2013年5月29日水曜日

第21回「敗戦の責任」

前回火種が爆発した鳥羽伏見の戦いから引き続いて始まりました、第21回。
相変わらず戦の真っ最中なのですが、今回も以前起用した下図を元に、話を進めていきたいと思います。

(クリックで多少大きくなります)
開戦から二日目、つまり1月4日(1868年1月28日)、この日は早朝から戦闘再開となり、じりじりと後退させられた旧幕府軍は午後二時頃に富ノ森まで退きました。
それぞれの銃器装備については、旧幕府軍はミニエー銃、薩摩はエンフィールド銃(短エンフィールド銃)でしたが、旧幕府軍は身を隠す塹壕なども設けてなかったので、街道を包み込むようにして布陣した薩長に敗れる形となりました。
ここの局面から察するに、一般的に捉えられがちな「銃の性能の差」と言うよりは寧ろ「戦略的」に負けていた、と考える方が腑に落ちますね。
ミニエー銃もエンフィールド銃も、射程距離も前装式であることも変わりありませんし・・・性能はやっぱりエンフィールド銃の方が上ではありますが。
しかしそう考えたら(つまり戦略的にという観点で)、後の函館戦争の二股口の戦い(1869年5月24日~6月9日)で、土方さんが塹壕を活用しながら薩長連合軍の進撃を阻止していたというのは、戦術的な進歩なのだなぁ・・・。
・・・という話は脇に置いて、富ノ森まで退いた旧幕府軍は、そこで大勢を立て直すかのように街道両脇に伏兵を置き薩長軍を押し返すなど、一進一退の攻防が繰り広げられます。
その一進一退の攻防が、別撰隊や官兵衛さんや初陣の三郎さんが頑張っている、あの冒頭のシーンにあたるのでしょうか。
薩摩はこの富ノ森では被害甚大で、旧幕府軍、つまりドラマで言う官兵衛さん達はもう少しで街道を北上突破出来るところでした。
しかしその勢いを挫くように、徳川の援軍は来ないこと、淀まで兵を退けということ、挙句の果てには夕暮れを理由に撤退命令が出されます。

これでは、戦にならぬわ・・・

戦になるどころかどっこい、残っている記録などから察しますに、旧幕府軍上層部はこのころまで自分たちの勝ち戦を疑っていなかった節があります。
総指揮官の竹中重固さんは3日夜に「勝利は疑いなく候」と手紙に書いていますし(その割には2日目早朝時点で淀まで逃亡してますが・・・)、同じく総指揮官の松平正質さんは首実検を肴に冷酒を煽っていたとか。
若年寄並の川勝広運さんは「明五日一日には鎮定疑い無きこと」と4日昼に書いています。
官兵衛さん達のいる現場とのこの温度差が、吃驚するほど凄いですよね。
ちなみにこの4日、つい先日まで容保様たちがおられた京都守護職本陣の黒谷が、薩摩によって接収されています。
二条城が接収されるのは翌5日のことです。

一方、戦の足音がまだ少し遠い雪降る会津では、諏訪神社に奉納した幟の中で、お雪さんが一心に祈っておりました。
みねちゃんを連れてやって来た八重さんがそれを見つけ、すっかり鬢に白く雪を積もらせたお雪さんを八重さんは案じます。
そのお雪さんが案じているのは、言うまでもなく修理さんのことです。

なあ、八重さん。・・・神様を、試してはなんねぇな。あの時落とした石のごど・・・今になって気にかがって

当時は軽いしこりだったものが、こういった時にで物凄く気になりだすこと、ありますよね。
後悔しても後悔しても、後悔し切れないというか・・・だからでしょうか、お雪さんは「もし罰が当だるなら、私に。旦那様には当でて欲しくねぇ」と切実なまでの声で囁くものですから、見ている此方も涙腺緩みます。
八重さんもみねちゃんも、社殿に向かって手を合わせます。
みねちゃんは覚馬さんのことを、八重さんは覚馬さんと会津の皆のことを。
この中で神様に聞き届けられた祈りは、結果的にはみねちゃんのものだけになるんですよね。

