2013年5月8日水曜日

第18回「尚之助との旅」

前回からの流れで川崎夫婦の新婚旅行(?)から始まりました、第18回。
八重さんの足で峠をいくつも越えられるかと案じていた尚之助さんですが、寧ろその尚之助さんの方がばてていて、八重さんはすたすたと前を行くと言う、予想通りの展開になっていました(笑)。
しかし背炙山に差し掛かると、先ほどまでの駄目っぷりは何処へやら、きりっとして地図を開きながら「ここは覚馬さんと約束した場所なんです」と言う尚之助さん。
第7回で、都へ発つ前に覚馬さんと温泉で交わした、有事の際には背炙山に反射炉を作って、お寺の鐘を鋳潰して大砲を作るという、あの約束ですね。
そこから白河街道に沿う形で猪苗代湖を眺めつつ進んで、福良に一泊。

明日は三代を通って白河だなし。・・・何を考えでいだんですか?湖を見ながら難しい顔をして
背炙山で作る大砲を、舟で何処まで運べるかと。日橋川を下れば、阿賀川に出て越後まで行けそうだ
なして、そったどごまで?
長州攻めでは都から遥か遠い名もない村が戦場となりました。もし次に戦が起きたら・・・
会津で何があんだべが?

どう見たってここ最近の尚之助さんの頭の中には、既に「会津で戦が起こるかもしれない」という仮定が、濃厚な現実味を帯びたものとしてあるんですよね。
だから白河までわざわざ視察に足を運んだ。
でも先のことが見えすぎているというか、以前の記事でも触れましたが最近の尚之助さん優秀すぎるんですよね。
都から遥か遠く離れた会津で、どうやってそんな新鮮且つ正確な情報を仕入れて、薩摩や長州に比べて閉塞的な会津に居ながらどうしてそんなに視界が啓けているのか、突っ込みだしたらきりがないくらい尚之助さんの優秀さは首を傾げたくなります。
何より、そんな風に戦が会津にやって来るという確信に近いものがあるのなら、視察も大切でしょうが、後の城下の民まで巻き込んだ会津戦争の惨状を考えると、そっちの方をまず何とかして下さい!と思ってしまったりですとか。
視聴者は「歴史の経過を既に知っている身」であるのに対して、尚之助さんは「歴史の流れに身を置いてる歴史の当事者」ですよね。
その当事者であるはずの尚之助さんが、何だか我々の立っている場所にも曖昧に足を突っ込んで来てやしないかい、と違和感が拭えません。
大河ドラマでスポットが当たり、尚之助さんについての研究もここ数年でずっとされるようになって、分かって来たことも多いとは思いますが、それでもまだ創作に頼らなければいけない部分はたくさんあると思います。
それでもこの創られ方はちょっとなぁ、と・・・まあ、個人的感想ですけどね。

どうしても創作部分に頼らざるを得ない尚之助さんとは違い、がっつり史実通りを貫く姿勢を崩さない京都パート。
まず悌次郎さんが蝦夷地から呼び戻され、再び京で起用されます。
本当なら慶応3年(1867)3月下旬の時点で戻って来てるはずなのですが・・・まあ深い追及は避けておきましょうか。
悌次郎さんは蝦夷地から、北国船に乗って新潟経由で京へ戻って来たと思われます。
しかし遅すぎましたね・・・今となってはもう薩摩もがっちり長州と手を結んでますし、水を差すようですが悌次郎さんを投入してもどうにもならない事態になってます。
そしてもうひとり、大蔵さんもロシアから戻ってきました。
渡航先で雇った人足が大蔵さんを馬鹿にして言うこと全然聞かないのにカチンと来て、ぼっこぼっこにしたというエピソードはスルーされましたね(笑)。
覚馬さんたちは「頼母様の案じられていだ通り」になったと言い、西郷さんこそ骨の髄まで会津の武士だと誉めそやしますが、そこは誉めそやすのではなく危機感を持つところではないのだろうか・・・。
何だか、ぽけっとしてるのかしてないのか、よく分からないです、覚馬さん達。
でもまあ、蝦夷に行っていた悌次郎さんと、ロシアに行っていた大蔵さんが色んな経験を積んで、前向きに可能性を求めていく姿勢が覚馬さんの周りに出来上がりつつあるのは、いつかのことを思えば喜ばしいことなのでしょう。
しかしその時、薩摩兵仙人が大坂に入ったとの報せを広沢さんが持ってきて、その場に緊張が走ります。

