2013年6月26日水曜日

第25回「白虎隊出陣」

慶応4年6月、奥州街道に兵を進めた薩長連合軍は白河を攻略、続く7月には二本松藩を制し、敗戦を重ねる奥羽越列藩同盟は崩壊寸前にまで追い込まれていました。
そして将棋の駒をひとつずつ進めるように、刻一刻と会津に王手の手が迫って来ます。
その王手に向けて慶応4年8月19日(1868年10月4日)、二本松城に入った板垣さん、大山さん、伊地知さんの三人は会津を何処の峠から攻めるかの軍議を開きます。
彼らが気にしているのは、もう間もなくやって来る冬のこと。
既に触れましたように、この時点で今の暦ですと既に10月です。
冬が来たら、西国ならさて置き、会津周辺奥羽諸国は寒さが厳しいし雪が降って行く手を阻むし・・・と、攻める方からすれば厄介なことこの上ないのです。
なので薩長連合軍からすれば、雪が降る前に決着をつけてしまいたいのですね。
しかしながら、ドラマでは触れられていませんでしたが、会津を攻める軍隊の中で、長州があまり積極的に出て来ていないのにお気付きでしょうか?
二本松の城下での戦闘で少し出てきた程度で、どちらかといえば会津を攻めているメインは伊地知さん・大山さん達薩摩と、板垣さんの土佐という印象が強いと思います。
長州の影が薄い理由として、ドラマではざっくり省かれた北越方面の情勢が関わってきます。
そちらを語り出すとまた長くなってしまうのですが、要は越後から会津に攻め入る筈の長州の奇兵隊は、長岡で大苦戦を強いられ、会津へ侵攻する目途が立っていなかったのです。
また、越後口参謀の黒田清隆さん(薩摩藩)と山縣有朋さん(長州藩)のふたりが反目しがちで、足並みが揃ってないのも北越で時間を食う原因だったかと思われます。
そういうわけで、会津攻めは主に薩摩と土佐の二藩が主力となって行われるという状況になっていたのです。
板垣さんからすれば、土佐藩が手柄を上げる好機なのでそれとしては問題なかったと思うのですが、板垣さんも伊地知さんと相性がいまいちだったようで・・・(苦笑)。
ドラマでは「この峠から攻めもうせば」と大山さんが中山口辺りを指して言っていましたが、実際はここで板垣さんと伊地知さんとで意見が割れたそうです。
板垣さんは中山峠を越えた正面攻撃を主張していたのですが、伊地知さんは最難関でもあった石筵からと主張しました。
しかし伊地知さんには、白河城を攻め落とした時と同様、現地の情報をしっかり集め、且つ彼にはそれによって白河城を落とした実績があるのですから、板垣さんはこれに主張を譲らざるを得なくなります。
さて、ここで伊地知さんが集めた情報とは一体何だったのか、ということになりますが、会津軍はしばしば郡山を襲って放火し、周辺の民から怨まれていました。
会津が何で放火していたのかというと、敵の野営地を奪うためです。
伊地知さんはこれを利用することにしたのです。
石筵村の農民たちは、名主を先頭に積極的に薩長連合軍の教導に当たりました。
後に明治政府から、恩賞として金五十両が下されています。
石筵村は母成峠のすぐ麓の村ですから、薩長は母成峠を越えて会津へと攻め入ってくるのです。
会津側としては、敵の野営地にしないために焼き払ったのに、それが完全に裏目に出てしまったのですね。
後述します母成峠の戦いに、こうした流れで繋がって行きます。
ともあれ薩長連合軍は、中山口を攻撃すると言い触らして陽動部隊を送り込んで会津を欺き、主力2000人は母成峠に向かった、ということです。
攻撃日は8月21日(1868年10月6日)と決められました。

戦の足音が迫る山本家では、権八さんが皆を集めて、言います。

皆も知っての通り、二本松が落ちた
仙台藩も、米沢藩も、早々に奥州街道から兵を退き始めています
事によれば、ご城下での戦になるかもしんねぇ。何があっても、殿ど御家を第一に考えで動けば、会津の人間として道を誤るこどはねぇ。見苦しい真似は、決してすんな

