2013年5月22日水曜日

第20回「開戦!鳥羽伏見」

前回からの王政復古の流れで始まりました、第20回。
まあしかしですね、執政権は兎に角、徳川家の領地は朝廷から貰ったものじゃないです。
なので正直、岩倉さんが言っているような朝廷に徳川の領地を召し上げる名分名義は立ってないんですよ。
その辺りひと言触れて欲しいなと・・・いえ指摘した中根雪江さんという越前藩士の方がおられるのですが、出て来ませんでしたね。
ともあれ道理の通らないこの薩摩と一部公家のやり方に業を煮やした会津の面々は、下坂するという慶喜さんに出陣を迫ります。

こごで逃げでは、都落ぢにごぜいます!
これは薩摩を討つための策じゃ。余に考えがあってのこと
いがなる策にござりましょうや!
秘策故、今は語れぬ

嘘と思われるのも無理ない話ですが、慶喜さんにも新政府内の公議政体派(容堂さんやら春嶽さん)と連携を取って巻き返しを計るという策がちゃんとありました。
結果的にこの策は功を成して、情勢は慶喜さん優位になります。
けれどもその優勢状況を華麗にぶち壊したのが、大目付の滝川具挙さんが江戸から大坂に持ってきた「江戸で薩摩藩邸と佐土原藩邸を攻撃しました。開戦です」という報せ。
これによって「江戸の次の戦場は京」と旧幕府軍の軍勢1万5千が都に向かい、慶喜さんの意図せぬところで戦モードが高まってしまうということになってしまいます。
これについてはまた後々で触れることにして、しかしこの大蔵さんや官兵衛さん、慶喜さんに対して少々無礼が過ぎないかい、と苦笑いしてしまいます。
あと慶喜さんに信用がないのは百も承知ですが、慶喜さんからすれば理性を失っている彼らに、策を言えるはずがないだろうという気持ちもあったのではないでしょうかね。

お鎮まりあれ。四年前のごどをお忘れが。早まっては長州の二の舞。殿に、朝敵の汚名を着せるごどになりまするぞ!

修理さんがそう言って、漸く一同しぶしぶと黙ります。
朝敵になる、というのは長年京都守護職を司り、先帝のご信頼殊の外篤かった会津の立場からすれば考えられないことでもあり、そんなことなった日には恥辱の極みだったからでしょう。
会津にとっての「朝敵の汚名を着せられる」というのは、単に「朝敵になることを恐れて」、というだけではない気がします。
しかしご存知、後々で会津は朝敵の烙印を押されることになります。
これは同情とか贔屓目抜いてもやっぱり筋が通らないおかしな話ですよね。
禁裏に発砲した長州とかに朝敵の烙印が押されるのは筋が通ってるから、弁解も弁護もしようと思わないのですが・・・。
話が大きく逸れました。
慶応3年12月12日(1868年1月6日)、慶喜さんは二条城の裏門から出て大坂城へ向かいます。

ご宗家には、まごどに薩摩討伐の策があるのでしょうか
わがんねぇ。いづもの舌先三寸かもしれねぇが、今御所に攻め入れば、それごそ薩摩の思う壺だ

相変わらず会津内での慶喜さんへの不信感は拭えてませんね(苦笑)。
慶喜さんのこの下坂について、以前の記事でも評価が分かれると触れましたが、仮に慶喜さんの頭の中に「戦をすることになるかも」という考えがチラリとでもあったのだとしたら、都を離れるのは正解だったと思います。
京は「攻めるに易く、守るに難い」場所ですから。
慶喜さんが大坂へ行くのとあれば、会津藩や新選組も大坂に向かうことになります。
そんな中、覚馬さんはひとり都に残ることにします。
都にいればレーマンさんに注文したチュントナーデル銃の受け渡し役を担うことも、洋学所で教えることも出来るから、と。
実際は、銃の受け渡しのためというのもあったでしょうが、ドラマで削られている人脈や人間関係を頼りに、会津のために動くのが目的で留まったんだと思います。
「洋学所で教える」はこの状況下、ちょっとちぐはぐだなぁ・・・という感が否めませんが、人脈や人間関係がごっそり削られている以上、そういうしかないのでしょうかね。
しかしこうやって改めて見るに、覚馬さんの設定と言うか人間関係削り過ぎのボロがこの辺りになって出て来ましたね。
酒好きとかは削っても大局に問題ないでしょうが、今のままの覚馬さんだと明治期になってどうしてあれだけ重宝されたのかいまいち見えて来ず、明治編で厳しくなる部分がかなりあるんじゃないかと。
何となく『管見(山本覚馬建白書)』だけ出せば、それで良いと言う流れになりそうで怖いのですが、『管見』を出せば良いというわけではないし、『管見』だけが覚馬さんの全部じゃない・・・んですけど・・・ねぇ。
先の展開の心配より、今は目の前の展開を追って行きましょう。
会津が都を出た以上、都にいた藩士の家族も荷を纏めて都を出ることになります。
二葉さんも家を引き払って、今は江戸にいる平馬のところへ行くご様子。
御所人形、平馬さんから貰った時は、色々あったけどまだ平和だったな・・・と思わずにはいられません。
思えばあれはもう、ドラマの中では3年前の出来事となっているのですね。

