2013年6月14日金曜日

第23回「会津を救え」

三郎さんの戦死と覚馬さんの消息不明の報がもたらされ、あの桜の大樹に上って思い出をなぞる八重さんから始まりました、第23回。
やがては八重さんもあの桜に背中を向けて故郷を去る日が来るのですが、三郎さんや覚馬さんと違って、八重さんは会津に永訣するのではありませんけどね。

慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城の明け渡しが平和的に行われ、東征軍の矛先はいよいよ会津へと向いていくことになります。
会津には会津五街道というのが御座いまして、白河を経て江戸に向かう「白河街道」、猪苗代を経由して二本松へ向かう「二本松街道」、喜多方経由で米沢に向かう「米沢街道」、新発田に抜ける「越後街道」、大内・田島経由で下野国に向かう「下野街道」がそれに当たります。

薩長連合軍は、白河口・日光口・越後口の三方から会津に迫ります。
大蔵さんは日光口の守備を命ぜられていたのですが、3月18日(1868年4月10日)、奥羽鎮撫総督九条道孝さんら一行が大坂から仙台上陸したとの報せを受け、急遽城下に引き返します。
荒天で当初の予定だった松島には入港出来ず、その隣の東名浜への上陸となりました。
道孝さんの他には、副総督の沢為量さん、参謀の醍醐忠敬さん、下参謀の世良修蔵さん(長州藩士)、大山綱良さん(薩摩藩士)、その他薩長と筑前の兵が五百余り。
京を発つ前は、総督が沢為量さん、副総督が醍醐忠敬さん、参謀が品川弥二郎(長州藩士)でしたが、2月26日に総督が道孝さんに変更されたことにより、副総督と参謀が上記のようになりました。
その時点で下参謀は弥二郎さんと黒田清隆さん(薩摩藩)だったのですが、下参謀の方も世良さんと綱良さんに変更となったのです。
彼らを出迎えたのは仙台藩重臣三好監物さんで、京で薩長幹部と面識を持っていたこともあり、仙台藩の中では薩長寄りの人物でした。
「仙台藩一手で会津を落とす」と豪語したのも、この人あたりじゃないのかなぁ・・・という憶測はさて置き、21日に松島を見学した奥羽鎮撫使一行を、仙台藩主伊達慶邦さんが観瀾亭で出迎えます。
宿舎は仙台藩藩校の養賢堂。

奥羽の賊徒は奥羽に討たせる。それが大総督府のお考えじゃ

不敵に笑ってそういう世良さんは、天保6年7月14日(1835年8月8日)のお生まれですのでこのとき33歳、数えで34歳。
新選組副長の土方さんや、容保様、生きてたら坂本龍馬さんらと同い年です(天保6年生まれって凄いメンバー・・・)。
話が逸れました。
言われた慶邦さんは、困惑しつつもそれを受け容れます。
ですが、仙台が会津を討つ理由はありません。
仙台だけでなく、奥州諸藩何処にもそんな理由を持ってる藩はありません。
自分たちの手を汚さずして会津を討伐させようとする奥羽鎮撫使の言い分に不快を感じる方もおられるかもしれませんが、これは第一次長州征伐で幕府が長州に、長州の家老首三つ差し出させたのと同じ指針ですね。
決断に迫られる仙台藩を余所に、世良さんは杯に桜の花びらが降ってきたことに気付き、何もかんも遅れた土地よ、とぼやきます。
季節も、改革も、ということでしょう。
そもそも「陸奥」という言葉からして、本当都視点の物の見方だよなぁ、と思わずにはいれないのですが・・・。
しかし、弁護させて頂くなら仙台藩は軍制改革に慶応年間には着手していました。
江戸屋敷では足軽に銃式訓練を行うなど洋式部隊の育成は行われていましたし、ミニエー銃の購入だけでなくライフル導入の動きもあったそうです。
軍艦揃えに関しては、東北諸藩随一でした。
けれども先立つものが無くなって中断してしまっていたのです(確か。支払いは国産の生糸でされていたような・・・)。
そう言う事情はあるのです、結果が着いて来てないだけで、動きそのものはあったのです。

陸奥に桜かりして思うかな桜散らぬ間に軍せばやと

と、世良さんは得意げに戦を嗾けるような歌を詠みます(ちなみにこの歌を世良さんが詠んだのは宿舎ではなく、城下の「梅林亭」というところです)。
ドラマでは触れられませんが、世良さんがこれを詠むと、同席した兵士も「竹に雀を袋に入れて後においらのものとする」と詠んだそうです。
言わずもがな、「竹に雀」は伊達家の家紋です。
世良さんについては傲慢で傍若無人を気取った悪人、という評価が抜けず、しかし一方で再検討の余地ありとされていますが、少なくともこの歌のやり取りからは従来の悪人イメージしか浮かんでこないですね。
こんな歌を目の前でやりとりされちゃあ、仙台藩士もそりゃ黙っていられませんよ。
しかし、そんな世良さんを「地獄の使者」と公式で言ってしまうのは如何なものかと思わなくもないのですが・・・。

