2013年6月6日木曜日

第22回「弟のかたき」

京都守護職の任に就いてから五年ぶりに会津への帰路へ就く容保様から始まりました、第22回。

皆を置いて大坂を出たこと、今でも只々恥じ入るばかり

実際容保様は、自分だけが先に江戸に戻って来てしまったことを深く悔いておられて、修理さんが切腹する前に藩士に頭を下げて謝罪したようです。
そんな容保様の江戸引き上げは慶応4年2月16日(1868年3月9日)。
文久2年12月9日(1863年1月28日)に江戸藩邸を出て京へ向かった時には、自分たちの立場がこんな風になってしまうだ何て誰も思わなかったでしょうし、誰もこんな目まぐるしいスピードで世が動いて行くだ何て思ってなかったでしょう。
あの時いた人の中で、今はいなくなってしまった人もいます。
幕末の5年と言う時間は、普通の時間の流れよりもずっと速くて濃密なものに思えます。
容保様の江戸引き上げに伴い、江戸にいた藩士やその家族たちも江戸を離れることになります。
照姫様はこのときに容保様と共に会津に行き、それが初めてのお国入りだったという説もあるのですが、このドラマではその説は採用されていませんね(照姫様とっくに会津におられますので)。
その藩士家族たちの帰国を、出迎えの家族たちは息を詰めて見守ります。
敗戦の報や、賊軍の汚名を着せられていることは既に会津の方にも届いてますので、空気がどうしようもなく重い・・・。
竹子さんの妹、優子さんとお母さんのこうさん、二葉さんが家族と再会を果たすのを八重さんが見守る中、待てど暮らせど列の中に覚馬さんと三郎さんの姿は見つかりません。
そんな八重さんに、江戸で最新の戦術を学び出ていた尚之助さんが声を掛けます。
視聴者の皆様は一足先に事実を知っているのですが、まだ何も知らない八重さんからすれば、覚馬さんと尚之助さんの仲だから二人は一緒に江戸から帰ってくるのだろう、そこに三郎もくっ付いてるのだろう、と思っていたのでしょう。
ですが、尚之助さんはひとりでした。
そのまま山本家に戻った尚之助さんは、持っていた風呂敷を静かに広げます。
中に包まれていたのは、戦塵に汚れた軍服でした

一月六日は、鳥羽伏見、最後の戦でした。・・・三郎さんは果敢に敵陣に向かって行き、銃弾を浴びて命を落とされたようです。最期は・・・大蔵殿が看取られました

慎重に言葉を選ぶように、訥々と尚之助さんが三郎さんの死を伝えます。
権八さんや佐久さんが悲報に打ち震える中、八重さんははっきりとした口調で「人違いだし」と切り捨てます。

三郎は、江戸で修業の身だがら。都には行ってねぇ
志願して参戦し、佐川様と共に戦ったと・・・
いいえ、人違いです。何処にでもある、こった軍服が、三郎の物のはずはねぇ

そういって手に取って広げた軍服に、南天の刺繍が施されているのを八重さんは見つけてしまいます。
この瞬間、この場の他の誰よりも八重さんはこの軍服が三郎であることを認識させられるのですが、この流れ、どうしようもなく脚本が残酷ですね。

覚馬は・・・?
開戦の日、京で薩摩兵に捕らえられました
戦場にはいながったのが?
御所の戦で負傷され、目を患っておいでだったそうです・・・都から引き揚げて来た人の話では・・・四条河原で・・・処刑されたと
嘘だし・・・あんつぁまが死ぬはずはねぇ。尚之助様は、なしてそった嘘を言うんだべ!