再び戦場、開戦から三日目の1月5日(1868年1月29日)。
薩摩の砲撃を指揮しているのは大山さん。
後に「陸の大山」と呼ばれるだけあって、なかなかの采配ぶりですが、そんな大山さんが耳に被弾します。
史実なら、ここで被弾箇所を手拭いで頬かむりをして、何事もなかったように戦闘に参加する・・・という有名な逸話があるのですが、残念ながらスルーされてしまったようですね。
会津と新選組が、その大山さんと対峙していましたが、大山さんがいたのは富ノ森、会津と新選組がいたのは千両松(場所位置は図参照)なのですが・・・会津と新選組の戦力が、両方に配置されていたということでしょうか。
(ちなみに新選組六番隊組長、源さんこと井上源三郎さんが討死されたのは千両松での戦い。他にも隊士13名がここで討死しています)

こう撃ち込まれてはたまりませぬ
こっちは大砲隊がやられで応戦出来ねぇ
敵の砲兵を斬るしかありませんな
よし、突貫槍で突っ込むが

敵の砲撃を前に打つ手なし、となって、では突撃か・・・と官兵衛さんたちがなったその時、フランス式軍服に身を包んだ大蔵さんが大砲隊を率いて駆け付けました。
大蔵さんの妹の咲子さんが、後に大山さんの奥さんになるので、砲弾飛び交う戦場真っただ中ではありますが、これは未来の義兄弟の邂逅でもあるのですね。
ちなみに官兵衛さんに突っこまれていた大蔵さんの格好ですが、大砲での戦だけに限らず、銃弾が飛び交うような戦が当たり前になりつつあるこの時代、寧ろ鎧甲冑などを着ている方が被弾した時に弾が取り出しにくくなったり破片が厄介になったりするので、大蔵さんの格好が全面的に正解です。

広沢さん、修理さん、悌次郎さんは小高い場所から戦場を展望して、戦況に唖然とします。
徳川の指揮はどうなっているのだと悌次郎さんが言ってましたが、最早指揮系統など崩壊している(というより最初から崩壊してた)のです。
士気が低いのもあったでしょうが、指揮系統がままならないので、各々どう動いて良いのか分からないとまどいというのも少なからずはあったと思います。
更に、何度が触れて来ましたように、旧幕府軍最大の強みともいえる数の利を悉く活かせないどころか利を殺される地形での戦いでしたので、形勢不利もある意味当然だったかと。
そしてとどめに、総大将が秋の空模様のように変わりやすい慶喜さんですので。
と、その時広沢さんが対岸に見慣れない旗が翻ったのを見つけます。
赤地錦に金で日輪の旗と、銀地錦の月輪の旗、即ち錦の御旗です。
錦の御旗です、とは書きましたが、まあ正確に書くなら「錦の御旗(偽)」と言うのが表現としては妥当なのですが。
そして旗の隣に、赤色縅の鎧を身に纏った仁和寺宮嘉彰さんがご登場。
やけに落ち着きがないのは・・・といってもまあ、戦などという物騒なものから離れて暮らしていた宮様が、急に鎧着せられてこんな場所に連れて来られたら、そりゃああなりますわな(笑)。
この仁和寺宮嘉彰さんに征討大将軍として出馬の勅命が下されたのは4日のこと。
この勅命について、参謀の伊達宗城さんが「征討大将軍は薩長二藩の趣旨から朝議が出ていることになってる」と言います。
つまり、薩長の都合だけで朝廷を動かして勅命を引き出すなということでもあり、諸藩の抗議を尽くすべきだという主張でもあり、薩長と旧幕府間の私闘を日本国中巻き込んで大きなものにしようとするなという意見ですね。
土佐藩と芸州藩もこの宗城さんの言い分に賛同を唱えたのですが、勅命は覆らないまま、薩長がゴリ押しで空気を持って行った感じですかね。
宗城さんはその後、参謀を辞していますが、このことが原因なのは明らかです。
そういった経緯で戦場に現れた仁和寺宮嘉彰さんと旗を怪訝に眺めていた修理さん達は、それが帝の軍勢の旗印であることを理解します。
要はここに官軍、朝敵、という白黒区別を着けるものが登場してしまったということですね。
そして薩摩側にそれがあるということは、薩摩と対峙している会津は朝敵という立場になります。
もっというならば、朝敵になりたくないので錦の御旗が掲げられている方(薩長)へ寝返る藩も出てくるということになります。
とはいってもこの錦の御旗、まあ偽物なのは再三触れてきたことですが、仕上がりが間に合わなかったので急遽打敷を急遽転用したものだったという説もあったような気がします(仁和寺の方談)。
その錦旗が掲げられたということはすぐに大坂城にも届けられます。

