2013年5月2日木曜日

第17回「長崎からの贈り物」

孝明天皇崩御から始まりました、第17回。
容保様の動揺もご尤もで、孝明天皇の死因は疱瘡なのですが、病気回復の見込みありと言われていた中で急死されたために、毒殺説は当時からありました。
ともあれこれ以降、武力討伐論が急激に発展します。
いくら薩摩や長州が幕府を見限り、倒幕論を提唱しようとも、幕府を倒す気など更々ない孝明天皇がいる限り、彼らは倒幕運動に本腰を入れられませんでしたから。
要は孝明天皇の存在が、一種の防波堤のようになっていたのですね

さて、その報せをまだ知らぬままに長崎に赴いた覚馬さんは、春英さんに連れられて長崎小島村にある医学書、精得館を訪れます。
そこで覚馬さんはオランダ人医師のアントニウス・フランシスカス・ボードウィンさんに目の診察をしてもらいます。
ボードウィンさんは文久2年(1862)に任期満了となったヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトさんの後任として同年10月に長崎に来日し、長崎養成所の教官に就任しました。
当時のヨーロッパで高名だった眼科専門医、フランス・コルネリス・ドンデルスさんに教えを受けていたボードウィンさんの専門は勿論眼科。
というわけで、覚馬さんの目を診て貰うのにこれ以上ない人物なのですが、そのボードウィンさんの下した診断結果も「失明」。
しかも一年二年先の話ではなく、もっと早い時期に覚馬さんの目は光を失うとのこと。
覚馬さんだけでなく、江戸時代目を病んでいる人は日本には多かったそうです。
ボードウィンさんの前任のポンぺさんが日本に来たときに、日本ほど盲人の多い国はないと吃驚したんだとか。
ちゃんと治療すれば治るのに、眼科医が治療方法を知らないから失明に至ってる人が多かったということですね。
思えば覚馬さんも、貝殻に入った軟膏のようなものを手渡されてましたよね・・・目の何処に塗るの?という気がしてましたが(苦笑)。
おそらく現在日本で一番の眼科医にはっきり失明宣言された覚馬さんは、診察後に精得館の中を見て回り、膨大な書物や舎密術の実験をしている生徒たちを見て、自分が象山塾で学んでいた在りし日のことを思い出していたのでしょうか。
覚馬さんが江戸遊学から戻って来てから、実に10年ほどの歳月が経っております。
現在38歳、数えで39歳の覚馬さんにとっては、佐久間塾時代で過ごした日々は多感な青春時代と言っても過言ではないでしょう。
でも、余命ならぬ「余明」いくばもない覚馬さんには、目の前に積み上がっているあらゆる書物を読むだけの時間が残っていません。

誰だって、出来ることには限りがあります。世界中の書物を読み尽くせる人はいません

春英さんの言葉は事実ですが、それは春英さんが視力を失わない側にいる人間であるからこそ言えたことで、覚馬さんの慰めにはなりません。
そこへ修理さんが駆け込んで来て(ちなみにこの長崎滞在中、修理さんは坂本龍馬さんと接点を持っています)、孝明天皇の崩御を伝えます。

都の要石が外れだ・・・。鎮めでいだものだぢが湧き出てくる・・・。銃の調達、急ぎましょう

そう言って覚馬さん達が訪れたのはグラバー邸。
今でも長崎の観光地として有名ですよね。
当時の長崎の最大武器商人であるトーマス・ブレーク・グラバーさんに、覚馬さんも商談を持ちかけようと思っていたようですが、グラバー邸の庭園で見覚えのある男を見つけます。
ひとりは後の日本の初代総理大臣、長州の伊藤俊輔さん。
天保12年9月2日(1841年10月16日)のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
もうひとりは薩摩の村田経満さん通称新八さん。
後に起こる西南戦争で、シルクハットにフロックコートという格好で戦ってアコーディオンを手放さなかったという伝説的歴史を刻むことになる、あの村田さんです。
覚馬さん達はふたりが親しげな様子で話していることから、薩摩と長州が手を組んでいたという憶測を事実として受け止めます。
まあ、確かにこの時点で薩長同盟は成立してますが、伊藤さんと村田さんが親しげなのは一緒に上海訪問したからというのもあるんじゃないんでしょうかとも思ったり。
ともあれ、グラバー商会が薩摩と長州御用達になっている以上、会津はグラバー商会を使えません。
グラバーさんだって商人なのですから、顧客情報は守るでしょうが、グラバーさんが守ったって、その周りから確実に会津の動きは漏れますからね。
そういうわけで、春英さんが目を付けていたもうひとりの武器商人に覚馬さん達は頼ることにします。