三郎さんが亡くなった悲しみを、少しずつ乗り越えようとする八重さんに対して、うらさんは覚馬さんの消息不明の報から未だ立ち直れません。
そこで八重さんはうらさんを、黒河内道場に引っ張って行きます。
そこでは先頃江戸から戻った竹子さんの妹の優子さんたちも加わって、いつも通り薙刀の稽古がされていました。

みねも、そろそろ薙刀を始める頃だ。家で手解きすんのは姉様の役目だなし。それまでに腕を磨いておがねぇと。思いっきり振ってみなんしょ。体が動けば、心も一緒に動ぎ出しやす。縮こまっていでも良いごどは何もねぇ

そこへ、「毛巻」という未亡人の髪型をしたお雪さんが姿を現します。
喪は明けてないが、何もせずにいては修理さんに申し訳がないと。
消息不明の覚馬さんと、無実の罪で腹を斬った修理さんとでは温度差はあるでしょうが、それでもそんな風にして夫を亡くしたお雪さんの姿勢に、うらさんも励まされたように気力を取り戻します。

やってみんべ・・・みねは、旦那様がらの大事な預がりものだ。強い会津のおなごに育てねぇど、後で旦那様に叱られっつまう

うらさんが、覚馬さんを「死んだ」ものだと思っているのなら、この「後で」は「自分もあの世に行ったときに」という意味になりますね。
悲しみと向き合うことが出来たうらさんですが、さらっと言ってる言葉の意味は深いです・・・。
しかし八重さんは、覚馬さんはきっと生きていて、いつかまた会えるからと希望を囁きます。
確かに生きてはいますが、会えるのは八重さん達だけで、うらさんとは・・・と思うと、この励ましの言葉は途轍もなく切ないものに聞こえます。

4月11日(1868年5月3日)、勝さんは上野寛永寺の慶喜さんを訪ねます。
この日、慶喜さんは江戸を離れ、水戸へ退隠することになっていました。
暫く見収めになる江戸を見て、慶喜さんが思うのは「徳川十五代将軍慶喜」のこと。

わしの将軍職は、都で始まり都で終わった。幕府を潰した汚名と共に

確かに「汚名」ではあるでしょうが、そのまま変に慶喜さんが幕府やら将軍職やらに固執してしまっていては、それこそ日本中を戦場にしかねない大規模な戦に発展しかねず、それが終結しても戦後の弱体化した隙に西洋諸国に付け入れられ、日本の国力は弱体どころか、何処かの国の属国扱いになる可能性もなきにしも非ずであったわけでして。
そういう長い目で慶喜さんのいう「汚名」を見ると、「汚名」でもないんですよね。
寧ろ慶喜さんが退いてくれたからこそ、どうにかなった部分も大いにあると言えなくもなく。
だからといって、日本全土での戦の代わりに東北諸藩が犠牲になって良かったのだという気は勿論ありませんよ。
ともあれ、慶喜さんにはいま「汚名」が重くのしかかってるんですよね。
264年続いていたものを終わらせてしまったこと、終わらせたが故に、色んな問題が生じていること。
何より慶喜さんが辛いのは、その汚名の苦しみを吐き出して分かち合える人が、自分の傍にいないことではないでしょうか。
勝さんに「そなた、これまで誰に仕えて来た?」という問いかけも、そういう孤独感の部分から生じたものではないかと感じました。
しかも勝さんは、先代の家茂さんには仕えていましたが、慶喜さんには「仕えていた」と言うよりは、「幕臣として徳川幕府に仕えていた」部分が大きい。
口では「上様に」と答えてくれても、本音は違う。
それが分かっていてもなお、口からぽろりと零れてしまった言葉ですね。

大勢の者が幕府に仕えていた。・・・だが、わしに家臣がいたろうか。会津のように、君臣一体となる家臣が・・・

元々一橋家には譜代の家臣はいませんし(人材が徳川家から出ているような家ですので)、慶喜さんの側近は次々に暗殺されて行ってます。
だからこそ一会桑政権という名のもと、容保様や定敬さんを傍に置いてたのでしょうね。
大切にしていたかどうかは兎に角(そこで大切にしないから、慶喜さんは色々と言われちゃうんでしょうね)。
でも今、幕府がなくなって、汚名は着せられましたが同時に慶喜さんは孤高からも解放されたことになる。
後に駿府に隠居した彼が、カメラなり自転車なり釣りなり、悠々自適な生活を送るのは、孤高から解放された反動部分だろうなと思います。
そんなこんなしている内に、慶喜さんの出立時刻になります。

