2013年6月18日火曜日

第24回「二本松少年隊の悲劇」

前回の手痛い白河の敗戦から始まりました、第24回。
同じ頃、覚馬さんは獄舎の中で、野沢さんに口述筆記を頼み、新国家への意見書を纏めようとしていました。

無用の古書を廃し、国家有用の用うべし、学問の書には四種ある、その一は建国術。・・・ここまで、読んでみでくれ

しかし獄番から「毎日毎日うるさい」と咎められ、上野が落ちたことを嫌味のように知らされます。
あまり覚馬さんが動じてないところを見ると、悟りきっているというか、分かっていたというか。
獄内で何も出来ない自分の立場を分かっているので、足掻くよりは何よりもまず目の前のことを、という心境なのでしょうかね
しかしその目の前のこと、もとい意見書も、また薩長連合軍の悪口を書いていたのかとぐちゃぐちゃにされます。
書く度に破られてしまうことを悲観する野沢さんですが、それでも覚馬さんは動じません。

言葉は皆ここにある。ここにあるもんは、誰にも奪えねぇ

そう言って、左の胸に手を当てる覚馬さん。
暴力で踏み躙られても、折れないものがあるということですな。

さて、山本家の角場にて 「この玉なら丸い弾よりずっと遠くに飛びます」と言いながら、硝石の量が爆発の威力を決めることを健次郎さんに教えていた八重さん。
学問ばかりやっているという健次郎さんには、実践的な武芸の鍛錬積むより、こういった調合や配合などと言った頭を使う方面の方が性に合ってそうですね。
ちなみにこのとき健次郎さん14歳、数えで15歳。
更にそこに登場しました、マントルの良く似合う悌次郎さん、盛之輔さんと同い年ですね。
同い年ですが、銃の上達の速かった悌次郎さんはお父さんが隊長に掛け合ってくれたこともあり、白虎隊への入隊を許されました。
(白虎隊は16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊)
白虎隊隊士として猪苗代湖を視察する藩主の喜徳さんに同行することになった悌次郎さんと、お城に上がって若殿様の護衛に加わることになった盛之輔さんに、追い越されたと溜息を吐く健次郎さん。

んだら、体創りの秘訣をさずけやしょう

と、八重さんはそんな健次郎さんに俵上げをするように言います(笑)。
健次郎さんがうんうん唸っても持ち上がらなかった俵を、ひょいと担ぐ八重さんの怪力っぷりは相変わらずです(ちなみに一俵は60kg)。
これが足腰の鍛錬になると八重さんは言いますが、下手したら腰を痛めかねないですね。
妻が怪力なことについて尚之助さんが如何思っているのかさて置き、今週からどうやら髭を生やし始めた尚之助さん。
八重さんは白河が薩長連合軍に奪われたことについて、背炙峠を越えて、福良、白河、二本松を尚之助さんと一緒に回ったことを思い出します。

・・・白河は、やはり取り返すのが難しいのでしょうが?
難しいようです。やはり、銃や大砲の力の差は大きい。福良で話したこと、まだ何も出来ていない。反射炉も、銃の刷新も、間に合わないまま戦が始まってしまいました

前回の白河口の戦いがさらっと流されたので、作中白河が、白河が、と言って登場人物の中で募る危機感と、視聴者側の危機感にかなり温度差が生じている、ないしは白河の重要度がドラマの描かれ方だけですと、いまいちピンとこないのですが・・・。
ともあれ、先週から何度も繰り返しているように、白河を奪われたのは痛恨の出来事です。
この発言から、尚之助さんは「会津に戦が来る」ことは確定未来として分かっていたけれども、まさかこんなに早くだとは思ってなかったのでしょうね。

あの子だち、戦場に行ぐごとになんだべか?
いや、白虎隊は飽く迄備え部隊です。まだ、戦場に立つ歳ではありません

尚之助さんの言うように、白虎隊は飽く迄この時点では「予備兵力」的な意味であって、主力兵力とは見做されていません。
しかしその予備兵力までもが、止むを得ず前線にまで駆り出される事態になってしまうのが、この後の会津戦争です。

一方、落とされた白河城には、板垣さんが300人の兵を率いて合流し、既に白河にいた伊地知さん、大山さんを交えて、早速軍議が行われます。

先にこの辺りを崩す。奥州街道を断ったら、兵は城下に戻れんき、補給路も断てる
越後口も程なく政府軍が手中に納めれば、会津への武器の流れも断てもす
棚倉、守山、三春、二本松まで進んだら、会津は目の前じゃき

越後口を断たれたら会津への武器の流れが止まる、というのは、会津にはご存知、海がないので、越後の新潟港経由で武器を補給していたのです。
官兵衛さんがそちらの方面の守備に当たっているのは先週触れられた通りです。
さて、北上して日光口を突破して会津に向かうつもりが、どうにもこうにも突破出来なかった薩長連合軍。