それでは薩摩が官軍、我らが賊軍となりまする!
偽物だ!錦の御旗などある筈がない。・・・大方、岩倉辺りが拵えたのであろう
偽りの勅を出していたのと同じやり方に御座ります

偽勅の例もあったので、偽の錦旗の可能性も否定出来ないという容保様の推理は大正解なのですが、あの時おられた孝明天皇は今はおられません。
明治天皇は完全に薩長サイドの手中にあります。
なので容保様の「偽物だろう」という推理は推測の域を出ないまま、容保様たちは賊軍の立場に追いやられます。
しかしこの絶望的な状況下で、集めた諸将に向かってひとり朗々と声を張り上げる慶喜さん。

大坂が焦土と化し、我らは討死するとも、江戸に残った者たちが志を引き継いで戦い続けるであろう!大義は我らにある!最後の一騎となるまで、戦い抜くぞ!

総大将直々の鼓舞となれば、将兵たちも高揚せずにはいられないのでしょうが、何度も慶喜さんに苦い思いをさせられている容保様も、戦場から戻った修理さん達も、この様子を複雑な目で見ていました。
近頃ことごとく慶喜さんに対しては複雑な視線を送り続ける会津陣ですが、一番とばっちり食うのは結局彼らだという切ない図式が本当に不憫です。
その後、慶喜さんは修理さんから淀藩が寝返った報国を受けます。
富ノ森から撤退を余儀なくされた旧幕府軍は、淀城に入って戦況の立て直しを図ったのですが、淀藩は城の城門を開けず、入城を拒まれた旧幕府軍は更に南の橋本へ撤退することになりました。
このとき淀城城主は江戸にいたので(ちなみに老中の稲葉正邦さんです。出身は二本松藩丹羽家)、この門前払いは城主の留守を守る重臣たちによって下された判断です。
藩主のいない間に城下を戦火に巻き込むわけには行かなかったのもあるでしょうが、やはり大きな影響を与えたのは錦旗の存在でしょうね。

畏れながら申し上げます。我が軍勢、兵の数こそ敵に勝っておりますれど、軍略に乏しぐ、このまま戦を続けでは兵を失うばかりど拝察仕ります
では如何すれば良い?遠慮はいらぬ、申してみよ
兵達を率いで一旦江戸に戻り、戦略を立て直すべきがど存じます
江戸に戻る、か。・・・なるほどの

宜な宜なといった風な慶喜さんですが、このやりとりが後々でとんでもない事態を引き起こしてしまいます。
会津でそんな修理さんのことを、内蔵助さんとお雪さんがどれだけ想っていても、事態は起こってしまうのであります。

開戦から四日目の1月6日(1868年1月30日)、官軍となった薩長軍は、橋本に土塁を築いて待ち受けていた旧幕府軍と激突します。
その最前線に立たんとする三郎さんに、大蔵さんは後方に回るように言います。
気持ちが残ってる人の弟を危ない最前線に立たせたくなかったのか、それとも若くて未熟な三郎を案じてか・・・どちらなのかは定かではありませんが、三郎さんは首を横に振りました。