これで徳川は残り、江戸も戦火を免れた・・・では、会津はどうなる・・・。いや・・・良い・・・

そもそも会津が今の立場に追い込まれてしまった諸々の原因の、半分くらいを作り出してしまったのはこのお方なわけですが、薩長の矛先を江戸・徳川から会津・奥州方面へ向けさせたのは慶喜さんの指示によるものではなく、勝さん達なので、罵倒はしないで上げましょう。
矛先が自分達から逸れたことで、会津がどうなるのか、慶喜さんも馬鹿ではないので分かってはいたでしょうが、分かっていたところで退隠する彼には何も出来ない。
逆に「前徳川将軍」の自分が下手に動けば、折角の無血開城も、それに骨を折ってくれた人の努力も、全て水泡に帰す事態を呼び起こしかねません。
だから、黙ってることしか選択肢がなかった。
しかしそんな慶喜さんの代わりに黙ってなかったのが、旧幕府軍歩兵や榎本さん率いる旧幕府海軍の皆様です。
歩兵は開城直前に江戸を脱走しますし、ご存知、榎本さんは戦闘力にならない船は引き渡しに応じましたが、残る軍艦を率いて北上します。
此処から先約一か月間は、江戸周辺から北関東エリアで、旧幕府軍歩兵と東征軍の攻防が繰り広げられることになります。
上野戦争も、有名な伊庭八郎さんが、三枚橋で左手首の皮一枚残して斬られたのも、宇都宮城の戦いも、全てその期間に起こった出来事です。
江戸城無血開城の「無血」が、如何に限られたエリアでしかない「無血」だったのか、お分かり頂けるでしょうか。

さて、会津を攻めるか、理由なき戦は避けるか、決断に迫られた仙台藩。
(実は世良さん達が来る前に仙台藩は会津に使者(玉虫左太夫さんと若生文十郎さん)を送って容保様と対面させ、「会津は降伏するべし」と言う意見を述べさせていたような・・・)
そこで主席家老の但木土佐さんは、世良さん達の意向に沿って会津国境に出兵しました。
ただこれは「会津を攻める」という意味ではなく、仙台の意思表示ですね。
会津を討ちたくない、でも出兵だけでもする振りをしなければ自分たちが睨まれる、戦も避けたい、だから降伏してくれよ会津、といったものでしょうか。
その証拠に、向かった兵は1000人くらいだったのですが超スロー行軍で、戦意何てまるでなし。
藩主の慶邦さんも直々に白石城にまで入ってますが、体裁のみの出陣だということがよく分かります。
通称「八百長戦争」と呼ばれるこの会津VS仙台の戦は、「空砲を撃つから貴藩も空砲で」と真面目に空砲を撃ち合って戦の真似事をしてたのですが、その内どちらも実弾を使うようになって、でもお互い狙いを明後日の方角にしていたのでひとりの死傷者もなかったのです。
この部分が、会津に訪れていた但木土佐さんの「国境まで兵は出すたが、仙台に会津と戦うつもりは御座らん」ということだと。
その場には米沢藩の木滑要人さんもいます。
平馬さんいわく、容保様は恭順第一の考えであるとのことですが、実際の会津藩を見るとどうにもそうだったようには見えないのですよね(苦笑)。
但木土佐さんに、鳥羽伏見の首謀者の首を三つほど差し出すほどの覚悟で臨まなければいけないと言われても、それは曲げられないと言いますし。
妥協点がなかなか一致しなかったのですね。
しかしそうなれば、仙台藩は今度こそ八百長戦争などではなく、殺し合いの覚悟での戦を仕掛けなければなりません。

その時は全藩挙げて、死を以って国を守るのみ!・・・どうしても首がご入り用ならば

そういって平馬さんは、着物の前を肌蹴させ、自分の首を総督府に届けてくれと脇差を抜きます。
そんな平馬さんを宥めるように、自分達だって会津を助けたいし、会津に討たれる理由も罪もないことは奥州諸藩承知の事実だと但木土佐さんは言います。

総督府の意のままになっては、奥羽の血は踏み躙られまする。これは決して、会津一国のことでは御座りませぬ

取り成しを願う悌次郎さんに続いて、尚之助さんもそう頭を下げます。
会津征伐は、何も会津個人の問題ではなく、奥州全体の問題ではないか、と言ったのですね。
まあ、黙って会津だけが攻撃されているのを見過ごすというのは、奥州諸藩のプライドの問題としては関わって来るでしょうが、実害的な面で見る限り決してこれは奥州全体の問題でもない気がするのですが・・・。

