庫邂逅貿易スルニ付テハ我国産ヲ外国ヘ送リ、彼ノ国産ヲ我ヘ運ブ、若シ洋中ニ於テ破船スレバ船ノ価ハ五六万金位ナレ共殊ニヨリ産物ハ百万金ニモ及ブベシ。サスレバ商人ハ勿論小諸侯ニテモ家産ヲ失フニ至ラン。今世国家ノ事ニ於テハ兵ヲ商ト並立スル者ナルニ右ノ如ク不測ノ禍ニ逢ヒ商ヲ廃スニ至ラバ益々国ノ縮トナル。故ニ貿易ハ初ハ自分船ヲ製造シ別ニ船ノ請求負トイフ者ヲ立テ(船ヲ造リシ時船主ヨリ分割ヲ付如何程ニテモ敷金ヲ請負人ヘ渡シ航海ノ度毎ニ同様敷金ヲ渡シ船百艘アルトモ破船僅カ二三艘位ノ事ナレバ右鉦ヲ以テ是ヲ補ヒ又ハ年ヲ経船破損セバ新ニ作ルベク船主ハ壱度造ルノミニテ無窮ニ伝ハリ請負人モ相応ノ利益アリ両全トイフベシ)荷物請負トイフ者ヲ立テ(荷物ヲ金二百分ノ一ヲ航海ノ度毎ニ此請負人ヘ渡シ万一荷物覆没セバ百万金ニ二百万ニ償フベシ)又人ノ請負トイフ者ヲ立テ(航海ノ毎度分割ヲ付此請負人ヘ金ヲ渡シ若シ千人ニ一人三千人ニ一人死亡セバ父母妻子ヲモ撫育シ其子ノ成長迄養フベシ)総テ商社ヲ結ビ譬ヘバ五万両分限ノ者五人ニテ一万両宛出セバ五万金也。十人ナレバ十万金也。是ヲ合セテ商売スル也。商売ハ損得定リナキコトナレバ一人ニテ是ヲナシ、産破レバ回復シ難シ。右ノ如ク組合置ヨリ商社ノ法則ヲ立法ニ背ク者アレバ上ヨリ是ヲ罪スベシ。是迄ノ貿易ニテハ富メル者ハ手ヲ袖ニシテ貧賈戎猾商ナドノミスコトナレバ万一利益ヲ得ルトモ極意日本ノ縮トナル。段々商法ヲ立テタトヘ士ニテモ有志ノ者ニハ航海術ト通弁ヲ学バシメ、商売ヲナサシメバ国益々大ナルベシ。(上掲)

学校制度については「学校」で
我国ヲシテ外国ト并立文明ノ政事ニ至ラシムルハ方今ノ急務ナレバ、先ヅ人材ヲ教育スベシ、依テ京摂其外於津港学校ヲ設ケ、博覧強記ノ人ヲ置キ、無用ノ古書ヲ廃止シ、国家有用ノ書ヲ習慣セシムベシ、学種有四其一建国術性法国論表記経済学等モ亦其中ナリ、万国公法ノ如キハ其二修身成徳学其三訴訟聴断其四格物窮理其他海陸軍ニ付テノ学術ヲ教諭セシムベシ。(当時之ニ医学ヲ加ヘ五種トセリ)(上掲)

と触れられています。
もういちいち訳しませんので、その辺りは各自でお願いします。
しかしこれほどのものを何故覚馬さんが書けたのだろうかというのに、「山本様は、洋学所を開いて、西洋の学問を教えておいででした」という大垣屋さんの返事は少し曖昧すぎます。
教えるためのその知識を、じゃあ覚馬さんは何処から調達して来たのかがこれじゃあまるで分からないからです。
まあ、横井小楠や西周さんの存在をすっ飛ばして来たからそうなってしまうのも無理ないですが・・・。
するとそこで目を覚ました覚馬さんが、朦朧としたまま会津からの撤兵を懇願します。

会津を・・・助けて下され
仙台も米沢も降伏や。残るのは会津一藩だけ。行き着くとこまで行くしかない。奥羽全土を従えた時に、初めて、堂々たる新国家が生まれるのや

実は会津だけじゃなくて、庄内藩も残って頑張ってるんですけどね(苦笑)。
反乱分子を国内に抱えたままでは新国家の発進は出来ない、と言うことでしょう。
「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の覚馬さんの建白の声は、新政府上層部には届かなかったということですね。

長命寺の敗北から二十日近く経った9月14日(1868年10月29日)。
依然城内では食料や弾薬が底を尽いた苦しい籠城が続いていましたが、八重さんは子供たちを集めて凧揚げをしようと言います。

敵に見せづげでやんべ。城内は意気盛ん、凧揚げする余裕もあんのだど!

戦の最中とは思えない、楽しそうな場面ではありますが、当時八歳だった山川さんの家の咲さんが、「私たちにはまだ十分に余裕があると敵に思わせるため、一体何をしたと思いますか。女の子たちは祝日などによく遊ぶ凧を揚げるよう言われたのです。男の子も一緒に加わり、食料もすっかり底を尽き、飢えのためやむなく降伏するまで揚げ続けたのです」と後年手記に書いていることからも察せるように、実際は楽しくない、辛くて悲しい凧揚げだったと思います。
ところで、一気に歳月が9月14日まで早送りされたので触れられていませんでしたが、9月2日頃、美濃郡上藩から約五百里の道のりを経て、朝比奈茂吉さんら45人の凌霜隊が援軍として、鶴ヶ城に入城しました。
このとき凌霜隊が入ったのも、西出丸だったと思います(本当に西出丸付近の敵軍は何をしてたのだろうか・・・)。
凌霜隊は、全国で唯一、旧幕府兵を除いて会津に駆け付けた応援部隊です。
そんな経過を経たこの日、新政府軍による鶴ヶ城総攻撃が始まりました。
今まで砲撃は小田山からのみ行われていたのですが、この日からは下図のように、二方面からの攻撃が展開されたのです。

(追記:図を一部訂正致しました。ご指摘下さった方、ありがとうございます)
そして城内に飛んで来た砲弾を、八重さんに教えられた通りの方法で消火に当たった登勢さんは、一瞬成功したかに見えましたが安堵した瞬間に砲弾が爆発し、重傷を負います。
この登勢さんの最期については、来週に筆を見送らせて頂きます。
その来週は、いよいよ・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年7月9日火曜日

第27回「包囲網を突破せよ」

最早男子で言う元服状態な八重さんの斬髪。
「女の八重さん」の葬式という意味も少なからずあると思うので、まあ軽い演出されても困るのですが。
切った髪は、時尾さんが丁寧に懐紙に包んでくれました。
そこへ健次郎さんがやって来て、日新館が燃えていると八重さんに伝え、春英さんが怪我人を連れて現れます。
日新館は「(敵に)焼かれた」のかと問う八重さんでしたが、春英さんから返って来たのは「敵に奪われないように焼き払った」という答えでした。

動ける者のみここへ来た。動けぬ者たちは自害した

以前の記事で触れましたが、日新館に収容されていた負傷兵の内、自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の濠に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま後に起こった火災で焼かれました。
ドラマでは、日新館の火は「会津側の判断」とされていましたが、実際どうなのでしょうね。
確かに日新館があるのは城の西出丸のすぐ傍なので、敵に奪われたら厄介なのは確かでしょうが・・・遮蔽物無くすために城下にも火矢を射掛けてますし・・・。
はっきりとした真相は勉強不足なので断言致しかねますが、ともあれ「早ぐ、追っ払ってしまわねぇど」と八重さんは泣き出しそうな顔の時尾さんに見守られて、男に混じって勇ましく夜襲へと出掛けて行きました。

その頃、入城出来ずに郊外に逃れたユキさんとその家族は、農家に一夜の宿を求めていましたが、「とばっちり食うのは、ごめんだから!」と断られてしまいます。
薄情と思われるかもしれませんが、農民にとってはこの戦はお武家様階級の人たちが国に持ち込んで来たものでもあったのです。
しかもそのお武家様階級と御殿様は、長年京都守護職やら何やらで多大な出費をし、農民は重税と、それでなくても不作に喘いでいたので、こういった目を向けられてしまうのは、人間の感情としては当たり前の流れだというのも理解出来ます。
都で会津が孝明天皇の篤い信頼を受けてるだなんだと言っても、国許の彼らのお腹は膨れないのです。
彼らにとって大切なのは、そういうことではなくて日々の生活、明日の腹をどう満たしていくか。
尤も、そうなったのはこのとき追い返されたユキさんやその家族のせいではないのですが、武家階級に属している以上、彼女らも武家階級に向けられる目と同じ目を向けられる対象になります。
厳しい言い方をすれば、ユキさん達の受けたあの待遇は、会津藩が国許のことを省みずに京都守護職に固執し続けた結果とも言えるのではないでしょうか。
けれどもその一方で、冷遇ではなく藩士を匿ってくれた武家階級でない人が沢山いたのも事実。
会津戦争を見ていくには、八重さん達の活躍だけではなく、こういった「“土”の視線」(私の造語です)にも触れていくことも欠かせないと思います。

