2013年7月23日火曜日

第29回「鶴ヶ城開城」

明治元年9月15日(1868年10月30日)、新政府軍総攻撃から二日目。
兵糧の尽きかけた城では、補給路再開のために決死隊が結成され、権八さんもそれに参加することになります。
決死隊でなくても、砲撃の止んだ隙(夜間)に城下の我が家に行って、庭に埋めていた兵糧などを掘り返してくる人もいました。
けれども城下には新政府軍がうじゃうじゃいるので、命がけの行為でした。

八重、わしらが城門を出る時は、にしが鉄砲隊を指揮して守っでくれ
こった砲撃の中、打って出るのは無茶でごぜいます。作戦の変更を
誰かが行かねばなんねぇ
だけんじょ
砲撃が止むのが先か飢え死にするのが先か、どっちが先か分かんねぇ。このままでは、砲撃が納まった時に戦える人間がいなくなってしまう

そう言って出陣して行く権八さんから始まりました、第29回。
回数的に言えば、大河ドラマは全50回なので25回が折り返し地点になるのでしょうが、「八重の桜」に限っては今回が前半最後となるのは、タイトルの「鶴ヶ城開城」を見ても分かる通りです。

我が米沢藩は、新政府軍に降ったものの、会津と戦を交えるは忍びなく、戦況を鑑みれば松平肥後守に於いては最早・・・・・・降伏の道を、探るが最前
米沢は、会津に降伏せよと申すか
それだけならまだしも、いずれ新政府軍として、我が藩の攻撃に加わるものかと

公式に米沢藩が新政府軍に降伏したのは9月に入ってからですが、8月には非公式で既に米沢藩は降伏してました。
会津藩以外で最後の最後まで頑張ってたのは庄内藩くらいでして、庄内藩の降伏は会津降伏よりも後の明治元年9月26日(1868年11月10日)の話です。

敵は・・・雪が降る前に、戦を終わらせるつもりか・・・
兵糧が尽き掛けている故、決死隊を組み、調達に行っておりやす。精鋭の者どもなれば必ずや戻って参ります。冬まで持ちこたえれば、戦況は変わりやしょう。この総攻撃、敵方が会津の冬を恐れている証拠!
冬、か・・・

しかし軍議の場で、誰もが思っています、「冬まで城が持つわけがない」と。
ぼんやりと、自分達は既に負けたのだという自覚もあるでしょうし、降伏するか玉砕するかしかないというのも分かっているはずです。
それでも、誰もこの場で「降伏」の二文字を口に出すことが出来ないのは、自分達が散々否定して挙句城外追放にまで追いやった西郷さんのことがあるからでしょう。
西郷さんの唱えていた降伏を自分達が唱えてしまったら、西郷さんを城外追放した自分達の間違いを認めることになりますよね。

さて、総攻撃によって1日2000発以上は撃ち込まれたという新政府軍の砲撃の中、登勢さんが被弾し、命を落とします。
死者は城内の空井戸に葬られてましたが、登勢さんは大蔵さんの部下が遺体を鎧櫃に入れて懇ろに葬られました。
お二人の間には子はおらず、大蔵さんも後妻は迎えていなかったように記憶しています(訂正:大蔵さん、明治期に入って後妻を迎えているようです)。

八重さんに呼ばれて、大蔵さんは登勢さんの亡骸と対面することは叶いましたが、しかし布団越しとはいえ榴弾が体の真下で爆発したとは思えぬ仏さんの綺麗さは、ちょっとリアリティーに欠けるなと思いました(汗)。
あれではまるで、病で逝ったようです。
着替えさせたんじゃないの?という声も出て来そうですが、登勢さんの怪我は衣服を脱がせることなど到底出来ない重傷なレベルでした。
まず破片の被弾箇所は脛から腿にかけて、脇腹、右肩の三か所。
特に出血が酷かったのが脇腹で、右肩の箇所は破片が着物を体内に押し込んでしまっていて、着物を引き出すとそこからも大量出血しました。
なので、あんなに綺麗な状態でいられるわけがないのですが・・・まあドラマですからね。
立派な最期だったと誰もが登勢さんを悼む中、義姉が深手を負ったと聞いた健次郎さんもその場に駆け付けます。
が、そんな弟を、大蔵さんは厳しい表情で叱責します。

城外の出撃はどうなった!?
敵の、砲撃が激しく・・・敗走してまいり

と、健次郎さんの言葉の途中で容赦ない大蔵さんの平手打ちが飛びます。

何故討死しなかった!?なじょして帰って来た!?
申し訳ごぜいません!
女でさえ、命を落としてる!・・・腹を斬れ。今ここで腹を斬れ!