会津の国許にも政変のことは伝えられたようで、権八さんと尚之助さんも表情を硬くして登城します。
尚之助さんの紐、花色でしたね。
覚馬さんと同じです・・・ということは、川崎家は会津藩の中では山本家と同じ、第四級の地位に就いているということになるのですね。

わがんねぇ。なじょして、会津が都を追われねばなんねぇんだ
おそらく、薩摩の策略です

都で何が起こったかさっぱり、という権八さんの意見は、会津の国許の殆どの人共通の感覚だと思います。
この感覚が、やがては「何が起こったか分からない内に自分たちの殿様に朝敵の烙印を押された」という風になっていくのでしょう。
なので、ここでまたもや優秀すぎる尚之助さんが、さらっと「おそらく薩摩」の正解を言い当ててしまうのは、ちょっとなと。
この人の感覚が、如何に権八さんたち会津国許の人と比べてぶっ飛んでいるのか、よく分かる遣り取りでもあったのではないでしょうか。
一方会津の女性たちは、諏訪神社に幟を奉納すべく、集まってその作業をしていました。
以前はこういう公の場で、「遠慮して下さい」と言われていた千恵さんと、そう言った艶さんではありましたが、以前照姫様が介入して下さったからでしょうか、非常に思いやりに溢れた遣り取りがされていましたね。
若奥様方はといえば、慶喜さんが下坂したことについて疑問に思いながら、夫からの情報を交換中・・・といっても、誰もその「情報」は得ていないご様子。
そこへ照姫様がやって来て、手ずから縫った何枚もの幟を差し出します。
ちなみに会津の諏訪神社は、葦名盛宗さん(鎌倉時代の人です)が諏訪大社に戦勝祈願をしたところ、不戦勝利したことからご神体を会津にお迎えして奉ったのが始まりだそうです。
そういう由来があるから、戦の前に幟の奉納するのもここなのでしょう。

都のこと、皆もさぞ気がかりであろうが・・・徳川家をお守りするため、多くの方々がご尽力されていると伺っています。会津に落ち度がないことも、じきに明らかとなるでしょう

照姫様は本当、清涼剤というか空気清浄機と言いますか・・・これがカリスマというものなのでしょうか。
いつも何だか聞いてて、心が穏やかになっていくんですよね。
視聴者の私でこれですから、八重さん達の心には本当に染み込んでいくのだろうな。
と、そこへ遅刻組の竹子さんが入ってきます。
大事の折に遅刻してきたことを咎められますが、日課の薙刀の稽古をしてきたのだという竹子さん。