プロイセンから来たカール・レーマン。元は製鉄所の船大工です。果たして、信用のおげる者がどうが

一行が不安を拭い切れないまま尋ねたカール・ウィルヘルム・ハインリヒ・レーマンさんは、維新後も覚馬さんと関係を持つ方になります。
ルイーズ、と呼ばれるお嬢さん(ちなみにこのとき2~3歳)が作中にも登場してましたが、レーマンさんの奥さんは日本人ですので、彼女はハーフですね。
さてさて、レーマンさんが薦めるのはゲーベル銃。
一挺五両でどうでしょうかと商談が始まりますが、覚馬さんはゲーベル銃が売れ残り且つ旧式であることを知っているので、きっぱりとそれを撥ね退けます。
きっと知識のない人は、ここで粗悪あるいは旧式の銃を掴まされてしまうのでしょうね。

お望みはミニエーですか?
いや、もっと新しいのだ。元込め式で銃身に溝が切ってあるライフルが欲しい
スナイデル銃は人気がありますが、うちでは扱ってません

欲を言うなら一番欲しかったであろう銃が取り扱ってないと言われ、もっと他に銃はないのかと言わんばかりに勝手に店内を歩き始めた覚馬さんが見つけたのが、視聴者の皆様には第1回冒頭以来のお目見えになる銃です。
即ち、スペンサー銃。
ですがスペンサー銃は抜群に値が張るので(ゲーベル銃の7~8倍します)、流石の覚馬さんも整える気になれず、代わりに目を付けたのがチュントナデール銃。
世界最初のボルトアクション式元込め銃で、最大射程距離はスナイドル銃とほぼ同等です。

よし、これを1000挺調えでくれ
1000挺ですって?馬鹿馬鹿しい。プロイセン軍が第一線で使う銃です。長崎ではそうそう手に入らない
んだら、プロイセンまで行って、買い付けで来てくれ
博打を打てというのですか?そこまでして、もし破談になったらどうします?私は大損です。私は商人ですから、危ない橋は渡れません。お望みの品がないなら、お引き取り願います。銃の買い手はいくらでもいる

歴史的な結果論からまず言いますと、会津とレーマンさんの商談は、破談にはなりませんが、契約した会津藩が支払いを終えない内に会津藩解体となります。
だから彼は斗南藩に未払い分の訴訟を起こすことになります(それを破談というのかな?)。
しかしツンナール銃は撃針が壊れやすいので、それを忘れてるのか知らないのか、事情は如何あれいきなりどーんと1000挺も注文するのは、ちょっと手痛いミスかも知れませんね。
ゲーベル銃などと比べて飛距離があっても、戦場で扱い辛いのなら、飛距離がやや劣っても扱いやすいものを揃える方が良いんじゃないかと思うのは私だけでしょうか・・・いえ、そう言ったことには不勉強なので断言は避けますが。
そんなこんなで、覚馬さんはレーマンさんに噛み付いてしまい、商談はそこで終了。
どうやら売れ残りのゲーベル銃を買わせようとしたことや、会津の命運のかかった買い物を博打呼ばわりしたことが、覚馬さんの怒りを買ってしまったようです。
元々血の気が多い覚馬さんでしたが、冷静さを失ってしまった一番の原因は、覚馬さんの失明が徐々に近付いて来ていることによる、焦りだったと思います。

もうじき見えなぐなる。さっきは銃身の溝も見えながった。せめでその前に薩摩や長州に劣らぬ銃を買いでぇ。そうでねえど・・・俺はただの足手纏いだ
目だけしか、ないのですか?会津のために仕えるものは。綿者五体全てをかげで殿にお仕えしている。・・・覚馬さんも、同じはずだ。たどえ光を失っても、銃を知るこの手がある。学んだ知識や身に沁み込んだ魂を、会津のために使えば良い。覚馬さん、しっかりしっせぇ!