一方新婚旅行続行中の川崎夫婦は、白河小峰城の城下のとある店で白河ダルマを購入します。
お店の方曰く、眉は鶴、髭は亀、顎髭は松、鬢は梅、顔の下には・・・と、目出度い物尽くしだそうです。
それをひとつ買い求め、安達太良山には鬼婆がいるんですよ~、などと道中仲良くお喋りをして、ひょんなことから後の二本松少年隊に当たる子供たちと出会う八重さん達。
少年者たちの指導者は木村銃太郎さんは、江川太郎左衛門さんに師事して高島流砲術を修めた方です。
弘化3年(1847年)のお生まれですので、このとき20歳、数えで21歳。
八重さんよりふたつお若いのですね。
そういえば八重さんが初めて尚之助さんと出会ったときに、桜の樹の上で読んでいたのは高島流砲術の書物『砲術言葉図説』でしたね。
しかし少年たち、八重さんの鉄砲の腕前に驚いてますが、寧ろ私は少年たちが平気な顔してゲーベル銃撃ってるのが驚きです。
反動で肩付近の骨砕けますよ?子供は骨が折れやすいのよ?
そんなこと言ったら幼少期の八重さんどうなるんだって話ですが、八重さんは史実では13歳で米俵担げるくらい体形がしっかりしていたから、綾瀬はるかさんの外見にだまされながらも問題はないと思ってます。
それに「撃ったはずみでひっくり返っぺ」と言ってましたが、たじろぎもせずに直立のまま撃ってた少年たちの足腰の強靭さも謎です。
ところで、あの少年たちの中に銃太郎さんの門下生第一号、岡山篤次郎クンはいたのでしょうかね。
成田才次郎クンは名前出て来てたので分かりましたが・・・。
その才次郎クンは、八重さんから撃つときに目を閉じる癖を治す方法を教えるのですが、かつて八重さんに「目を閉じるな」と言い続けた覚馬さんの目が、今遠い都では光を失おうとしてるんだよな・・・と思ったら何となく切なくなりました。
切ないと言えば、ここで八重さん達が出会った少年たちも、少しあとには壮絶すぎる最期を遂げる子ばかりなのですよね・・・。

今回は江川太郎左衛門さんの教えを受けた人物としてもう一人、大山弥助さん、後の大山巌さんが登場しました。
天保13年10月10日(1842年11月12日)のお生まれですので、このとき25歳、数えで26歳。
従兄弟の西郷どんを訪ねて来た大山さんは、銃を安く買い付けて、傷物は修理すれば良いという史実通りの実務奔走をしていたご様子。
以前放送された『坂の上の雲』時点では既に「陸の大山」と言われる貫録を醸し出している大山さんですが、若い頃のこういう積み重ねあってのあの「陸の大山」だということが伺えます。
それより大山さんの関心事は、土佐藩が兵を出さないということ。
以前の記事でも少し触れましたが、土佐は前藩主の山内容堂さんを始め上層部は公武一和派なので、幕府を倒す気などないので当然倒幕のための兵を出す気もありません。

大政奉還は土佐と同盟を結んだ折に決めたこつにごわはんか。慶喜を将軍の座から引きずり下ろすために兵を挙げ幕府を脅す約束にごわした
武力を見せんな、慶喜は政権を手放しもはん

容堂公は大政をば奉還させた後も、慶喜をば議員の長に据え、政権の中軸に残すおつもりじゃ
そげな!そいでは、公武合体の焼き直しにしかないもはん!

日本史の授業でも必ず触れられる大政奉還のことはもう今更筆を割きません。
要はここで大山さんが言っているのは、日本の政を執り行う権利を朝廷に返還しても、慶喜さんがその後に出来た議員の長のポストに納まるのなら、それは徳川幕府から名を変えた徳川議会になるに過ぎないということです。
それに、大山さん達にはのうのうと構えている時間はありませんでした。
と言いますのも、この年の12月7日(1868年1月1日)に兵庫港が開港する予定でした。
開港と書くと、字の意味のままを取ってしまって「港を開く」ということでしょ?と捉えられがちですが、港ではなく町そのもの(今回の場合該当する町は神戸村)を外国に開く、というニュアンスも含んでいます。
だからこれまで兵庫に先立って開港された港には、全て外国人居留地が建てられているのです。
ちなみに開かれた港(=開港場)は「兵庫」で、その開かれた港のために設けられた市場(=開市場)が「神戸」です。
神戸村に港が置かれたわけではないのでご注意。
で、話を戻して、どうして兵庫港開港が重要になって来るのかと申しますと、その開港の非には各国の行使が訪れるからです。
実際、当日はアメリカからはファン・ファルケンブルグさん、フランスからはレオン・ロッシュ公使さん、イギリスからはハリー・パークスさん、イタリアからはデ・ラ・トゥールさん、ロシアからはフォン・ブラントさん、、オランダからはファン・ポルスブロックさんが訪れましたし、沖には英国艦12隻とアメリカ艦5隻、フランス艦1隻が停泊していました。
要は「外国の目」が集まっている、国際社会的な中で執り行われようとしてる開港とでも申しましょうか。
そんな中で、慶喜さんがその儀式の中に加わると、各国の目には「ヨシノブが日本の長」のように映り、薩摩や長州からすれば望ましくないことになるのです。
国際社会的に「日本の長」と認められた慶喜さんを蔑ろにするのは、流石に宜しくないことですので。
なのでそうさせないために、けれども薩摩一藩だけでは事の規模が規模なだけにどうしようもないので、西郷どんは朝廷の力を借りることにします。