言葉に偽りがないなら、その思いを歌に詠んでみよ。これにお書きなさい

そう言って照姫様が幟を差し出し、しばしの沈黙の後に竹子さんは「もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」と書きます。
有名すぎる竹子さんの辞世ですね。
この歌をこの状況下で起用するのは場に即してて上手いとは思いますけど、これは竹子さんが戦死したときに薙刀に結び付けられてたものです。
このとき詠んだのをずっと己の心に刻みつつ、会津戦争時には薙刀に結び付ける…という感じになるのでしょうかね。
ちなみにこの頃竹子さんは師の赤岡先生の養女になっています。
赤岡先生は実兄の息子を養子にして竹子さんと縁組させようとしましたが、竹子様が「この藩の非常時に縁組どころじゃありませぬ!」と突っぱね挙句赤岡先生とも養子縁組を解消したそうな。
本当、名前の通り竹を割ったような性格ですね・・・。
さて、そんな竹子さんの歌を見て、照姫様の提案で皆も歌を幟と共に奉納することになります。
そもそも日本は言霊の国ですので、三十一音に込めた心を神様に奉納するのは間違いではないです。
祝詞だって、そういう意味(言霊として)で上げられているのですし。
そんな中、八重さんが詠んだ歌は「父兄のをしへたまひし筒弓に会津心の弾や込めなん」。
直情的すぎますね・・・多分他の八重さんのいくつかの和歌と比べてみても、これは史実じゃないと思います。

慶応3年12月16日(1868年1月10日)、大坂城に入った慶喜さんは、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、プロイセン、オランダの外交代表と引見し、諸外国の面々に「外交は徳川がやります」と印象付けます。
且つ、王政復古がどれだけ不法なものであるのかを諸外国に強調して伝えるのですが、これは実に効果的ですね。
岩倉さん達が提唱した「神武創業の初めに戻す」という王政復古は、国内に向けて発せられたものです。
対して慶喜さんは、諸外国という「外」に向けて、日本を代表する徳川家を発信している。
諸外国からすれば、「王政復古?神武創業の初めっていつですか?そんな昔に自分の国まだ存在してないんですけど」な混乱もあったでしょうし。
ともあれ、何度かこのブログでも触れて来ましたが、幕末を見るときは日本国内のことだけでなく、「世界から見た日本」の視点も欠かせないのですよ。
そこを慶喜さんはちゃんと押さえられてた辺り、凄いと思います。
ですがこれを薩摩が見過ごすはずもなく、諸外国へ王政復古もろもろを布告しますが、慶勝さん、春嶽さん、容堂さんの三人が異議を唱え、副署押印を拒否します。
その真意は、慶喜さんに新政権の中に席を用意するようにというところにありまして、この御三方は本当慶喜さんのために奔走してくれていました。
彼らや、冒頭で触れた中根雪江さんたちの声もあって、徳川家の辞官納地は暫く形式的なものとなり、慶喜さんも前内大臣として議定に任命され、新政府の朝議に参加することが出来るはずでした
実際、朝廷から慶喜さんに上洛の下命が、12月28日(1868年1月22日)に下されています。
大久保さんが、会津と桑名の兵を帰国させた後じゃないと入京を認めないという無茶ぶりな主張をしますが、慶勝さん、春嶽さん、容堂さんの御三方がやはり反対し、これが議決されることもありませんでした。
しかし大久保さんを始めとする新政府内の討幕派(厳密に言えばもう幕府はないのですが、敢えて春嶽さん達と区別するためにこう呼ばせて頂きます)は、どうにかして慶喜さんの復権をそしして新政府を確立させたいのです。
要は慶喜さんが物凄く邪魔で脅威なのですよ。
都からいなくなったと思えば、大坂で諸外国の面々で「自分が日本代表ですから」というような顔するし、何だかんだでまだ絶大な領地有してますし。
ちょっと時系列先取りしますが、慶応4年1月2日(1868年1月26日)、大久保さんから西郷さんに宛てた手紙の中に、「若、其の儀無く上京相成り候得ば、戦は窮して出来申さず、今日に相成候ては戦に及び候得ば、皇国の事は夫限水泡と相成申すべし」という一文があります。
其の儀、というのは会津と桑名の兵を帰国させる、という意味なのですが、何かしら開戦の名目を大久保さん達が探っていたのはこの手紙からも明らかです。
少し先走った話をしましたが、岩倉さんが「二百六十年の眠りから国を揺り起こすには、余程のことをばせんなならん」と言っていたのもそういう意思が強くあったからに相違ないでしょう。
しかし西郷どんが、そのために江戸で導火線をばらまく、と言ってましたが、西郷どんが導火線をばらまいたわけでもない気がしますが・・・。