これに、誰よりも先にみねちゃんが返事をするのが何とも・・・。
ちなみに尚之助さんが言っていた仙台藩と米沢藩の動向について、仙台藩についてはちょっと勉強不足なので何とも言えないのですが、米沢藩が薩長連合軍に正式に恭順するのは24日(1868年10月9日)です。
ですがそれより前の時点で、既に薩長連合軍は米沢藩に降伏を求める動きも活発にありました。
そう言う周囲の状況を鑑みると、薩長連合軍は米沢藩が動かないと見て(しかもほぼ確信に近い形で)、会津に攻め入ったのだろうなと。
憶測はさて置き、権八さんの言葉を黙って聞いている八重さんのとある表情に気付く、佐久さんと尚之助さん。
一体あの表情の下に何を押し込んでいたのか・・・というのは、後半部分で明らかになります。
家族への言い渡しが終わった尚之助さんと権八さんは、城からのお召しに備えて余分なものは埋めようとします。
そんな作業中、視聴者にも見覚えのある懐かしいものが出て来ました。

それは?
ああ、・・・八重のだ

第2回の時に出て来た、幼き八重さんが描いた銃の絵。
権八さんはそっとそれを懐に入れます。
その絵を描いた八重ちゃんは、成長した今、仏壇に手を合わせ、弟遺品の軍服を手に何を思うのか。
というわけで、前振りが随分と長くなりましたが、始まりました第25回。
オープニングまでの前置きが3分は、「八重の桜」史上最長でしたね。

黒河内先生は足と目のお加減が宜しく無いようで、こんな時に情けないと嘆きます。
実際この頃、黒河内先生は眼病を患っておられます。
後に幕末最強の剣豪とまで言われたお方ですから、有事に自分が満足に動けないことは、さぞや居た堪れなかったでしょう。
そして道場では、竹子さんたちが凄い気合で長刀を稽古に励んでおり、おなご達で薙刀隊を作ることにしたのだと八重さんに言います。

私たちが盾となって、照姫様をお守しましょう

八重さんがいれば心強いと周りのおなごたちからも言われますが、八重さんは「わだすは・・・ご一緒出来ねぇがら」と、薙刀隊への参加を断ります。
戦う気がないのかと、そんな八重さんを非難するおなごもいましたが、「八重様には、別の考えがおありなのでしょう」と察した竹子さんがそれとなく庇ってくれます。
どうして作中で八重さんと竹子さんを、やや無理矢理に接点持たそうとするのかな~と思っていたところもあるのですが、女性グループのリーダー格の竹子さんが八重さんを庇うことで、薙刀隊で照姫様をお守りしますと言う意欲に燃えている彼女達との間に生じかねない不和を、上手に緩和させたのかなと。
しかしそれには、八重さんが何故薙刀隊を断ったのかの背景事情、つまり八重さんの武器は薙刀ではなく鉄砲だということを竹子さんがよく理解していなければ出来ないわけでして。
あの接点の積み重ねは、こういうところに繋がって来てるのかなと。
単純なライバルだとか、そう言うのではなくてね。

んだげんじょ、・・・薙刀では、薩長は倒せねぇ。薙刀ではねぇ、お城を守れんのは・・・

道場を後にした八重さんは、ユキさんにそう漏らします。
ただ、万一屋内の城内戦になったら、薙刀は有効的な武器のひとつでもあると思いますけどね。

8月20日(1868年10月5日)、城の広間では重臣ら一同と容保様が、頭を悩ませていました。

列藩同盟の結束さえもっと強ければ・・・。それがしの失態に御座います
仕方ねぇ。・・・それより、敵がどっがら来るがだ

冒頭で触れたことですが、薩長連合軍は会津を欺くために中山峠を越えるという虚報をばらまき、ご丁寧に少数の兵も見せかけのようにそちらに動かしています。
本体は石筵に向かったのですが、この伊地知さんの作戦に見事なまでに会津は翻弄されています。
果たして敵は。猪苗代湖の北から来るのか南から来るのか・・・どちらにせよ悩ましいのが、会津の手勢が少ないことです。

主力部隊が四方に出払った上に、まだあぢごちに振り分けねばなんねぇが
なれども、西国の兵達は、寒さに弱く、冬は使い物になりませぬ。雪さえ降れば、我が方が俄然有利
雪が、我らの味方が
冬まであと僅が・・・。今が、踏ん張りどころにごぜいます