先程の春英さんの慰めの言葉とは違って、修理さんのこの叱咤激励は、がつんと覚馬さんの心に届いたのも無理ないと思います。
目が見えなくてもやれることがある、などと漠然とした言葉でぼかすのではなく、覚馬さんには誰よりも銃を知った手もあるし、頭の中には知識だって入ってる。
培った人脈だってありますし、今までにインプットしたものをアウトプット出来る頭だってあります。
目が光を失っても、それらは決して失われるものではない。
ちゃんと言葉に出して、修理さんは示したのですね。
通り一遍のぼかしたうわべだけの言葉が如何に人を追い込み、そうでない言葉が如何に人を救うのか、このやり取りでよく分かる心地がします。
悲観に暮れるばかりではなく、残された時間い慌てるでもなく、いつ何時でも自分に出来ることを見つめ直せた覚馬さんは、レーマンさんに深々と頭を下げ、レーマンさんはそれに応じてようやく会津との取引の話が始まります。
画して覚馬さんは銃の発注に成功するのですが、このとき注文した銃は明治2年6月29日(1869年8月6日)に神戸港に着きます。
会津が降伏したのは明治元年9月22日(1868年11月6日)。
ええ、そうです、全てが終わってから届いたのです・・・。

慶応3年(1867)、孝明天皇の大喪が行われ、皇位はその子、睦仁親王が継ぎます。
睦仁親王は嘉永5年9月22日(1852年11月3日)のお生まれですので、このとき14歳、数えで16歳。
拠り所としていた孝明天皇を喪った容保様の悲しみは如何ばかりかは察せませんが、ともあれ以前から願い出ていた容保様の会津への帰国の件が、漸く幕府から許可が下りたようです。
といっても京都守護職の辞任が適ったのではなく、飽く迄一年限りの帰国を許す、というものでした。
文久3年(1862)に容保様が上洛してから彼是五年、なのに暇はたったの一年だけとは本当割に合いませんよね。

そんじも、国許にお戻りになれば、ちっとはご養生になるでしょう。余九麿様が殿の名代として残られるごどになりました
お世継ぎのねえ殿が、ご養子を迎えられだのは目出てぇ。んだげんじょ、余九麿様は水戸のお方、将軍家の弟君だ。わしは、あの御方がどうにも信用出来ぬ
養子縁組のごどは前から決まっていだごどです。それに、余九麿様はご気性も素直でいらっしゃる

容保様が御正室の敏姫さんと死別し、以後正室どころか女性をお傍に置かなかった(置いている暇がなかった)ので、容保様には後継ぎがいませんでした。
なので慶応2年12月1日(1867年1月6日)に斉昭さんの十九男で、慶喜さんの異母弟にあたる余九麿さんを養子に迎えました。
安政2年10月22日(1855年12月1日)のお生まれですので、養子になったときは11歳、数えで13歳ですね。
よく容保様のことを「会津藩最後の藩主」と表現しますが、実際は養子になった翌年に余九麿さんが藩主となっているので、実質的には余九麿さんが「会津藩最後の藩主」です。
しかし自分で最後になるだ何て思いもしていない余九麿さんは、その頃容保様と一緒に上座に着いて、銃身の皆様と膝を突き合わせていました。
余九磨さんが入京したのは2月12日(1867年3月17日)なので、この場面はそれ以降の出来事ですね。
身振り手振りを加えて、覚馬さん達が長崎で買い付ける予定のチュントナデール銃のことを話す土佐さんに、まるで見てきたように言う、と容保様。