まあ、その「導火線」について。
江戸に遥々戻ってきた二葉さんは、不逞浪士に遭遇したところを、ひとりの女性に助けられ事なきを得ます。
この人もしかして・・・という正解は後にしておくとして、まずこの不逞浪士を追いかけていたのは同心(それか新徴組?)だと思うのですが、彼らには藩邸に入る権利は持ってないので藩邸に逃げ込まれたら終わりです。
都で京都守護職や新選組が、長州藩邸とかに踏み込めなかったのも同じ理由ですよね。
えっと、導火線をばらまいたのは如何にも西郷どんな感じがしていましたが、実際江戸で旧幕府に対する攪乱と挑発行動を繰り返していたのは薩摩藩士の井牟田尚平さん達です。
江戸の三田薩摩藩邸に約300人の浪士を集め、後に赤報隊の悲劇で知られる相良総三さんと、落合直亮さんがこれを統括し、陣屋に軍資金の提供を求める強盗紛いのことなどなどをしていました。
幕府としては、お膝元でそう勝手に振る舞われて何もしないはずもなく、前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に支柱の取り締まりを命じました。
江戸の会津藩上屋敷に平馬さんを訪ねて来た勝さんは、彼らの挑発には決して乗ってくれるなと釘を刺します。
ここで、この攪乱は西郷どんの策略によるもの・・・と先程の西郷どんの台詞から思いがちですが、実際は西郷どんは挑発行為は止めるようにと、彼らを押し止める姿勢を文で見せています。
ということは、江戸でのこれは井牟田さんとの連携(連絡)が上手くなっていなかったのか、それとも井牟田さんが独断に近い形でやっていたのか・・・と言う可能性も見えてくるわけでして。
なので必ずしも「西郷どんの腹黒い遠隔策略」というわけでもないのです。
まあそれで、挑発に乗るなという勝さんに、でもこんなものが一石橋に貼られていたという平馬さん。
そこには「幕府、再び政権を盗まんと欲する処、天兵を挙げ江戸城を焼き、市中放火して幕府を誅す」という江戸焼き払いの予告文が書かれていました。

最早強盗、打ち壊しの類いに非ず。これは戦にごぜいます。会津も戦は避けたい。なれど、斯様なごどが続いでは・・・
だから頼むのだ!会津の強さが、戦の火種を大きくする。そうなって、もしも敗れた時には、徳川は根絶やしにされる。・・・慶喜公には煮え湯も飲まされてきた。だが、俺は幕臣だ。徳川は滅ぼせねぇ。・・・西郷という化け物に、火を着けちまったのは・・・俺の失策だ

徳川は滅せないから会津をスケープゴートにするわけですね、という突っ込みがすらっと口を付きましたが、それはもう少し先の話でした。
しかし、言うのは簡単ですが、この挑発モードを撥ね退けて皆を鎮めることが出来るって、余程のカリスマ性がないと不可能ですね。
旧幕府側の人間としては既に湯の沸いた薬缶状態になっているので、下手に触れてもこっちが火傷させられますし。
平馬さんもさぞ悩ましく、難しいところでしょう・・・。
そんな平馬さんが帰宅すると、遥々都から旅をしてきた二葉さんと虎千代が出迎えます。
先程二葉さんを助けてくれた女性は、やっぱり水野貞さんだったようです。
曰く、出入りの能楽師の娘さんだそうで、後々(明治11年)に二葉さんと離婚した平馬さんの後妻になります。
つまりあの一瞬の対面は、平馬さんの人物史的に見れば先妻と後妻の顔合わせたシーンでもあったと。
しかし「おめぇだちが無事ならそれで良い」と言った平馬さんと、絶妙なツンデレ具合を発揮していた二葉さんの、不器用ながらも微笑ましい夫婦の姿が、どんなに会津が暗くてどん底で報われなくても、視聴者としては心の拠り所の一つであったのに・・・後のことを思えば辛い・・・後妻に当たる人が出て来たから余計に辛い・・・。
しかし穏やかな家族の時間も、庄内藩が薩摩藩邸の討伐に向かっているという知らせによって、敢え無く終わりを迎えることになります。

朝廷から慶喜さんに、上洛の下命があったのは、先ほど触れた通り12月28日(1868年1月22日)のこと。
しかしその数日前の12月25日早朝、江戸で薩摩藩邸と、薩摩藩の支藩である佐土原藩の藩邸に、庄内藩と出羽松山藩が砲撃を開始しました。