そんな官兵衛さん、こんな状況下で・・・否、こんな状況下だからでしょうか、大蔵さん共々大抜擢されて家老に昇進します。

危急の折を乗り切るには、にしらの、若い力がいる

内蔵助さんはそう言いますが、長州とかでしたらこういった人事が5年以上早く行われていますね。
若くて且つ才ある人物を埋没させない、と。
こういう人事になかなか踏み切れなかったのは、会津の厳格な身分の上下とそれに絡見つくような朱子学が原因でしょうね。
いえ、他の藩が身分の上下に厳格でなかったわけではありませんが。
容保様は万が一峠を越えられたら、その時は触れを出して藩士を城に集めるように命じます。
また会津は、領内への敵の進行を何としてでも阻むべく、城下に至る道を全て封鎖する作戦に出ました。
上湯峠、安達太良山、母成峠、中山峠、御霊櫃峠 、諏訪峠、勢至堂峠・・・と防衛線を張りますが、ただでさえ手勢不足なのに、防衛線を拡大させ過ぎるのも問題です。
その問題が、母成峠の戦いでも生じてくるのですが、もう少し後で触れることにします。

京の薩摩藩邸では、中村半次郎さんが西郷どんを訪ねます。
半次郎さんは天保9年12月(1838年)のお生まれですから、このとき30歳、数えで31歳。
「いつ薩摩から戻りやったとごわすか」と言われていますが、西郷どんは白河口の戦いの応援部隊で出発しようとしたところを大村益次郎さんに止められ、それから(ちなみにそのことは大久保さんに手紙で愚痴っています)何となく積極性に欠けたような行動を取っていたのですね。
6月に薩摩にいったん戻り、何と次に薩摩を発ったのが8月6日で、その間温泉治療と称して湯治場でのんびりしていたのだと言いますから、相当だと思います。

半次郎どん、早速じゃっとん、兵を率いて日光口まで行ってくいや。攻めあぐねて、難儀しちょるそうじゃって、残るは会津じゃっとん
会津はなかなか落ちもはんそ。意地にかけても、最後の一兵まで戦い抜くとが、士風でごわんで
じゃっどん、はよう片付けんことには、双方の兵が無駄に死ぬ
総督府は、会津を根こそぎ滅ぼすおつもりでは
私怨で始めた戦じゃなんか。おさむっ道を探らんなならん

まあしかし、長州からすれば私怨の部分も誤魔化してはいるけどあるでしょうね、この間春嶽さんが木戸さんに指摘してたみたいに。
そして西郷さんは話してみるか、と牢の覚馬さんを訪ねます。
「双方の兵が無駄に死ぬ」ということは、覚馬さんの建白書でも指摘されていたことですので、ではその意見を唱えた会津人に、会津相手のこの戦は如何納めるべきか、意見を求めに行ったという流れでしょうか。
しかし当の覚馬さんは獄中で流行り病を得、体が弱っている状態でした。
死なすには惜しいと、西郷どんは直ちに医者に見せて牢から覚馬さんを出すように命じます。
覚馬さんの獄中の扱いがこんなに粗末ではなかったことは、前々からずっと指摘し続けていることですが、次から漸く史実通りの待遇に改善されるのでしょうかね。

薩長連合軍の攻撃予定日だった、8月21日(1868年10月6日)。
濃霧だったらしいこの日、伊地知さんは会津藩境の母成峠を一気に突破すべく、兵を進めました。
母成峠は二本松から西に17キロ、猪苗代からは東北東に12キロの場所にあり、薩長連合軍はここを石筵村の猟師に会津の兵力と三つの砲台の状況を探らせ、会津軍に奇襲を仕掛けました。
このときここを守っていたのは旧幕府歩兵奉行の大鳥さん率いる伝習隊達でしたが、地元の地理を知り尽くした猟師の先導の下に奇襲をされては一溜りもありません。
大鳥さんは勝岩で防戦しましたが、その内に背後に敵に取られてしまい、苦戦を知られ味方が散乱する中、猪苗代城への撤退を余儀なくされました。
この敗戦の後、大鳥さんは裏磐梯の山中をさ迷い、米沢に向かいましたが米沢藩守備隊に冷たくあしらわれ(おそらく米沢藩がこの時点で薩長連合軍への恭順の姿勢を決めていたからでしょう)、その後は皆さまもご存知の通り、榎本さんと一緒に蝦夷地へと転戦していきます。
ちなみに母成峠が突破されたのは21日の昼頃ですが、会津藩にその報が届いたのは翌22日の早朝です。
母成峠で敗れた兵が山中をさ迷ったので、連絡が遅れたというのも大きな理由の一つですが、そもそもの会津の連絡体制に不備があったことも問題でしょう。
戦をしているのですから、情報は自分達の状況を左右する大切なものです。
それの伝達ルートを疎かにしていたということは、この後に及んで会津の危機管理がひどく欠如していたと指摘されてしまっても、言い逃れが出来ないと思います。
遅々とした敗戦の報が会津に届けられた22日(1868年10月7日)、会津の城下に登城を促す「家並みのお触れ」が出されます。
母成峠を突破した薩長連合軍は猪苗代城に迫っており、15歳から60歳までの男子は皆、城に入るよう命が下りました。
該当の会津男児は戦支度を整え、速やかに登城せねばなりません。
14歳、数えで15歳の健次郎さんもその例外ではなく、出陣前に、お母さんの艶さんから「天下 とどろく名をば 上げずとも 遅れなとりそ もののふの道」という歌を渡されます。