兄の目のごど、聞きやした。なじょして戦場にいねぇのがど、不思議に思っていだげんじょ・・・さぞ無念だど思いやす。山本家の男として、兄に代わって働ぎとうごぜいます

覚馬さんは目のことをずっと家族には伏せていましたが、あの覚馬さんを知る三郎さんが、覚馬さんを戦場で見かけなかったらおかしいと思うのも当然ですよね。
もし覚馬さんが目に支障を来してなければ、それこそ蛤御門の変の時のように率先して大砲隊率いてるはずなので。
三郎さんは、「姉上も力を貸してくれます」と、八重さんが手ずから縫った南天の刺繍をぽんと叩きます。
それに口元を綻ばせた大蔵さんが、「よぐ狙って撃で」と言った言葉は、八重さんが言っていた「よーぐ狙っで撃ちなんしょ」とあまりにも似ていて・・・。
嗚呼、何だか嫌な予感・・・と思っていたら、何だか不吉な砲声が。
この砲声は何かと言いますと、淀藩に続き、淀川右岸にあった山崎関門を守備していた津藩(1000人)が裏切り、対岸に布陣していた旧幕府軍に向かって砲撃し始めたのです。
同じ寝返りでも、淀城に入れて貰えなかったことより、対岸の山崎関門から予期せぬ砲撃してきた津藩の方の存在の方が、実害的にも旧幕府軍にはダメージあったとおもうのですけど、老中の藩が旧幕府を裏切ったというのは精神的ダメージが大きいのでしょうか。
ともあれ、地の利を生かしていたはずの旧幕府軍ですが、津藩の裏切りによって戦況は一変、防戦と苦戦を強いられることになります。
実際は、築いた土塁が頑丈だったこともあり、動揺はそんなになかったようなのですが、後方に布陣していた八幡の部隊が後方を遮断されることを恐れて総崩れになってしまい、薩長がその八幡から側面を突く形で旧幕府軍に攻撃して来たのが痛手でした。
ちなみに元新選組八番隊組長の藤堂平助さんが津藩のお殿様のご落胤で、平助さんが新選組に油小路で殺されたからそれを恨みに思って津藩はこのとき裏切った、という流れを小説やら何やらで見かけますが、それは創作の中だけにしておいて下さい(お願いですから)。
津藩は5日に勅旨を迎え、重臣藤堂采女さん達が帰順を迫られていることからも、それが創作の域から出してはいけないことだというのはお分かり頂けるかとかと。
新選組と言えば、この1月6日で諸士調役兼監察の山崎亟さんが重症、『壬生義士伝』で有名な吉村貫一郎さん消息不明となっています。
初戦同様、西郷どんはこの6日の戦を戦地に赴いて見学していたようですが、前線に出たことを島津忠義さんからお咎めを受けています。
その西郷どんが眺めていた戦場で、三郎さんは被弾します。
三郎さんの被弾と同時に、虫の報せのような形で会津の八重さんはガラスを割り、破片で指を怪我します。
嫌な予感、的中です。
その日、慶喜さんは全軍に撤退命令を出し、旧幕府軍は大坂城へ引き揚げとなります。
怪我人の収容は大坂城三の丸に置かれた雁木病院にされますが、怪我人が大量に運び込まれ、被弾した三郎さんは大蔵さんによってそこに運び込まれます。
何発か被弾してましたが、一番の致命傷は腹部への一発でしょうか。
大蔵さんが懸命に呼びかけますが、完全に三郎さんの顔からは血の気という血の気が失せています。
朦朧とする意識の中、大蔵さんを覚馬さんと間違えた三郎さんでしたが、大蔵さんは覚馬さんが今この場に居れば三郎さんに言ったであろう「よぐ戦ったな」と言い、その言葉を受けとって三郎さんは息を引き取ります。
正確に言えば、三郎さんが亡くなるのは1月29日(1868年2月22日)、江戸の会津藩中屋敷なのですが・・・ともあれ21年の若い人生でした。
この鳥羽伏見の戦い(1月3~6日)のおおよその死者数は、会津藩129、新選組24、桑名藩12。
これは飽く迄「死者数」なので、負傷者はもっといたと思います。

取り敢えずドラマの流れに沿いつつ、ここまで鳥羽伏見の戦い四日間をここまで書いてきましたが、分かり易さを目指していたはずなのに冗長且つ解り難くなってしまってて申し訳ないです。
鳥羽伏見の戦いについて、その流れを非常に咀嚼して書いて下さってる方がおられますので、「結局鳥羽伏見ってどういう流れの戦いだったの?」と言う方は是非、こちらのブログ記事様まで足をお運び下さいませ。
本当に分かり易いですので!
権中納言様、リンクお世話になります。

さて、そういった次第で大坂城に撤退して来た官兵衛さん達ですが、慶喜さんに撤退命令を出すよう仕向けたのは修理さんだという噂に憤りを隠せません。

貴公、ご宗家に何を吹き込んだ?大坂で戦い抜ぐお覚悟が、貴公の進言で撤退に変わったど聞いだぞ!
戦を続けでは、無駄に兵が失われると申し上げたのでごぜいます
んだら、先に死んだ者の命は、無駄になってもいいっつうのが!