場面は戻って、夜襲に加わった八重さん。
しっかり当てろよと言われ、任せてくなんしょと頼もしい返事をしつつ物陰から狙撃、「一人も逃さぬ」と続けて三人撃ち殺します。
敵に撃ち返す暇すら与えません。
見るに、ドラマでは八重さんはスペンサー銃を夜襲で使用しているように思われましたが、実際彼女が夜襲で使用したのは旧式のゲーベル銃だったと八重さん自身が回想しています。
日暮前までの戦闘であれだけ撃ってて、しかも銃弾を100発しか持って行ってないので、そろそろスペンサー銃は弾切れになってるはずです。
それでもまあ、スペンサー銃は籠城する八重さんの象徴的アイコンみたいなものでしょうから、この先もずっと弾切れなど起こさずにドラマでは使用されていくのでしょうが(苦笑)。
顔面血だらけの敵の顔に至近距離で対峙して、「鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。人間の心の臓さ撃ち抜くっつうことだ」と幼き頃権八さんに言われた言葉が脳裏を過ぎる八重さん。
一瞬躊躇った八重さんの、眼前のその敵を、横槍を入れる形で仕留めたのが黒河内先生でした。
ここは引き受けたから行けという先生ですが、先生はとっくにご自宅でご自害なされてるはずなのですが・・・。
今年の大河は数日~一年くらい死期がずれてる人が多発してますね(苦笑)。
八重さんも、躊躇いはまだ含んでいるものの、再びスペンサー銃の引き金を引いて敵を仕留めます。
かねてより、幼い頃に権八さんのあの教えを受けた八重さんが、人を殺す覚悟と人を殺したという荷を背負う覚悟は一体いつ決めて来たのだろうかと思ってたのですが、これは目と目が合う距離に敵を捕らえて、初めてその実感(?)が追い付いて来たということになるのでしょうかね。

と言った次第で、始まりました第27回。
再びOPまでの前振りが最長記録を更新しました。
非常に申し訳ないことですが、今回分の録画が18分しか出来ておらず、18分以降の物語の展開についてはいつも以上に「触り程度」になっております。
よって、18分以降の台詞収集もほとんど出来ておりません、ご了承願います。

8月24日(1868年10月9日)、籠城二日目。

仕事は、兵糧炊きと、手負いの者の介抱。皆様、ご自分の役割は、よーぐ分かっておりやすね。弾が飛んで来ても怯まずに、持ち場を守らんしょ

籠城した女性たちを実質上纏めているのは艶さんです。
返事をする女性陣の中に、戦場に出ていたはずの八重さんの姿がありますが、実は八重さん、前線を外されて屋外に出ないようにさせられてしまっていたのです。
事の発端は、八重さんの勇ましい姿と活躍を聞いた城内の元服前の少年たちが、自分達も戦うと言い出したことにあります。
流石に八重さんも元服前の少年を戦場に出させるわけには行かず、そのことが自然と会津上層部に伝わり(つまり八重さんに中てられて少年たちが戦場に出る気になってしまっている)、これはいけないと、戦場から八重さんを遠ざけたのです。
具体的には、屋外に出ないように側女中格に昇格させられて、側女女中頭の大野瀬山さん、御側格表使の根津安尾さんの指揮下に組み込まれました。
そういう水面下の事情があって、八重さんは前線から外れているのです。
そんな女性たちの中で、何処となく元気の無い二葉さん。
家老の家の者が率先して働かないとどうするのだと艶さんからたしなめられますが、どうやら虎千代さんがお城に向かう途中で乳母と一緒に逸れたみたいです。

私、探しに行ってきやす
慎みなんしょ。お城には、お身内を亡くされた方も、大勢いらっしゃるんだ

そう言われて、しっかりしねぇと、自分は旦那様の妻何だから、と自分に言い聞かせて私情を押し殺す二葉さんが、気丈というよりも痛ましいです。
でもこういう時だからこそ、私を優先する思慮分別に欠けた行動は最も厭うべきものでもあるんですよね。
二葉さんは聡い方ですから、それがよく分かっておられる。
それでもやっぱり、母親としては気が気でないでしょう。

坂下に照姫様がいると聞いて向かった竹子さん達(後に娘子軍と呼ばれるこの集まりですが、このときは婦女隊と言ってました)ですが、誤報であると分かり、23日の夜は法界寺の板の間で宿を取りました。
翌朝早朝、婦女隊は近くの越後街道にいた萱野さんの陣所に赴き、従軍を懇願します。
ちなみにこのときの竹子さんは、青みがかった縮緬の御召し物だったと思うのですが・・・。
それに白羽二重の襷で袖をからげて、兵児帯に裾を括って、義経袴に脚絆に草履、腰には大小で手には薙刀と言ったスタイル、髪は斬髪だったと言いますが・・・ドラマでは髪は長いままでしたね(汗)。
ともあれ、 斬髪して男装して、というのは何だか八重さんの専売特許のようになってますが、大蔵さんの妹の操さんだって髪の毛切って鎧身に付けて鉄砲担いで城壁にへばりついましたし、竹子さん達婦女隊も男装してました。
会津の女性は基本、雄々しいですね。
竹子さん達の懇願を、しかし萱野さんは「ならぬ」と請け合いません。

戦場に、おなごを駆り出しては、会津は兵が尽きたのかと敵に笑われるわ

八重さんがどれだけ有能とわかってはいても、八重さんの戦闘力に頼りきれないのも、きっとそういった概念が会津上層部の何処かで引っ掛かってるからでしょう。
即ち、戦は男がするものという概念が、取れない染みのように付いてしまってるのです。
しかし誤報を信じて此処まで来てしまったことが悔やまれると婦女隊。
何としても敵陣を突破して、お城の照姫様の下に行きたいという彼女たちに、萱野さんも譲りません。
ならば、と竹子さん。

今日まで鍛錬してきた甲斐が御座いませぬ。ここで自害致します

皆様、と竹子さんの呼びかけを合図に、その場の全員が脇差を引き寄せます。
その覚悟を目の当たりにした萱野さんはとうとう折れ、明日婦女隊に共に出陣することを許します。
実際は萱野さん達とでなく、旧幕府の将である古屋作左衛門さん率いる衝鋒隊が明日到着する予定だから彼らと一緒に戦え、ということだったようですが。
その夜、竹子さんはお母さんと、出陣の前に妹の優子さんを殺していこうかという相談をします。
とびきり美人の優子さんが、もし敵に捕まって辱めを受けでもしたら・・・というのを案じてのことです。
しかし同じ婦女隊の仲間が、皆で助け合えばと竹子さんの意見に反論したので、この話は立ち消えました。

鶴ヶ城の一室では、顔ぶれの変わった重臣達による軍議が開かれていました。
コンパスで距離を測る尚之助さんは、小田山から城までの距離が僅か十四丁(約1530m)だと指摘し、そこから大砲を撃ちかけられては防ぎようがないと言います。
これに「小田山から城に撃って届くか?」と言う声が普通に出てきてしまう辺り、会津の大砲に対する認識の甘さが浮き出てしまっていると言いますか・・・。
ちなみに「敵はこの辺りの地形を知らぬ」という声もありましたが、斥候放って地形を視察するのは戦国時代以前からの戦の常套手段だと思いますし、きっと白河を落とした時のように伊地知さん辺りがあらゆる情報を集めてると思います。
いつか三郎さんが、小田山からは城が丸見え、と無邪気に言っていましたが、その城が丸見え=重要地点の小田山の防御を即刻固める必要が会津にはあるのですが、兵を動かせば却って敵を呼び寄せ小田山の重要性に気付かれてしまうかもしれないと、なかなか踏み切れない平馬さん。
尚之助さんは、そのリスクはあるが、そのリスクを敢えて受け入れてでも小田山は守り抜くべきだと考えているのでしょうが、口に出せず。

小田山を守るには兵の数が足りぬ!せめて、大蔵が戻れば・・・

取り敢えず平馬さんは、小田山の麓にある天寧寺の辺りだけでも押えようとします。
小田山に向かう敵があってもそこで食い止めればいいと言う彼の考えですが、本当に重要地点だと思ってるならここで兵力の出し惜しみなどしてる場合ではないと思います。
西郷さんが「考えが甘い」と言ったのも、白河の敗戦を身を以って知っているからでしょう。

小田山の地の利を敵が気付けば、白河の二の舞だぞ?
分かっておりやす。んだげんじょ、他に打つ手があっかし?兵も大砲も、何もかも足んねぇのです!
何もかんも、何もかんも足んねぇ!だげんじょ!会津を救う策は立てねばなんねぇ!
策があるなら、白河の戦で打って置くべきでした。指揮は頼母様が執っておられた

今ここに至って白河のことを言及してる時点で、重臣一同の心はばらばらです。
それに、恭順派である西郷さんの策を「打って置くべきでした」ではない状況にしてたのは他でもない、抗戦派の平馬さん達です。
なのでこのふたりの会話は、何かがおかしいというか、何かが噛み合ってない。
取り敢えず言えるのは、責任問題持ち出してごちゃごちゃ言ってる暇があるんだったら、会津救う現実的且つ建設的な策を一つでも考えましょうよとな。
これは視聴者という立場だからこそ言えてしまう、私個人の感想ですが。
そこへ官兵衛さんが、秋月さんと一緒に300人ほどの兵をかき集めて帰城し、早速その兵は平馬さんの指示で天寧寺に送り込まれることになります。

長らく会津を支えて来られた、土佐様も内蔵助様も、もうおられぬ。この先、会津は我らが率いねばなんねぇ!