「手柄は、挙げずとも良い。んだげんじょ、命を惜しんで遅れを取っではなりませぬ

余談ですが、同じく白虎隊士、飯沼貞吉さんのお母さんが貞吉さんに贈った歌は、「梓弓 むかふ矢先は しげくとも ひきなかへしそ 武士の道」。
こちらの歌意は、戦場で退いてはなりませぬ、と言うような意味合いが強いですね。
一方山本家でも、権八さんと尚之助さんの出陣祝をします。
普通出陣祝の「三献の儀」といえば「打ち鮑」「勝栗」「昆布」を思い浮かべますが、会津代々はどうやらこれと違うようです。

勝って、まめで、来る身を待つ

ということで、乗せられているのは「栗」「大豆」「胡桃」。
それに祝いの杯を乾して、権八さんが仏壇に静かに手を合わせて立ち上がろうとしたその時です。

おとっつぁま、私も、お供させでくなんしょ

堪えていた何かを吐き出すように、八重さんは言いました。
きっとこう言い出すことは、薄々感付いていたであろう佐久さんが、声を厳しくして咎めますが、八重さんは聞きません。

鉄砲の腕は人には負げねぇ!大砲の事も、西洋戦術の事も、全て分かっておりやす。私を、戦に連れて行ってくなんしょ
馬鹿言うでねぇ。鉄砲持って戦場に行くおなごが何処にいんだ
会津を守るためです。お城を、お殿様を守るためです。私の腕は、必ずお役に立ぢます!
にしゃ武士ではねぇ!
武士の娘だなし!二本松では、小さな子供まで戦っだ。敵が目前にまで迫っていんのに、ただ黙って見ではいられねぇ

鉄砲持って戦場に行くおなご・・・鉄砲じゃないかもしれませんが、武器を携えて戦場に赴く女性は、少なくとも江戸時代以前はそう珍しくもなかったですよね。
それはさておき、暫く八重さんと権八さんの間で押し問答が続きます。
武士ではない、八重さんはおなご、というのは、何気に大きいと言いますか、女子供まで戦場に巻き込んだとなると、会津武士としては恥なんですよ。
勿論、権八さんが駄目というのは、そう言ったことよりももっと大きい理由がきちんとありますが。

私は三郎の仇を討ぢでぇ!私は、鉄砲で戦いやす!
八重!お許しも無ぐ、おなごを戦に連れていげる訳がねぇべ!余計なこどを言って、大切なご出陣の邪魔をしてはなんねぇ!

八重さんの中では、会津を守ることよりも、容保様を守ることよりも、感情的に先行してるのは「三郎さんの仇討ち」なのだなということが、この最後の一言でよく分かりました。
きっと、権八さんも、何打かんだ言いながら八重さんが望んでるのはとどのつまりは復讐だということに気付いていたのでしょうね。
だから「三郎の仇は、わしが討づ」と言ったのではないかと。
ちなみに権八さんはこのとき59歳、数えで60歳ですので、後1年生まれるのが遅かったら、年齢的に弾かれてたのですよね。