実は・・・見で参りました。武器商人のカール・レーマンなる者が、見本を携えで神戸まで出て参ったのです
神戸じゃと?あの地はまだ異人の立ち入りは許されておらぬが・・・
危険は承知の上で銃を見せに来ました。会津に紛い物は売らぬと。異人にも義というものがあるのでごぜいますな。プロイセンまで銃を買い付げに行くど申しております。高い買い物なれど、信じて良い相手ど存じまする。国禁を犯すごどに手を貸し、面目次第も御座いませぬ。お叱りは覚悟の上・・・

しかし平伏する土佐さんに、容保様は「よくやってくれた」と言います。
この返しに、容保様の成長というのは変ですが、孝明天皇がおられた頃の容保様との違いが見受けられるように感じました。
孝明天皇存命時、容保様は「それでも主上なら分かって下さる」という一種の思考停止状態ともいえるものに陥ってる時がしばしばありました。
勿論容保様の立場が非常に難しいものだったのは百も承知ですが、孝明天皇という絶対的な存在が、容保様の視野を狭める一因になっていたのも事実でしょう。
仮に孝明天皇がこのとき生きておられたとして、異人の立ち入りが許されていない神戸に天皇の大嫌いな異人(しかも都と神戸は至近距離)が来たのだったら、容保様の口から「よくやってくれた」の一言は逆様にして振っても出なかったと思います。
変な言い方になりますが、孝明天皇という視野を翳らせていた大きなものがなくなったおかげで、会津もようやく外の世界に目を向けることに着手していけるようになるんですね。
それが、歴史の流れで見れば遅すぎたというのは否めませんが、遅すぎたと言えるのは歴史の展開を知っている私たちだからですよね。
孝明天皇の崩御は、当の会津にしてみれば最大の後ろ盾を無くしたと共に、大きな一歩だったとも言えるのかもしれません。

さて、そのころ会津の山本家では、洋式調練修行を願い出ていた三郎さんが、江戸の修業生に選ばれていました。
お父さんの権八さん、お兄さんの覚馬さんが通った道を、三郎さんもまた通るのですね。
触れられてはいませんでしたが、三郎さんもまた覚馬さんのように、日新館では非常に優秀な成績を修めていました。

しばらぐ戻れねぇがら、今日は江戸に行ぐ仲間ど小田山に登って来た。あそこがらは、お城が良ぐ見える

笑いながらいう三郎さんの言葉に、そうかそうかと頷く山本家一同の中、尚之助さんだけは何か引っかかったような反応を示します。
会津戦争のこと知っている人は、三郎さんの何気ない発言に対しての尚之助さんの反応の意味が分かると思います。
まあ会津戦争の経緯を知っておらずとも、単純に考えたら「城が良く見える」=「敵に何処に陣を張られたら、城に直接攻撃される」ということですよね。
しかしそんなことに気付けてしまう尚之助さんが、些か優秀すぎるようにも見えなくもないのですが・・・(苦笑)。

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ちなみに小田山とお城とはこの近さです。
もう間もなく戦端が開かれることになる会津戦争では、ここの奪い合いが会津軍と薩長連合軍の間で繰り広げられます。
仲間と一緒に小田山に上り、城や城下を臨んだ三郎さんが何を思ったのでしょうね・・・。
彼が別撰隊に志願して、命を捨てるには16では若すぎると言われたことはまだ記憶に新しいですが、でもその志だけは一人前と認めて貰えた三郎さんが、ようやくあの時悔しい思いをしてなりたかった自分に、大きく一歩近づけたのですね。
八重さんも姉として、そう言ったことをきっと三郎さんに感じていたのでしょう。
その晩から三郎さんの着物を仕立て、襟先の裏側に南天(難を転じるものとして、古来より人に親しまれてきた植物です)の刺繍をしてあげます。
そしてその年の5月、三郎さんは八重さんの南天の刺繍の入った着物に袖を通し、江戸へと旅立っていきます。
見送られた三郎さんが、八重さんの声に一度振り返って、襟元の南天を見せるのが何とも兄弟愛に満ちた涙ぐましい場面なのですが、彼が二度とこの故郷の土を踏むことはないと思うと、あれ以上に胸を締め付けられるシーンはありません。
三郎さんは戻って来ず、あの手づからの南天だけが八重さんの元に戻ってくるんですよね。
そのとき、八重さんのこの明るい笑顔が崩壊するんだろうなと思うと、暗い気持ちになります。