毅然としてそう言う平馬さん、退室してとぼとぼと城の廊下を歩く西郷さん。
城中での西郷さんの孤立は、西郷さんが口を開けば開くほど悪化するばかりです。
藩上層部がそんな状態の中、城内には怪我人が次々に運ばれて来て、八重さんら女性陣がその看護と介抱に当たりますが、薬なんてほとんどありません。
出来ることと言えば、鉄砲傷なら弾を抜いて、後は傷口を洗って包帯を巻いて、ひたすら励ますくらいです。
そんな野戦病院化とした鶴ヶ城城内では、傷口を化膿させて悪化させる者、また死者も続出し、遺体の置き場に困って果ては井戸に投げ込むが、それでも追い付かないという状態になります。
八重さんは滝川口から運ばれて来た負傷から、子供達、つまり子供たち、白虎隊が戦場に出たのだということを伝えられ、悌次郎さんの身を案じました。
視聴者の皆様は既に悌次郎さんがどうなったのかご存知でしょうが、一日経った今でも城内には白虎隊自刃の報せは城に届いてなかったということですね。

8月25日(1868年10月10日)、内藤介右衛門さんらの隊が入城し、城内の守備が何とか体裁を整え始めたその一方で、新政府軍の援軍は、装式アームストロング砲やメリケンポートといった最新兵器を携えて、次々と会津に集結していました。
その早朝、城下にほど近い柳橋近くで、婦女隊は萱野さんの隊と共に(史実ですと古屋さんの隊と共に)陣を構えます。
柳橋は、通称「涙橋」と言って、こちらの名称の方が今でもよく知られているとか。
涙橋の由来は、この橋の北側の薬師堂河原は藩の刑場で、首を落とされる咎人が一度そこから城下を振り返ってこれが宿世の見納めと落涙するところにあるそうです。
ふと雪さんは、竹子さんの薙刀の先に、いつかの「もののふの」の歌の短冊がが結ばれているのに気付きます。

私は、旦那様のご無事を願う歌を書きやした。僅かの間に、何もかも変わってしまった
ええ。お城に戻ったら、八重さんに鉄砲を教えて貰いましょう
竹子様が?
やはり、鉄砲は強い

そうこうしてる内に、小競り合いが始まり婦女隊も出陣します。
彼女たちが立ち向かう敵軍の装備はスナイドル銃やスペンサー銃ですので、射撃の腕前はさて置き、装備だけなら八重さんレベルの軍団に立ち向かっているということになります。
果敢に薙刀を振るう竹子さんですが、銃弾に胸を撃ち抜かれ、落命します(撃たれたのは額とも)。
その後、竹子さんの首について。
ドラマでは、竹子さんのお母さん・孝子さんが首を掻き切ろうとして、しかし敵軍が迫っていたためやむを得なく竹子さんの首をそのままにして退却しておりました。
実際は、会津兵に周りを固められる中で優子さん(または孝子さん)が介錯を施し、鉢巻きに包んでその場から持ち去りました。
或いはまた別の説として、竹子さんと孝子さんが介錯しようとしたが、髪が襟足を覆っていて刃が通らず、一旦退却して再び竹子さんのところに戻るともうその首はなかった。
翌日、竹子さんの首は真徳寺を経て法界寺に運ばれ、事情を聞くと小野徳兵衛なる人物が敗走する途中で竹子さんの遺体に気付き、不憫に思って首を袖に包んで運んで来てくれたのだとか。
どちらにせよ、竹子さんの首は敵の手に渡るようなことはなく、今も法界寺にて彼女は眠っております。
竹子さんの実父・平内さんが亡くなったのは明治11年のことですが、彼は「花みればわがなでしこの面影も散りにし数に入あひのかね」と、尚も娘の死を信じきれない思いの籠った歌を残しています。
妹の優子さんと、弟の豊記さんは会津戦争後も生き抜き、優子さんは元会津藩士の蒲生誠一郎さんと結婚して八戸で水産業を営み、昭和6年(1831)まで生きています。
豊記さんは新潟県師範学校長などを歴任し、明治43年(1910)に没しています。
そういえば優子さんには誠一郎さんとの間に三人のお子様がおられたようですが、その血は今も何処かで続いているのでしょうかね。

一方、敵軍に捉えられた雪さんは、長命寺と思われる寺に縄を打たれていました。
脇差を求める雪さんに、脇差を差し出したのは土佐藩迅衝八番隊隊長の吉松速之助さんと言う方です。
長命寺は大垣藩の兵が駐屯していたのですが、25日早朝に会津からの奇襲を受け、奇襲自体は失敗に終わったのですが、それを警戒して迅衝隊が派遣されていたのです。
名を尋ねても口を固く閉ざす雪さんに、「三途の川を渡るときはちゃんと何処の誰か名乗れ」と脇差を手渡された雪さんは、その切先で首を切って自刃します。

その頃城方は、薩長連合軍に、小田山を奪取されます。
会津松平家を怨む蘆名氏系の極楽寺の和尚さんが、敵軍を導いたのです。
小田山には会津藩の火薬庫がふたつあったのですが、敵軍はこれを一つ占拠、もうひとつを爆破します。
加えてそこからの砲撃によって、鶴ヶ城の煙硝蔵が爆破され、会津はただでさえ少ない兵站の一部を失うことになります。
尚之助さんが何度も言ってましたが、小田山は鶴ヶ城を見下ろせる位置にあるので、大砲の弾は鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所がやられたそれのように、降るように撃ち込まれます。
会津側も反撃として、天神橋口の手前に唯一小田山を射程距離に納められる四斤砲を設置しますが、大砲の数が向こうと此方とでは違います。

殿、この上は開城の決断を

白河の敗戦で、集中砲撃を食らうことの恐ろしさを知っている西郷さんはそう進み出ますが、官兵衛さんには腰抜けと言われ、平馬さんには負けることばかり言い立てると冷たい目を向けられます。
容保様でさえ、西郷さんの進言を聞き入れません。

事ここに至っては、開城恭順の道などない。城内一丸となって戦い、城と命運を共にするのみ

飽く迄徹底抗戦を貫く容保様たちと、完全に孤立した恭順を唱える西郷さん。
どちらの気持ちもよく分かります。
朝敵の汚名を着せられて、黙っていられないのが容保様達の根底にはあるのでしょう。
でも、死んで、滅んで、それで正之公以来続いた会津松平家はどうなる?会津という国はどうなる?自分は「会津」を守りたいんだ!、というのが西郷さんにはある。
どちらも、全然間違ってないんですよね・・・だからこそ平行線を延々とたどり続けることになるわけですが。

その夜、城の見回りをしていた八重さんと出会った西郷さんは、鉄砲が命を奪う道具だという実感を得て僅かな迷いを見せる八重さんに、「人の生き死にを握るもので、少しも迷わねぇ者がいんだろうが」と言います。
敗戦の責任とって腹を斬るのも、戦で死ぬのも簡単だが、死んでいった一人一人の無念を背負って生きなければならないと、そう言うことでしょう。

強ぐなれ、八重。・・・背負った荷物の分だけ強ぐならねば、一足も前には進めぬぞ

何だかこの言葉は八重さんに言ってるのに、自分に対しても改めて言っているような気がしました。
前に言っていた「家老一同が腹切って事おさめる」と言っているのとは違うじゃないかとも思うかもしれませんが、多分西郷さんは「自分の命を捧げるならば、それは会津のため」であって、戦場で無為に散らして堪るかというものを抱いているのではないかと。
無念を背負って生きるけど、自分の命をどうしても使わなくなっちゃったときが来たら、自分はそれを差し出すよ、と。
上手くまとまりませんが、ここ最近の西郷さんの言ってることなどを自分なりにまとめて解釈すると、私はそんな結論に辿り着きました。

白虎士中二番隊の話が出ましたが、飯盛山で自刃した隊士らとはまた別に、滝沢村に出陣した白虎隊士の中には、飯盛山の麓を迂回して無事に城に戻った人もいます。
途中彼らは日光街道で、日光口から退却してきた大蔵さんに合流するのですが、その時大蔵さんに「死すべき時に死ねずにやってきたのか。情けない者どもめ。粥でも貰え」と言われたそうです・・・大蔵さん、手厳しい(苦笑)。
城に無事帰還した後も、彼らが夜襲に加わろうとすると、大蔵さんは「命惜しさに逃げていた奴らに何が出来る」と夜襲参戦を許さなかったとか。
普通だったらこの言われ様に激怒するのですが、隊士らは純粋だったのか、それとも建前で言ったのかは知りませんけど、この大蔵さんの厳しい言葉の数々を喝と捉えたようで、「自らが憎まれ役となって自分達に生きる気力を与えてくれた」と言っています。
その大蔵さんは、目下味方部隊を率いて、城への帰還を図っているところでした。
あちこちで敗戦続きのように思われる会津戦線ですが、大蔵さんが守っていた日光口だけは突破されていません。
でも大蔵さんがそこを一生懸命守ってる間に、本陣である鶴ヶ城が薩長連合軍に包囲寸前になってしまったという。
城から彼のところに帰還命令が届いたのは8月24日。
しかし24日に行われていた八重さんの戦闘を見てもお分かりなように、正面から突っ込んで入城すれば、辿り着く前に兵の半分を失います。
そこで「やってみっか」と大蔵さん。
さて、8月26日(1868年10月11日)。
峰ちゃんがうらさんのところへ、何やら嬉しそうに駆け寄って「彼岸獅子が来た」と言います。

なぁにを言ってんだ?彼岸獅子は、春来るもんだべ
んだげんじょ、お囃子が・・・

そのお囃子は八重さんのいる場所からも聞こえていて、何事かと八重さんが銃を構えて城壁の外を見遣ると、彼岸獅子を先頭にした隊列の馬上に、大蔵さんがいるのを認めます。

彼岸獅子を迎え入れよ!会津兵の入城だ!