馬鹿者が・・・

権八さんはそう呟きます。
鉄砲を撃ちたいと切望した幼い八重ちゃん、それに「鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば、人さ撃ぢ殺す」と、実際に撃ち殺した鳥の死体を抱かせて教えた権八さん。
権八さんは砲術の家の人間が背負う重み(=命の重み)を八重ちゃんに背負わせたくなかったのでは、というのは既に以前の記事で触れたことですが、角場で撃ってる分ならまだいいです。
それだと誰も殺しませんから。
娘の銃の才覚は、父親である権八さんが誰よりも早くから認めていました。
なので、その娘の銃は、必ず戦場で命中し、人の命を奪うことも分かっていたはずです。
でも戦場に出て、実際に八重さんが「撃って」しまうと、今まで権八さんが「背負わせたくない」と思ってたものを背負わせることになります。
これは、女子供を巻き込むことが云々より、権八さんの親心ですよね。
結果的に八重さんはその親心を見事に踏み倒して行ってしまうことになるわけですが、それは、「やむにやまれぬ心」なのでしょう。

敵が城下に侵攻するのを絶対に阻止したい会津軍は、残り少ない兵力の投入を余儀なくさました。
家老に復帰した西郷さんは背焙山、萱野さんは大寺、官兵衛さんは強清水に、それぞれ布陣します。
そして母成峠を越えた先にある猪苗代城に場面は移りましたが・・・個人的に、突っ込みたいことが多々・・・。

もうここはいけねぇ。城に火をかけて退却するぞ。仙台でもうひと戦だ。まだ、榎本艦隊がある。俺達は仙台で待つぞ

と土方さんが言っていて、さながら猪苗代城の放火犯のようにされていますが、実際に猪苗代城に火を放ったのは城代の高橋権太輔さんという方です。
彼は母成峠が突破されたと知るや否や、城に火を放って鶴ヶ城へ撤退して行ったのです。
また猪苗代は、母成峠に兵力を出していたため手薄だったようで、薩長連合軍が猪苗代に差し掛かった時には既に城は燃えていたとか燃えていないとか。
と言う背景事情を知っていれば、この土方さんと斎藤さんのやり取りが何となくとって付けたような、或いは無理矢理捻じ込んだような感を覚えるのにも、何となくですが納得出来ます(笑)。
土方さんが榎本艦隊、と言っていますが、江戸城無血開城後に品川沖を脱した榎本艦隊が仙台湾に到来したのは、8月26日(1868年10月11日)のことです。
先程の大鳥さん同様、彼もこれに合流して北へと転戦していくことになります。
ですが斎藤さんは、そんな土方さんに付いて行かず、自分は会津に戻ると言います。

馬鹿な!こんなんじゃ二日か三日で城下まで攻め込まれるぞ!
それでも会津は戦うでしょう!ならば新撰組も、共に戦うまで
この戦、待ってるのは籠城戦だ。援軍が来る当てもねぇ!死にに帰るようなもんだ。・・・良いから一緒に来い。斎藤!
いま会津を!・・・いま会津を見捨てるのは、義にあらず。生死を共にした仲間を捨てるのは、士道に背きます

『谷口四郎兵衛日記』には、斎藤さんがこのとき言ったという「ひとたび会津へ来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」の記述が残されています。
多分、斎藤さんにこの台詞を言わせたいがための猪苗代城シーンだったんだろうな、と思いました。
その後のやり取りが・・・主に土方さんの発言がまあまあ、下種といいますか、会ったことないので存じ上げませんが、少なくともこういうことは言う人じゃないでしょ?と言うような感がして、あまり見ていて気持ちの良いものではなかったです。

猪苗代城落城の報せを齎された会津ですが、十六橋はどうしたのだと土佐さんは言います。
十六橋というのは猪苗代湖の水が泣かれる日橋川に架かっている石の橋のことで、母成峠を越えて会津城下に入ろうとすれば、必ず渡らなくてはいけない橋です。

逆に言えば、会津としてはその橋さえ落とせば、薩長連合軍の進路を立てることになります。
橋を使わずに普通に川を渡れば・・・と思う方もおられるでしょうが、このとき台風の影響で日橋川の水位は上がっており、且つ今の暦で言うなら10月の東北地方の川の水です、冷たくないはずがありません。
なので十六橋を使わないで日橋川を渡るというのは非常に難しいことでした。
会津はここを壊そうと必死になりますが、ここを渡るために薩長連合軍も必死です。
長くなるので引用は控えますが、薩長連合軍側の必死さについては長州兵の藤井浅次郎さんの証言などを見て頂くとよく分かります。
先程も触れましたが、このとき折からの台風で、石の橋を壊すのには火薬は必須ですから、なかなか爆破に上手く行きません。
結局会津は橋桁一枚だけしか落とせず、薩長連合軍に橋を突破されてしまいます。