やめてくなんしょ、と止める八重さんの言葉も聞かず、弟を庭に放り投げてどっかと座り、腹を斬るように迫る大蔵さん。
長く続く絶対的に不利な籠城戦で、大蔵さんでさえ精神的に追い詰められてて冷静さを欠いている、と取れる場面ではありますが、実は実弟の健次郎さんに「腹を斬れ」とは言ってませんが、「何故死ぬつもりで戦わぬ!」と叱責したエピソードは史実として残っています。
これに不甲斐無さを感じた健次郎さんは、西出丸の塹壕で寝泊まりしたんだとか。
大蔵さんの沸点の低さを良く伝えている話ではあると思いますが、切腹を迫る分、ドラマの大蔵さんは史実をも凌駕する沸点の低さです。
意を決した健次郎さんが脇差を抜いて、切腹を試みようとすると、艶さんと二葉さんが駆け寄ってそれを押し止めます。

もう良い。もう十分だ!これ以上死ぬごどはねぇ!

正直、健次郎さんがここで腹を斬っても何も変わらないのですよ。
そしてこれを契機に、艶さんから飛び出たひと言は、城内の人ほとんどの心中の代弁を演出的に匂わせているようにも感じました。
登勢さんを喪ったばかりだから、健次郎さんまで喪うようなことはしたくない、というのが艶さんの本音ではありましょうが。
そしてそのやりとりを、少し離れた場所で見ていた容保様・・・籠城する側の精神が、もう限界に近いことを目の当たりにした瞬間だったのでしょうか。

その夜、八重さんは尚之助さんから、今日だけで少なくとも2000発は砲弾が撃ち込まれたと教えられます。

尚之助様・・・敵は、どんだけいんだべか?
分かりません。・・・ただ、降伏した諸藩も、先陣に加わって、向かって来ているはずです。大軍であることに、代わりはないようです

そう話している間にも、八重さん達の頭上を砲弾が飛び交います。
八重さんは何十発も砲撃を受けてもななお崩れない城を見て、「崩れねぇのが、不思議なくらいだなし」と明るく言います。
会津戦争でぼろぼろになった鶴ヶ城の写真は、皆様も見たことはあるでしょうが、私も初めてあれを見た時には「よく崩れなかったな」と思いました。
明治になって、あの写真は土産物か何かで売られるようになったのですが、八重さんも名刺サイズのそれを持っていたそうです。
今は努めて明るく「よく崩れないな」言ってる八重さんですが、後年はどんな気持ちで写真を眺めていたのでしょうね。

会津は、打たれ強い。私は、国とは、そこに住む人のことだと思っています。会津は・・・八重さん、あなたは強い
そんなら、尚之助様も、すっかり、会津のお国の人だ
んだなし

今まで標準語(というものはこの頃まだ存在しませんが、現代の私たちが分かり易いように敢えてこの表現を使います)だった尚之助さんの、最初で、そしておそらく最後の会津弁。
本当ささやかな場面ですし、時間にすれば僅かなシーンですし、会話のほのぼのに反してBGMは砲撃音だし・・・ですが、作中凄く好きな場面トップ3にランクインしました。
国が人を、ではなく、人が国を作ってるんですよね。
なので会津人が全滅すれば、会津と言う国もなくなってしまう。
逆に会津という藩がなくなってしまっても、八重さんのような人がいる限り、会津という国はいつまでもなくならないのです。

さて、密命を帯びた悌次郎さんが、途中まで八重さんに護衛されて城を発ちました。
残り25発しか弾がなかったはずのスペンサー銃が何故弾切れにならずいるのかという疑問はさて置き、この密命は降伏の使者ですね。
ドラマでは悌次郎さん単独でしたが、実際の使者はふたりでして、もうひとりは手代木直右衛門さん(京都見廻組の佐々木只三郎さんの実兄)でした。
使者は土佐藩陣所を目指したのですが、場所が分からなかったのでまず最初に米沢藩の陣に行って、そこから案内してもらって土佐藩の陣に行きました。
坂下で米沢藩と合流したのが17日、18日に森台村を経て19日にふたりは土佐藩陣所の米沢屋へと送り届けられました。
そこで会ったのは板垣さんの甥で、大軍監だった高屋佐兵衛さん。
悌次郎さん達は使者の証である振旗を携えていたとはいえ、命がけの敵中突破だったことに変わりありません。
何より土佐藩本陣へ辿り着くその道中、きっと新政府軍が会津城下で分捕って来た着物や刀や調度が売られてたでしょうから、屈辱の道のりだったでしょう。