八重さんは尚之助さんに食って掛かりますが、権八さんがそれを厳しく制します。

討死は、武士の本懐。・・・未熟者だけども、お役に立ったならば三郎は本望だべ。覚馬は・・・無念であったべ、目を傷めだのが戦ゆえならやむを得ねぇ

そう言って権八さんは涙ひとつ零さず、息子たちの死を確かめてくれた尚之助さんに礼を言います。
そしてふたりの死は、山本家の男としては恥じるところではなかったと。
無念や悲しみは胸中に渦巻いてるでしょうが、それを表に出さないのもまた「武士」なのです。
ですがそんな武士の建前などを良くも悪くも壊したのが、みねちゃんの登場。
形式や面子に囚われないからこそ出来た役割でしょう、お蔭で権八さんは武士の建前通りに涙を我慢し続けなければいけない場から、「竈の火を見てくる」とその場から離れることが出来ました。
うらさんも、あれだけ典型的な武家の嫁であるなら、涙ひとつ零さないのが武家の嫁の心構えというものでしょうが、みねちゃんが来た途端堰が切れたように廊下の奥に駆け込んで泣き崩れましたよね。
そんな風にして誰もが涙ぐむ中、三郎さんと違って覚馬さんに関しては遺髪も何もないので死んでいない、と八重さんは現実を受け入れようとしません。
きっとそれを受け入れてしまったら、自分の中で生きている覚馬さんを殺してしまうことにもなるからでしょうね。

尚之助様、教えでくなんしょ。三郎の仇を討づには、なじょしたらよがんべ。江戸で洋式調練を見て来たんだべ、私に教えでくなんしょ!

兄と弟を失ったという現実が受け入れられないのでしょうね。
世界でたった三人の兄弟だったのが、急にひとりになってしまったのですから無理もない話です。

仇は、私が討づ!

復讐心に燃える八重さんですが、会津の視点から会津戦争のことを書くって言うのはこういうことなんだと思います。
あのお転婆八重さんの日常が、ある日を境に蹂躙されるようにぐっちゃぐちゃにされていくと言うこと。
そしてそこから這い上がって、桜のようにまた美しい花を咲かせて春を言祝ぐ、それが今年の大河の大きな流れではないかと。
しかしそうとは分かっていても、角場の竈の前でがっくりと肩を落とす権八さんの背中に漂う悲壮感とか、見ていて心が痛いです。
今では思い出と、息子二人と一緒に絶やさないように守って来た火と、権八さんだけが角場に取り残された。
辛い現実を癒してくれるのは思い出ですが、喪ったばかりの時に心を痛めてくれるのもまた、思い出なんですよね。

徳川家の京での宿所だった二条城は、以前の記事でも触れましたように1月5日時点で薩長側に接収されています(接収を命じられたのは尾張藩)。
その二条城に今いるのは、王政復古を経て晴れて表舞台への復帰が叶った実美さんと岩倉さん。
同席するのは西郷どんや大久保さん、木戸さんや乾さんと言った、歴史の教科書の「明治維新」でお馴染みの顔ぶれです。

慶喜は城を出て、上野寛永寺で謹慎しているとはいえ、関東は未だに徳川方の巣窟にございもす

大久保さんはそう言いますが、謹慎する前にフランス公使のロッシュさんは3回も江戸城に行って慶喜さんに抗戦を説きました。
ロッシュさんだけでなく、勘定奉行の小栗忠順さんや海軍副総裁の榎本さん、歩兵奉行の大鳥圭介さんも抗戦を進言していました。
慶喜さんは薩長と和解の方針に心を固めていましたので、勝さんや大久保忠寛さんの説いた「徳川家を存続させたいなら恭順を」と言う方を聞き入れたんですね。
(ちなみに勝さんが陸軍総裁になったのはこのときです)
そうして慶喜さんは鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉処分(松平正質さんと竹中重固さんと塚原昌義さんは罷免、その後逼塞。滝川具知さんや永井尚志さんも罷免)し、江戸城を出て、朝廷との執り成しは松平春嶽さんにお願いして、自身は上野寛永寺の大慈院で謹慎しました。
以上が江戸へ戻ってきた後から謹慎までの慶喜さんの行動です。
孝明天皇の異母妹である和宮さんや、上野輪王寺宮さんが薩長に東征中止の嘆願をし、天璋院さんが西郷さんに嘆願書を送ったのもこの時です。
この辺りのやり取りは、数年前の『篤姫』で既に描かれたことですね。
しかしこの嘆願は聞き届けられず、西郷どんは慶喜さんに「切腹」を、大久保さんは「厳刑」と主張して譲りませんでした。
そんな薩長連合軍が東征の歩みを止めるはずもなく、甲州に攻め込むために、ご先祖様に武田家重臣・板垣信方さんを持つ乾さんに、これから板垣姓を名乗るようにと岩倉さんは指示します。
甲州攻めの参謀が信玄さん所縁の人間となれば、甲斐の人々も道の支持も得られるだろうというところにこの人は着眼したのですね。
乾さんからしても、土佐藩は容堂さんの意向で鳥羽伏見の戦いでは対して功績を残せてませんので、甲州攻めはその挽回のチャンスになります。
(ただ、乾さんが板垣信方さんの末裔というのには諸説あるようです・・・まあ突っ込むだけ野暮ですけど。あ、でも効果は抜群だったようです)
そう言う経緯で姓を「板垣」と改めた板垣さんは、薩摩の主力部隊である迅衝隊を率いて甲州へと向かいます。
この板垣さんの部隊と甲州で衝突することになるのが、名を「甲陽鎮撫隊」と改めた近藤さん達率いる新選組です(甲州勝沼の戦い)。