度々冷静さに事欠く官兵衛さんではありましたが、鳥羽伏見の戦いで会津軍全軍の指揮を実質担っていたと言っても過言でない官兵衛さんからすれば、これぐらいの憤りが出るのは当然ですね。
こういった人の観点が戦を泥沼化させる一因にもなり得るのですが、組長者は部外者だからそういう風に冷静に分析出来ても、官兵衛さんは歴史の当事者ですから。
官兵衛さんは、総大将の慶喜さんが出陣すれば兵の士気が上がって形成が一気に逆転したはずだと言います。
総大将が前線に出陣しなかったというのは、宛ら関ケ原の戦い、あるいは大坂夏の陣のようですね。
しかし関ケ原の戦いで西軍総大将の毛利輝元さんが出馬せずに西軍が負けたように、大坂夏の陣で豊臣秀頼さんが出馬せずに豊臣方が負けたように・・・と繰り返しているのを見たら、官兵衛さん達もこれになぞらえて・・・となってしまうのが歴史の妙。
そこへ、開陽丸を率いて来た軍艦頭の榎本さんが、さらりと黒絨のイギリス式フロック形軍服を着こなして登場します。
全く触れられてませんが、榎本さんは開陽丸と蟠龍を率いて、江戸で騒ぎを起こした薩摩藩士たち(鳥羽伏見の火種となったあの一件です)を乗せて鹿児島に向かっていた平運丸に兵庫沖で発砲し、兵庫港に逃げ込んだ同船を出港させないように封鎖させています。
サンチャゴ・デ・キューバ海戦の海上封鎖、とまでは行きませんが、榎本さん流石のひと言に尽きません。
結局この後平運丸がどうなったのかと申しますと、隙をついて瀬戸内海を通って脱出し、色々ありましたが結局最後はノット数の差で逃げられてしまっています。
・・・と、そんな日本初の海上戦をしてきたのに全力スルーされてしまうのは、会津視点ドラマですので仕方がないとして、慶喜さんに目通りを願った榎本さんは「明朝早々に」と言われてしまいます。
榎本さんは幕府の指揮官にはもう何も見出しておらず、この戦で共に戦うべきは会津と見做しているようです。

一方、榎本さんの面会を断った慶喜さんは、容保様に「江戸に戻る」などと信じられないことを言い出します。

そなたも桑名殿と共に付いて参れ
兵達が引き揚げている途中に御座ります。出立の支度が整いませぬ
兵は置いて行く。我らが城を出ること、家臣たちにも口外無用。榎本の軍艦が天保山沖に停泊している。今宵の内に乗り込み、江戸に向かうのだ
兵達を見捨てて?それはなりませぬ!最後の一騎となるまで戦い抜くと仰せになったではありませぬか
あれは、皆の動揺を鎮める方便だ。一旦江戸に戻り、再起を図るぞ
では尚のこと、全軍を率いて戻るべきにござりまする
馬鹿を申すな。それでは江戸に着くまでにまた戦となる。そなたひとりで余と共に来るのじゃ
いいえ、それがしは藩士と共に残りまする!
ならぬ!そなたがここにいては、会津兵がいつまでも戦をやめぬ。偽物であろうと、錦旗が挙がった上は、兵を退かねば徳川は朝敵となるのだぞ。・・・会津の御家訓に、徳川を朝敵にせよとの一条があるのか!