その頃覚馬さんは、自分は銃の買い付けに失敗したのだろうかと言います。
薩摩の動きが速いので、銃が必要になる時は思った以上に早く近付いているから、いつ到着するのか分からないチュントナーデル銃よりも、他の銃を買ってまずは数を揃えておくべきだったかということでしょう。
口煩く言ってますチュントナーデル銃の扱い難さから思うに、まったくまったくその通りで見事にしくじってますよ、覚馬さん、と言いたくなりますが、近い内とはいえ半年以内に戦が勃発するなんて誰にも分かってなかったことですから責めるのも無粋でしょうか。
そんな中、通りの向こうから「ええじゃないか」の集団がやってきます。
鉦や太鼓や笛を賑やかに打ち鳴らし、真っ白に塗りたくった顔の人や、ほっかむりの人、男なのに女物の着物を身に着けている人が、ええじゃないかええじゃないか、節をつけて歌ってるあれです。
一緒にいた広沢さんは、またいつもの騒ぎかと苦り顔ですが、覚馬さんは群集の中に女物の着物を羽織っている西郷どんと大山さんを見つけ、人込みを掻き分けるようにして後を追います。
しかし人の波に阻まれもがいている内に、西郷さんは群集の中に消え、どころか覚馬さんは匕首を持った視覚に襲われます。
その覚馬さんを助けたのが大垣屋さん。
煙管で匕首を払ってましたが、余りに松方さんの殺陣がお見事なせいか、十手に見えました(笑)。
覚馬さんは広沢さんに西郷どんがいたことを告げ、すぐに追うように言う一方で、大垣屋さんはそんな覚馬さんの目の様子がおかしいことに気付きます。
結局西郷どんたちを見失った覚馬さん達はひとまず洋学所に戻ることになりますが、そこで語られた先程の「ええじゃないか」に対する大垣屋さんの見解が、また深いです。

あれは誰が音頭取りと言うこともない、自ずと沸き起こったもんのように見えます。長州攻めの折に何処の藩も米や溝をようけ買わはった。お蔭で物の物価はどんどん高うなって、暮らし向きは悪うなるばっかりや。その鬱憤、踊りで晴らしているのと違いますやろか

薩長の陰謀と決めつけている会津藩氏の広沢さんに対し、限りなく庶民側に立っている大垣屋さんだからこその見解ですね。
またお金の話になりますが、何をするにもお金と食料は必要ですが、戦をするにはその両方が大量に必要になります。
ただでさえ黒船来航からこっち、殆どの藩は財政困窮の状態で、藩でそれなのですから庶民の暮らしが良いわけがない。

毎日が苦しゅうて苦しゅうて、みなジリジリしているのどす。世の中ガラリとようならんもんか。日本の世直し、ええじゃないか、と

会津視点ではほとんど触れられることのない全ての庶民の代弁が、この大垣屋さんの一言に込められているような気がしました。
同時に、この言葉を会津藩士である覚馬さん達に向けるということは、前回同様相変わらずの容赦ない皮肉とも取れますね。
折に触れて出て来ては覚馬さんに刺激を与えていく大垣屋さんの立ち位置、地味でさり気無くはありますが重要です。

長州では、土佐と手を組む薩摩に対して、桂さんが些か不信感を募らせていました。
そろそろ時期的に桂さん、ではなく木戸さん、とお呼びした方が良いのですが、ややこしくなるのでまだ「桂さん」とさせて頂きますね。
そんな桂さんに対し、大久保さんは、自分たちは土佐を取り込む方が得策と踏んだのだと言います。
そして再びここでも論争の核になってくるのが、大政奉還。