9月17日(1868年11月1日)、新政府軍総攻撃開始から4日が経過したこの日、容保様は降伏を決意した心中を、照姫様に零します。
神前で、己の愚かさを責める容保様。

何もかも、戦で燃やしてしまった・・・。代々築き上げて来た会津の、誇りまでも汚した。己が許せぬ

愚かと言ってしまえば身も蓋もありません、容保様は愚直だったのです。
城下の盟、という言葉がありますが、それは武家にとって、これ以上ない屈辱的なことでした。
その屈辱と、朝敵逆賊の汚名を雪げないこと、それが会津の誇りを汚したと容保様はお考えのようですが、藩祖正之公が、徳川宗家を第一に考えるようにとの家訓を遺したまさにその通りに生きた結果が、現状に繋がっているともいえると思います。
徳川に従って従って、その結果天地がひっくり返ったときに徳川と一緒に逆賊にされて、その徳川の恨みを一心に抱く形となって、国を焼いた。
悲惨な顛末ではありますが、それは正之公の遺訓に何処までも忠実で、故に容保様がそれを汚したようには見えないのです。
自責の念に駆られる容保様に、照姫様はそっと言います。

・・・過日、凧揚げをする子供たちを見ました。戦の最中だと言うのに、目を輝かせる子供らの逞しさを、誇らしく思いました。また、会津の空に、子供らの凧が揚がるのを、見とう御座います
子供らか
ご立派なご決断と、存じ上げまする

視聴者はここで初めて、容保様が降伏の決断を下したことを悟ります。
照姫様の「また会津の空に子供らの凧が揚がる」と言う光景は、このまま頑なに籠城を続けていては決して見ることの出来ない、それこそ全員討死してしまってはもう来ない未来の話になりますもんね。
この容保様の苦渋の決断を、受け止めてくれた人が照姫様で良かったなと、心底思いました。
こう、容保様は大殿なので、藩内で自分より上の立場の人間っていないわけなのですが(強いて云うなら喜徳さん?)、照姫様は容保様の「姉」という、立場が上と言うわけではありませんが、容保様に敬われる立場にあるお方なのですよ。
その立場の人間から見て、自分の決断は如何なのか、という言葉が欲しかったんじゃないのかなと、個人的にこのシーンはそのように解釈しました。

恐ろしい砲弾も、時間の経過と共に慣れてしまうものなのか、爆音の中を平然と歩く時尾さんは、ふと城内に負傷した斎藤さんを発見します。
砲弾が恐ろしくないのかと尋ねた斎藤さんに、時尾さんが返したのは「ありがとなし」と、会津のために戦ってくれたことへの感謝の気持ちでした。

私は、春の会津が一番好きでごぜいやす。ゆーっくり春が来て、綺麗な桜が咲いて。・・・口惜しゅうごぜいやす

これは言外に、もう会津は春まで持たないという認識を時尾さんが持っていることになりますね。
ともあれ後にこのふたりは夫婦になるわけですが、春の会津に訪れることの出来る日を、密やかにお待ちしたいと思います。

その頃、決死隊に参加して城内に米を運び入れることに成功した権八さんですが、その任務の最中右胸に被弾します。
戸板に乗せられて運ばれて来た権八さんに駆け寄る山本家。
こんな状態になってもなお、「米を運んで来たぞ」というおとっつぁまの姿に、見ている此方側の涙腺も緩みます。

おなごが煤だらげで・・・。やっぱり、鉄砲を教えだのは間違いだ
おとっつぁま・・・
八重、にしは、わしの誇りだ・・・。皆を守れ・・・

権八さんはそれを最期の言葉に、微笑むように息を引き取ります。
「皆を守れ」というこの権八さんの最期の言葉(ちなみに皆は、山本家と解釈しております)は、この後戦が終わって、自身のアイデンティティーでもあった鉄砲の必要性を喪失することになった八重さんの行動指針みたいなのになります。
その展開は、明治編を待つことにしましょう。
権八さん、数えで60の人生でした。
厳格だけど時々おちゃめで・・・本当に良い「おとっつぁま」でした。