会津へ帰国された容保様は、家督を養子の喜徳さんに譲り、ご自身は御薬園で謹慎の日々を過ごされていました。
照姫様が容保様を案じまずが、容保様が何も話して下さらないことに、辛そうな容保様を見ている照姫様もお心を痛めておいでの御様子で。
口を閉ざす容保様に変わって、萱野さんが容保様の心境を照姫様に代弁します。

それがし、殿はご自身を厳しぐ律しておいでど推察いだしまする
どういうことじゃ?
神保修理の自刃のごど、お聞き及びでしょうが。我らも当初は思い違いをしておりましたが・・・鳥羽伏見の敗戦は、まったぐ修理の罪に非ず。・・・何もがも呑み込んで、腹を切ったのでごぜいます。殿はおひとりで堪えでおられまする。それが、修理の死を償うたった一づの道と、お考えなのでしょう

萱野さんからそれらを聞いた照姫様は、容保様が背負ったものを分けて頂きたいと涙を零すのでした。
しかし軽く謎なのですが、このとき喜徳さんって一体何をしてたんでしょうね。
実質的な藩主はもう彼なわけですから、賊軍の汚名を着せられた自藩の状況踏まえて、何かしらアクション起こしてたのでしょうか。
その辺り、まだ勉強不足で存じ上げませんが、とりあえず現時点の容保様は「藩主」ではなく「前藩主」だということは忘れてはいけないポイントですね(何故か最後の会津藩主と言われがちなので)。

相変わらず獄舎生活を強いられている覚馬さんと野沢さんですが、そこに酒に黄金の饅頭をそっと乗せて(いつの時代のどんな場面でも本当これって効果覿面ですね)見張り番に便宜を図ってもらった大垣屋さんと時栄さんがやってきます。

会津は朝敵に非ず!万国公法に則り、会津・桑名に公明正大なお取り扱いを願いあげる!

と、叫んでいる覚馬さん。
ここで万国公法とは何ぞやと思う方も多くおられたでしょうが、難しく考えないでざっくり「国際法律書」とでも捉えて頂ければ問題ないと思います。
あるいは万国公法何て何処から出て来たんだと思われるかもしれませんが、西周さんと言う方が翻刻してまして、覚馬さんはその西さんと接点があったんですね。
西さんは啓蒙家ですので、接点通じて色々と影響も受けていたのでしょう。
その辺りの繋がりをがっつり大河ドラマでは削ってしまっているので、一体覚馬さんが何処で万国公法なんて言葉拾ってきたんだろうという疑問が視聴者には残るor万国公法って何だと視聴者を置いていってしまう、という事態が起こってますが(苦笑)。

戦になったら、会津は滅びるまで戦う・・・。なんとがして、東征軍を止めねぇど・・・西郷を止めねぇど!