此度こそ、わしは・・・皆と共に戦わねばならぬ

滝沢本陣にて指揮を執るべく、容保様が御出陣なされたのは十六橋が突破される少し前のことです。
城内には最早精鋭部隊が残っていないので、前線へと向かう容保様の護衛は、白虎隊の歳若い兵たちに命じられます。
時尾さんの弟の盛之輔さんは伝令役として追従し、案じるように時尾さんがその出陣を見守ります。

大殿が、ご出陣あそばしました。城を守るわたくしたちも、油断せず、それぞれの立場で、精一杯努めましょうぞ。梶原殿にお伝え下さい。傷を負うて戻られる方々は、城の女達がご快方にあたります、と。それから、塩の蓄えが十分かどうか、今の内に確かめておきなさい

そう言って懐剣を引き寄せる照姫様。
万が一の時は・・・と、勿論考えておられるでしょうね、照姫様も武家の姫様ですから。
出陣する白虎隊を、沿道で藩士の家族たちが見送ります。
八重さんもそれに駆け付けますが、彼らの装備がヤーゲル銃なのを見て、思わず人を押し退けながら前に出ます。

敵の銃はヤーゲル銃より遠くまで撃でる。遠間で撃ぢ合わず、引き付げでがら!皆も聞いてくなんしょ、銃のことは悌次郎さんに教えてあっから、よぐ聞くように!まどもに撃ち合って、無駄に死んではなんねぇ!

ヤーゲル銃の射程距離は300メートルくらいでしょうか(ちょっと曖昧なのですが)。
性能はゲーベル銃に少し改良を加えたという程度なので、完全に旧式の部類に入る銃です。
白虎隊の装備がそれだったのは、「予備兵力」として、出陣させる予定がなかったからです。
よーぐ引きづげで撃ぢなんしょ」と八重さんは言いますが、この頃の戦闘記録を見ると、300~500メートルの距離で銃撃戦になることが多かったようです。
敵の銃は様々ですが、スナイドルやエンフィールドが主流と言っても良いでしょう。
このふたつの最大射程距離は800メートルなので、300~500メートルの距離で銃撃戦になることが多かったとはいえ、引き付けてる間に相手側の射程距離圏内に入って狙撃される、というのも十分あり得ます。
その辺りのことも、言葉ぶりから察するに八重さんは悌次郎さんに教えているようですが、実際に15歳の子供に実戦でそれを考えながら戦えって、なかなかの無茶ぶりですよ・・・。

容保様が滝沢村に到着した直後、十六橋が破られたという報告が来ました。
次の防衛の要所の戸ノ口原が破られては、一気に城下に攻め込まれます。
しかし戸ノ口原の守備の手勢が足りず、容保様は苦渋の決断・・・即ち、白虎隊の半数を戸ノ口原の援軍として出陣させることにします。

白虎士中二番隊に、出陣の命が下りだ!

白虎隊には、袖印として黄色い木綿の布が配られていきます。
ちなみに母成峠から十六橋までの進軍速度と言い、全体的に薩長連合軍の進攻速度が速いのは、 西洋の軽装で身軽であったためでしょうね。
昔の戦国武者(それこそ権八さんが出陣の際に着て行ったような)のように重たい鎧甲冑をがちゃがちゃさせての進軍は、こうも早くはいかないでしょう。
逆にそれ故に、会津も敵の進攻速度の目算を見誤ったのかもしれません。

にしらは若年なれど、本軍の兵だ。怯まずに、戦って参れ!
皆の、武運を祈る!

このとき向かわせた白虎隊がどういう末路を辿るのか、何て知る筈もなく。
出陣した白虎隊は、その夜戸ノ口原で野営となります。
しかしこの日は夕方から雨が降り、強い風も出て肌寒い夜となりました。
一説によれば、この日は嵐だったとも言われてます。
食べ物を調達してくるからここで待っておれ、と隊頭の日向内記さんが篠田儀三郎に隊を任せてその場を離れますが、雨具も食糧もない状態で、冷たい雨の中の野営が初陣というのは、彼らの精神力を大きく削って行ったことでしょう。
固まってくっ付けば暖が取れるということで、押しくら饅頭を始める白虎隊ですが、普通に考えたらこんなことして声を上げて騒いでたら敵に見つかるぞ、と言いたくなりますが、反面初陣の少年らの「戦」というものの慣れていなさなどがよく表れている演出だったなと。