一丸となれば、総督府も無理強いは出来ぬものと存じます

尚之助さんはそう言いますが、逆です。
結果論からになりますが、一丸となったら薩長連合軍に警戒心持たれて当然なんですよ、「あ、こいつら反抗心満々だ」って。
会津を焼かないためには、周囲の諸藩と同盟など結ばず、会津単独で交渉を続けなければならなかった。
それこそ江戸城がそうしたように、只管恭順恭順恭順と、その姿勢を貫き通さねばかなわぬことです。
後は諸外国の目を一応気にしてる新政府の状況を逆手にとって、勝さんが「新政府ってこんなに国際法無視したことしてるんですよ」と耳打ちしたように、会津もそうした手段をひとつの方法として取るべきでした。
まあ結果論からの意見ですので、当事者の会津からすれば「こんな仕打ちを受けて黙っていられるか」となるのは人間の感情的に当然の流れです。

一方で会津は薩長連合軍の侵攻に備え、国境に兵を置くことにします。
白河方面総督には西郷さん、越後口には官兵衛さん、日光口には再び大蔵さんがそれぞれ命ぜられます(先程の図を参照)。
新選組もまた、西郷さんに従って白河への出陣を命ぜられます
このとき新選組の局長、、近藤勇さんは既に薩長連合軍に捕らわれていて、板橋で斬首されています。
よって率いていたのは副長である土方さんなのですが、彼もまた宇都宮の戦いで足の爪先を負傷し、白河での新選組の指揮は斎藤さんに任されます。
それはさておき、この白河方面への人選は大問題です。
会津藩単独ではなく、仙台藩なども含めた連合軍として白河防衛に当たるので、総督はそれなりの家格が必要だったのは分かりますが、西郷さんは戦場経験に全く乏しいを通り越して皆無です。
「家格がなければ纏められない」という配慮の元、容保様のこの人選采配だったのでしょうが、洋式調練に着手しても会津の国教である朱子学がそれを阻んでいた感じでしょうか。
(それにしたって、恭順派だった西郷さんが何故選ばれたのか諸々、謎なのですが)
現場(この場合は戦場)のことを何ひとつ知らない人間に任せるとロクでもないことが起こるのは、今もそうですがこのときだって同じです。
で、ロクでもない事どころか痛恨の出来事が起こってしまうのですが、それは後に筆を譲るとして、退室した土方さんは斎藤さんと、薩長連合軍に出頭した近藤さんのことを話します。

奥羽でもう一戦出来たというのに・・・敵陣に出頭するなぞ、馬鹿なことをした・・・

近藤さんが流山で出頭したのは慶応4年4月3日(1868年4月25日)、板橋で斬首されたのは4月25日(1868年5月17日)です。
容保様は土方さんに、領内に近藤さんのお墓を建てて供養してやれと言います。
会津若松市に現在もある天寧寺がそれですね。
鳥羽伏見で惨敗し、共に歩んできた近藤さんを喪って、土方さんはひとつのことを悟ります。

斎藤
はい
刀の時代は、終わったな

そう零す土方さんは、すっかり洋装に身を包んでおります。
現在残っている有名なお写真そのままのお姿なのですが、何故か髪はまだ総髪のままという絶妙な中途半端さ・・・(スカーフは百歩譲りますが)。
徹底的に洋装化土方さんにさせなかったのは、何か意味があるのかな?と暫く考えてみましたが、意図が掴めませんでした(苦笑)。
去って行く土方さんの背中をじっと見送っていた斎藤さんは、ふと鈴の音のようなものを聞き、音のする方へ歩いて行きます。
するとそこにいたのは、三郎さんの月命日のために花と香を手向けていた時尾さん。
ちなみに時尾さんは、照姫様の侍女22人中8番目の地位なので、結構上位侍女だったんですね。

一緒に、供養させて貰えぬか。・・・俺にも、弔いたい人がいるのだ

そう声を掛けた斎藤さんですが、これは・・・近藤さんのことでしょうね。
もしかしたら、鳥羽伏見で亡くなった他の隊士たちのことも含まれていたのかもしれませんが。
暗い展開が続きますし、これからも暫く暗い展開は避けられませんが、その暗さを抜けた時にこの並んで手を合わせた二人が夫婦になるのだなと思うと、少しだけ救われる心地がします。

薩長連合軍の討伐の対象は、実は会津だけでなく、庄内藩もまたその的に絞られていました。
4月7日(1868年4月29日)には、薩長連合軍は秋田藩に対して庄内征伐を申し渡しており、討伐の理由も関東へ落ちた慶喜さんの恢復を主張したことと薩摩藩邸への砲撃及び焼き払いの二点が罪状として取り上げられたのです。
しかし徳川家譜代随一の御家である庄内藩が、慶喜さんの弁護に入るのは罪状に挙げられるような程の事でもない気がしますし、薩摩藩邸のことに至っては完全に薩摩だけの物事の考え方です。
要は一方的且つ不十分な理由での罪状を庄内藩は着せられたのですね。
そういった流れから、必然的に会津は奥州のどの藩よりもまず最初に庄内藩と連携を取ることになります。
4月10日(1868年5月2日)には会庄同盟が結ばれています。
庄内藩はそこで、まず米沢を説得しようと会津に持ちかけます。
奥州雄藩二藩の内のひとつである米沢を同盟の輪の中に入れられれば、残りのひとつである仙台もこれに加わり、そうなれば奥州諸藩の同盟も成立し、軍事的提携を図って薩長連合軍に対抗出来る、と。