もし慶喜が容堂公の献策を容れて、政権を返上したらどねえします?挙兵の大義が失われてしまうが
大政を奉還するとは、幕府を無くすことです。そう簡単には承知せんでしょう。じゃっどん、こっちも土佐より早く算段を付けねばなりません。朝廷のお力を借ります
密勅か・・・
大義のため、邪魔もんは除かねばないもはん

自分達の大義を掲げれば何でも押し通ると思ってるあたり、本当彼らはテロリストと一緒ですよね。
ちなみに朝廷の力を借りようとする彼らが、そのためにまず手の内に留めておかなければならないのが帝の存在です。
自分達の作戦の実行のために、玉を奪われないようにするためには、今現在御所にいる人達が邪魔な存在になるのは必須なわけで、それを排除する動きに出るのも流れとしては必然になるわけですね。
そんな無茶苦茶な理論の大義のために、後に御所を追われることになった会津や桑名の立場が本当憐れです・・・。

その秋、尚之助さんが日新館砲術師範、十三人扶持で会津藩に召し抱えられました。
今まで日新館で教鞭をとる役料は貰っていましたが、今回尚之助さんにとっては藩に召し抱えられた=会津藩士になった、ということでしょう。
正確にいつ藩士として抱えられたのかは不明ですが、会津戦争よりは前ですから、時期としては妥当でしょう。
おまけに銃火器の一新と必要性の認識が以前に比べて格段に高くなった会津なので、尚之助さんの知識も技術もお家のために尽くせます。
ですが早速上層部に、反射炉のことなどを言っても、必要性こそ認められていますが、予てからの財政問題の関係で、すぐに着手は出来ないと言われてしまいます。
ない袖は振れないということですね・・・。

八重さん、次は日光口と越後口を回りましょう。ひとつ駄目なら、また次の手を打つまでです。金がなくても出来ることはあるはずだ

以前改良した銃が禄に評議もされないで御取下げになったときは荒れに荒れていた尚之助さんではありましたが、今回は必要性は認められているという点まだ救いがあったのか、案外冷静でした。
それとも以前、「諦めではなりませぬ」と八重さんに言われた言葉がまだ尚之助さんの中で響いてるのかな。
あの時「お手伝いします」といった八重さんも、今は妻として傍にいてくれてるわけですし。

ひとつ駄目なら、また次の手を打つ。
尚之助さんの言葉に倣ってるわけではないでしょうが、薩摩ではどうしようも出来ないことを朝廷の力を借りてどうにかしようと思った薩摩は、大久保さんを岩倉さんの元へやります。
こんな都の片隅の村で、300年近く続いてる徳川幕府を瓦解させようとする企みが進められてただ何て、きっと誰も考えなかったでしょうね。
岩倉さんは大久保さんに一枚の紙を見せます。
曰く、慶喜さんを殺せと言う詔書だとかで、近日中に薩摩と長州に下されるようです。
世に有名な「倒幕の密勅」ですね。

(画像:Wikipediaより拝借)
宛名が「左近衛中将源久光」「左近衛少将源茂久」とされているので、これは薩摩藩に下された方の書面ですね。
ちなみに長州藩主父子にこれが下されたのは、薩摩よりも1日遅れた翌10月14日のことでして、このタイムラグは13日にふたりが官位復旧の宣旨を受けたことによるものでしょう。
原文は見ての通り漢文ですが、書き下し文は色んなところで掲載されてます。
それでも読みにくい方のために、素人の私がざっっっくり意訳(?)させて頂きました。
源慶喜(徳川慶喜)は代々続いた徳川幕府一門の力を恃み、みだりに忠良を殺傷し、しばしば天皇の命令を聞かず、遂には孝明天皇のお言葉を偽って恐れない。万民の生活の道を失わせ、路傍で倒れ死なすことを顧みず、その罪は神国日本が覆るところにまで至る。朕(=明治天皇)は万民の父母であるので、この賊を討たなければ、何を以って先帝の霊にお詫び申し上げ、万民の深い恨みを報じられましょうか。これは朕の心に積もった怒りなので、今が天皇没後の喪服期間であることを顧みないのは、やむを得ないことである。汝(=勅を下した人。薩摩藩主父子と長州藩主父子)、朕の心をよく理解して賊臣慶喜を皆殺しにし、速やかに時勢を一変させる偉勲を立て、生霊を山嶽の安に措きなさい。これは朕の願いであるので、少しも怠ることのないように。

えーっと、拙い訳文で大変恐縮なのですが、慶喜さんを殄戮(皆殺しの意味)せよ、と書かれているあたり、かなり過激な内容だということを酌んで頂ければ幸いです。

これくらい激しく煽らんと、誰も本気でやらんやろ。守護職松平容保と所司代を討つ勅旨も、同し時に出る。勅が下り次第、すぐに動くのやぞ。土佐が大政奉還を建白する前に。慶喜は知恵者や、どっちが得か秤にかけて、政権を投げ出すかもしれん。そうなったら慶喜を奸賊としたこの詔書が嘘になる、天下を覆すのやからな、そなたらも覚悟は出来てるやろうの