板垣さぁほどの御方がおって、日光口が破れんかったとは、ないごとでごわすか
会津から、山川大蔵っちゅうこれがまっこと手強かったがやき
会津の山川・・・

ちなみに前にも触れましたが、大蔵さんは後に大山さんにとって義理のお兄さんになります(大蔵さんの妹と結婚するので)。
縁とは本当、奇妙なものでして、何処で誰と繋がるのか分からないものですね。
で、その大山さんの未来のお義兄さんこと大蔵さんの活躍は、「大蔵が敵の進軍を完璧に封じていた」のナレーションの一言で済まされていますが、あまりに不憫ですので軽く補足しますね。
会津藩が国境の日光口、越後口、白河口にそれぞれ人をやって戦線を構築していたのは皆さま記憶にまだ新しいと思うのですが、そもそも会津一国の軍力で国境に兵を配備するには、とてもじゃないですが人手不足になるんですね。
そこで、日光国には旧幕の大鳥圭介さん率いる幕府伝習歩兵が戦線に参加してました。
実際には、大蔵さんが指揮権を持っていながら、大鳥さんの隊の傘下に大蔵さんたちが入る、というちょっと不思議な図式になっていたようです。
大蔵さんは日光で軍を動かす上で、身分に拘らないという姿勢を持っていて(この点が白河を守っていた西郷さんとの大きな違いかと)、国許から猟師を連れてきていてそれで隊を結成させ、それが功績をあげたり・・・と、板垣さんを散々手古摺らせます。
ドラマでは「今市付近」となっていましたが、今市というのは日光にある地名のことで、最初大蔵さんたちはここに侵攻せんとしていたのですが、相次ぐ周囲の味方の敗戦により、そちらに兵力を回さなくてはならなくなったので、今市侵攻のための兵力が不足します。
なので大蔵さんたちは侵攻を諦め、防御に徹するという姿勢に切り替わります。
攻めから守りに転じられた板垣さんは、後続としてやって来た佐賀藩にその場を任せ、自身は白河方面へと向かいます。
そういう流れを経て、板垣さんは日光から白河へやって来たのです。
結果的に大蔵さんは、この日光口を守りきり、薩長連合軍に突破させませんでした。
しかし本陣ともいうべき鶴ヶ城が包囲されたのを聞き、急遽軍を返すことになるのですが、それはもう少し先の展開ですね。

6月3日(1868年7月22日)、猪苗代湖の南に位置する福良に、白虎隊市中一番隊と二番隊は藩主喜徳の警護のため、新選組と共に出陣していました。
その夜、陣内で白虎隊隊士らに、御所から長州を追い出した時の話などを目を輝かせてせがまれる土方さん。
彼らからすれば、会津藩お預かりという立場で都にいて、しかも死線を潜り抜けて来た新選組は、ヒーローとまではいきませんが、憧れを募らせる対象なのでしょうね。
今の会津の立場が立場なだけ、余計に。
しかし、「新選組というのは、会津に古くからある隊名のひとつと聞いておりやす」と言われて、初耳だと言わんばかりの顔して「そうか」って言う土方さんに、そうかじゃないでしょ!と突っ込みたくなりました。
彼が新選組の名前が会津の古い隊名って知らなかったってこと、なかったと思うんですが・・・まあ断言はしませんけど。
翌日白河城の奪還のために出陣する土方さん達を慮って、今夜はこれでお開きとなった白虎隊と土方さん達。
そんな彼らを見て、土方さんがぽつりと零します。

子供といえども、会津武士は違うもんだな。俺があの年の頃は、石投げの喧嘩ばかりしていた
私も似たようなものです。・・・会津の古い隊名だったのか、新選組は
おらぁな、会津の飼い犬になるなんざまっぴら御免だった。出し抜いてやる気もあった。だが、会津の殿様は存外、俺達を信用していたのかもしれねぇな

そう言いながら、聞こえてくる子供の声に微笑む土方さん。
容保様は存外どころか、新選組のことも大切に思っていたように感じます。
・・・というか、その辺りも土方さんならちゃんと分かっていたでしょうに・・・うーん、何だかこのドラマの土方さんは野心に溢れすぎているというか、従来と違うという意味では良いかもしれませんが、それが却ってズレを作っている部分もあるように見受けられます(苦笑)。

6月24日(1868年8月12日)、板垣さんら薩長連合軍は棚倉に侵攻し、翌日には棚倉城を落城させます。
そもそも棚倉城がたった一日で落ちたのは、同盟軍が白河の方に兵力を集中させ、棚倉には援兵を向けなかったからです。
しかしその結果が棚倉を落城させ、それが白河を取り戻したい同盟側の首を一層締める結果を招きます。

上図を見て頂けたら分かるように、棚倉から白河までは一本道で、且つ白河が押さえられれば奥州街道が押さえられることになり、白河奪還が絶望的になります。
白河の奪還が望めない以上、会津形勢不利の立場は揺るがず、且つ奥州越列藩同盟にもこの時点では綻び始めており、周囲諸藩は薩長連合軍によって攻略あるいは同盟を裏切るということになっていました。
このままでは会津が孤立無援になると思ったのでしょう、西郷さんは鶴ヶ城に駆け戻り、容保様に停戦を申し上げます。
しかし土佐さんは、謝罪恭順の道はとっくに断たれているではないかと言います。
それでも戦を止めなければならないという西郷さんに、一体何と引き換えに和睦に持ち込むのかと問う平馬さん。