白石に奥羽二十五藩のご重役が集まって、会津救済の嘆願書に署名されたようだ

と権八さんの言葉に至るまでの背景には、実は会津と庄内のそういった動きがあったんですね。
白石に奥州諸藩が集められた、所謂白石会議が行われたのは閏4月11日(1868年6月1日)のこと。
翌12日、仙台藩主の伊達慶邦さんと米沢藩主上杉斉憲さんは岩沼で奥羽鎮撫総督の道孝さんに拝謁し、容保様の伏罪と寛典を望む嘆願書を提出します。
奥州諸藩のこの動きは、奥州列藩同盟と呼ばれるものです。
これまた結果論になりますが、会津と庄内の連携が戊辰戦争の拡大を決定づけることになってしまったのですよね。
権八さんが言うように、「そもそも会津には、何も何も非はねぇんだ」というのは事実ですが、その事実を守ろうとしたが故に戦火が拡がってしまったのもまた事実。
しかし八重さん達にすれば、自分たちの藩の受けた理不尽さを理解して、協力してくれる人たちがいるというのはこの上ない喜びでしょう。
まあ、歴史の当事者と、歴史の結果を知る人間の間に生じる温度差というものですね。
ちなみに奥州列藩同盟の盟約書は、決して総督府を否定しているのではなく、総督府の下に列藩集議の同盟を位置づけています。
総督府と対抗する形で同盟を起こした、のではなく、総督府の下で同盟を維持し、大義を天下に訴えていくことが奥州列藩同盟の趣旨です。

同盟軍となった米沢から会津に、米沢藩士43名が砲術修行としてやってきます。
米沢は洋式銃の導入は早かったものの、大砲の導入は遅れていたので、会津の山本家を頼って来たのです。
その中の一人に内藤新一郎さんという方がいるのですが、彼は会津戦争が終わった後、八重さんや山本家一家と縁のある人なので、記憶の片隅に留めておきましょう。
それはさておき、近代化が遅れていたとはいえ、いざという時に共に戦う同盟軍が新式銃の扱い方を全く判っていないというの、尚之助さん表情には出してませんが肝が冷えるものもあったのではないでしょうか(苦笑)。
角場が賑やかなのは久し振りと、八重さんは懐かしさに表情を和らげておりますが、その辺りの危機感の欠如は相変わらず・・・。
奥州列藩同盟が安心感を与えているのでしょうか。
・・・しかしその奥州列藩同盟による嘆願書は、総督の道孝さんは列藩同盟の正義を認めていた節はあるのですが、閏4月17日(1868年6月7日)に却下されます。
ドラマでは世良さんが正しく聞き耳を持たないという感じでしたが、実際には秋田にいた大山格之助さんが「仙台と米沢の藩主を京または江戸に呼び寄せて、奥羽事情が沈静化するまで現地から切り離してはどうか」という提案があり、世良さんも考えを変えたのです。
世良さんは嘆願書を京へ送り、自らも上京して太政官の判断を受けるという手紙を大山さんに宛てたのですが、この内容が暴露されて奥羽諸藩の怒りを買うことになります。
「奥羽の情実を篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て、逆襲の大策に致したく」というような一文が、怒りの原因となったのでしょう。
しかしもう少し手紙は続いてまして、「嘆願を認めてしまっては、奥羽は二、三年の内に朝廷のためによからぬことになる」という内容もあったのです。
折角慶喜さんがあっさり引いてくれて、国を真っ二つに割るようなことをせずに済もうかという矢先に、奥州に決起されたら困るのです。
なので、見過ごすわけにはいかない、割るつもりなら割らせないために新政府としても武力を以って平定する、という新政府側の事情がすっぽり抜け落ちた描かれ方でしたね(汗)。
閏4月19日(1868年6月9日)、白河から福島に戻った世良さんは、宿の「金沢屋」に入り、福島藩御用人の鈴木六太郎さんに大山さん宛ての手紙を「送っといてくれ」と渡します。
そこから、暴露となったわけですので、世良さんも不用心と言えば不用心でしたね。
上記でも触れましたが、手紙の内容は奥州諸藩の怒りを買う内容でしたので、福島藩もその例外に漏れず、その夜に世良さんは仙台藩と福島藩の兵に襲われ、阿武隈川の河原で斬首されました。
世良さんが斬られたことで、最早薩長連合軍と奥州との戦は避けられない事態となります。
西郷さんは、総督府が奥羽を討つ口実が出来た、と呟きます。
世良さんの暗殺とそれに至る経緯については、私もこのブログを書くためにあれこれ書物に目を通すまでは世間一般で流布されている世良さん像を思い描いていたのですが、どうやら書物などで調べてみると、様々な議論がなされているようです。
つまり、「殺されて当然の振る舞いをした人物」「薩長連合軍からすれば口実づくりの捨て駒だった」などなどではない世良さん像というのも提唱されておりまして。
その辺り、現時点で勉強不足と時間不足なので深く追求出来ておらず、あれこれとご紹介出来ないのが心苦しいのですが、あのドラマの描かれ方の世良さんだけではない、ということは伝えておきたいなと思います。

