2013年7月28日日曜日

それでも明日を生きて行く

「会津観光史学」というのがあります。
以前からあった言葉ですが、「八重の桜」の放送開始を機に、以前よりも頻繁に耳にするようになった気がします。
一般認識としての浸透はまだまだだと思いますので、もしかしたら今この言葉を初めて耳にされた方もおられるやもしれません。
さて、その「会津観光史学」とは何ぞやと思われるかもしれませんが、これが一口には非常に説明しにくいものでして・・・。
ネットなどで調べて頂くと、もっと分かりやすく説明して下さってる方がいますが、私は「会津戦争で亡くなった人を讃美」「会津戦争で生き残った人を批判的に見る」、という概念だと、個人的にはそう理解しております。

今まで、会津戦争の女性と言えばまず間違いなく「中野竹子」でした(一般的な話をしています)。
「山本八重」なんて、ごく一部の人が口にするだけで、評価という点では乏しいものでした。
けれども「八重の桜」をご覧になった方はお分かりでしょうが、竹子さんも八重さんも、評価される点に大きな差があるようには思えません。
どちらも等しく評価を受けて良い女性であるのにも拘らず、どうして現実問題、「中野竹子」と「山本八重」の取り上げられ方には温度差があったのか。
あるいは飯盛山で自刃した「白虎隊士中二番隊」の悲劇性を取り上げ、会津に殉ずる形となった死を讃美する一方で、戦後もなお生き続けた人の大部分に素直な評価が与えられないのは何故でしょうか。
そこに、「会津観光史学」という歪んだものが絡んでいると私は思っております。
今現在「八重の桜」でも視聴者の皆様にお馴染みの面々、たとえば山本覚馬さん、秋月悌次郎さんや佐川官兵衛さん、梶原平馬さん達は、ここ最近になって再評価された方々です。
それは賊軍の汚名を着せられていた会津藩士だったからだとか、薩長史観のせいだとかではなく、ほかならぬ郷土の「会津観光史学」によって埋もれさせられていた部分も大いにあるのではないかと私は思っています。
つまり皆様、竹子さんや白虎隊と違って、会津戦争後も生きておられるのですよ。
「会津観光史学」が会津戦争に殉じた人々を讃美する傾向にあるのなら、「会津観光史学」の評価の時間軸は「会津降伏」より先に進まないことになります。

薩長史観に塗れた幕末史にメスを入れ、会津藩を描く、そのドラマの主人公が何故「山本八重」なのか。
この答えが、「会津戦争を描きたいからではない」からのひと言に尽きるというのは、私が何度も言っていることです。
会津戦争を描きたくて、女性主人公にしたいのなら、主人公は「中野竹子」で良い。
ですが、会津降伏を終点にせず、会津の人々が降伏のどん底から這い上がって、桜を咲かせる、それが今年の大河の大きな流れなのです。
会津戦争で亡くなった方には、それが出来ません。
生き残った方々でないと、それは出来ないことなのです。
そもそも生き残った以上、彼らは生きるしかないのです。
それをどうして現代人の、しかも他ならぬ郷土の人達が冷たい目で見てきたのか、正直私は理解に苦しみます。

今でこそ大河ドラマのお蔭で知名度も上がり、会津でも八重さんは大いに取り上げられています。
しかし会津の一部の方(つまり会津観光史学)は、戊辰戦争後に郷土を離れて京都で暮らした八重さん及び山本一家を、何処か「裏切者」視していました。
(そういう方々が、ちゃっかり「八重の桜」ブームに乗って八重さん賞賛したりしてるのは少々如何なものか(貴方たち今まで何を主張してきたんですかと言う意味で)と思わなくもないですが、今はそれを論じたい訳ではないので割愛)
別に八重さん達は、郷土を離れただけで会津を裏切ったわけでもなく、また会津の人々ともずっと深い繋がりがありました。
それは明治以降、八重さんのことを調べればすぐに分かることです。
「裏切者」視される理由は何処にもないのに、郷土から「裏切者」視されて来た「山本八重」と言う人物を主人公にすると言う点、「八重の桜」は会津観光史学に塗れた会津史にもメスを入れているように私は感じます。

・・・段々何が言いたいのか分からなくなってきましたが(私の筆が纏まらないのはいつものことですが)、今日から始まる明治編も楽しみですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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