官兵衛さんが命じる声に、城内にいる人々の顔がぱっと明るくなります。
これが、大蔵さんの「やってみっか」です。
とはいっても発案は大蔵さんではなく、城に入るために、水島弁治さんが彼岸獅子の行列に紛して入城するのは如何かと、大蔵さんに献策したのです。
それを採用した大蔵さんは、城下の手前にある小松村で協力を求めます。
敵中を行くわけですから、会津軍だと見破られれば即座に殺されるこの危険な作戦に、小松村の村長は「今こそ松平家の恩顧に報いる時」と承諾してくれ、画して高野茂吉さんを隊長とした彼岸獅子隊十人が結成されます。
隊長以外は全て少年たちでした。
ちなみにこの彼岸獅子隊は戦後、全員無事に村へと戻り、容保様は彼らの勇気を湛えて小松彼岸獅子に会津葵の使用を許しました。

まんまと敵の目を欺いたぞ

官兵衛さんがそう言いますが、何故大蔵さんたちはこんなにもあっさりと敵の目の前を通って来れたのでしょうか。
どよめきの中に「何処の藩ぜよ?」という声があったのが、その謎を解くさり気無いヒントになっています。
さり気無さすぎて、ちょっぴり演出的な意味で言葉足らずな部分もあったので、補足させて頂きます。
このとき城下にいた薩長連合軍は、薩摩・長州・土佐藩に加えて、大村藩や備前藩、肥前藩、大垣藩なども含まれた、所謂ごった煮状態でした。
お国言葉も違うし、習慣も違う。
戦場にいる兵士の服装だってばらばらです。
そもそもお互いの藩がどういったお国柄なのか、兵士らの殆どが知っていたはずもありません。
だから彼岸獅子がやって来ても、「あれは何処の藩の人間?」となり、そもそも敵か味方かすらも分からないのです。
水島さんの献策は、この心理を逆手に取った見事なものでした。
しかしこの奇策は、敵軍の目を欺くと同時に、会津側には「自分達は味方です」と分かってもらう必要があります。
例えばええじゃないか風に入城しようとしてても、会津側にも「誰?あれ」となって、お城の中に入れて貰えません。
上手に敵を欺いても、味方に疑われたら意味ないのです。
包囲軍その他大勢は知らないけれど、会津の人は誰でも知っている、そこで彼岸獅子なのです

大蔵さんの入城ルートですが、河原町口から米代一ノ丁を通って、西出丸から城に入りました(上図参照)。
そんなこんなで一兵も損なうことなく、且つ敵の眼前を通って入城を果たすという痛快なことを遣って退けて見事に入城を果たした大蔵さん。
後の「知恵山川」の片鱗ここに在りですね、「事実は小説よりも奇なり」を地で行ったのです。
登勢さんといきなり再会の抱擁してて、周りに「ひゅーひゅー」と言われてるとか、その後男装の麗人と化した初恋の人を、あたかも戦友とまみえたような笑顔で出迎えてるところとかは、ほんのり笑ってしまいましたが(笑)。
春に来る彼岸獅子と共に、さながら春の温かさを城内に運んで来たような大蔵さんですが、実際入城した時の城内の様子はもう狂乱状態だったみたいです。
泥酔して上役の悪口をいう老兵はいるわ、千両箱ぶちまける輩はいるわ、城門の合言葉忘れる兵はいるわ、婦女子は薙刀抱えて城内を駆け回ってるわ・・・で。
それはさておき、彼岸獅子入城は城内の人々の士気を大いに上げたのは事実でしょうが、一方で士気が上がったことにより、戦が延長したとも捉えられます。

城内が彼岸獅子で湧き上がってる同じ頃、西郷さんは再度容保様に恭順を願い出ます。
ですが容保様が返した言葉は、諾ではなく「別の役目」を申し付けるとのこと。

越後街道の萱野の下へ行き、その場に止まり戦えと伝えよ
殿は…っ、この、頼母に!会津を去れと、お命じなされますか!?

越後街道へ行けと言うのは建前、これは事実上の放逐です。
しかしこうしないと、孤立した西郷さんが城内で誰かに刺されかねないから、それを慮ってのことですね。
意見こそ平行線を辿っているこのふたりですが、容保様は西郷さんを喪いたくはないのですね。
ふたりとも、守りたいものが「会津」という意味では共通項だった。
でも、守り方と「会津」の捉え方が違った・・・のでしょうか。
しかし、容保様とは違う角度から会津を案じ続け、尚且つ血筋なら容保様よりも藩祖に近い西郷さんにとって、会津を守ることも出来なくなる場所に追いやられるというのは、身を引き裂かれるよりも苛酷な仕打ちだったと思います。
西郷さん自身が、幕末の会津の中で一体何を成し遂げられたのかについては評価が分かれるところですが、今はその評価はさて置いといて、西郷さんの失意と無念を思いやることに致します。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年7月4日木曜日

第26回「八重、決戦のとき」

慶応4年8月23日(1868年10月8日)、会津に冷たい雨が降ったこの日から始まりました、第26回。
午前4時頃、戸ノ口原を出発した新政府軍がいよいよ会津城下へと迫り、午前7時頃、城下に半鐘が鳴らされます。
敵軍がどれだけ強くても、城下に侵入するのは後二日、三日はかかる、と会津軍事局の判断が大いに誤りで、城下の人々のほとんどは朝食を取る暇もなく戸外に逃れました。
八重さん達や、山川一家のように半鐘が鳴らされたらすぐに飛び出して行けるように準備していた家もあるにはありましたが、そうでない家の方が多かったと思います。
逆に人数が多すぎて入城の機会を逸し、お城の北出丸のすぐ前に位置しながら、入城出来ずに全員が自刃して果てた内藤家のような家もあります。
ユキさんのおばば様は、「年寄りがお城に上がっては穀潰しになるだけ」と、城には入らないと言います。
後でまた触れますが、全員が全員、城に入れたわけじゃないのです。
ちなみに、八重さんが度々怪我人の手当の手伝いに通っていた日新館に収容されていた怪我人は、この突然の出来事に放置されたままになりました。
自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の濠に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま後に起こった火災で焼かれました。
会津上層部の危機管理能力の欠如は、何度もこのブログで触れていますが、この人災は完全に会津藩上層部の手落ちが招いたものなので、どうにも弁護出来ません。
歴史を知ってる結果論視点からそう言っているのではなくて、当事者視点からでも危険予測すればもっと出来たことあっただろうに・・・。
どうして籠城の決断が、殆ど首元近くに刃突きつけられてからなのかが本当に謎です。

容保様のおられる滝沢村まで敵の銃弾は迫り、容保様は城に戻ることになります。
その際、付き添っていた弟の定敬さんに、容保様は会津から離れるよう言い渡します。

何を仰せです。それがしも共に城に入って戦いまする
ならぬ!
お言葉従えませぬ
いや!・・・ならぬことはならぬ。わしは城と命運を共にする。そなたは連れて行けぬ、去れ
兄上!
行け!急ぐのだ!