薩長連合軍に宣戦布告をした奥州越列藩同盟は、白河城を会津と仙台兵が占領し、守りを固めさせます。
会津は大平口、勢至堂口に派遣していた軍勢を再編成し、仙台も会津との国境に布陣させていた兵を再編成し、合計2500人ほどの軍勢が白河に布陣しました。
総督は西郷さん、副総督は横山常守さん。
戦略の何も知らない、実戦経験皆無のこのふたりが指揮采配を振るう位置にいるというのは、先ほども少し触れましたが非常に宜しくないことです。
本気で白河を守って、勝とうとするなら、色々と無理を承知で大蔵さんか官兵衛さんを呼び寄せるべきでした。
気力や家格じゃどうにもならないことがあるんです、戦は水物なので。
まま、それで白河口の戦い。
ドラマではあまりにあっさり描かれていましたが、実際は約百日に及んでこの場所での攻防が繰り広げられていました。
薩長連合軍は閏4月18日から20日にかけて、白河攻撃のために大田原に集結します(下図の白坂)。
その数約700。
味方の目印として、薩摩は左に赤い布を、長州は白い布を身に着けていたようです。
まず戦闘が起こったのは閏4月24日(1868年6月14日)。
この時点では総督の西郷さんも、副総督の横山さんもまだ現地に到着しておらず、迎撃は新選組の斎藤さんを先鋒に行われ、この初戦は敵を撃破するという、負け戦どころか大戦果を挙げました。
参戦していた長州兵の証言によりますと、寄せ手の長州の武器は前装式だったのに対し、迎え撃つ仙台兵の一部は新潟から届いたばかりの後装式の銃をしようしていたそうです。
よく言われている「長州側は最新銃、列藩同盟側は旧式銃」というのは、つまり嘘だということですね。
勿論初戦で大勝利を挙げたのですから、白河を守る同盟軍の士気は高いです。
しかし次に薩長連合軍に寄せられた時、同盟軍は大惨敗を喫します(この部分がドラマで描かれてた部分ですね)。
何が起こったのか、初戦勝利で油断したのかと言えば、そういうわけでもなく、どうやら初戦勝利後に総督の西郷さんが前線入りしたことが原因の一つだったみたいです。
斎藤さんは「兵力を分散させて機動性を持たせるべきだ」というのに対し、西郷さんは「兵は白河に集中させて迎え撃つ」と主張します。
現実と照らし合わせて考えれば、つまり白河城の構造や規模を鑑みると、砲撃してくる相手に対して耐え得る城でないことは一目瞭然です。
だって、周りに小高い山が多いので、そこから撃ち込まれたら集中砲火を食らいます(実際食らいました)。
鳥羽伏見の死線を掻い潜って来た斎藤さんには、その辺りのことが経験として分かっていたのでしょうね。
しかし、これが通らないのですよ。
何せ西郷さんは総督で、会津藩のご家老です。
ここに人事の致命的さが出て来ます。
一方、一度目に手痛い大敗北を喫した薩長連合軍が、次なる攻撃に備えて何をしていたのかと言えば、司令官の伊地知さんは綿密に白河の地形を調査し、図面に書き起こして作戦を練っていました。
あらゆる情報を集めた伊地知さんは、「同盟軍の連携は不十分で、機動力に欠ける」という結論を出し、白河を包囲して攻めるという手段に出ます。
攻め手を三隊に分け、左右の二隊は間道を進むので地元民を道案内に採用したそうです。

(扇アイコン=大砲の数、赤は薩長連合軍、青は同盟軍)
「機動性に欠けるから」という結論の下に実行されたこの包囲作戦ですが、斎藤さんの「同盟軍に機動性を持たすべき」の意見が通っていたら・・・と思わずにはいられません(たらればで歴史を語ってもどうしようもないですが)。
5月1日(1868年6月20日)早朝、右翼隊、左翼隊、中央隊の順番で、それぞれ白坂から出陣していきます。
中央隊が一番最後に出たのは、一番時間のかからないルートを通って行くからでしょうね。
ここで薩長連合軍の包囲作戦の成否は、同盟軍に気付かれないかどうかです。
気付かれてしまったら包囲出来ませんから。
しかしながら、5月1日は新暦で考えれば分かり易いのですが、梅雨の真っ最中。
折しもこの日も土砂降りの雨という悪天候で、しかも同盟軍は斥候も何も出していませんでしたので、薩長連合軍の進軍は順調でした。