詔書が嘘になるならない以前に、この詔は今や明治天皇の知るところではないところで発せられたもの(偽勅)であることが明らかになっています。
つまり岩倉さんって、帝の言葉を偽った大罪を犯したのに、何故か今でも悪く言われないのが歴史の評価の不思議で、ちょっと不公平なんじゃないかなと思います。
そんなお腹の中まで真っ黒な岩倉さんが、次に大久保さんに差し出したのは日月紋と菊花紋の、官軍の象徴でもある錦の御旗の図案です。

錦の御旗か・・・。何処にあるのです?
あほなことを。作るのや。大和錦と紅白の緞子で立派に仕立てるのやで。大久保、ここからはちょっとの油断が命取りや。一歩間違うたら、こっちが逆賊となって真っ逆様やぞ・・・

ちなみにこの旗の材料を調達したのか、作るまでやったのかは忘れましたが、大久保さんの愛人のおゆうさんが協力したと記憶しています。
しかし真っ逆さまと仰ってますが、岩倉さんは既に明治天皇の外祖父を抱き込んでおいて(倒幕の密勅の末尾に書かれた藤原忠能と言う名前は中山忠能さんのことで、明治天皇の外祖父です)、何を仰いますやらと言いたくなりますが…(苦笑)。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜さんは264年間幕府が執り行ってきた政を、朝廷に返上しました。
その時の慶喜さんの上表文は以下の通りです(書き下し文)。
臣慶喜、謹んで皇國時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家權を執り、保平の亂、政權武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百餘年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄德の致す所、慚懼に堪へず候。況んや當今、外國の交際日に盛んなるにより、愈々朝權一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡くし、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、國家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上 (参考:近代デジタルライブラリー)

大政奉還したから徳川幕府が終わったというイメージ持ってる人が多いようですが、実際大政奉還後もしばらくは幕府が外交に応対してます。
ちなみに大政を奉還しても、同時に慶喜さんが征夷大将軍を辞職したわけではなく、辞職は12月9日になります。
しかし幕府がなくなっては意味がないではないかと詰め寄る容保様に、慶喜さんは言います

いや、寧ろこの策を用いてこそ、徳川の地位を守ることが出来るはず・・・。朝廷には政を行う人材も、戦をする兵もない。政権を返されたとて何も出来ぬわ。暫くは従来通り、我らが国を動かすこととなろう。建白書には上院、下院の制を敷くとある。なれどそのようなものが動き出すには時がかかる。その間に、徳川の威信を保つための手を打てば良い

仮にこのまま慶喜さんが大政奉還を受け入れないでいたら、かならず幕府と薩長の戦争が起こり、国内で日本人同士が殺し合っている間に日本の国力は消耗され、それこそ外国勢力の思う壺です。
ですが、大政奉還を受け入れれば薩長の標的たる幕府が霧散することになり、内乱も回避される。
そういう風に、国外の勢力も視野に入れて慶喜さんの決断を見つめると、幕府の存続に固執するのではなく、諸外国に付け入る隙を与えないための大胆な決断とも言えます。
ついでに言いますと、内乱が回避されれば徳川家も安泰ですしね。
ケロッと平気な顔をしているように見えた慶喜さんですが、カステラとワインを飲んで暫くして嘔吐する辺り、この選択の重圧感は半端ないものだったのでしょう。
状況を鑑みればそれが最善と頭では理解していても、何と言っても慶喜さんの背中には徳川14人の将軍の歴史と、幕府264年の歴史がずっしりのしかかってるのですから。

たとえ、将軍の名を失っても、徳川家が、天下一の大大名であることは変わらぬ。・・・すぐにやらねばならぬ。薩摩が動き出す前に伸るか反るか、ここが勝負どころよ。捨て身で行かねば、道は開けぬわ

そもそも討幕派にとって、大政奉還を慶喜さん受けれたのは予想外だったと思います。
今回でも桂さんの台詞からそれは触れられてました。
だから同時進行として、きっちり慶喜さん達の息の根を止められるように、岩倉さん達は大政奉還と同日に討幕の密勅を用意してたんじゃないかと。
大政奉還の下に隠された不穏な刃に気付けず、それをかわせなかったのが慶喜さん最大の誤算となり、この後幕末の天地がひっくり返ることになります。

ではでは、此度はこのあたりで。


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