そう言われ、定敬さんは必ず援軍を連れて戻って参ります、と言って会津から離脱します。
その後、米沢を恃んで行ったのですが、既にこのとき米沢は薩長連合軍側に付いているので恃みとならず。
米沢の次は先代を経て、果ては榎本さんや大鳥さん、土方さんらと共に北の大地まで転戦します。
援軍は連れて戻っては来れませんでしたが、最後の最後まで抗い続けたのですね。

さて、無事に鶴ヶ城に入ることの出来た山本家。
周りには白装束を纏った女性や、かと思えば煌びやかな衣装の女性もいます(山本家はいつも通りでしたが)。
前者は説明するまでもありませんが、後者は主君の傍に仕えるということで晴れ着を纏っていたのでしょう。
お城に男装して上がるのは不躾ではないか、と囁かれるのを気にも留めず、八重さんはすぐに戦場へ赴こうとします。

おっかぁま、私は行ぐ。私はここに・・・戦いに来だんだから
言葉が出ねえ。戦に出ていくおなごに、かける言葉なんて知らねぇもの
さすけねぇ。必ず無事で戻っから

佐久さんにしてみれば、この時点で覚馬さんの生存不明(ほぼ死んだものとして考えている)なので、八重さんまで戦死してしまたら、実子を全員喪うことになるんですよね。
八重さんの「必ず無事で戻る」は、自分がやられるわけないとかそういうものではなくて、そういう佐久さんを慮った一言だったのだろうなと思いました。
するとそこへ武装した侍女を伴った照姫様が現れ、控えた八重さんの姿に目を留めます。

八重か・・・
はい
勇ましい姿じゃな
これは、伏見の戦で亡ぐなった弟の形見にごぜいます。私は・・・弟の魂と共に戦う覚悟にごぜいます
弟と共に・・・。では、その鉄砲に、会津武士の魂を込めよ
はい

照姫様の励ましを受けた八重さんは、その後ろに控えていた時尾さんと目が合います。
時尾さんに何かあったら、いつでもお城に飛んでいく。鉄砲を担いで。
そんな会話を二人が交わしたのは4年前のこと。
それが現実となってしまったこの二人の心中、如何ばかりか。

さて、敵を掻き分けて鶴ヶ城に官兵衛さんの部隊が無事に帰着しました。
内蔵助さんは向町口、官兵衛さんは大町口に、それぞれ守りに付いて、滝沢から無事に容保様を城に戻すのだと意気込む二人に、平馬さんが待ったをかけます。

それでは、お城の守りが手薄になる!
鉄砲の撃てる者を掻き集めておげ!
年寄りと子供ばかりで、指揮を執る者がおりませぬ
敵は!外堀で打ち払う!
敵に城を囲まれては、いぐらも持たん!

しかし、と渋る平馬さん。
外の守りを固めるのも大事ですが、万一突破された時のことを考えると、本陣である城の守りが手薄なのはどう考えても拙いのです。
ですが大蔵さん達主力部隊はまだ国境付近から戻って来ておらず、兵力不足に人材不足は否めません。
このとき城にいた戦闘員らしい戦闘員は火縄銃を装備した玄武隊くらいで、後は平馬さんが言ったように女子供、そして年寄りばかりです。
そこに、「私がやりやす!」と名乗りを上げる人物が介入しました。

私が、鉄砲隊を指揮いたしやす!
八重殿
やらせてくなんしょ

しかし、内蔵助さんは女子の出る幕ではないと言い、官兵衛さんは女子に戦は出来ぬと、まるで八重さんに取り合おうとしません。
八重さんを無視してそのまま場を平馬さんに任せ、去ろうとする内蔵助さん達に、八重さんが声を張り上げます。

今この時に、そんな昔ながらの考えでなじょしますか!これは、男だけの戦いではねぇなし!都から傷だらけになって帰って来た皆様を見だ時から、帰って来なかった家族を待ち続けたあの時から、男も女子もねぇ!これは、会津全ての戦いだ!私を戦に加えっせ。私の腕はお役に立つ。それを使わねぇなら、戦いを放棄したと同じごど!私は、山本覚馬の妹です!鉄砲のごどなら誰にも負げねぇ。敵にお城は渡さぬ。仲間がやられんの、黙って見るつもりはねぇ!私達の、大事な故郷・・・会津は、この手で守る!

八重さんの言っていることは、半分は正しい。
難しいところかもしれませんが、確かにこの戦は「男だけの戦い」ではないのでしょうが、男性陣にとっては「女子供は巻き込めない」のです。
だってそれは、それは武士の面子に関わってくるから。
「今この時に、そんな昔ながらの考えで」と八重さんが一蹴出来るほど、武士の価値観は軽いものではないのです。
だから、八重さんは半分だけ正しいのです。
そんな八重さんに、「んだら、心行くまで励め」と内蔵助さんは肩を叩きます。
これは八重さんの言を受け入れたということなのでしょうが、 まあこれはドラマですから。
実際の八重さんは、やはり女と理由で戦場で持ち場を与えられるなんてことはなかったでしょう。
単独でスペンサー銃構えて、北出丸に自分でスペースを作って、そこから狙撃してたものかと思われます。
(北出丸での様子については、以前の記事で軽く触れておりますので、宜しければそちらでどうぞ)

一方、山本家に少し遅れてお城の前まで辿り着いたユキさんとその家族ですが、既に城に入る道には柵が立てられてしまっており、入ることが出来なくなっていました。
詰め掛けた人々がそれでも入ろうとしますが、門兵に押し返されます。
こんなところで押し問答している間に、後ろから襲われたら逃げ場はない。
しかし、眼前のお城には入れない。
そこでユキさんはお城に入ることを諦め、「こったらどごで死にたぐねぇ!」と別の場所へ避難することを選びます。
同じく、城に入れなかった女性に、竹子さん達もいました。
竹子さん達は城への道中に商家に立ち寄って握り飯を貰ったり、髪を断髪にしたりと、道草を食ってしまったから間に合わなかったのでしょう。
しかし彼女らは城に入れない場合を想定して、城下に集合場所を決めていました。
河原町東端の広場がそれだったのですが、ドラマでは諏訪神社になっていましたね。
薙刀隊の女性たちは、照姫様が城下北西にある坂下村に移られたと知るや、自分達もそこに行って照姫様の警護に当たろうと頷き合います。
その時、御堂から雪さんがふら付きながら出て来ます。
雪さんは実家の井上家にいたのですが、家族全員が円座して自刃しようとした時に、「お前は神保家の嫁だ。神保家に戻り、生死を共にすべし」と言われていました。
雪さんの尋常じゃない様子に、どうなされたのだと竹子さんが駆け寄ります。

境内で・・・何人も、自刃しておられます・・・。いっそ、私もお宮で・・・
死ぬのは、一人たりとも敵を倒してからになさいませ。修理様の仇、討たなくても良いのですか!

修理様の仇というのなら、寧ろ薩長ではなく慶喜さんのような気がするのですが、その辺りはどう伝わってたのでしょうね。
ともあれ、弱腰になる雪さんを空かさずぴしりと叱咤する竹子さん、物凄く凛々しいです。
さあ、と励まされ、雪さんは竹子さん達と同行することになります。
しかし視聴者の皆様は冒頭で見た通り、この時照姫様は城内におられました。
つまり竹子さん達が聞いたのは誤報だったのです。
ですが城下がこれだけ大混乱しているのですから、情報も錯綜しています。
そうして竹子さん達は、坂下へと向かうのでした。

心行くまで励め、と内蔵助さんに言われた八重さんではありますが、あれは八重さんが願い出た通りに鉄砲隊の指揮権が八重さんに委任されたというわけではなさそうです。
その証拠に、少年兵の射撃の訓練をしていた八重さんに向かって、通りかかった老兵が「勝手な事すんな」と言ってます。
けれども少年兵は、八重さんの指揮に従うことを決めている様子です。
まあ、鉄砲のことをよく知ってる人に従う方が良いって分かってるのでしょうね。
そこへ健次郎さんが駆け込んで来て、五ノ丁から敵が侵入したと報せます。
外堀の一角が破られたことを察した八重さんは、北出丸で敵を迎え撃つよう少年兵に指示を出します。

私は先に行ぐ。健次郎さんは、皆が支度出来たら北出丸に連れて来てくなんしょ
分かりやした
いいか、上手く出来ねえ子は、決して連れて来てはなんねえ

健次郎さんにそう指示し、八重さんはスペンサー銃を構えてひとり北出丸へ。
上手く出来ない子は連れて来るなというのは、戦場で上手く出来ない子のフォローまでしている余裕は誰にだってないからでしょう。
戦なのだから人が死ぬのは当たり前ですが、無駄に死なせたくないのですよ、八重さんは。

甲賀町口に、容保様が滝沢村から馬で戻られました。
これが午前9時前の話です。
容保様の入城がどれだけ際どいものであったかは、以前の記事で触れた通りです。
滝沢峠を下った薩長連合軍は全軍を二隊に分け、一隊は飯盛山から鶴ヶ城東南に、一隊は滝沢村から鶴ヶ城大手門方面に、それぞれ突撃しました。
この薩長連合軍が城下に到着したのが午前9時頃なので、ドラマにあったように、容保様は本当間一髪だったのです。
踏み止まろうとする容保様を、権八さんが半ば引き摺るようにして城の中へ連れて行き、代わりにそこは土佐さんが防ぎます。
これが土佐さんと容保様の、今生の別れとなりました。
ちなみに甲賀町口は城に入る公式の道で、会津城下には郭内と郭外を隔てる門が甲賀町口を含め十六ありました(東から天寧寺町口、徒町口、三日町口、六日町口、甲賀町口、馬場町口、大町口、桂林寺口、融通寺町口、河原町口、花畑口、南町口、外讃岐口、熊野口、小田垣口、宝積寺口)。
この内、この23日に突破されたのは天寧寺町口の郭門で、熊野口は敵を撃退、甲賀町口も敵軍に突破されましたが、撃退して後退させました。

その甲賀町口をずっと辿って行くと、眼前に現れるのが鶴ヶ城の北出丸です。
そうです、先ほど八重さんが敵を迎え撃つと言っていた、あの北出丸です。

さて、長い長い時間をかけて、物語は第1回冒頭のシーンに戻って来ました。
スペンサー銃をを手に砲弾の中を潜り抜ける八重さんは勇ましいことこの上ないですが、一説には八重さんは当初怯えていて、伯母の励ましを得て勇気を奮い立たせたという話もあります。
早速何発か命中させた八重さんは、弾込めを終えたは良いが砲弾の嵐の中でおどおどする少年兵に駆け寄って、

敵は、お城のすぐ外だ。旗の近くにいんのが侍大将だ。よーぐ狙えば、必ず当たる。合図したら、一斉に撃ぢなんしょ!