長崎に出向いた覚馬さん達は、暫くそこに滞在したようで、気付けば覚馬さんの月代の毛が伸び切って総髪になるほどに月日は経過していました。
覚馬さんは精得館で、皐月塾にいた時のように異国の文化や書物や見解に触れ、充実した日々を送っていたのでしょうね。
先程も触れたことですが、覚馬さんのこの長崎出張、結果的にみれば肝心の買い付けた銃は肝心な時(会津戦争)に間に合いません。
目は治療どころか、失明宣告されました。
でもじゃあ、覚馬さんにとって長崎での日々に何の収穫があったかって、新聞とか、そういうものに触れたってことですよね。
それがまた覚馬さんの中にインプットされて、『管見』にも大なり小なり反映されていく。
長崎に行く前の覚馬さんでは、到底あの『管見』は書けないと思っていたのですが、回を重ねるごとに少しずつですが、「『管見』を書ける覚馬さん」に近付いて行っているような気がします。
(いえそれでもまだかなり溜めが弱くって、これから先期待したいところですが。この弱い溜めのままで行くと、『管見』を書ける覚馬さんには到らないでしょう)
その覚馬さんの去り際、ルイーズちゃんを伴ったレーマンさんが駆け寄って来ます。
先程も触れましたが、覚馬さんとレーマンさんの交友はここで終わりではなく、明治になっても続いて行きます。
そんな覚馬さんに、レーマンさんはスペンサー銃を差し出します。

んだげんじょ、生憎買うだげの持ち合わせはねぇ
贈り物です。会津への信頼の証に。銃をよく知る人に使って貰って下さい

そしてルイーズちゃんからは、ぽっぺんを貰う覚馬さん。
このスペンサー銃が、覚馬さんにとっての銃をよく知る人=八重さんの手元に届けられるのは自明の理ですが、スペンサー銃って銃弾輸入しなくちゃいけないので、弾の補給ルートを確実に押さえてなきゃ弾切れの鉄の筒に成り果てるのですよね。
水を差すようで申し訳ないですが、事実、八重さんは会津戦争中鉄の筒状態になったこれを途中から使いませんから(というか使えませんから)。

時代が進むにつれて、明治維新の顔ぶれも着々と登場してきます。
慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京の小松帯刀邸にて、この度新たに登場したのは土佐藩の乾退助さん。
天保8年4月17日(1837年5月21日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳。
待ち人は西郷どんです。
乾さんは単刀直入に、薩摩と長州で行う倒幕運動に、自分達土佐も加えて欲しいと申し出ます。
薩長同盟に比べるとネームバリューがやや劣りますが、所謂これが「薩土密約」ですね。

慶喜公が幕府を作り変えゆう。総裁を置き、陸軍をフランス式に改めゆうが。このままでは幕府はまた強ぉなりますろう
都においながら、あいだけんことをばしてのっくとは、大した腕にごわすな
幕府が強ぉなったら、薩摩と長州だけで倒すがは難しいですき。土佐と組むがは、悪い話じゃないと思いますけんど