しまった。火種は、江戸にあったか・・・

数日を経てこの知らせを齎された慶喜さんは、討幕派に戦を仕掛けられる口実を与えてしまったことに愕然とします。
25日に起こったことが、3日後にはもう大坂に伝わってるのは、報知するための人が蒸気船で江戸から大坂にやって来たからです。
海路だから陸路よりも断然早かったんです。
ちなみにフランス軍事顧問団のブリュネさんが、事前に四斤砲の市街戦での用い方を庄内藩藩士らにレクチャーしています。
薩摩藩邸は四方から砲撃されたようで、最早「攻撃」のレベルを通り越してる気が・・・徹底破壊の方が、表現しっくりするかもです。
さて、江戸で上がった火の粉が、大坂にも飛び火しました。
というより、江戸での薩摩藩邸襲撃で勢いを得たと言うべきでしょうか、完全に感情的な暴走ですね。
大坂城には狂気ともいえるその兵らの怒りが渦巻いています。

これはもう・・・兵を挙げねばならぬ
薩摩の挑発に乗ってはなりませぬ!会津の者はそれがしが抑えまする
あの声を聞け。一万五千の猛り立つ兵を、どうやって鎮めるのだ。薩摩を討たねば、あの怒りはわしに向かってくる。主君のわしが、殺されるやもしれぬ。最早戦うしかない

嗚呼お可哀想に・・・と場の雰囲気にころっと騙されて慶喜さんに同情してしまいそうになりますが、同時にここは慶喜さんの器不足が露呈した&自分で認めたという事実にも繋がります。
難題だとは思いますが、慶喜さんに器があったのなら挙兵じゃなくて、宥めるなり何なり、戦勃発でない方向へ持っていくことも可能だったはずですから。
とはいえ、家康さんの再来と謳われてはいるものを慶喜さんも人間なので、あまり責めるのはいけませんね。
偉そうなこと言うけど、じゃあアンタ出来るのかよって言われたら、やっぱり出来ませんし。

会津では竹子さんが八重さんの家の角場を訪ねて来ていました。
スペンサー銃を披露する八重さんですが、手元に届いた時点で弾丸200発しかないのにばんばん撃つのはちょっと・・・そうしないと八重さんがキャラクターとしての「八重」として機能しにくい事情は重々承知ですが、この時点でバンバン撃ってたら、会津籠城戦になったときに「弾切れでスペンサー銃が使えなくなりました」となったときに、「そりゃあれだけ無駄玉撃ってたら・・・」と突っ込み入るんじゃないかなと(苦笑)。
ともあれ銃と薙刀、使う道具こそ違うけれど、何故それを手に取るのかという心は一緒だということで打ち解け合った八重さんと竹子さんではありますが、正直八重さんと竹子さんに接点を持たせようとする意味が未だに分からないです。
いえ、幕末会津の有名女子×2という絵図なのでしょうが、竹子さんに鉄砲を受け容れてもらう意味は何か?とか、私の頭じゃ理解出来ないのですよ。
会津戦争始まるまではどう考えても少ない八重さんの出番を、少しでも増やそうとしているのだというのは分かりますけど・・・・