時栄さんに筆と紙を持ってくるように頼んだ覚馬さんは、その嘆願書をどうやら認めるお積もりのようです。
獄舎内の覚馬さんのアクションがどんなことに繋がって行くのか、それはここで書かずともすぐに明らかになりますので、まだ触れないでおきますが、それよりも気になるのが獄舎内の環境。
いえ、「こんな劣悪なところに覚馬さんを入れるな!」というのではなく、「こんな劣悪な環境ではなかったよ」と言いたいのです。
薩摩の対応は粗略ではなく、監視も厳しくなかったので獄舎内で読書や将棋を楽しむことも自由でした。
覚馬さんに至っては脊髄を傷めた身を案じられてか、畳の部屋に収納されていました。
あと、覚馬さんが酒を所望したら(この設定も削られてましたが、史実の覚馬さんはお酒大好きさんなのです)お酒を持ってきてくれたですとか。
そういう獄舎内エピソードがあるので、少なくともあのドラマのような環境ではなかったと思います。
もしかしたら覚馬さんが薩摩に好意的に思われていた(これもドラマでは削られていましたが、覚馬さんは会津内にあって薩摩との融和の道を模索し続け、藩内で結構孤立してました)のも、その待遇の大きな理由の一つかもしれませんね。

戦の気配が確実に会津に迫る中、それでは会津はどう動くべきかについて、家臣一同が登城し、容保様もまた喜徳さんを補佐するために城に上がります。
会津は恭順の姿勢を今現在では取っているようですが、それらは悉く薩長に取り潰されています。

新政府など、一皮剥けば正体は薩摩と長州。恭順などど、腸が煮えぐり返りまする
んだげんじょ、朝敵と名指しされた今、戦えば我が藩の立場はますます悪ぐなる
奥羽鎮撫は、朝廷のご本意では御座らぬ。薩長の者どもの私怨に過ぎませぬ
そんじも、新政府に弓引けば賊軍と決めつけられんぞ
勝でば良いのです!朝敵の長州が今では新政府に一味しているでは御座らぬが。勝でば即ち官軍!

恭順か抗戦か、どちらも譲りません。
しかし長州はこの時点では藩主父子の罪も赦されているので、官兵衛さんのいうような朝敵ではないんですよね。
この入り乱れた議論は、まだ年若い喜徳さんでは到底納められません。
まだ13歳、数えで14歳の彼に、この難局で舵を取って行くのはまだ無理でしょう。
となれば容保様に自然意見を仰ぐ形となり、延いては場の決定権を委ねることになります。
隠居とは名ばかり・・・だから、印象としては「最後の会津藩主」というのが強いんですかね(実際には違っても)。
そんな中、息子に鳥羽伏見の責めを負わされて腹を切らされた内蔵助さんは、敗戦のままでは武士の一分は立たず、朝敵の汚名を着せらて恭順したままでは会津の面目が立たないと言います。

皆の考え、よく分かった。わしの存念を述べる。会津は飽く迄恭順を貫く。もとより朝廷に刃向う心はない。そのこと、頭を低くして幾度でも訴える・・・ただし!それでもなお攻めてくるならば、武門の習い、全藩を挙げてこれと戦う!薩摩、長州の謀略のすさまじさ、わしはこの身を以って知っている。全ての武器を捨て、あの者たちを迎え入れることなどは到底出来ぬ!

容保様が選んだのは、恭順の姿勢を見せつつ、戦に備えて軍備を整えるという選択肢。
容保様には、慶喜さんみたいに全ての武器を捨てて(とはいっても慶喜さん個人から切り離されてただけで、武装が解かれてたわけじゃないですが)恭順の姿勢を貫いて、城明け渡すということが出来なかった。
何故かと言えば、内蔵助さんの言葉にあった「武士の一分」がそれを拒んだのですね。
それが会津の気質で、それがよく分かっていたから覚馬さんは「戦になったら、会津は滅びるまで戦う」と言っていた。
自分達の殿様は慶喜さんのようには立ち回ることは出来ない、と。
それが容保様で、そういう気質が会津なので、覚馬さんも「否定」はしていない。
でもそういう容保様が、そういう気質が、この状況下でどういった事態を引き起こすことになるのかは分かってる。
だから、否定はしないけど、覚馬さんにとって大切だから守りたいんですよね。
正しさばかりでは生きて行けない世の中で、それでも正しさを貫いた、貫こうとした会津の姿勢と容保様の選択をどう捉えるか。
それは、個々によって異なってくると思いますので、ここで「私はこう思います」というのは敢えて控えておこうかと思います。