それをいうなら会津の御家訓に、敵前逃亡の供をせよという一条もありません。
しかも慶喜さんは、事ここに至って江戸に帰るのは修理さんの進言だと言います。
よくもまあぬけぬけと・・・と、流石にちょっと苦笑いを禁じ得ませんでしたね。
修理さんは、「兵を置いて」江戸に帰れとは一言も言っていません、「兵達を率いて一旦江戸に戻り」と言ったのです。
自分の都合の良いように言葉を切り貼りした挙句、責任が自分にはないと回避しようとするのは、どうしようもなく卑怯な振る舞いです。
まあ、ひとつだけ慶喜さんが卑怯な振る舞いをしてでも江戸に逃げ帰って、朝敵の汚名だけは避けたいと思ってる心理について弁護するのなら、それは慶喜さんの体内に流れてる水戸の血が故でしょうね。
勤王思想の殊の外強い水戸家に生まれ育った慶喜さんは、偽物であろうが何であろうが、錦の御旗が掲げられた時点で降参なんですよ。
慶喜さんの体を構築してる水戸DNAが総動員で降参する感じでしょうか。
長州などが尊王攘夷尊王攘夷と熱に浮かされたように叫んでましたが、その尊王攘夷の大本は水戸にありますから。
そう考えて頂ければ、慶喜さんのこの錦の御旗に対する及び腰、朝敵の汚名だけは避けたいとなりふり構わずになる、という辺りも、理解出来ます。
理解は出来ても、決して賛同は致しかねますが。
そうして慶喜さんはその晩の内に大坂城を脱出し、アメリカ公私に仲介を依頼してアメリカ艦イロクォスに搭乗、翌朝に開陽丸に移乗して海路江戸に向かいます。
同行したのは容保様、定敬さん、板倉勝静さん、酒井忠惇さんなど主だった側近たちのみ。
他は全員、何も知らされずに置いて行かれました。
その置いて行かれた組のひとりである桑名藩士の中村武雄さんは、この慶喜さんの敵前逃亡を「天魔の所為」と日記に記しています。
この慶喜さんの大坂城脱出劇について、大坂城を出る時に門番や番兵に気付かれなかったのかと思うかもしれませんが、「お小姓の交替です」と言って通ったそうです。
番兵も番兵でうっかり騙されちゃ駄目だよと言いたくなりますが、番兵にとっては慶喜さんは雲の上の人も同然、顔なんて見たことなかったでしょうから、気付こうにも気付けなかったのでしょう。
容保様の姿が見えないことはすぐに修理さんにも伝えられ、部屋にはただご宸翰がぽつりとあるのみでした。
・・・正直、容保様が亡くなられるまで入浴時以外は放さずに持っていたというこのご宸翰を、置いて行くかな・・・と少し小首を傾げたくなる演出でしたが。

鳥羽伏見での敗戦と、容保様が兵を置いて江戸に戻ったという話は、会津にも程無く届けられました。
長い蟄居が解け、家老に復職した西郷さんは登城して、家老たちと早速話し合います。
そこで内蔵助さんから、会津は第二等の朝敵だという裁定が下されていると聞き、低く唸ります。

会津が、朝敵・・・

諌めて諌めて、早く国に帰れ、守護職辞めろ、会津が恨まれるなどなど耳の痛いことを散々言って来て、挙句蟄居になった西郷さん。
桜が枯れぬように災いの元を取り除きたかったと言っていた西郷さん。
その西郷さんが、会津が朝敵の烙印を押されたのだと知った時の心境を考えると、本当何も言えなくなります。
結果論になりますが、西郷さんの言っていたことは耳には決して心地良くなかったのかもしれませんが、全部正しかったんですよね。
会津は怨まれましたし、ご宗家に振り回されて一番とばっちりの受ける立ち位置に立ってしまってる。
でも今しか生きることの出来ない人が先のことなんて分かる筈もないので、西郷さんの言葉に従わなかったのが間違いだったと一括りには出来ないのも事実です。
歴史にifが、あるいはたらればが禁止と言われるのは、そう言った所以ではないでしょうかね。

