2013年5月15日水曜日

第19回「慶喜の誤算」

大政奉還を将軍家の英断だと受け入れた容保様のお言葉から始まりました、第19回。
寸暇を置かずにOPのクレジットに「慶喜の誤算」と出るのは、些か皮肉すぎるような気もしますが・・・。
そんなこんなで状況が目まぐるしく変わり混乱する都とは違い、遠く離れた会津では、いつか出て来た伊東悌次郎少年と高木盛之輔少年がすっかり大きくなって再登場です。
八重さんに鉄砲を教わっているお二人ですが、的に弾が当たったことを子供のように嬉しがる二人に、空かさず八重さんの「的撃ぢは遊びではねぇ」と叱責が飛びます。

鉄砲は命のやりどりをする道具だ。形だげ真似でも、胆が出来でねぇど使いこなすごどは出来ねぇ

剣士・島田虎之助が「剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば、先ず心より学ぶべし」という言葉を遺していますが、鉄砲も剣と同じ心構え(八重さんの言葉を借りるなら胆)が必要なようです。
思えば幼い頃、八重さんは権八さんに鉄砲で撃たれて死んだ鳥を抱っこさせられて、「鉄砲は命を奪う道具」であることを心に刻みつけられました。
幼い八重さんが教わったことを、今度は成長した八重さんが次の世代に繋いでいくのですね。
そこでふと、悌次郎さんの前髪が視界にちらちらして邪魔な長さになっていることに気付いた八重さんは、「切ってあげやしょう」と、悌次郎さんの前髪をむんずと掴んで小刀でばっさり切ってしまいます。
物凄く脚色めいたように見えますが、これは数少ない八重さんの、会津戦争以前のエピソードのひとつだったりします(笑)。
切られた悌次郎さんや、じゃあ自分もお願いします、という盛之輔さんとは違って、仰天したのはその場を通りかかった佐久さん。
あんな頭になって、悌次郎さんが人に笑われだらなじょする」と佐久さんは八重さんを叱っていましたが、前髪を落すということは、武家の男の子にとっては元服を意味するんですよね。
前髪を落として髷を結う、という武士のその通過儀礼は、通常親や一族の長などと言った人によって施してもらうものです。
なので近所とはいえ、赤の他人の、しかも女の八重さんが、悌次郎さんのご両親にお伺いも立てずにいきなり前髪を切り落とすということは、とんでもなさすぎることなのです。
ドラマでは描かれてませんでしたが、これは八重さんが史実としてやってしまったことなので、本当は伊東家に頭を地面に擦り付けんばかりの勢いで謝りに行ったはずです。
「つい三郎といるような気になって」などと言ってる場合じゃないのよ、八重さん!
・・・と、その辺りの説明がごそっと抜けていたので、この行動がどれだけのものかは少し視聴者に伝わりにくかったのではないでしょうか。
さて、悌次郎さん達に銃を教えるのはまだ早いのではないかという佐久さんに、何かあったときのためにと八重さんは答えます。
しかし佐久さんは、会津で一体何が起きるというのだという状態。
けれども佐久さんが普通の反応だと思います。
都で戦が起こるかも・・・、という不穏な噂は、10月10日(1867年11月5日)時点には既に都内で囁かれていました。
ですがここは都より遠く離れた会津です、都とほとんどタイミングを同じくして噂が入ってくることはあり得ない土地です。
なのであまり八重さんや尚之助さんが、会津で戦を起こること前提に喋ってたり行動してたりすると、物凄く違和感を覚えるのですよね・・・これは以前の記事でも触れた、優秀すぎる尚之助さん論にも通じると思います。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜さんは大政を朝廷に奉還し、翌日それが認められます。

また慶喜に先を越された。土佐の建白からたった十日で政権を投げ出すとは思いもよらんかったわ
朝廷からは、当分これまで通り諸政を見よとのお言葉があったそうです
これで討幕の勅は使えんようになった。正に証文の出し遅れやな

たとえ大政を司る権利を失っても、徳川家は日本一の大大名であることに変わりはありません。
それに以前も触れましたが、この時点ではまだ慶喜さんは征夷大将軍を辞してないので、日本中の武家の棟梁としての資格も失っていません。
大政を奉還してしまったことが、慶喜さんの行動の汚点のように捉えられがちですが、実は違うんですね。
逆に、岩倉さん達との頭脳戦に於いて、岩倉さん達の「討幕の密勅」を無効化させる、難いほど絶妙なタイミングでの先手だったのです。
ということは、次に岩倉さん達が考えるのは当然、慶喜さんをその座から引きずり下ろし、大大名としての力を取り上げるのか、ということですよね。
その算段が既に頭の中に描かれてるからでしょうか、西郷どんは先手を打たれても何のその、慶喜さん討伐の勅は既に頂いてるとしれっとしてるもんです。
ですがそれは以前の記事でも触れたように偽勅なので、公になっては勅を捏造した岩倉さん達の立場が危うくなります。