一方京では、奥羽鎮撫使が出陣しようとしていました。
総督の九条道孝さんは、討伐する前に会津が降伏して来たらどうするのだと言います。
ですが薩長連合軍の面々は、降伏するしないなど関係なく、「会津を討つ」ことのみに意味を見出しているご様子。
彼らが出す会津の降伏の条件は、容保様の首。
ですが誰がどう考えたってそんな条件が通る筈もないので、断られること前提の条件を提示して断って来たのを口実に、「鎮撫使」の名の下に討伐するということですね。
無体というか、本当形振り構ってないといいますか。

最早会津で戦が起こることは確定未来。
軍制改革にも漸く着手して、天明(1781年~1789年)以来の長沼流軍楽を捨てて洋式調練に切り替えることになりました。
八重さんの下でも、悌次郎さんや大蔵さんの弟の健次郎さん、盛之輔さんたちが一層熱心に銃の鍛錬に励みます。
ですが、指導する声がいつになく鋭く、表情も険しい八重さん。
「随分と荒っぽいな」と尚之助さんが様子を見ていると、八重さんはふとした拍子に、悌次郎さんに向かって「三郎」と言ってしまいます。
困惑したように悌次郎さんが「自分は三郎ではない」というと、八重さんは一瞬呆然として、その後銃を抱えて角場から飛び出してしまいます。
慌てて尚之助さんが後を追いますが、尚之助さんを訪ねて来た大蔵さんが、尋常ではない八重さんの様子に、行く手を阻みます。
三郎の仇を討つのだと走り出そうとする八重さんに、追い付いた尚之助さんが言います。

何処に行く気です!誰を撃つのですか!

見ていて非常に辛いシーンでした。
八重さんみたいな性格の女性には、泣きたいときに泣かせてくれる人が必要なんですよ。
でも普段強い人だから、絶対に表にそれを出そうとしない。
それを「出してもいい」と思えるような人が、八重さんのような性格の女性には必要なのですよ。
尚之助さんはまさにそれ。
二人目の夫となる彼は、果たしてその役目が果たせるのでしょうかね。
そして、尚之助さんという存在がいてくれたから感情を爆発させられた八重さんと、照姫様という存在がいても感情を爆発させられない容保様という、さり気無い対比になってますね。。

慶応4年3月5日(1868年3月28日)、東征大総督は一戦も交えることなく駿府城に入り、江戸総攻撃を3月15日(1868年4月7日)に行うと定めました。
しかし江戸城攻撃となれば、徳川家滅亡だけでなく、江戸も戦火に焼かれることになります。
そうさせないために、旧幕府方で動いたのが勝さんと大久保忠寛さん。
このとき勝さんがやったことのひとつに、山岡鉄太郎さん(鉄舟)に自分の手紙を預け、西郷どんに届けさせるというのがあります。
山岡さんは9日にその役目を果たし、危険を顧みない山岡さんを称えて、西郷どんは後年『南州翁遺訓』で以下のように残しています。
 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
そして同月11日に池上本門寺に西郷どんが入って、13日に江戸高輪の薩摩藩邸で勝さんと会見、そして江戸城無血開城へ・・・というのが史実の流れです。
ところがところが、ドラマではこの山岡さんの役目や行動が、そっくりそのまま勝さんに入れ替わってましたね(苦笑)。
そのせいか、場所も駿府城ではなく江戸の薩摩藩邸、山岡鉄太郎さんのての字も出て来ません。