確かに悪い話ではありませんが、はいそうですかとすぐに頷かないのが西郷どんです。
と言いますのも、乾さんはこう言いますが、土佐は前藩主の山内容堂さんを始め上層部は公武一和派だったんですね。
まあ容堂さんとしては、自分の藩主就任までの経緯で幕府に恩義を感じている節もあったでしょうし。
土佐藩にスポットが当たった話としては、『龍馬伝』を見直すなり何なりして頂くとして、乾さんはひと月で藩の意見を幕府打倒に変えて見せるから待って欲しいと言います。
出来なかったら腹を斬ると。
脅しじゃなく、乾さんの性格ですと本当に腹を斬ります。
しかし乾さんにしてみても、このまま反論を倒幕路線に乗せられなかったら、幕府という船と共に一緒に沈むことは分かっていたでしょうから、必死になってやったでしょうね。
ちなみに乾さんの行動は早く、この翌日には四侯会議のために上京していた容堂さんに密約の内容を報告しています。
余談ですが、幕末の土佐と言えば抜群の知名度を誇る龍馬さんですが、彼は何かと戦を避けようとしていた平和主義者のように思われていますが、幕府との開戦となったら、薩摩、長州、土佐の軍艦を纏めて幕府海軍に対抗しようという思想を持っていたことが、三吉慎蔵さんに宛てた手紙から分かります。
つまり龍馬さんも、物の考え方的には非常に乾さんと近い位置にいたというわけですね。
この薩土密約のひと月後に、武力倒幕ではなく大政奉還による王政復古を掲げた「薩土盟約」と言うのが両藩の間で結ばれるのですが、結局これがすぐに瓦解して、残った薩土密約に重きが置かれるようになり、薩摩の反論は倒幕路線に傾いて行きます。

いつかは定かではありませんが、おそらく6月9日(1867年7月8日)でしょうか、二条城で余九麿さんの元服式が行われ、慶喜さんから一字貰って名を「喜徳」と改めます。
養嗣子の元服も終わったので、後は彼を名代にして容保様は国元へご帰国・・・と思いきや、それに待ったをかけたのが慶喜さんです。
しかし、待ったと言われても待てない事情が容保様にもあります。
昨年に起こった孫右衛門焼けの影響もあって、ただでさえ赤字だった会津の財政は、瀕死寸前の状態でした。
何より容保様が藩主になってから殆ど間を置かずに国許を離れたため、容保様も藩の政務に当たらなければ、領民に示しどころか藩主としての認識すら危ういのではないでしょうか。

そこを曲げて、頼みたい。・・・会津殿は都を放り出されるのか?薩摩や土佐が長州藩主親子の官位復旧を、公家達に説いて回っていること、存じておろう?我らをご信頼下さった先の帝とは違って、新帝の祖父、中山忠能卿は薩摩に同調しておいでだ。このような折に会津殿が都を去れば、薩摩が朝廷を操り、騒乱を起こすやもしれぬ
その抑えのために、藩兵千人を残しておきまする。都に事ある時は、それがしも直ちに会津より馳せ上りますゆえ
それでは間に合わぬ!朝廷にすり寄る者どもが何を企んでいると思う?・・・あの者どもの真の狙いは、幕府を倒し、取って代わることにある。そうなっては、公武一和を願われた先の帝のお志はどうなる。尊い詔が無に帰してしまうのだぞ。それを許しては我らを篤くご信任下された先帝に対し、あまりに不忠ではないか

言葉の揚げ足取るようですが、亡き孝明天皇が容保様を篤く信頼していたのは間違いないでしょうが、慶喜さんとの間にそう言った関係があったのは甚だ謎です(苦笑)。
ですが、慶喜さんは容保様の泣き所を上手く捉えてますね。
孝明天皇のことを出されては、容保様が固辞出来るわけないのを知っててやってるのですから、本当に性が悪い。
いえ、政治家っていうのはこういうのが出来てこそなのでしょうが、容保様にそう言った面がない分、余計に慶喜さんの性質の悪さが浮き上がってます。
こうまで来ると、実弟を容保様の養子に宛がったのも、容保様を繋ぎ止めておくためだったんだろうな、と思えて仕方がありません。
ちなみに、2年後にお生まれになる容保様の実子、容大様の御正室の鞆子さんは、斉昭さんの孫娘、つまり慶喜さんの姪っ子です。
何処までも慶喜さんは容保様の家系図に介入したいのですね・・・いえ、まあ水戸と会津の関係からしてもうこのふたりより前に繋がってはいるのですが。
話が脱線しましたが、容保様を引き留めていたのは、何も慶喜さんだけではなく、幕府側の公家達も同様に容保様に都を去られては困ると言っていました。
4月23日(1867年5月26日)に容保様が参議に補任されたのは、そう言った公家達の工作(高い官職を餌に与えようという)だと思います。
そんな公家達と、慶喜さんと、そして孝明天皇の話を出されてしまえば、沢山の柵に捕らわれた容保様が帰国出来るはずもなく、結局話は流れてしまいます。
そして覚馬さんもまた、容保様が国許に戻られない内に自分が都を離れるわけにはいかないと、残留を決めます。
余談ですが6月26日(1867年7月27日)、容保様は加賀藩主前田慶寧さんの長女の礼子さんを娶ることを約し、結納を贈っていますが、後の起こる会津戦争の影響からこの婚約は解消されてしまいます。