と言いますが、そのすぐ横で敵の砲弾が着弾し、爆発が起きます。
どよめく少年兵に、八重さんは優しく諭すように「さすけねぇ」と言います。

私が一緒だ。んだら、行くべ!

素晴らしいカリスマ性と統率力です、八重さん。
少年兵は八重さんの指示に従い、城壁の前に並んで狭間から一斉に射撃します。
八重さんの手が行き届かないところは、健次郎さんがフォローしていたりと、良いコンビですね。
鶴ヶ城の正面部分に当たる北出丸に、スペンサー銃を持った八重さんが居た影響力は、見過ごせるものではありません。
周りの少年兵の装備はゲーベル銃なので、彼らだけだと守備範囲は射程距離の200m程度しかないのですが、スペンサー銃がその場にいることによってこの範囲が一気に800mにまで伸びます(それでもスペンサー銃を北出丸で持ってるのは八重さんひとりなので、800m完全守備出来るわけじゃないですが)。
攻める新政府軍は城の近くの建物を遮蔽物にするしかなかったのですが、会津は鳥羽伏見の敗北の教訓として周辺の遮蔽物を排除すべく火矢を射かけて焼失させました(ちなみに道幅は約22m)。
つまり、遮蔽物を失った敵軍は隠れるところがない状態で、且つ遮蔽物のあった距離は火縄銃の射程距離内でしたので、火縄銃装備隊がまるで役立たずだったのかといえばそういうわけでもないのです。
きっとドラマの少年兵にあるように、頑張ってたと思いますよ。
何より、隠れるところがない状態で撃たれる薩長連合軍とは違って、八重さん達には城壁という身を隠すものがありますから、やはり城という要塞を攻略するのは一筋縄では行かないということですね。
多分その「一筋縄で行かない」ことが分かっていたからこそ、江戸城無血開城というのは大きかったんだと思います。
仮に江戸城相手に戦を仕掛けていたら、この「一筋縄でない」のに薩長連合軍は散々苦しめられたでしょうから。

激戦が繰り広げられている北出丸の、その目と鼻の先にあるのが西郷さんの邸では、千恵さんを始めとする女達が白装束に身を包んで円座していました。
次女の瀑布子さんが「手をとりて共に行きなば迷はじよ」と詠むと、下の句を長女の細布子さんが「いざたどらまし死出の山路」と継いでやります。
千恵さんの歌は、「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」。
何をしているのかは言わずもがな、辞世の句を詠んでいるのです。
全員分の辞世を認めた短冊を、人に預けて西郷さんに届けて貰おうという千恵さん。
細布子さんは、これから自分達がしようとしていることを、西郷さんが叱らないのかと問い掛けます。

お叱りにはならねえ。会津は、罪もないのに罰を受げ、無念を飲み込んで、敵に恭順した。それでもまだ足りなぐて、敵は、会津を滅ぼしに来た。そんな非道な力には、死んでも屈指ねえ!この事、命を捨てて示すのが、西郷家の役目だ

諭すように千恵さんに言われるまでもなく、全員がもう覚悟を決めている西郷家。
ただ、これから何が起こるのか幼くて理解出来ていない四女の常盤さんが、「これから何するんですか?」と無邪気に問い掛けます。

良い所に行くのですよ。皆で行く旅だ。何にも恐ろしい事は、ねえがらな

そう言って全員で手を合わせた後、ゆっくりと懐剣の鞘を払います。
これが有名な西郷家の自刃ですが、実際は千恵さんが、まず三女の田鶴子さんを刺し、驚いた四女の常盤さんを制して刺し、次に二歳になる季子さんを刺し、刃を返して自らを刺したというものです。
長女の細布子さんと二女の瀑布子さんは自らの手で逝ったのでしょうか、西郷さんの妹二人も自害し、西郷さんの実母の律子さんと祖母も隣室で自害、親族の小森駿馬の家族五人、西郷さんの再従弟夫婦、軍事奉行の町田伝八さんとその家族二人、浅野新次郎の際し二人、計21人が西郷邸で自刃しました。
午前11時くらいの出来事です。
流石にこれに忠実な形でドラマを作るのは壮絶極まりないことになってしまいますので、大河ドラマではこのような演出となったのでしょう。
先に触れた瀑布子さんや細布子さん、千恵さんの辞世の他にも、このとき自刃した女性の辞世は後世に伝わっています。
このことから考えられるのは、この自刃には目撃者がいた、或いは事前に辞世を詠んでいたということです。
西郷家の自刃については、後ほどまた触れたいと思います。

正午頃、薩長連合軍は大手門付近まで突破しました。
城に入ることを諦めたユキさんとその家族ですが、しかし城下は何処もかしこも敵だらけです。
物陰に身を顰めて辺りを窺っていると、敵兵(長州兵かな?)に見つかり、しかしそこに槍を構えた黒河内先生がやって来て、ユキさん達を逃がすべく奮闘します。
幕末最強剣豪と名高い黒河内先生ですが、実は刃を振るったのはこの23日に自刃する息子の介錯の時のただ1回だったという話があるので(先生はその後を追って自刃)、となるとこの救出劇はおかしいことにはなります。
ですが、これはこれで良いと思います。
「入城出来た女達(八重さん)」「城にいた女達(時尾さん)」「自刃を選んだ女達(千恵さん達)」「薙刀を手に戦うことを選んだ娘子隊(竹子さん)」とカテゴライズされる中に、「入城出来なくて城下をさ迷うことになった」というユキさんみたいな人も真実いたのですから、そこを描くための演出なら良いと思うんです。
ちなみにこのユキさん達のような数万の市民は先を争って城下の出口に殺到し、折り重なって倒れました。
そこを抜け出すと、折からの雨で川が増水しており、小舟で渡ろうとしましたが人を満載した小舟が次々に転覆し、溺れ死ぬという事態も発生していました。
避難勧告がもっと早い内から行われていれば、こんなことにはならなかったでしょう。
そういう意味で、ユキさんは戦火と同時に人災に巻き込まれた被害者でもあるのです。
この後ユキさんは無事に郊外に逃れ、門田町の肝煎、伝吉さんという方の家に世話になり、戦が終わるまでずっとそこに匿われていました。

再び、第1回の冒頭シーンに戻って来ました。
無事に入城を果たし、只管に「殿はご無事か!?」と連呼され、容保様の姿を見て涙ぐむ西郷さん。
しかし涙の再会を喜んでいる暇などなく、北出丸では板垣さん指揮する土佐兵と、八重さん率いる鉄砲隊の激戦が続いていました。
砂塵を巻き上げ大砲(四斤砲?)をずらりと並べ、砲撃の準備を指揮する板垣さんの右肩に、八重さんの弾が掠めます。
少年兵に「旗の近くにいんのが侍大将だ」と言ってましたが、軍団の誰を撃ったらより効果的なのか、彼女はちゃんと分かってるんですね。
引き付けが足りない距離で撃ち始める少年兵を制し、きびきびと指揮を執る八重さんの姿に、共に戦う老兵達も「女だてらにながながやりおる」と感心しきりです。
八重さんは自分の「出来る」を、行動を以って裏付けたのですね。
男社会で女が認められるための手段のひとつですが、言うほど簡単なことではありません。
ここから見えてくるのは、只々八重さんの「強さ」の部分ですね。

西郷家自刃には、複数の発見者がいました。
一番有名なのが、土佐兵のものです。
西郷邸が北出丸の真ん前に位置することは先程も触れた通りですが、この土佐兵は邸内に入って会津軍の反撃を避けようとしました。
念のため発砲し、人がいないことを確認して奥の部屋に入ると、そこには自刃した何人もの女たちが倒れていたのです。
その中に、まだか細く息をしている女性(細布子さん)がおり、人の気配を察して「敵かお味方か」と問い、土佐兵は咄嗟に味方と答え、すると懐剣で介錯を頼まれたので直ちにそれを施した、というのはあまりに有名な話です。
この土佐兵について、後年会津側で詮議を行ったところ、中島信行という男ではないかと実しやかに言われていましたが、当の中島さんは会津戦争には参戦していませんでした。
ならば別の中島という土佐兵かと、再び探したところ、中島茶太郎という人物がいたのですが、これも確証はなく、今に至るまでこの土佐兵が誰であったのかは謎に包まれています。
ドラマでは板垣さんでしたね。
ところで何故、西郷家は自刃の道を選んだのか。
作中では、230人余りの自刃を選んだ人々を、「新政府軍の没義道な侵攻への抗議」と捉えていました。
多くの家では確かにその意味も、そして「非戦闘員の身でありながら城の兵糧を食い潰すまい」「敵軍に捕まって恥辱の目に遭うよりは死を選ぶ」という考えも、共通項のようにあったでしょう。
ただ、西郷家にはそれとは別の背景事情が潜んでいるのではないかなと個人的には思っているので、少し触れさせて頂きます。
西郷さんは主戦派が数多く占める会津重臣の中で、少数派の恭順派でした。
主戦派から見れば、恭順派の西郷さんは「薩長に屈する軟弱者」に映ったはず。
その恭順派の西郷さんが、そもそも白河口総督に選ばれていたのがおかしな人選なのですが、白河口で大敗北を喫したため、ただでさえ少数派だった西郷さんの家中での立場は弱くなります。
白河での敗北の後、西郷さんが謹慎を申し渡されていたのは皆様の記憶にも新しいかと思います。
そんな中で起こった、会津城下での戦い。
何度も触れていますが、西郷邸は北出丸の真ん前ですので、すぐに行動すれば城に入れる距離です。
しかし千恵さんは入城を選ばなかった。
先程触れた共通項も勿論その理由だったでしょうが、西郷さんの置かれていた立場を考えるに、夫の面目を保つには自分は如何に振る舞うべきかと考えたのではないでしょうか。
恭順派の西郷の家族である自分達が入城して生き残るより、自分達という犠牲を出すことで夫の面目を立たせる。
・・・何だか上手くまとまらなくて申し訳ないですが、西郷家が自刃を選んだ理由に、夫である西郷さんの置かれていた立場も視野に入れて考えると、また別の面が見えてくるのではないかなと、私は思うのです。