陸軍総裁ともあろうお方が、兵も連れずにおいでにないもしたか
単身乗り込むくらいの腹がなきゃ、総督府参謀とは渡り合えぬと思いましてね。危ないのは寧ろ城に帰る道です。勝は徳川を薩長に売る気だと、私の命を狙う者も大勢いる
物騒にごわすな
そりゃあ、アンタ方が、明日には江戸城を攻め落とそうというのだからね

そんな勝さんが西郷どんに出した、江戸城総攻撃取り止めの条件は以下の通りです。
  •  慶喜は隠居して水戸で謹慎する
  •  江戸城は明け渡し、その後田安家に預ける
  •  慶喜の寛大な処分が決まりさえすれば、軍艦武器弾薬は必要数以外官軍に差し出す
  •  江戸城内に居住している者は、城外に居を移させて謹慎させる
  •  慶喜の妄動を助けたものは寛大に処分し、命に関わるような処罰は下さない
  •  土民暴発が徳川の手に負えなくなったら、官軍にも鎮圧の助力願いたい
対して、西郷どんの提示した条件は以下の通りです。
ちょっと比べてみましょうか。
  •  慶喜を備前岡山藩に預ける
  •  江戸城を官軍に明け渡す
  •  軍艦一切を官軍に引き渡す
  •  武器一切を官軍に引き渡す
  •  城内に居住する家臣は向島に移り、謹慎する
  •  慶喜の妄挙を助けたものを謝罪させる
  •  旗本の中で、徳川の力で鎮撫し切れずに暴挙に出るものがあれば、それを官軍が鎮圧する

西郷サン、諄くは言わぬ。・・・ただ、アンタと私、立場を入れ替えて考えて貰いたい。もし薩摩が敗れていたら、アンタは御主君の首を討って差し出せるか。・・・武士の誇りを捨てて、丸腰になれるのか

この台詞も、本当なら山岡さんが言ったことですね。
西郷どんはこれに対して「朝命である」と譲らず、激論になったそうなのですが、ドラマでは「万国公法では、恭順した敗者に死罪を申し付ける道理はありませんぞ!」と、万国公法を引っ張り出してきました。

嘆願、お聞き届け頂けるなら、一新に代えて江戸城は無事に引き渡す。だが・・・攻められればこちらも応戦する他はない。そのときは、この江戸市中は火の海になる。考えてみてくれ。・・・あの屋根の一つ一つの下には、人間が住んでいるんだぜ。戦とは関わりのない無辜の民だ。西郷サン、アンタが作ろうとしている新国家は、そんな人たちから家や命を奪うのか。それがアンタの目指す国作りか!

先程もちらりと触れました万国公法は、無茶苦茶簡単に言うなら国際法律書。
もう少し説明を加えますと、国際社会が遵守すべき法的規則と、理念として世界中の国家が平等である権利を有すると説いた、ヘンリー・ホイートンさんの著作です。
で、ここで万国公法を出してくるのは流れとしては凄く上手いと思います。
と言いますのも、西郷どんたち新政府は、これから先「国際社会の中での日本」の立ち位置みたいなのも模索していく必要がありました。
もう国を閉ざしてる時代は終わったのです。
で、日本が国を閉ざしている間に、海の向こうの国々では「国際社会」という漠然としたものが築かれていた。
日本も国を開いた以上、その国際社会に参加していかなければならないのです。
つまり、外国の目も気にしなくてはいけないということで、万国公法を無視したりしていると「日本は非国際的社会の国」という目で世界から見られることにもなりかねないのです。
そう言ったことが分かっていた勝さんは、実はこっそり薩長連合軍のやり口の汚さを諸外国の公使に漏らしたりとしています(笑)。
実際西郷どんは、「もし江戸城総攻撃になったら、自軍の負傷者は横浜のイギリス軍病院で治療してほしい」とパークスさんに言ったら、パークスさんに「徳川慶喜は恭順しているのに、恭順している相手に戦争を仕掛けるのは如何なものか」と言われたようです。
つまり江戸城無血開城に着いては、官軍側が国際的な外聞を気にして、というのが働いた部分もあったでしょうね。
ちなみに勝さんは「江戸城は明け渡しの後、田安家にお預けにして欲しい」というのに対して、西郷どんは「官軍に明け渡すように」と言っていることについて、これの違いが何かと言いますと、田安家に預けるということは、官軍に江戸城は渡しません、という意味なのです(田安家は徳川宗家16代家達さんの生家)。
しかし西郷どんからすれば、まずは徳川の本拠地である江戸城をこちらの手中に納めないことには話になりません。
そういうわけで話し合いの結果、江戸城は田安家ではなく尾張藩に引き渡すことになります(尾張藩は既に官軍側でした)。
慶喜さんの命も奪わないと約束してくれた西郷どん。
しかし、最後にひとつ意味深い言葉を零します。