帰国出来ない覚馬さんの代わりに、会津の山本家には覚馬さんからの荷が届きます。
中にはたくさんの長崎土産と、そして木箱にはあのレーマンさんからプレゼントされたスペンサー銃が入っていました。
手に取ってみて、軽いと八重さんは喜んでますが、ゲーベル銃の方がスペンサー銃よりも軽かったような気がするのですが違いましたかな。
添えられていた覚馬さんの手紙の字は、随分を乱れているようで、「余程慌てて書いたのか」なんて言われてるので覚馬さんは目のことをまだ家族には知らせていないのですね。
きっと、明治になって京都で再会するまで、ずっとこのことは伏せられたままなのでしょう。
さて、八重さんとスペンサー銃。
元々射撃の腕前は抜群だったのですから、撃ちやすくてよく当たるスペンサー銃が加われば、鬼に金棒とでも言いましょうか。
しかし如何せん、銃弾の補給ルートが整っていませんので、これが会津戦争で八重さんのスペンサー銃が存分に力を発揮出来なかった痛恨の理由になります。
おまけに銃一挺が高けりゃ銃弾一発もものすごく高い。
なので八重さんが角場でばんばん撃ってるのをみると、思わず「おーい、そういう事情があるんだから弾一発でも無駄にしちゃ駄目だよぉー」と言いたくなるのです。
けれども八重さんの手元にスペンサー銃が来たということは、そろそろこの会津にも戦がやって来るということで・・・。

覚馬さんが戻れないはずだ。こうした銃を西国諸藩が大量に買い入れているなら・・・戦の火種は、最早長州だけではない

スペンサー銃の構造を丹念に調べながら、尚之助さんはそう言います。
何だか、都にいる覚馬さんよりも、都から遠く離れた尚之助さんの方が的確に情勢を捉えてるんじゃないのかと、ときどきふとそのように感じるのですが・・・ともあれ尚之助さん、優秀すぎます。
そんな尚之助さんは、三郎さんが出立前に言っていた「小田山から城を見た」ことの意味を八重さんに説明します。

良い眺めだべ。ご城下が見渡せで
つまり、敵から城が丸見えということです
敵?誰かが攻めでくんですか?
万が一の話です。会津は奥州への入り口だ。守りを固めるに越したことはない。白河、越後、日光、米沢、二本松。大きな街道が五つ・・・一番の要所は、やはりここか・・・

尚之助さんが示したのは白河。
冬が近付いてからでは峠越えは難しいので、すぐに行くかと決断する尚之助さん。
何をしには言わずもがな、戦に備えての視察ですね。
本当、何処までも優秀すぎる感じがここへきてますます磨きがかかったように思えますが、その白河までの旅に、八重さんも同行します。
18里の山道で、険しい峠をいくつも越えるのに・・・と尚之助さんは苦り切った表情で言いますが、後に覚馬さんをおんぶして江戸に行く八重さんですから、18里程度の山道なんて勿論へっちゃらです。
画して、川崎夫婦の新婚旅行(?)は白河となったのでした(笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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