戸ノ口原が破れた時に備え、籠城の構えを取らせるように命じた容保様。
敵軍が迫ったときには半鐘を鳴らすから、藩士家族はそれを合図にお城に入り、町方たちは城下を出よとの達しが山本家にも回って来ます。
佐久さんは、長年奉公して山本家に尽くしてくれた女中のお吉さんと下男の徳造さんに、当面の金子を渡して、自分たちの村に帰れと暇を言い渡します。
嫌だと言いつつ、会津のおなごは敵が来たら恥にならないように皆自害するのでは・・・と、佐久さんたちもそうするつもりではと危ぶんだお吉さんの言葉を、佐久さんは静かに否定します。

登城のお触れが回った。おなごも子供も力を合わせて、お城を守ると言うことだ。皆で、会津を守るんだ

結局ぎりぎりまでお吉さんと徳造さんは山本家に残って、登城の支度の手伝いをすると申し出ます。
こういうお吉さんや徳造さんのような方が、会津戦争後、家も何もかも失って困窮した会津藩士やその家族を自分の村に連れて行って、日々の生活をささやかながらも助けてくれました。
しかしその一方で、農民たちの中には戦局の動向によって薩長連合軍の人夫として働き、薩長連合軍の道案内や武器弾薬食糧の調達などに奔走するという人も少なくありませんでした。
戦というと、お武家さん同士のもの、或いはそちらにばかり目が行ってしまいがちですが、会津戦争は民草まで巻き込んで、複雑多岐な戦いでもあったのです。

8月23日(1868年10月8日)、城下に半鐘が鳴り響きます。
この日、容保様のおられた滝沢本陣にも薩長連合軍が攻め込んで来て、容保様は定敬さんに「そちはここを去れ」と別れを告げ、ご自身は城へと向かわれました。
定敬さんは再起を決して米沢へと向かい、その後大鳥さんや土方さんと共に、北へと転戦していくことになります。
山本家は割合落ち着いていて、準備もしっかり出来ているように見えましたが、実際は城下は大混乱でしたし。
戦に備えての疎開も始まっていましたが、誰もこんなに早く敵が城下までやって来るだ何て思ってなかったのです。
滝沢村から戻る容保様でさえ、乗っていた馬に敵の銃弾が命中し、駆け足で甲賀町通りを通って入城するという際どさでしたので。
そう考えると、山本家の落ち着き用はちょっと異様にも見えるのですが、それは今は置いておくとして、先日角場に別れを告げた八重さんは作業場で三郎さんの軍服に袖を通します。
軍服に八重さんが刺繍した南天を、八重さんは何の躊躇いもなく引き千切りました。
動くのに邪魔になるからという合理的な考えに基づいて・・・とも見えますが、「当てにしてたものに悉く裏切られ続けて来てるから、もう当てにしない」という意思表示かなと私は思いました。
お雪さんと一緒にやった石投げとか、二本松藩の少年に贈った達磨とか、三郎さんの軍服に縫った南天とか、八重さんは今まで願いを託したものにことごとく裏切られ続けています。
なので、そんなもの(神様も南天もダルマといった、心の拠り所的なもの)はもう当てにしない!という八重さんの中の心境変化だと。
同時に、それらを全て振り払って、八重さん自身を守るのも生かすのも、八重さん自身(彼女の場合だと銃の腕前)だけになる=信じられるものは自分の力のみ、となったのかと。
そんな八重さんが、明治になってキリスト教の洗礼を受けるっていうのは、これまた変化としては大きいと思うのですが、それはその時が来たら触れることにしましょう。
「私は着物も袴も總て男装して麻の草履を穿き両刀を佩んて元籠七連發銃を肩に擔いでまゐりました」というのが後年の八重さんの回想ですが、その言葉の通り八重さんはスペンサー銃(元籠七連發銃)を手に取り、佐久さんに言います。

私は、三郎と一緒にお城にあがりやす。今がら、私が三郎だ。逆賊の汚名を着せで、会津を滅ぼしに来る者達を、私は許さねぇ。私は・・・戦う

幕末のジャンヌ・ダルク、万全を期しての登場です。

ではでは、此度はこのあたりで。


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