さて、どげんなれば、振り上げた拳をばどけ下ろすかじゃな・・・

拳が下ろされる先何て、皆様とっくにご存知ですよね。
そんなこんなで江戸城と江戸の町は戦火から守られたのですが(上野戦争であの辺り燃えましたが)、勝さんが江戸城無血開城したこと大手柄的に持ち上げる人いますけど、先程も触れたように前もって山岡さんが作った下地があってからこそ実現したことで、決して勝さんひとりでやり遂げたことではありません。
では何故現在、江戸城無血開城は勝さんひとりの手柄みたいになっているのかというと、明治になったときに維新の手柄を各々自己申告せよみたいなのがあって(確か)、そこで勝さんが全部自分がやったように申告したからだったと思います。
その話については記憶あやふやなので、話半分に聞いておいて欲しいのですが、しかしそれを除いても正直勝さんは江戸を守ったとは言い難いです。
彰義隊のこともありますし、結局彼に出来たのは薩長の矛先を、江戸と徳川家ではないところに向けることだけだったかと。
勝さんなりの事情は理解しますが、言葉を飾らずいえば会津をスケープゴートにしたとも言えます。

会津では尚之助さんの指揮のもと、フランス式の調練が始まっていました。
駆け足したり、後ろ向きに走ったり・・・と、西郷さんに言わせて見れば「子供の遊びのよう」な調練ですが、尚之助さん非常に優秀なご様子で、皆がきびきび動いています。
指揮を執る尚之助さんに、日光口へ向かうことが決まっている大蔵さんが声を掛けて来ます。
日光口は、江戸から会津に攻めようと思ったら最短ルートに面する国境で、大蔵さんはそこで奮戦して薩長連合軍を通さないことに成功するのですが、それはまたその戦いの時に触れることにします。
八重さんはどうしているのかと案じる大蔵さんに、「泣くことが出来ただけ、良かったのです。悲しみに蓋をしているより、いくらかは楽になれる」と尚之助さん。
良い夫婦だな、と何度目かになる再認識をしました。
さて、では悲しみに蓋をしなくなった八重さんは、今度どう悲しみを昇華させていくのでしょうね。

このころの西郷どんというのは非常に忙しく、江戸にいたかと思えば京にいて、行ったり来たり・・・と。
で、先ほどまで江戸で勝さんと会談していたかと思いきや、次は京にいました。
そこで大久保さんと話していた西郷どんが、ふと目に留めた「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」という嘆願書。
その内容に驚愕を隠せないまま、西郷どんは覚馬さんのいる牢に下りて来ます。
獄中で会津の嘆願を叫び続けていたと思われる覚馬さんの声は既に掠れ掠れ・・・そんな覚馬さんに西郷どんは呼びかけます。

万国公法を知っちょっとか
敗者が恭順を示している時、これを殺すごどは世界の方に背ぎます。薩摩のお方にお願い申し上げる。何卒、奥州討伐はお留まり下され。会津に朝廷に刃向う心はごぜいませぬ