まず右翼隊が同盟軍に遭遇することなく合戦坂に到着し、ここで同盟軍と遭遇したのですがこれを撃破し、雷神山方面へ進軍を続けます。
雷神山を守っていたのは会津藩二小隊と仙台藩瀬上主膳さんの大隊でしたが、守りを手薄にしていたことからあっさり占拠されてしまいます。
ドラマでも「西の雷神山が敵に奪われました」と西郷さんのところへ伝令が走っていましたよね。
左翼隊も進軍も順調で、会津藩の日向茂太郎さんら二小隊が立石山を砲二門据えて守っていたのですが、じりじりと押されてここも落とされてしまいます。
立石山には七つの堡塁があり、そう簡単に落とせる場所ではなかったのですが、日向さんが狙い撃ちにされたところに薩摩五番隊の野津鎮雄さんが斬り込んで来たのが混乱を呼んだそうです。
中央隊が迫った稲荷山には、斎藤さんたち新選組や、会津と仙台の精鋭兵が布陣していましたが、大砲と小銃を乱射され、且つ十二ドイム臼砲の榴弾も撃ち込まれるので、屍の山を築いて同盟軍は撤退します。
会津の横山さんが命を落とされたのは、この稲荷山での戦いの最中です。
こうして二度目の白河攻防戦は、同盟軍の大敗北という結果に終わりました。
伊地知さんのやっていたことを見るに、銃器の装備が云々というよりは、如何に戦術・戦略がものを言うか、ですね。
孫子曰く「彼を知り、己を知れば、勝、乃ち殆うからず。天を知りて地を知れば、勝、乃ち窮まらず」、は偽りではないのです。
さて、白河が薩長連合軍の手に落ちた後も、暫く白河での同盟軍による奪還戦が、実に七回以上も続いたのですが、一度も成功しませんでした。
こうなると同盟してくれている仙台藩兵に厭戦気分が漂い、厭戦気分が起こると気持ちがばらばらになり、会津は追い込まれる立場になります。
つまり、ドラマではあっさり流されてしまった感のある白河での敗戦は、会津にとっての痛恨の出来事だったのです。
また、それだけ長い間奪還戦を繰り返していたので、周辺の農民への被害も大きく、中には田植えも満足に出来なければ家も巻き添えで燃え、或いは薩長連合軍に家を占領されてしまったなどという証言も残っています。

その頃、官兵衛さんは長岡藩の家老、河合継之助さんを訪ねていました。
継之助さんは文政10年1月1日(1827年1月27日)のお生まれですので、このとき41歳、数えで42歳。
そしてご存知、代名詞といいますか、彼と言えばガトリング砲です。
彼は慶応3年(1867)に長岡藩江戸屋敷引き払いの際、藩主の家宝などを売却してお金を作り、そのお金でファーブル・ブラントさんからガトリング砲を二門買いました。
合計6千両と言いますから、ガトリング砲ひとつは千両箱三つ分の価値ということですね・・・。
ちなみに継之助さんが購入したガトリング砲は口径1インチの6銃身。
この頃は日本に三門しかなく、その内の二門を長岡藩が所持していたことになるのですが、当時世界的に製造されていたガトリング砲の口径は0.5インチの10銃身だったので、旧型みたいなのだったということになるのでしょうかね。
継之助さんは、「越後五藩と共に奥羽同盟に加わりますがいや」と仰ってましたが、ちょっとこういわれると違います。
米沢藩が北越の諸藩にも同盟一致を求め、新発田・村上・黒川・三日市・村松の五藩は総督府に嘆願書を出すのですが、総督府の出頭には応じず、なし崩し的に同盟の一員となって行ったのです。
ともあれ、これら奥州北越諸藩31藩による「奥州越列藩同盟」が5月6日(1868年6月25日)、新たに締結されます。
奥州列藩同盟が、会津・庄内両藩の嘆願目的の同盟なら、奥州越列藩同盟は、嘆願を受け入れなかった薩長連合軍に対する軍事同盟です。
奥羽越列藩同盟の名目的な盟主は、上野戦争を逃れてきた輪王寺宮さん(明治天皇の叔父)は、以下のような令旨を述べています。
薩摩は先帝の遺訓に背き、幼帝を欺瞞し、摂関幕府を廃し、表に王政復古をとなえながら陰で私欲逆威を逞しうしている。しかも百方工作をし、幕府及び忠良十余藩に冤罪を負わせ、軍を起こした。ために世情騒然、道義は墜ち、大逆無道、千古これに比すものはない。よって匡正の任を同盟諸藩に託す。宜しく大義を明らかにし、兇逆の主魁を殄し、幼帝の憂悩を解き、下は百姓の塗炭の苦しみを救うべし。(星亮一、1995、奥州越列藩同盟、中公新書)