偽勅でん、構いもはん。・・・某、この勅をば頂いて薩摩に戻り、出陣の手筈を取りもす。こいで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもんそ。勅の役目はそいで十分
そこまで腹を括ったか・・・
やり抜かんなならん勝負ごわんで。・・・一蔵どん、戦支度にかかろうかい

ちなみに事実上では無効となったあの倒幕の密勅について、中山忠能さんが中断させる沙汰書を10月21日に出したのですが、両藩の人心に疑惑を抱かすことを恐れたためか、直接本国には渡っていなかったようです。
撤回が出されたのに撤回されないまま一人歩きを始めてしまったあの偽勅の密勅は、西郷どんの言う通り、薩摩を纏めるのにこれ以上ない打ってつけの物になりました。
その西郷どんが薩摩に戻る間、自分は王政復古の根回しを進めるか、と岩倉さんは言います。

日本を神武創業の初めに戻す。鎌倉幕府も大化の改新も飛び越して、二千五百年も遡ればたかが三百年の徳川幕府など、一息に吹き飛ぶわ。皇国を、一旦更地にして、一から作り直すのや

朝廷の下に天下が纏まるなどという発想を飛び越えての「更地」宣言。
更地に・・・と言うことは、日本の歴史が築いてきた政権のあれこれを全部壊すということにも繋がります。
成程、維新が「一新」と言われるはずですよね。

10月15日、朝廷は10万石以上の大名に上洛を命じ、21日は10万石以下の大名にも上洛を命じました。
上洛期限は11月中と定められましたが、どの大名も時勢の様子見ばかりをしており、実際に従った大名は少なかったようです。
ちなみに15日時点で特に朝廷が上洛を命じたのは、前名古屋藩主の徳川慶勝さん、前福井藩主の松平春嶽さん、前佐賀藩主の鍋島直正さん、前土佐藩主の山内容堂さん、前宇和島藩主の伊達宗城さん、芸州藩主の浅野茂長さん、薩摩藩主国父の島津久光さんら8人。
ここに容保様や、定敬さんの名前がないことに、朝廷の含みを感じられます。
それを察知しつつ、容保様の立場を案じられた異母兄の慶勝さんは、容保様に引退して帰国してはどうかと、親書を送っています。
しかし容保様も、会津の重臣方も、その新書の言を受け入れませんでした。
もし異母兄からの言葉を受け入れていたら、後の幕末史の様相は大きく変わっていたでしょうに・・・いえいえ、歴史に「もし」は禁句でした。

このまま幕府が力を失えば、いずれ長州が復権し、都に上ってくる。再び戦となれば、今度は薩摩とも戦わねばならぬ。都を奪われてはならぬ。そうなっては徳川家も、会津も共に倒れる。・・・一同、心してかかれ

会津に帰らない以上、後手後手に回ってしまっている会津藩に出来るのは、それぐらいですよね。
敵の先手には決してもう回れないのですし。
それでもここで多少無理してでも都を離れようとしないところが、容保様の「藩主」として(つまり会津23万石に生きる民を統治する為政者として)の駄目なところではないのかと。
逆に、自分を差し置いてでも相手に尽くそうとする情の深い人格者としての評価のされどころだとも思います。
厳しいことを言うようですけどね。
上っ面だけで歴史を眺めてても、通り一遍な評価しか出て来ません。
容保様は京都守護職であると同時に、会津23万石にい生きる全ての人の生活をその背に背負っている立場であったということも、忘れてはいけないと思うのです。

その会津にも、大政奉還のことが伝わって来ていました。
八重さん達は女子だからでしょうか、幕府が朝廷から諸政を委任されていたことなど、さっぱり知らなかったご様子。
権八さんの説明を尚之助さんで補いつつ、取り敢えず「凄いことが起こった」というのは山本家の女子にも理解出来たみたいです。
そして大政奉還の報は、栖雲亭の西郷さんの元にももたらされました。
そこで内蔵助さんから、万一の時は容保様が藩を上げて出陣するつもりだということを知り、思わず声を荒げます。