「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の内容は、会津の立場の弁明です。
安藤優一郎さん著の『山本覚馬』(PHP文庫)に分かり易く書かれてましたので、以下に引用させて頂きます。
会津が薩摩藩に反感を抱いて鳥羽・伏見の戦いに突入したのは、国事を憂慮した余りのことである。薩摩藩に対して、何か他意があったわけではない。国の行く末を憂慮したがゆえに、結果的に薩摩藩と行き違いが生じた。そうした事情を御賢察いただき、会津藩に憎悪の念を持たないで欲しい。会津藩にとっては戦友である桑名藩の場合も、そうした事情は同じである。いずれにせと、会津・桑名藩の処置については国際法に基づき公明正大な取り扱いをお願いしたい。(前掲188p)

これは、西郷さん苦悩するところですよね。
江戸城を討たなかったのは、万国公法によるところもあった。
でも、それで会津まで許してしまえないのが微妙なところなんですよね・・・万国公法に反することになるとはいえ、何処か一か所は犠牲にしないと収集が付けられない状況なのでしょう。
けれども正しいのは覚馬さんの言い分。
討たないで済む道もあるかもしれないと、一瞬模索しようとする西郷どんではありましたが、 「甲州の戦で敗れた新選組の残党らが、続々と会津に向かっておいもす。薩長連合軍に不満をば抱く者たちが会津に集結し、奥州諸藩が荷担すれば、こいは一大勢力とないもす」と大久保さんの報告を聞いて、奥州制圧やむなしとなります。

西郷!頼む、会津を助けでくれ!討づな!会津を滅ぼすな!俺の首を斬れ!俺を斬って、会津を助けでくれ!

正しいことを叫び続けていた覚馬さんの声は、さぞや西郷どんの耳に痛かったでしょうねぇ。
覚馬さんの処刑を取りやめて、医者に診せるように指示したのは、万国公法なんてものを理解してる人間が少なくて且つこれからそういう人間が必要になる中、彼を殺すのは惜しいと思ったのもあったでしょうが、あのシーンを見ると、どうもそれだけじゃなくて、正しいことを叫び続ける覚馬さんにせめて最低限の手を差し伸べることで、自分の間違いの罪悪感を少し軽くしていたんじゃないのかなと。
実際(史実)は如何か知りませんが、ドラマではそう感じました。
そもそも実際、西郷どんは忙しかったので覚馬さんの嘆願書に目を通したのか、はっきりとはしてないんですよね。

さて、会津には旧幕府軍の兵士が着々と集結しているようで、その中には北上して来た新選組の姿もありました。
角場で鉄砲を扱う時、怪我とは無縁でいられなかったのもあってか、手当に慣れている八重さん。
そんな八重さんを、何を以って春英さんが「似ている」と言ったのかは少しこの流れでは掴めませんでしたが、「覚馬さん」という言葉にその場にいた新選組のひとりが反応しました、斎藤さんです。
このとき新選組(一部ですが)は、斎藤さん(この時点ではおそらく山口二郎というお名前なのですが、混乱を避けるために敢えてこちらの表記を継続して使わせて頂きます)が指揮を執っています。
京で何度か覚馬さんと接点を持っていたという斎藤さんに、八重さんは薩摩に捕まったという覚馬さんの消息を尋ねます。
ですが覚馬さんの行方は、同時刻戦場で死線を掻い潜っていた斎藤さんが知る筈もなく。

兄上は都で洋学所を開いておられた。他藩の者も受け入れていたから、中には薩摩もいたかもしれぬが
んだら、薩摩の誰かがあんつぁまを助けでくっちゃがもしんねぇなし
それはどうかな。戦の最中さ。大勢が殺し合った。捕らえた敵を生かしておくとは思えぬ。生死の程は知れぬが、余計な望みは持たぬ方が良い

斎藤さんが八重さんの淡い希望にしっかり釘を刺しますが、これは紛れもない正論ですよね。
戦場を実際目の当たりにしてきた斎藤さんと、戦争に接したことのない平和な世界で生きて来た八重さんの温度差がくっきり表れているような気がしました。
でも、八重さんはいつものように「諦めない」んですよね。
三郎さんと違って、死んだと決まったわけではない覚馬さんの生の望みを捨てることはないと。
でもこれは、希望を抱いてると言うよりは、必死に自分に言い聞かせて最低限の自分を保っているように見えます・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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