戸ノ口原を退却した白虎隊は、城に帰ることを決意して滝沢峠に向かいましたが、そこは既に敵兵で溢れ返っていました。
そこで灌漑用水路である戸ノ口原堰洞穴(上図参照)を潜り、飯盛山へと向かいます。
食糧を探しに行った日向さんは戻っておらず、彼が何故戻らなかったのか、真相は明らかではありません。
敵軍が押し寄せて現場が混乱し、白虎隊と行き違いになってしまっていたことも考えられます。
また小隊頭や半隊頭が、いつどこで彼らとはぐれたのかも分かっていません。
意外に白虎隊のことは、分かっていない部分もまだ多いのです。
前日の夜から握り飯一個程の食事しか摂っていないため、空腹と、そして寒さに襲われながら、飯盛山に辿り着いた白虎隊が眼下に見た光景は、燃える鶴ヶ城。
しかしよく見れば燃えてるのは城ではなく、城下の邸だと分かります。
これは先程も触れた、遮蔽物を無くすために会津側が火矢で焼き払ったのと、薩長連合軍の砲撃によって焼けたものでしょう。
ともあれ城が無事なことを確認した白虎隊は、城に帰るための道の相談を始めます。
滝沢街道は敵でいっぱい、南から回り込むのもよし、討死覚悟で正面から行くのもよし。
しかし、討死だったら良いが、その前に敵に捕まったら・・・という意見が出ます。
敵に捕まれば恥も恥、というのは日新館で彼らは教え込まれてます。
ならば、生き恥を晒しては容保様に面目が立たないと、腹を斬ろうという結論に至ります。
誰もが容保様から下賜された袖印を握り締めました。
実際、どうするかの話し合いを、白虎隊は小一時間していたそうです。
「策の講ずべきなし、城に入るは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、捕虜となったら上は君に対し、面目あるや。下は祖先に対し何の申し訳やある。潔くここに自刃し、武士の本分を明にする」と、唯一の生き残りである飯沼貞吉さんはそう回想しています。
皆いいか、と言われ、誰も否と唱えない集団心理。
もしここに、日向さんなり、小隊頭や半隊頭といった大人がいれば、この集団心理には至らなかったでしょう。
そう考えると、寒さと空腹で精神力が限界まで削られた少年たちが、大人のいない内に早まってしまった決断とも取れなくないです。
負の要素が負の要素を招き、悲劇というべき結末に辿り着いてしまったわけです。
そうして皆、懐を寛がせ、城に向かって頭を下げた後に刀を抜いて腹を斬り、或いは喉を突きます。
敵の銃弾を受けて身体の自由が利かなかった隊士は、別の隊士が介錯をしてやりました。
腹に刃を突き立てている隊士と、首を掻き切る隊士がいましたが、自刃という意味ですぐに死ねるのは首です。
腹だと完全に事切れるまで、激痛に耐えねばなりません(首を落としてくれる介錯がいないので)。
白虎隊士中二番隊二十人の自刃は、午前11時頃の出来事でした。
唯一の生き残りである飯沼貞吉さんが、印出ハツさんに発見されたのは午後4時頃。
ハツさんが何をしに飯盛山に来たのかと言えば、ハツさんは会津藩士印出新蔵さんの奥さんですが、戦に出た我が子を捜していたのです。
そこでひとり、苦しそうに呻いている少年、貞吉さんを発見し、彼を背負って下山し、夜になってから塩川町の宿屋に運んで医者を呼び、手当てをしました。
こうして、仲間の白虎隊士中二番隊十九人が逝った中、貞吉さんはひとり生き残ってしまったのです。
しかし貞吉さんはそれがために裏切り者扱いされ、亡くなった後仲間達の眠る飯盛山への埋葬が長年許されず、共に眠ることが出来るようになったのは彼の死後二十四年後のことでした。

甲賀町口で敵の進攻を阻んでいた土佐さんですが、とうとう持ちこたえられなくなり、六日町で防戦していた内蔵助さんと共に、五ノ町にある土屋一庵さんの家に入ります。
「ご家老をお守りするのだ」と兵が叫んでいる一方で、土佐さん達は鎧を脱ぎ、疲れたように床に座り込みます。
その様子から、兵の言う「守る」とは、これから二人がしようとしていることの邪魔を誰にもさせるなということなのだと分かります。

甲賀町口も、破られたが・・・
そっぢもが
ああ。・・・切るが
ああ

そう言って二人は脇差を腰から抜きます。
土佐さんは、今から切ろうとしているこの腹を、京都守護職拝命時に家老一同で切っておけば会津はこんな道を辿らなかっただろうと言います。
わたくし個人の意見としましては、最悪の状況回避出来る最後のタイミングで言えば、世良さんが暗殺されて薩長連合軍との衝突が避けられない事態になったときに、家老衆が首を差し出していれば、いつかの長州がそうやって逃れられたように、逃れられたのではないかと思います。
ですが、彼らはタイミングを逸し続けた。
そして状況は今に至る。

もう良かんべ。俺は最後に・・・徳川のためでも、幕府のためでもなく、会津の戦をしたのだ。これ以上の・・・名誉なこどはねぇ
ああ。・・・我らは幸せ者だ。修理も、腹切っだ時は、きっど同じ思いだったべ
んだら、修理も、本望・・・だっだが

修理さんは会津のための戦をしたわけでは決してないけれど、容保様に向けられる怒りを一心に受け止めて、それを容保様に理解されながら、容保様のために死んで行けたという意味では確かに本望だったでしょう。
土佐さんは大蔵さんや官兵衛さん、平馬さんに会津を頼むと言いますが、貴方と内蔵助さんが同時に居なくなることで、高確率で割り食うことになる四番家老の権兵衛さんの心配をしてあげましょうよ、と今後の家老衆の顛末を知ってるだけに、ちらりとそんなことを考えてしまいました。
二人が脇差を抜くと、介錯の兵が傍に寄ってきます。

んだら、生まれ変わる時は、まだ、会津で

内蔵助さんの言葉に頷き合って、二人は互いに刺し違えるという最期を遂げます。
(場所については上図参考。ただし、もう少し上のエリアかも知れません)
土佐さん49歳、内蔵助さん52歳の生涯でした。

そしてまた、第1回の冒頭シーンに戻って来ました。
スペンサー銃を構え、少年兵を率いる八重さんが対峙しているのは、今度は板垣さん率いる土佐兵ではなく、大山さん率いる薩摩兵。
これは、北出丸からの反撃が激しく、選手交代を余儀なくされたからです。
ちなみにドラマでは違っていましたが、このとき大山さんが率いていたのはモルチール砲だったはずです。
そして何の奇縁か、実は大山さんが対峙しているこの鶴ヶ城にこそ、未来の彼のお嫁さんが籠城しているのです。
その辺りのことは、また明治に入ってから追々描かれていくでしょう。
ところで、八重さんは本人の回想の中で後年、「わたしの命中の程は判りません」と述べています。
しかし八重さんのスペンサー銃は、大山さんの右大腿部を見事撃ち抜きました。

薩摩の隊長仕留めだぞ!

