2013年7月1日月曜日

そぞろ歩きからの視点

今日は何を書こうとしているのか判然としないままに書き始めています。
言うまでもないことですが、このブログを書いてるわたくしことみかんは、学者でもなければ研究者でも知識人でも専門家でもありません。
何の変哲もない、強いて云うなら人よりちょっと蜜柑の摂取量が多くて手の平が黄色い人間です。
その辺りのこともひっくるめ、ブログを開設するに至った経緯については、このブログの一番最初の記事で既に触れた通りです。
歴史に対しての愛はありますが、歴史学などという高尚なもの通じてもいなければ、鼻息で吹けば飛んでいくような薄っぺらい知識しか持ち合わせておりません。
ですが、まあこういうのほほんゆるゆる視点で大河ドラマ見てる人間もいるんだよ、ということで。(「大河逍遥」2013年1月7日記事)

これが飽く迄ここのスタンスです。
なので専門知識を求めにここに来られても、逆に専門知識を問われても、私としては白旗を揚げることしか出来ません。
何せ、私は「のほほんゆるゆる視点」ですから。
なので、ブログのタイトルには「逍遥」と付いております。
ですがひとつだけ、スタンスに加えて、自分が歴史に向き合うときのモットーだけは、いつなりとも忘れまいと心がけております。
私のモットーは言うまでもなく「歴史に絶対の正解なし」。
偏ってない史観で歴史を見つめて行きたいのです。
そもそも私が何故このモットーを持つようになったのかと言いますと、中学生だった頃に
「歴史上の人物は既に死んでしまっている人ばかりだから、後世の人に何を言われても言い返すことは出来ない。その彼らの、声に出せない反論を、弁護士のようにではないが、ひとつひとつ丁寧に拾い耳を傾けるのも、後世の人間の大切な役割ではないか」
というようなことを書いてある本に出会い、ご尤もだと思ったからです。
勿論私も人間ですから、人物に対しての好悪も存在します。
でも過度な贔屓は絶対にしない、状況を察して酌める部分は自分の可能な範囲で酌む、と決めています。
なので判官贔屓は大嫌いですし、「勝てば官軍」思想も大嫌いです。

さて、半年の前置きを経て、会津戦争の渦中に突入した「八重の桜」。
150年前から続いた、薩長史観に塗れた幕末史にメスを入れるのは凄く個人的に評価したいですし、会津の正当性が示されるのも非常に良いことだと思います。
でも、私はそれだけで終わって欲しくないなと思います。
会津側も会津側で、正統性と無念を声高に叫ぶのではなく、「幕末の会津の何が良くて何が駄目だったのか」を、改めて受け止める姿勢を持つのも大切ではないのかなと思います。
でなければ、何も進みません。
度々ブログの中でも触れていますが、何故会津がああなったのかの理由は、会津側にも多いにあると思います。
白虎隊の悲劇、娘子隊の悲劇・・・「悲劇」と名のつくものは、会津戦争の中には少なくないですが、でも彼らをその「悲劇」の結末に至らせた原因は何処にあったのか、辿って辿って、考えて欲しいと思います。
薩長を擁護している、というわけではありません。
でも会津にも落ち度はあった、そこから目を背けるのは宜しくない、と言いたいのです。
そして目を背けて欲しくないのは、薩長側の方々もです。
既に長州の方には、「八重の桜」は受け入れ難いというニュースも報じられました(該当記事)。
すぐに受け入れろというのは流石に無理でしょうが、せめて正面から向き合いましょうよと、この記事を読んで思ったのは私だけではないはずです。
薩長の方々にすれば、自分たちの地元の英雄が明治という時代を切り開き、今に続く近代日本への扉を開けたという憧れと敬意がない混じったようなものを抱いてる節があるのかもしれません。
しかしそのために何を犠牲にしたのか、何を踏み台にしたのか、振り返って欲しいです。

会津、あるいは薩長に所縁を持たない、播州人を先祖に持つ人間が随分偉そうに語ってますが、以上の文章は飽く迄「私はこう思う」ですので、一個の意見として受け止めて頂ければ幸いです。


平成二十五年文月朔日
 二十四歳最後の夜に筆を走らせて


ではでは、此度はこのあたりで。


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