9月20日、新政府軍総攻撃開始から7日が経過したこの日、土佐藩に降伏を申し入れ、その返事を貰った悌次郎さんが、白旗を手に鶴ヶ城へ帰ってきます。
城方は悌次郎さん達の戻りが遅いので、新たに鈴木為輔さんと河村三介さんを使者に立ててます。
4人が鶴ヶ城に帰城したのは、この日の正午過ぎのことでした。
敵方からの砲撃がすっかり止んでおりますが、これは悌次郎さん達4人が土佐陣営から発った時点で砲撃中止が命じられたからです。
新政府軍の条件としては、「降参の字の書いた白旗を北出丸から出したら、それを合図に矢玉止めの令を出す」というのでしたが、降伏の使者が途中で被爆したら洒落になりませんのでね。
ですが、城方の一部以外は、悌次郎さん達が密命を帯びて降伏の使者として城を出たことを知らないわけですから、戻ってくるときに使者のアイコンである白旗が必要なのですね。
(味方に撃たれたら、それもまた洒落になりませんので)
翌日の21日、城内の女たちには照姫様から、降伏の内容が伝えられます。

此度、大殿が、重いご決断を下されました。会津は恭順し、城を空け渡します。大殿様と若殿様は、明日、開城降伏の式にお出ましになり、その後、謹慎所へ向かわれることとなりました
照姫様も、お立ち退きになられます

十五に満たない幼い者と、六十歳以上の者と、女は不問、藩士は猪苗代で謹慎という旨を時尾さんが伝え終えた時、啜り泣きだった女達が涙を零し始めます。
一方、藩士には容保様からその旨が伝えられました。

罪は、我が一身にあり。この上は、この一命をもって会津を、皆の行く末を守る。何があっても、生き延びよ!最後の君命じゃ、生きよ!!!

ところで、城内には降伏に憤怒のあまり自刃する藩士も数人いました。
描かれてはいませんが、容保様の最後の君命である「生きよ!」を守りたくても守れない人もいたんです。
そんな容保様を、末席から「間違っている」と言ったのは八重さんでした。
戦中に側女中格に昇格させられた八重さんが、女達とではなく当たり前のように藩士と此処にいるのはおかしな話なのですが、次に続く八重さんの台詞のためだと思えば、違和感なぞ何のその。

何があっても、お殿様には、生きて頂かねばなりませぬ!私は、何度考えても分がらねぇ。天子様のため、公方様のため尽くして来た会津が、なじょして逆賊と言われねばならねぇのが。会津の者なら皆知ってる!悔しくて堪んねぇ・・・。死んだ皆様は、会津の誇りを守るために、命を使っだのです。どうか、それを無駄にしねぇで下さい!本当は日本中に言いてぇ!会津は逆賊ではねぇ!だげんじょ、それを証明出来んのは、殿様しかいねぇのです。だがら、何があっても、生きて下せぇまし!

私の言いたいこと、全部八重さんが代弁してくれました。
以前の記事でも少し触れたことですが、汚名を雪ぐべく容保様が声を張り上げたわけではありませんが、孝明天皇のご宸翰を肌身放さず持ちながら、明治の世を生き抜きました。
そのご宸翰の存在が後世に伝えられ、紆余曲折を経て、巡りに巡って今に至るというわけです。
容保様があそこで首を差し出してしまってたのなら、「今」とは違う「今」が横たわっていたはずですし、その「今」が会津の汚名を雪がれたものとも限りません。
しかしながら、ここでひとつ見落としていることがあります。
もしかしたら藩士や家老の中には感付いた方もおられるでしょうが、八重さんは絶対に分かってませんね。
そうです、容保様の首を繋げるということは、他の誰かの首を差し出す必要が出てくるということです。
殿は我らが命に代えてでも守ります故」の大蔵さんの言葉に偽りはなかったのでしょうが・・・いえ、容保様の代わりとなるなら、藩士は喜んで首を差し出しますかね(ちなみに差し出すのは大蔵さんではありません)。