捕らわれた覚馬さんは、京都二本松の薩藩邸の、稽古所を改造した獄舎に弟子の野沢さんと一緒に押し込められていました。
賊徒として扱われているので、覚馬さんを待っているのは打ち首です。
覚馬さんはどうやら背中から下半身に唸るような痛みを抱えているようでしたが、この獄中で覚馬さんは脊髄を痛め、歩くこともままならなくなってしまいます。
視力も薄れ、歩くこともままならないどころか外がどうなっているのかもさっぱり分からない狭い獄中で、「蹴散らして前へ進め」るようになるには今しばらく時を待たねばなりません。

捕らわれの身ではありますが、覚馬さんは取り敢えず無事なわけですが、その消息も三郎さんの安否も、まだ会津には届いていませんでした。
尚之助さんは、徳川家が朝敵とされている現状を冷静に受け止め、賊軍とならないように一旦恭順すべきだというと、権八さんから「にしゃ、腰抜げがっ!ならぬことはならぬ!」と怒鳴られてしまいます。

すまねぇなし。・・・んだげんじょ、私もおとっつぁまの言うごどが正しいと思いやす。何年も都をお守りして来た会津が、朝敵なはずはねぇ
でっち上げでも、今は新政府が徳川に取って代わったのです
んだがら、取り返さねばなんねぇのです!敗れたままでは・・・殿がお城がら逃げたままでは、会津の誇りは・・・。江戸には、あんつぁまも、三郎もいる。大蔵様も、佐川様も・・・。皆で戦えばきっと勝でっから。負げたままでは終わんねぇ。ならぬことは、ならぬのです!
やり直すための恭順です。まず会津の無実を訴える。その一方で戦に備えて軍略を立てます

このやりとりから、八重さん(と権八さん)と尚之助さんが少しすれ違ってるなと感じました。
「ならぬことはならぬ」姿勢一貫の八重さんと、柔軟に立ち回ろうとする尚之助さん。
物の道理が通ってるという意味での正論は、勿論八重さん達の言い分です。
ですが今回、「ならぬことはならぬ」が何だか思考停止のワードとして連呼されていたようで、もう少し上手な使い方なかったのかな・・・と思ったり思わなかったり。
こんなさびしい言い方は嫌なのですが、会津人でない尚之助さんは「ならぬことはならぬ」精神ではなく、朝敵にされた憤りはあるでしょうが理屈で感情を割り切れるのでしょうね。
八重さんの主張が一本の木だとすると、尚之助さんの主張は差し詰め柳でしょうか。
真っ直ぐな木は折れやすい、柳は折れにくい。
まあ、結局のところ何が正しいのかなんて、人によって価値観が違いますから、これ以上の言及は控えることにしておきます。
でもこの夫婦間のずれが、後々に辿った八重さんと尚之助さんの岐路にも繋がっていくのではないかなと、ふとそんな考えが過りましたが、それはその時が来てから掘り下げて触れることにします。

置いて行かれた会津兵が、海路で江戸に到着したのは1月15日(1868年2月8日)。
容保様はこのとき、下屋敷や負傷兵を見舞い、自分の落度(兵を置いて行って江戸に戻ったこと)を率直に詫びています。
ですが、それだけではすまないのがこの問題。
会津藩氏たちの中には少なからず、自分達を置いて行った容保様に不満を感じたものもいるわけでして、それを敏感に察知した修理さんが、容保様の罪を肩代わりする形になって、幽閉されてしまっています。

上様に従って江戸にも戻ったのは、わしの過ち。責めはわしが負うべきものを・・・修理が代わって、恨みを受けることになってしまった
あの時は誰にも修理様が殿を連れ出したように見えました故・・・停戦を進言したごども、上様に逃亡を唆したど、受け取られているのでごぜいます
出してはやれぬか、あの部屋から
幽閉を解げば、命を狙われましょう。・・・修理殿の死罪を望む者も多うごぜいます
その怒り・・・まことは、わしが引き受けるべきもの

容保様を始めこの場にいる誰もは、修理さんが無実なことは百も承知ですが、最早修理さんが無実かそうでないかの問題ではないのですね。
自分達を置き去りにして江戸に帰ったという、一部の会津藩士が容保様に向けて抱いてしまっているものを、誰かが代わりに背負って処理しなければ、会津は真っ二つに割れてしまいます。
誰かがやらなければならない。
その「誰か」が修理さんなのであり、修理さん自身も己のその役目を重々承知している。
だから、理不尽を呑み込ませて彼に全てを背負わせることが、辛いのですよね。
それだけでも辛くて心苦しいのに、江戸城から戻った土佐さんが更に残酷なことを容保様に伝えます。