健次郎さんがそう声を弾ませ、自然、少年兵の士気も上がります。
大山さんがこのとき右大腿部狙撃されたのは史実ですが、狙撃したのが八重さんだというのははっきり分かっていません。
ただ、彼がいた場所は火縄銃の射程距離圏外であったことから、狙撃手の武器の射程距離は広範囲だったと考えられます
そこで、彼を射程距離に納められるスペンサー銃を持っていたこと、彼が攻めて来ていた北出丸にいたこと、などから、条件の一致する八重さんが狙撃したのでは、と言われています。
ですが会津側で八重さん以外にも数人スペンサー銃を持っていた人がいるにはいるので(記憶曖昧ですが、3~4本あったんじゃないかな)、100パーセント八重さんが撃ちました、と断言するには決定打に欠けます。
でも資料の行間読んで事実像浮かび上がらせるのは、過去にあった女主人公大河のように捏造まみれにされるよりずっと良いと思います。

一旦北出丸を退いた八重さんは、少年兵に腹ごしらえをさせ、装備の確認を命じます。
ちなみに会津の兵糧は、玄米が二の丸倉庫に数百俵備蓄されているだけで、味噌も醤油も左程備蓄はなく、ただ、塩だけは充分にあったそうです。
そこへ、先に城へ入っていた尚之助さんが駆け寄って来ます。
今まで「戦士」の顔付きだった八重さんですが、尚之助さんを見ると、少しだけ表情が柔らかくなったような気がします
やはり来ましたね、という尚之助さんのその顔は、何と言いましょう・・・戦場に同志を迎え入れたような風で、妻に対するそれとはこの時代的にはずれているのでしょうが、これがこの夫婦ですからね(笑)。

四斤砲がまだ一本、城内に残っていました。壊れたところを直すのに手間取りましたが
あれで、薩摩の大砲隊を吹っ飛ばしてやんべ!
私はあの大砲を率いて大手門に回ります
出丸の外に出たら危ねえ
しかし、出丸の砲座に据えてもやられるばかりです。行ってきます

私はこの辺りのことは素人なので、憶測ですが、おそらく出丸の中からだと城壁が邪魔して満足に大砲が撃てないのでしょう。
だから、大砲を撃つためには出丸の外に出なければならない。
しかし先程まで北出丸で戦闘をしていた八重さんには、出丸の外に出ることがどれだけ危険か目の当たりにしています。
危険を顧みず行こうとする尚之助さんを見て、如何すれば良いと逡巡した八重さんは、とあることを思いつき、健次郎さん達に手伝って貰って、砲弾を避けながら大砲を運び、城壁に大砲で穴を空けてそこから大砲を撃ちこめば良いと提案します。
まるで覚馬さんを彷彿させるような無茶苦茶で強引ですが、合理的な発想。
流石は兄妹です、血は争えません。

その覚馬さんはといえば、獄舎から京の養生所に身柄を移され、高熱に魘されていました。
その傍らで覚馬さんの世話をしているのは時栄さんですが、時栄さんは見舞いに来ていた大垣屋さんに、絵の後ろに隠しておいた『管見』を差し出します。

これを、上の偉い御方に読んで貰えまへんやろか。先生が、心血を注いで書いたものです。お頼み申し上げます

会津の御用掛を務めた大垣屋さんは、手渡された『管見』に少し目を通して、命に代えてもお引き受けしますと覚馬さんに言います。
時栄さんだったら渡せる範囲が限られてきますから、大垣屋さんに『管見』が行くのは分かっていたことですが、今度は大垣屋さんがどうやって、いつ、誰にこれを渡すのか、今度はそちらが気になります。

四斤砲の場所の確保に成功した八重さんは、大砲を指揮する尚之助さんと呼吸を合わせ、鉄砲隊と共に反撃に出ます。
その八重さんに先程右大腿部を撃ち抜かれた大山さんは、抱えられるようにして本陣に引き返してきます。
この怪我が原因で大山さんは前線を退くことになり、実質彼が会津攻撃の戦線にいたのは二日くらいだったかと。

どういた?撃たれたがか?
面目なか。じゃっどん、あん城はすぐには落ちもはんぞ

先程も触れましたが、鶴ヶ城は一種の要塞ですから、如何に西洋の兵器を揃えた薩長連合軍といえども、簡単に落とせるものではないのです。

中は、年寄りと子供ばっかりのはずじゃどん・・・
一気に攻めるつもりやったけんど、包囲戦に持ち込んじゃろが

籠城されたら、包囲戦に切り替えるのは古今の定石ですね。

その夜、八重さんは時尾さんに髪の毛を切って貰います。
夜襲に志願したが、女子は連れて行けないと言われ、でも男装していて髪が短ければ、誰も自分を女子と思わないだろうということで。
「自分で脇差で切ろうとしましたが、なかなか切れず、高木盛之輔さんの姉ときをさんに切って貰いました。城中で婦人の断髪は私が初めてでした」。
後年、八重さんはこのときを振り返ってそう語ります。
しかし髪は女子の命なのに、と涙ぐむ時尾さんに、「私は、三郎だがら。長い髪は、もういらねぇ・・・」と言う八重さんの言葉を聞いて、嗚呼この瞬間、少なくとも八重さんの中では「女」が死んだのだな(というか八重さんが殺した)と思いました。
髪を切るのは、その介錯のようなもの。
では、このとき死んだ「女」の八重さんは一体いつ生き返るのか、そもそも生き返るのか、その辺りのことは、先の展開を待つことにしましょう。

この日の戦いで会津軍の戦死者は460人余、藩士家族の殉難者は230人余、一般庶民の犠牲数は不明ですが少なくないはずがありません。
焼失した家屋は1000戸。
私の時間感覚と歴史認証が間違ってなければ、この第26回はずっと8月23日一日の出来事をなぞっていたと思います。
幕末会津ドラマでの慶応4年8月23日(1868年10月8日)は、過去でいう戦国モノだと関ヶ原、源平モノだと壇ノ浦に匹敵するということですね。
しかし、会津戦争はこれがまだ初日なのです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年7月1日月曜日

そぞろ歩きからの視点

今日は何を書こうとしているのか判然としないままに書き始めています。
言うまでもないことですが、このブログを書いてるわたくしことみかんは、学者でもなければ研究者でも知識人でも専門家でもありません。
何の変哲もない、強いて云うなら人よりちょっと蜜柑の摂取量が多くて手の平が黄色い人間です。
その辺りのこともひっくるめ、ブログを開設するに至った経緯については、このブログの一番最初の記事で既に触れた通りです。
歴史に対しての愛はありますが、歴史学などという高尚なもの通じてもいなければ、鼻息で吹けば飛んでいくような薄っぺらい知識しか持ち合わせておりません。
ですが、まあこういうのほほんゆるゆる視点で大河ドラマ見てる人間もいるんだよ、ということで。(「大河逍遥」2013年1月7日記事)

これが飽く迄ここのスタンスです。
なので専門知識を求めにここに来られても、逆に専門知識を問われても、私としては白旗を揚げることしか出来ません。
何せ、私は「のほほんゆるゆる視点」ですから。
なので、ブログのタイトルには「逍遥」と付いております。
ですがひとつだけ、スタンスに加えて、自分が歴史に向き合うときのモットーだけは、いつなりとも忘れまいと心がけております。
私のモットーは言うまでもなく「歴史に絶対の正解なし」。
偏ってない史観で歴史を見つめて行きたいのです。
そもそも私が何故このモットーを持つようになったのかと言いますと、中学生だった頃に
「歴史上の人物は既に死んでしまっている人ばかりだから、後世の人に何を言われても言い返すことは出来ない。その彼らの、声に出せない反論を、弁護士のようにではないが、ひとつひとつ丁寧に拾い耳を傾けるのも、後世の人間の大切な役割ではないか」
というようなことを書いてある本に出会い、ご尤もだと思ったからです。
勿論私も人間ですから、人物に対しての好悪も存在します。
でも過度な贔屓は絶対にしない、状況を察して酌める部分は自分の可能な範囲で酌む、と決めています。
なので判官贔屓は大嫌いですし、「勝てば官軍」思想も大嫌いです。

さて、半年の前置きを経て、会津戦争の渦中に突入した「八重の桜」。
150年前から続いた、薩長史観に塗れた幕末史にメスを入れるのは凄く個人的に評価したいですし、会津の正当性が示されるのも非常に良いことだと思います。
でも、私はそれだけで終わって欲しくないなと思います。
会津側も会津側で、正統性と無念を声高に叫ぶのではなく、「幕末の会津の何が良くて何が駄目だったのか」を、改めて受け止める姿勢を持つのも大切ではないのかなと思います。
でなければ、何も進みません。
度々ブログの中でも触れていますが、何故会津がああなったのかの理由は、会津側にも多いにあると思います。
白虎隊の悲劇、娘子隊の悲劇・・・「悲劇」と名のつくものは、会津戦争の中には少なくないですが、でも彼らをその「悲劇」の結末に至らせた原因は何処にあったのか、辿って辿って、考えて欲しいと思います。
薩長を擁護している、というわけではありません。
でも会津にも落ち度はあった、そこから目を背けるのは宜しくない、と言いたいのです。
そして目を背けて欲しくないのは、薩長側の方々もです。
既に長州の方には、「八重の桜」は受け入れ難いというニュースも報じられました(該当記事)。
すぐに受け入れろというのは流石に無理でしょうが、せめて正面から向き合いましょうよと、この記事を読んで思ったのは私だけではないはずです。
薩長の方々にすれば、自分たちの地元の英雄が明治という時代を切り開き、今に続く近代日本への扉を開けたという憧れと敬意がない混じったようなものを抱いてる節があるのかもしれません。
しかしそのために何を犠牲にしたのか、何を踏み台にしたのか、振り返って欲しいです。

会津、あるいは薩長に所縁を持たない、播州人を先祖に持つ人間が随分偉そうに語ってますが、以上の文章は飽く迄「私はこう思う」ですので、一個の意見として受け止めて頂ければ幸いです。


平成二十五年文月朔日
 二十四歳最後の夜に筆を走らせて


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