降伏の白旗を用意する必要があったのですが、城内にあった白い布はことごとく負傷者の包帯として使われていて底をついており、白地の布を集めるのもひと苦労だったそうです。
なので、あるだけの白い布を集めて継ぎ接ぎにしました。
ドラマでの白布が、一枚布ではないのがそのためです。
白旗には「降伏」の二文字を大書するよう言われていたのですが、二葉さんはその二文字が、辛くて書けない。
当たり前の心境だと思います。
二葉さんでなくても、あの場ではただひとりを除いては誰にも書けなかったでしょう、「降伏」なんて。
書けるとしたら照姫様くらいでして、その役目は上に立つ者の責務でもあったと思います。
だから誰もが「降伏」と書かれた白旗に痛ましい視線を投げかける中、照姫様は瞳を僅かも揺らさず、毅然としております。

明治元年9月22日(1868年11月6日)四つ刻(午前10時)、降参と書かれた白旗三本が、北追手門前に掲げられます。
開城降伏式の進行役を一任された悌次郎さんの采配で、北出丸の前にある西郷家跡とその隣の内藤家の間、甲賀町通りの一角に緋毛氈が敷かれ、幔幕が張り巡らされて式場が整えられます。
そこへ北追手門から、麻裃を纏って白足袋草履姿の容保様と喜徳さんを先頭に、平馬さんや内藤さん、大目付の清水佐右衛門さんに目付の野矢良助さんが列をなして現れ、降伏式へ臨みます。
その列を八重さんは面を上げて見ていましたし、立ち上がって容保様を見送ってる人もいましたが、本来ならば面を上げてはいけない状況です。
容保様は板垣さんと大山さんに、降伏謝罪の親書を渡します。
この親書の中で、「痛苦の情実察し入り賜りたく候」と、会津藩士たちについて敬語を使っている文があるのは有名です。
最後まで籠城戦に付き合ってくれた藩士達への、容保様からの思いやりを感じます。
ドラマでは登場していませんでしたが、容保様から降伏謝罪の書を受け取ったのは唯九十九さんと言う方で、その後書は中村半次郎さんに渡されました。
続いて平馬さんが九十九さんに、容保様と喜徳さんの助命嘆願所を出し、式はそれで終了となりました。
その後容保様は謹慎所の妙国寺へ向かわれ、供侍三十人余りがそれに付き添いました。
この式の最中に敷いていた緋毛氈は、会津藩士たちの間で一片ずつ切り分けられ、「泣血氈」と呼ばれ、この日の屈辱を忘れずに次なる一歩を踏み出せるようにという想いをこめて、配られたのでした。

その夜、八重さんは三の丸雑穀蔵に笄で、歌を一つ刻みます。

あすの夜は何国の誰かながむらむなれにし御城に残す月かげ

この馴れ親しんだ故郷の城の月影を、一体明日は何処の誰が眺めているのだろうかと、故郷を離れる立場になった八重さんの苦しくてやるせない心境が詠み込まれています。
そうして月を眺めている八重さんに、綺麗な月だと佐久さんが声を掛けて来ます。

明日から一体、どうするべな。何処に身を寄せんべな。城下は、ぜーんぶ、焼がれちまったな
おっかさま、私・・・
お前の考えでることは分かる。男に混じって、猪苗代の謹慎所に行ぐつもりだべ

しかし猪苗代に送られたら殺されるかもしれない。
娘の決意を察知していても、佐久さんは切なさをやり切れません。

これは、辞世の歌のつもりが?私は、お前まで亡くさねばなんねぇのが?
ごめんなんしょ
いぐら鉄砲が上手くても、立派な手柄立てでも、お前は・・・私の、たった一人のめごい娘だ

別れを惜しむ母娘の影を、尚之助さんが少し離れていたところで見ていました。
おそらくあの距離なので会話は聞こえていたでしょう、妻の決意を聞いて、夫の彼は一体何を思ったのでしょうか・・・。

新政府軍に鶴ヶ城が明け渡される9月23日(1868年11月7日)、二葉さん達は最後に城内を拭き清めます。
明け渡すのにどうして掃除する必要があるのかと、無邪気に問い掛けて来た妹に、二葉さんはこう返します。

咲、戦に負げても、誇りは失っちゃなんねぇ。綺麗に渡さねば、会津のおなごの恥だ

しかし開城された鶴ヶ城に踏み込んだ新政府軍は土足のまま城へ上がり、二葉さん達が清めた廊下を汚して行きます。
板垣さんは床が綺麗なことに気付き、自分達の足跡を見て呆然となります。
この僅かな時間の演出が、「会津の誇り」「会津の踏まれても屈しない気高さ」「そこに土足で踏み込んだ新政府軍」、という「会津戦争」というものの全てが凝縮されているなと思いました。