登城を禁じられました。今後登城するごど、罷りならぬ。会津は江戸から立ぢ退けどの、ご命令にごぜいました

何年も連れ添って、振り回して、離れて行こうとすれば御家訓持ち出して繋ぎ止めて置いて・・・と会津に散々好き勝手なことしていたにも拘らず、自分の勝手都合ですっぱり捨てるとか本当弁護の言葉が見つからないくらい酷いですよね、慶喜さん。
基本的に「偏ってない史観で歴史を見つめて行きたい」と思っている私ですが、この辺りの慶喜さんについては本当「こういう事情があったんだよ」と庇ってあげることも庇う気さえも起きてこないです(苦笑)。
後年、慶喜さんが「鳥羽伏見の戦いは会津が勝手に起こした」といけしゃあしゃあと語ったことも相まって、余計に・・・。
容保様が呆然と御家訓を口ずさんでおられましたが、徳川から捨てられた場合、あのご家訓はどう解釈するべきなんでしょうね。
そう考えた時、御家訓って縛るためのものではなく、「おかしいと思ったら自分達で随時直して行け」というニュアンスも含んで正之公は作ったのじゃないかなと思ったりもします。
ただ、そのニュアンスの部分が伝わらず、御家訓そのものだけが鉄の掟のように会津藩藩主に受け継がれていった、と。
まあ、全ては正之公のみぞ知る、なのですけどね。

その深夜、容保様は悌次郎さんと一緒に修理さんが幽閉されている部屋に行きます。
容保様は自分の代わりとなって怒りと理不尽を背負う修理さんに、そのような境遇に落としたことや、名誉を取り戻してやることが出来ないことを深く詫び、切腹を申し付けます。
思えば容保様は、会津戦争後も責任取って切腹する家老の時も同じように心痛めることになるんですよね・・・これから先は、只管容保様は心を痛め続けることになるのですね。
修理さんは「ありがだぐ、承りまする」と静かに切腹の命を受け入れます。
容保様が立ち去った後、悌次郎さんは遠回しに「逃げて生きろ」と修理さんに言います。
張り番がいないのも、屋敷の警固が緩いのも、全て容保様の計らいで、そうかそこを汲んで欲しいと。

殿は全てを分がっていで下さる・・・それで、十分ではないが・・・

全てに対する修理さんの答えはそれでした。
一度背負うと決めた覚悟は、そう簡単には揺るがないのですね。
静かな修理さんが、とても切なく映りました。
慶応4年2月22日(1868年3月15日)、修理さんは作法通りに切腹しました。
(切腹するのに髭剃ってなかったのはちょっとおかしいですが)
修理さんが切腹に使った刀は悌次郎さん経由で容保様の手に渡ります。
辞世は「帰り来ん時よと親のおもうころはかなき便りきくべかりけり」。
一方で幽閉中、修理さんは以下のような絶命詩を勝さんに残しています。
 一死元甘雖(一死元より甘んず)
 然向後奸得時忠良失志剛(然りと雖も向後、奸、時を得、忠良、志剛を失ひ)
 我国再興泣難期(我国再興期し難きを泣く)
 君等努力報国家真僕所願也(君等、努力、国家に報ずるは真に僕の願ふ所なり)
 生死報君何足愁(生死君に報ず何ぞ愁うに足らん)
 人臣節義斃而休(人臣の節義は斃れて休む)
 遺言後世弔吾者(後世に吾を弔ふ者に遺言す)
 請看岳飛有罪不(請う看よ岳飛に罪の有りやなしや)
 囚中絶命 長輝
容保様の代わりに、全てを一身に受けて切腹した修理さん。
やがてはこの時代わりになってもらった容保様(と会津)が、今度は徳川家に向けられるはずの薩長の鬱憤的なものを一身に受けることになる。
宇治の川瀬の水車なんととうき世を巡るろう、とは本当よく言ったものです。


ではでは、此度はこのあたりで。


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