戦わずに済む道があんぞお!長州が戻ってくる前に、都を引き上げんだ
辞職のごどは、これまで幾度も願い出で、その度に退げられだ。こった切迫した折に、お許しが出るはずはねぇ
いや、今だがらこそ。殿を守護職に就げだのは幕府、その幕府が政権を放り出したなら、お役目も消えんのが道理よ、一日も早ぐ引き上げんだ。・・・薩摩も長州もこごまで追って来ねぇ

その道理が通らないばっかりか、薩摩と長州が会津まで追ってくるんですよね・・・。

一方覚馬さんは、目のことを案じた権助さんに、自分の宿所に移って来ないかと誘われますが、それを丁寧に断ります。

いぐらが見えでるうぢは、洋学所は休めねぇ。教えるごどが山のようにありやす。・・・この目では、もう銃は撃でねぇ。んだげんじょ、教えるごどならまだ出来る。幾らがは会津のお役に立でる

今の覚馬さんに畑を耕すことは難しいかもしれませんが、種を蒔くことは出来るのですね。
「自分は何も出来ない、何の役にも立たない」と思ってしまうことは、自分の存在否定にも繋がりますし。
覚馬さんもその存在否定に足を踏み入れかけていましたが、長崎で修理さんが存在理由を気付かせてくれたから、またこうして今の自分に出来る精一杯のことに取り組めてるのでしょう。
権助さんの「焦んなよ」は、精一杯な覚馬さんの心境をよく酌んだ、温かみのある言葉だと思いました。
数日後に、覚馬さんは目薬を貰った帰り道で新選組隊士と薩摩藩士が一触発の状態になってる場に遭遇します。
癇癪玉のようなこの情勢下で、下手な揉め事を起こすわけには行かないと覚馬さんはそれを止めようとしますが、敢え無く突き飛ばされ、代わりに場を制したのは新選組の永倉さんと斎藤さん。
お蔭でその場は何とか納まりました。

おい、小競り合いは抑えでくれ。市中警固が新選組の役目だぞ
承知している。だが、抑え切れるかな。政権返上で皆激している。これまで我らが浴びて来た血は何のためだったかと。・・・武家の棟梁など、当てにならぬものだな

覚馬さんの言葉に返された斎藤さんの言葉を、少し掘り下げつつ補足させて頂きますと、新選組というのは皆様ご存知、「会津藩お預かり」と言う立場でした。
つまり今風に言えば、隊士たちは「物凄く給料と待遇の良い、でも危険なお仕事の非正規社員」です。
それが過日6月10日(1867年7月11日)に幕臣(正社員)に取り立てられることになったのです。
まあその幕臣に取り立てられるにあたって隊内で色々と思いのすれ違いが起こったりもするのですが、折角幕臣に取り立てられたのに、その喜びも束の間、幕府が霧散してしまったのですから、「当てにならない」と思うのも、少し不機嫌そうに見えるのも、無理のない話です。
何か苦いものを呑み込んだような顔をした覚馬さんが、そのまま洋学所へ戻ると、赤い鹿の子がよく似合った客人が来ているとのこと。
思い当たる節のないまま覚馬さんが自室に戻ると、そこにはひとりの女性が。
大垣屋さんから斡旋された、小田時栄さんです。
諸説はありますが、嘉永7年(1854)のお生まれですので、このとき14歳、数えで15歳。
ちなみに覚馬さんはこのとき40歳、数えで41歳でして、後のこのふたりの関係を考える時に、ちょっとこの年齢差は頭の片隅に留めて置いても良いかも知れません。
さて、時栄さんが大垣屋さんから言いつかわった仕事は、覚馬さんの身の回りの世話。
目が不自由な覚馬さんを慮っての大垣屋さんのこの行動でしょうが、覚馬さんは女子の手は要らないと断ろうとします。
そこへ、先ほどの騒ぎを見ていた不貞浪士二人が学問所に踏み込んできます。
万全の状態なら、傘で刀と渡り合ったこともある覚馬さんなので何の問題もなかったでしょうが、今は兎に角目がはっきりと見えていません。
が、追い込まれた覚馬さんを救ったのは、覚馬さんの短銃を構えた時栄さんでした。
これは流石に創作部分でしょうが、桂さんの幾松さんと言い、龍馬さんのお龍さんといい、幕末の女子は皆一様に勇ましいですね。

おい、一発や二発、外しても構わねぇぞ。弾は六発入ってんかんな
一発も外しまへん!
右の男を撃で。もう一人は俺が斬る!
はいっ!