猪苗代へ行く藩士たちが集められたのは、三の丸操練場です。
米沢藩の好意で帯刀は許されていましたが、誰一人として抜く藩士がいなかったのは、何かしでかすと妙国寺に入った容保様の身に何が起こるか分からないからというのがあったからです。
余談ですが、容保様と共に照姫様も駕籠で妙国寺に行かれたのですが、その道中照姫様が大層見目麗しいと聞いた新政府軍の兵は、駕籠にワラワラ近付いて行って中を覗こうとするわ何だの、最低の振る舞いをしたみたいですね。
本当かどうかは知りませんが。
そして勝者ゆえの優越感か、会津藩士らに対しても礼を失した態度で接する新政府軍の兵達。
その中には、男に混じって「山本三郎」を自称する八重さんも混じっていましたが、誰もが遣る瀬無い思いを抱く中、不意に会津藩士の一人が玄如節を歌い出します。
それを皮切りに、新政府軍の兵士が止めるのも聞かずに、その場は玄如節の音頭に包まれます。
賑やかになった周りの様子に、八重さんはそっと強張らせていた表情を和らげました。

懐かしいな・・・。祝言の日。あんつぁまのくれた紅は、結局紅すぎて、付けて行くところがなかったがし

そこから、ほんの一瞬の間に、尚之助さんの頭の中で凄い速さで思考が巡ったはずです。
八重さんと佐久さんとの会話を聞いていた尚之助さんは、八重さんが「山本三郎」として猪苗代へ行くことを分かっていたでしょうし、それを止めようとはきっと思ってなかった。
でもこの瞬間、ふと祝言のことを八重さんから漏らされた時に、ああこの人は「山本三郎」ではなく、「山本八重」という自分の妻であり、女なのだと、思い出させられる。
ならば、猪苗代には連れて行けない。
しかし、実の母親の言葉ですら止められなかった八重さんを、何なら止められるのか。
・・・力技にはなりますが、第三者に介入して貰って引き剥がして貰うのが一番ですよね。

女だ!女が紛れているぞ!

と、八重さんが女であることを新政府軍(=第三者)に暴露したのは、そういう考えからかなと。
新政府軍は事情も何も知りませんから、「女だから」という理由だけで、尚之助さんが読んだ通り八重さんの猪苗代行きを阻止してくれます。
それは、「私は山本三郎」と思っている八重さんの気持ちを踏み躙った形にもなりますが、踏み躙ってでも尚之助さんは八重さんを猪苗代から先に待っているであろう苛酷な道に巻き込みたくなかったのでしょう(女は不問ですし)。
八重さんが女だと分かった新政府軍は、八重さんをその場からつまみ出そうとしますが、八重さんは一緒に行かせて欲しいと懇願します。
自分は薩長の兵を殺したというのは、逆上させるつもりで言ったのでしょうが、男の彼らからすれば女の八重さんに仲間を殺されたことは恥以外の何物でもないのです。
だから取り合って貰えません。
結局羽交い絞めにされた八重さんは、黙って自分の前から立ち去って行く尚之助さんの姿を見送ることしか出来ませんでした。
幼い頃から拠り所にしてきた鉄砲が、降伏と共に無意味と化し、尚之助さんには猪苗代行き同行を拒まれた八重さんは、女ばかりになった山本家を「皆を守れ」の言葉の通り、これから引っ張って行きます。
しかし、それで八重さんの喪失感は埋まりません。
その喪失感を埋めてくれるのが、襄さんであり、キリスト教との出会いなんだろうな、と私は思っています。

・・・そんじも空は、変わらねぇのが

満身創痍の鶴ヶ城天守を仰ぎ見ながら、八重さんはそう呟きます。

これで前半部分終了ですが、この先に話が続くからこその「八重の桜」だと思います。
会津観光史学、及びそれに没頭している皆様、会津を見る上で大切なのはここから先、会津戦争の先なのですよ。
そのための山本八重が主人公なのですよ。
なので、ここから先はつまらない、などと決して投げ出さないで欲しいと思います(じゃないと会津観光史学の観点で止まっちゃうので)。
マイナス地点のスタートラインにまで叩き落された会津の皆様が、八重さんが、どうやって明治を生きて行くのか、どうか最後の最後まで見ていてあげて下さい。
八重さんは再び桜を咲かせるんです!
・・・そう思うと見たくありません?

ではでは、此度はこのあたりで。


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