慶応4年(1868)の年が明けました。
慶喜さんは薩摩討伐を宣言し、1月2日(1868年1月26日)には旧幕府方の兵が鳥羽と伏見の街道に布陣しました。
鳥羽と伏見の二か所に布陣が分かれてたのは、両所とも湿地帯に挟まれて大規模な兵力展開が難しい地形だったというのもあるでしょうね。
しかし鳥羽と伏見にしか布陣していないことに、会津は納得いかないご様子。
3日午前には鳥羽街道に薩摩藩参謀伊地知正治が率いる軍勢が到着し、旧幕府軍見廻組と遭遇して通せ、通さないの談判の末に見廻組は小枝橋の南方まで後退しました。
その後伊地知さんは一部の隊を鴨川左岸の藪に、一部の隊を鳥羽街道の東側の藪に待機させます。
戦の機運が高まる中、会津の陣営に三郎さんが江戸から到着します。
・・・何となくこの陣中で、覚馬さんと三郎さんの兄弟再会を夢見てた自分がいました。
でも、良く考えれば覚馬さんこの場にいないんですもんね。
後に八重さんは覚馬さんとの再会が叶うんだけれども・・・と思うと、三兄弟の中での三郎さんの置いて行かれ感が何とも言えないです。
いつか、歳が足りないせいで連れて行ってもらうことの適わなかった別撰隊隊長の官兵衛さんから、直々に「立派に働け」と言われやや緊張しつつもしっかりと返事をする三郎さん。
八重さんの南天、どうか三郎さんを守って下さい(ええ、知ってますけれども今だけ言わせて下さいよ)。
さて、先ほど触れました伊地知さんの部隊。
彼らの初弾が幕府陸軍砲兵の大砲に命中し爆発したのが、伏見での戦いのスタートの合図となります。
伏見にいた林さん達が聞いたドーンは多分それですね。
そして鳥羽でのスタートは、伊地知さんの部隊に後退させられた見廻組が強行突破しようとしてきたところを迎撃したことになります。
雑学になりますが、この戦いで桑名藩兵の指揮を執っていた人の名前は服部半蔵さんですが、勿論桑名藩は忍術集団では御座いません(笑)。
伏見方面で指揮を執っていたのは陸軍奉行の竹中重固さんといって、戦国時代の竹中半兵衛さんの子孫にあたる人ですが、この方は初戦で何を臆したのは淀まで後退してるのですから、残念ながら優秀なDNAは受け継いでいなかったようです。

その頃覚馬さんはレーマンさんに、今あるだけでも良いから銃を送って欲しいと催促の手紙を書いていました。
実は薩摩は、慶応2年12月17日(1866年1月22日)にレーマンさんから100挺鉄砲を注文してます。
薩摩がその時注文したのは戊辰戦争までに届いてたようなので、薩摩が買ったのはチュントナデール銃じゃなかったということですかね。
その時外から砲声が聞こえて来て、戦が始まったことを瞬時に悟った覚馬さんは飛び出して、戦を止めに行こうとします。

やめろ・・・。この戦の行ぎ着ぐ先は、地獄だぞ!

悲痛な叫びは天にも誰にも届かず、本当にこの戦は地獄の様相と化していきます。
薩摩兵に遭遇した覚馬さんは、目がほとんど見えてないこともあって反撃らしい反撃も出来ないまま、薩摩兵に殴られ蹴られをされ放題。
この後京都二本松の薩藩邸の、稽古所を改造した獄舎に拘禁されることになるのですが、捕らえられた場所は蹴上だとか別の場所だったとか、捕らえられた日についても諸説あるようです。

さて、会津の戦っていた伏見での戦の情況を、拙いながらもご説明させて頂きます。
そしてご用意させて頂いた図も拙いです、申し訳ないですがこれが私の精一杯です(苦笑)。