しかし、既に会庄同盟締結の時点から新政府への武力抵抗の姿勢をチラつかせていた会津と庄内、そしてそれを救解しようとした(そしてそれぞれに目論見は持っていた)仙台と米沢、嘆願同盟のつもりで加盟したのにいつの間にか同盟が攻守同盟になっていたといういくつかの諸藩。
その他、色んな藩がこの奥州越列藩同盟に名を連ねているのですが、読んで頂いてお分かり頂けるように、スタートの時点からして同盟に対する認識や立場(意欲的な藩もあればなし崩し的な藩もある)にばらつきがみられるのです。
つまり纏めますと、奥州越列藩同盟は色んな不安定なものを含んだ上で結集された同盟だということです。

白河が薩長連合軍の手に落ちたという方は、会津に暗い影を落とします。
尚之助さんの下には、戦場から戻ってきた故障した銃がいくつも運ばれてきますが、どれもこれも旧式の銃ばかり。
同盟は良いとして、中身が完全に着いて来てない現状を悟ったのでしょうか、尚之助さんの表情も冴えません。
何より白河を敵に取られたということは、会津の喉元に刃を突き付けられているも同然。
刃はそこに迫っているのに、迎撃体制が今の会津では整っていません。
この後いよいよ会津城下に戦火が迫った時、会津が籠城するのは皆さまよくご存知のことだと思うのですが、白河にまで刃を突き付けられていながら、何故城下の民草への対処をこの時点からでもいいから打っておかなかったのか、その辺りはちょっと謎といいますか、いくら何でも動作が遅すぎると言いたいのですけどねぇ。
これは結果論からの物の見方ではなく、会津が城下の危険予知が出来たか出来なかったかの観点からの意見です。

その頃、獄舎内の覚馬さんは戦火に晒された鶴ヶ城と城下の悪夢に魘されます。
これが会津では確定未来として間もなく用意されているのですが、少なくとも覚馬さんには薩長の牙が会津に向けられたらどうなるのか分かっていただけに、会津は、自分は、一体何処で間違ったのだと自問し始める覚馬さん。

象山塾で、都で、長崎で・・・世界を見ようどして来た。十年後、百年後に続ぐ豊かな道を探すはずだった・・・それが、会津はいま滅びる道を進んでる・・・

一体何をして、何をしないべきだったのか。
結果論から物事を語れる後世の人間でない限り、神様でもない歴史の当事者の覚馬さんがいくら自問してもそんな答えが出てくるはずがありません。
使い古された表現を使うのなら、それが「時代」というものなんですよね。
ですが、それが「時代」というやつだと言われて、覚馬さんが納得出来るはずもなく・・・。
なまじ物事が見えていただけに、傍観者サイドから動けない覚馬さんは本当もどかしかったことでしょう。

俺には何も出来ねぇ。こんな時に、何も

そんな風にして無力感に苛まれる覚馬さんの耳に、九年前にこの世を去った寅次郎さんの声が響きます。

天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い!立ち上がれっ!

当たり前ですが、覚馬さんは寅次郎さんの今わの際に立ち会っていないので、これは寅次郎さんが覚馬さんに呼びかけている(?)と言った図式になるのですね。
寅次郎さんに濃く影響を受けた人たちが会津を攻めようとしているのに、その寅次郎さんに覚馬さんは鼓舞される・・・何だか不思議です。

立ち上がれ・・・そうが・・・まだある・・・俺に出来るごどが、まだ、一づだけ・・・

覚馬さんの目に再び生気が宿ります。
出来ることがあると、その「たった一つ」を見出してアクションを起こそうとする覚馬さんと、傷病兵の手当や看護など、現状で自分に出来ることをやって行こうとする八重さん。
遠く離れていても、兄妹似ているなと思いました。
しかし八重さんの場合は、出来ることをひとつずつこなして行ったその先に戦が口を開けて待っていて、自分もそこに飛び込む形で巻き込まれていくわけですが・・・。
そして来週の戦場は、二本松ですね。

追記と言いますか、以下は懺悔文(?)なのですが・・・。
今週のメインともいえる「奥州列藩同盟」と「奥州越列藩同盟」について、正直大河ドラマを観た感じ、で色んな部分削られ過ぎてるので、ブログでも何処から着手して良いのか分からない状況でした。
正直、列藩同盟だけでも本一冊が書き上がる情報量を有してます。
寧ろ、丁寧に説明し出したらそれくらいの文章量が必要なのです。
それでも割愛しつつ、唸りながら何とか粘って冗長ながらも記事に仕上げましたが、自分で読み返しても「分かり難いなぁ」と苦笑いを禁じ得ないものになってしまってます。
なので、分かり難いと思ったそこな御仁、図書館でも本屋さんでも良いです、いっぱい本が出てるので、そちらに目を通して下さい。
素人のブログ何ぞよりもずっと分かり易く書いてくれてますので!

ではでは、此度はこのあたりで。


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