出会って間もないのに、何と言う阿吽の呼吸でしょうか(笑)。
脅しが効いたようで、不貞浪士たちは走り去っていきますが、どうやら時栄さんも気を張っていたようで、握り締めたままの指を一本一本覚馬さんに銃から外して貰う始末。
しかし実際その銃には弾が一発も入ってなかったらしく、覚馬さんは気付かれなくて良かったと笑って、時栄さんを採用することにします。
思えば覚馬さん、会津に在りし頃はうらさんに体張って守ってもらって、その時のいざこざでうらさんは流産してしまったんですよね・・・。
時を経て同じように自分のことを体を張って守ってくれた時栄さんを、うらさんに重ねた部分もあったのでしょうが、うらさんのことを思い出して欲しかったなと思うのは視聴者の贅沢な望みなんでしょうかねぇ。
覚馬さんが会津を離れて彼是5年、覚馬さんうらさん夫婦に限らず夫が長い間都に留まっているので、国許の会津でも色々と問題は起こってたみたいです。
当たり前ですけど、5年と言う歳月は長いですね。

さて、会津の国許から、大政奉還を機に京都守護職を辞するべしとの嘆願が届いているとのことですが、都在中の会津藩士の様子について、当時容保様の小姓だった北原雅長さんが「一藩の熱血肥後守をして此忠告に従う暇なからしめけり」と『七年史』で回想しています。
国許からは辞職の嘆願が来ていたのかどうかは分かりませんが、少なくとも都在中の藩士たちは「帰らない、辞さない」の姿勢で一致していたことが伺えます。
悌次郎さんは、西郷どんが都から姿を消したので、国許に帰って挙兵の画策をしているのではないかと言いますが、政権を返上した以上幕府を倒す大義は彼らも失っているはずだという容保様。
ですが、大義がなければ大義を作り出すのがテロリストという存在でして、芸州藩なんぞは王室守衛の名目で兵力500を上京させてます。
西郷どんは、薩摩に帰国する途中で長州に立ち寄って藩主父子に謁見し、11月13日(1867年12月8日)には藩兵1000人を軍艦4隻(三邦丸、春日、翔凰、平運)に分乗させて海路で薩摩から三田尻を経て大坂へ向かいます。
薩摩の入京は同月23日で、これにより薩摩の在京兵力は2800となりました。
長州は11月25日(1867年12月20日)に三田尻を発ち、軍艦7隻で11月28日に摂津打出浜に上陸し、その後しばらく西宮に滞陣して12月9日に光明寺で入京許可を貰い、翌日に相国寺に移ります。
この兵数が1600ほど、更に山陽道の兵が合流し(ドラマの会話の流れから、桂さんはこちらの組だったようですね)、そちらの兵数が1300ほどなので、長州の在京兵力は2900ほどということですね。
幕府も直属兵力の上京を急がせていまして、江戸では歩兵6000人が新規雇用され、どちらかと言えば薩長組に比べて慌ただしく戦闘態勢を整えているように思えます。
情勢に戦雲が掛かり始める中、11月15日(1867年12月10日)には薩長同盟に貢献した中岡慎太郎さんと龍馬さんが襲撃され、龍馬さんはその日の内に、中岡さんはその2日後に息を引き取りました。
討幕の動きが日に日に濃厚になってくる中、土佐だけは兵を出していませんでしたが、ふたりの悲報に接して乾さんは「それでも兵を出さぬか!」と憤ってます。
ふたりを襲撃した組織は未だ諸説あり、確定にはまだどれも至っていませんが、このドラマの流れだと「幕府側の人間に殺された」という解釈を取っているようですね。
ちなみにこの龍馬暗殺の罪を着せられて、新選組局長の近藤勇さんは後に斬首されることになるのですが、龍馬さんが襲われた日に近藤さんにはアリバイがありまして、その時一緒に飲んでいたのが実は覚馬さんという。
「八重の桜」では覚馬さんと新選組の接点を悉く省かれているので、触れられることないだろうなとは思っていましたが、本当に触れられませんでした・・・。