図中の説明をさせて頂きますと、土佐藩(100人)薩摩藩(800人)会津藩新選組です。
〓は大砲を設置していた場所です。
図中には書いてませんが、長州藩(125人)も参戦しています。
大きさの事情あって入れられませんでしたが、御香宮神社には四門、薩摩方が大砲を据えていました。
東御堂は会津藩屯所。
中央付近にある、の縦線は右から新町通両替町通京町通
鳥羽での戦闘が午後5時頃に展開されると、ここ伏見でも戦端が開かれました。
薩摩吉井友実さんの指揮の元、御香宮神社から伏見奉行所に向けて一斉に砲撃を開始し、龍雲寺に陣を展開していた大山さんもそれに続きます。
(元々龍雲寺には彦根藩が陣取っていましたが、薩摩に追い立てられて退去しました)
迎え撃つ旧幕府軍会津藩別撰隊新選組遊撃隊
敵との距離約四、五十間まで白兵突撃で接近した旧幕府軍ですが、薩摩の大砲(炸裂弾。ちなみに幕府方の砲弾は鉄の塊でしかない)、銃によって撃退されたので一旦後退し、畳を並べた胸壁に隠れてと突撃の機会を窺いつつ応戦したようです。
土佐藩はと言いますと、この戦いは飽く迄も私闘とし、朝廷は無関係だという立場を貫く容堂さんの意向によって戦闘参加を禁じられていました。
それでも藩内の強硬派の一部は戦線に出てましたが。
新選組の土方さんと斎藤さんが、側面攻撃に出ていましたが、実際あれを行使したのは新選組二番隊を率いていた永倉さんです。
堀を乗り越えて京町通(図中)を通り、敵の背後を突いて斬り込むという作戦でしたが、途中で薩摩の隊と衝突し、銃撃に阻まれ撤退を余儀なくされました。
新選組ファンに有名な、「君鉄砲ヲ持土塀ノ上カラ是縋可申ト永倉江申聞ルコエ永倉是幸イト足ヲカケ鉄砲ニツカマリ嶋田コレヲ引揚ル(『浪士組文久報国記事』)」はこのときのものです。
会津藩白井隊は土佐藩の隊を大きく迂回し、薩摩藩邸を焼き討ちにするなどしましたが、夜半に伏見奉行所が炎上し、前衛拠点を失った幕府軍は退却を余儀なくされます。
町の南部を焼き払われ、ただでさえ大きな兵力を活かせない市街地での戦闘で、幕府軍がより形勢不利となったのもあります。
伏見の町にあまり古い建物が残っていないのは、このときの戦火によるものみたいです。
勝敗を何が分けたのかと言いますと、色々理由はあるでしょうし私は戦術的なことは詳しくないので説明できませんが、そんな私でも分かるのは薩摩が高所を抑え、そこに大砲を据えていたことが途轍もなく有利に働いたということです。
これは個人的に調べた、しかも2013年5月時点での数値ですが、
  • 龍雲寺(北緯34度56分7秒/東経135度46分12秒)、標高約58.2m
  • 御香宮神社(北緯34度56分5秒/東経135度45分58秒)、標高約32.8m
  • 伏見奉行所跡(北緯34度55分54秒/東経135度45分59秒)、標高約24.3m
となっております。
多少の誤差はあるでしょうが、龍雲寺─伏見奉行所の高低差なんて約33.9m、直線距離542mですから、この距離感と高低差は致命的だと思います。
そんな砲弾が雨のように一方的に降らされる不利の中で、それでも長州藩第二中隊参謀の後藤正則さんを討ち取ったり、湿地で奇襲をしかけたりなど、出来る範囲での善戦はしていた会津のことを、後年薩摩は評価する形で書き記しています。
散々たる戦の中、権助さんが、弁慶の立往生を思わせる壮絶な最期を遂げていましたが、権助さんが亡くなったのは鳥羽伏見から撤退して江戸行きの船の中でだったと思います・・・日にちで言えば1月10日(1868年2月3日)。
ちなみに第3回の時の記事でも触れたことですが、この戦いで権助さんの隊の死傷率は約80%、薩摩藩邸を焼き打ちにした白井さんの隊は約85%です。

燃える伏見奉行所を眺めて、伏見まで戦況の視察に来ていた西郷どんがぽつりと一言。

勝ったな・・・

ですが、初戦勝利を大久保さんに手紙で書き送り、幕府追討将軍の出馬要請をしているので、大久保さんは一緒にいなかったと思われます。
大久保さんは初戦の勝利を聞いたときほど快心を覚えたことはなく、「百万の援兵を得たような気持ちだった」と後に語っています。
西郷どんは西郷どんで、開戦時の時の心境を「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし」と語っています。
何だかもう・・・戦になって嬉しくてたまらないんですね、このふたり、という感想しか抱けないですね。
そして都では、岩倉さんと戻ってきた三条さんが悪い笑顔を浮かべて、偽の錦の御旗を広げていました。
岩倉さん達の手によって作られた錦の御旗が掲げられたのは、1月4日(1868年1月28日)の午後、伏見方面の戦場にてです。

今回はドラマの展開になるべく沿う形で、伏見での戦いのみを掘り下げました(と言っても上辺をなぞった程度ですが)が、鳥羽伏見の戦いの大局を地図に書き込むと上図のようになります。
真ん中のあたりに巨椋池、というのがありますが、これは現在綺麗に埋められてしまっているので、今の地図では存在しない、湖と言った方が良い大きな池です。
伏見から撤退した会津藩は、中書島から淀方面に戦線を下げ、徐々に大坂へと追い詰められていきます。
しかしこの敗戦は、会津にとって悪夢の序章でしかありませんでした・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村