竹子さんが会津に帰って来てからそろそろ一年は経とうとしているように思うのですが、未だに入門したにも拘らず胴着が皆と違う竹子さん・・・(笑)。
八重さんはそんな竹子さんに、初めて稽古で黒星を上げたようです。
八重さんは竹子さんに、思い切って今度角場に来るようにお誘いします。
鉄砲を竹子様にも理解してもらいたいという気持ちからのものでしょうが、正直私にはどうして八重さんがそこまで竹子さんに鉄砲を認めて欲しいのか、少々理解に苦しみます。
竹子さんから見たら、八重さんの行動は観念の押し付けにも映るのではないでしょうか。
何だかその辺り、19回話を重ねて創り上げて来た八重さんらしくないと言いますか、八重さんなら「竹子様には鉄砲は受け入れて貰えてないけど、誰に何を言われても!」tなる方がまだ自然な風かと・・・。
いえいえ、まあこれ以上は言いませんけどね。

12月8日(1868年1月2日)、長州に対する寛大な処置が朝議によって決定されました。
毛利敬親父子の入京が許され、官位が回復したのです。
しかしこの朝議に慶喜さんは感冒(風邪)の仮病を使って欠席、容保様にも同じく欠席するよう申し伝え、ふたりのいない席でこのことは決められました。
ですが、それだけで終わらなかったのが幕末のこの12月8日です。
事が実行されたのは翌9日のことですが、王政復古という名のクーデターが行われました。
二条摂政や朝彦親王などは参内を禁止され、赦免されたばかりの岩倉さんが参内し、明治天皇が「王政復古の大号令」を下します。
その内容をざっくり箇条書きしますと、以下のようになります。
  • 慶喜さんの征夷大将軍職辞職を許す
  • 京都所司代、京都守護職の廃止
  • 江戸幕府の廃止
  • 摂政・関白の廃止
  • 総裁・議定・参与の三職を新設する
将軍慶喜さんも、徳川幕府も、容保様や定敬さんも、皆一様にこれによってお払い箱にされました。
代わりに発足した、総裁、議定、参与の三職を中心とした新政府の構成は以下の通り。
総裁
有栖川宮熾仁親王(14代将軍家茂さん正室、和宮さんの元婚約者)
議定
仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能(明治天皇外祖父)、正親町三条実愛、中御門経之(岩倉具視の姉婿)、島津忠義(薩摩藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、浅野長勲(芸州広島藩主)、松平春嶽(前越前福井藩主)、山内容堂(前土佐藩主)
参与
大原重徳、岩倉具視、万里小路博房、橋本実梁、長谷信篤、西郷隆盛、大久保利通、岩下方平、辻将曹、桜井与四郎、久保田平司、後藤象二郎、神山左多衛、福岡孝弟、中根雪江、酒井十之丞、毛受洪、丹羽賢、田中不二麿、荒川甚作
何と言っても会津が一番衝撃的だったのは、何と言っても御所の警固を解かれ参内停止、事実上御所から追い払われたことでしょう。

会津は朝命により禁裏の警固を解がれだ、即刻立ち去るようにど迫られ、門前で睨み合いどなっているどのごど!蛤御門の守備兵は、お下知があり次第打って出るど申しておりまする

しかし容保様は禁裏での戦は絶対にならぬと、直ちに兵を退いて門を明け渡すように命じます。
容保様も憤る藩士たちと一緒に声を荒げて憤りたかったでしょうが、「朝命」と言う言葉で辛うじてそれを押さえこんでいるように見えました。
そして御所へ駆け付けた悌次郎さん達が見たものは、昨日まで会津が守っていた門を守る別の藩兵の姿。
御所に通じる九つの門は全て、「朝命」に従う倒幕派の軍勢に固められています。

四年前の八月、我らが長州を追っ払った時どそっくり同じだ・・・門の内外が、入れ替わった・・・

愕然とする悌次郎さんですが、一緒なようで一緒じゃありませんよね。
今回のクーデターは、同じクーデターである八月十八日の政変と比べて、贔屓目や同情を差し引いても卑怯の一言に尽きません。

ですがここで一息吐かせないのが幕末の情勢です。
王政復古の大号令が発せられた同日の夜、新政府での初めての会議が行われます。
小御所会議です(小御所の写真は此方の記事で)。
と言いますのも、倒幕派はまんまと幕府を廃し、会津と桑名もお役御免に出来たわけですが、幕府が無くなっても「徳川家」はなくなっていません。
将軍ではもうありませんが、それでも慶喜さんは徳川家宗家を継ぐ者として、事実上日本一の石高を持った大名ということになります。
これが厄介な倒幕派は、次にそれを剥奪するために慶喜さんへ辞官納地を迫ることにします。
9月21日(1867年10月18日)に内大臣になっており、それを辞職することと、未だに有している徳川領400万石の返上を求めてるのですから、要は慶喜さんを丸裸にしようという魂胆が見え透いてます。
しかしこれに異議を唱えたのが、容堂さんです。

なんで慶喜公をここに呼ばん!進んで政権を返上したがは朝廷への忠心の表れではないかえ!
慶喜の心底には尚も疑わしいとこがあり、長年の失政の罪も重い。慶喜に誠意があるなら、官位を辞し、領地は朝廷に返上すべきやと存じます
領地返上?何を愚かな!朝議の場から外し、断罪するがは陰険至極!大体これは帝が幼うておわすがを良いことに、政権を我が物にする企みではないかえ!
不敬やろう!此度の拳は、悉く帝のご叡慮に御座りますぞ!
容堂公のお言葉は失言なれど、それがしも徳川への過酷な処遇は不適当と存ずる

揚げ足と論点のすり替えをしようとした岩倉さんを、見事に元の起動に戻した春嶽さん、流石です。
慶勝さん、春嶽さん、そして容堂さんは日本が三百年近く泰平であれたのは徳川幕府のお蔭であるとして譲らず、慶喜さんの会議参加をしきりに求めました。
これに対して岩倉さんは、黒船来航以降の失政を攻めているのですね。
「長年の失政」というのは、その時将軍だった家定さんや、その後将軍だった家茂さんの年月も含まれてると思います。
だって、慶喜さん将軍就任してからまだ1年ほどですし・・・「日本の舵を取っていた家の代表としての責任」を問われているんですね。
そんなこんなで会議は紛糾し、一旦休憩が挟まれます。
慶喜さんの辞官納地を認めさせたい倒幕派にとって、容堂さんのこの主張は邪魔なものでしかありません。
しかも筋は通ってるので、堂々と言われるとやっぱりやり難いのでしょうね。
しかしそれを薩摩藩詰所の西郷どんに伝えると、西郷どんは有名なあのひとことを放ちます。

ないも難しかこつはなか。短刀一本あれば片の付っこっじゃなかか

本当なら大久保さんではなく、薩摩藩家老の岩下方平さんが西郷どんに「会議が上手く進まない」と相談し、「匕首一本あれば片が付く」と答えたそうです。
匕首は鍔のない短刀のことですから、反論を唱える容堂さんを刺殺せば丸く会議は収まるではないか、ということですね。
容堂さんはそのことを後藤象二郎さんから知らされ、流石に閉口した容堂さんは休憩後再び始まった会議では沈黙していました。
反論が黙り込んだので、小御所会議は慶喜さんの官位を一等下げることと、領地の半分の200万石召し上げという結論で終わります。
勿論慶喜さん本人はこの場に居合わせていないので、後日慶勝さんと春嶽さんから小御所会議の結果を知らされることになります。
だまし討ちのような形であっという間に何もかも奪って行かれた幕府側がこれで怒らないわけなく、彼らは慶喜のいる二条城に集結しました。
ですが、慶喜さんは激昂した勢力を二条城から一歩も外に出しませんでした。

朝議を欠席したのは失策であった。だが、まだ手はある。ここからどう巻き返すか・・・

慶喜さんも色々と回転が速い頭で打つ手を講じていたでしょうが、よく指摘されるように徳川慶勝さんや松平春嶽さんの巻き返しに期待していた部分もあったでしょうね。
木村武仁さんは以下のように述べています。
しかしその後、松平春嶽、山内容堂、後藤象二郎らが巻き返し、早急に慶喜を参内させ、議定の席を与えて新政府の一員にしようと必死の朝廷工作を行った。その結果、新政府の費用は徳川家だけに負担させず、各藩に割り当てようという動きが活発となり、慶喜の辞官納地も有名無実と化される寸前となった。それに対して西郷は江戸の三田藩邸に浪士を集め、江戸市中を攪乱させ、旧幕府軍の暴発を誘発させる作戦に出た。(木村武仁、2008、図解で迫る西郷隆盛、淡交社)

慶喜さんはさて置き、周りは必死になって動いていたということですね。
そんな中、慶喜さんは兵を率いて大坂城に向かうとの報せが飛び込んで来ます。
都で戦をするという危険回避もあったでしょうが、この状況下で朝廷から距離を置くというこの行為は、なかなか評価が難しいところですね。
そして局面はいよいよ最悪の舞台へと突入していきます。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村