それがし、西郷頼母は無論、ここにいる家老一同、腹切って首を差し出す

一語一語噛み締めるように西郷さんは言いますが、家老一同はあまり耳を傾けません。
確かに第一次長州征伐の時に、長州側が家老の首三つを差し出したことを考えれば、本気で会津が謝罪恭順するためにはそれくらいの首が必要です。
(そしてこれが会津戦争後で現実となる・・・西郷さんの首は入ってませんが)
謝罪恭順を申し出る西郷さんに、薩長連合軍のこれ以上の進軍を防ぐのが白河軍総督の役目ではないのかと攻める土佐さん。

敗戦の失策は幾重にもお詫び申し上げます。んだげんじょ、鉄砲、大砲の力の差は、明らか
奥羽諸藩が、一丸となってで御座るぞ
恭順などと言い出すのは、列藩同盟の信義にもとります

会津の誇りと列藩同盟の信義に囚われ続け、その手段を選べない会津藩家老の主戦派。
気持ちは分かりますが、信義や信念で勝てるものではないのが戦争というやつです。
気合で銃弾や砲弾は跳ね返せません。
それに囚われてる人はそれで良いかもしれない、でも囚われてない人からすれば巻き込まれて火の粉が降りかかるのですよ。
その火の粉が降りかかった一番の被害者が、もう間もなく起こる会津城下での戦争での、民衆でしょう。
そこが全く見えていなかったのが、このときの会津藩上層部。
しかし大蔵さんは立派にまとめ上げているということを鑑みれば、「武器、また戦い方も違う諸藩の兵が、戦場にて一丸となんのは、これはこれは難しゅうござる」が泣き言にしか聞こえないと言われてしまっても、西郷さんに弁護出来ません。
だって、実際大蔵さんはきちんと出来てますし、白河だって西郷さん達が前線に到着してないままで行われた緒戦は大勝利だったわけですし。
となれば、敗戦の責任の多くは、西郷さんの力量不足になります。
もしここで西郷さんが白河を守れていたら、ここでの発言力は大きく変わっていたでしょうが、歴史にもしは禁句ですね。
戦うより道はない、という姿勢を崩さない主戦派に、ならばと西郷さんは声を張り上げます

ならば!ならば殿!鉄を!大砲の補強を!何としてもすぐに!
銃には、限りがある。日光や越後にも分配せねばならぬのです
ならば梶原!反射炉を!反射炉を今すぐ作れねぇが!寺の鐘鋳潰して、大砲を作れば
出来るならやってらぁ!今はその、金も時もねぇ
土佐ぁ!んだがら、あんとき一時でも早ぐ、都を出てれば!

これが本当に家老の集まりの場での会話なのかと耳を疑いたくなりますが、最後の最後で言ってはいけないことが飛び出しました。
いつでも正論を言っていいわけではありませんよね、正論だって控えなければいけない時はある。
特に、内蔵助さんが指摘したように、西郷さんはつい最近まで謹慎していた身。
外部からとやかく言うのは簡単かもしれませんが、在京組は在京組なりに必死だったんです。
内蔵助さんなんて、その結果が積もりに積もって、息子の修理さんが切腹までさせられた。
何も知らないぬしが、出過ぎた口を聞くな」の台詞は、だから内蔵助さんの口から出て来た。
容保様が静かな視線を西郷さんに向けるのも、内蔵助さんと同じような心境だったからでしょう。
けれどもまあ、どちらの言い分も正論ですよね。
会津が引き際を見誤ったのは事実ですので、西郷さんの言うことも正論。
しかし今そのことを反省点に取り上げても、何も変わらない。
それまで沈黙を貫いていた容保様は、西郷さんの総督の任を解き、代わりに内藤介右衛門信順さん(平馬さんの実父)が白河総督の任にあたります。
それを言い渡された時の、くしゃりと潰れた西郷さんの表情・・・この人、本当会津を戦場にしたくない、という思いがずっと根底にあるのだなと感じました。
前にも触れたことですが、藩祖の保科の血筋には西郷さんの方が容保様より近いですので、そういうのも関係してるのかもしれません。

日新館では、戦で壊れた銃が次々と運ばれて来ており、雷管だけでも作り変えたら戦力の足しになるから、と八重さんや尚之助さん、権八さんとお手伝いの健次郎さんが懸命に働きます。
お金をかけないで、でも出来ることはどんどんやって欲しいと萱野さんは言いますが、八重さんは目の前に運ばれて来たゲーベル銃や火縄銃を見て、これではあまりに古すぎると言います。

敵は、スナイドルや臼砲を使っているのに
それを目の当たりにされたから、頼母様も停戦を言い出されたのでしょう

そこへふと、火薬を調べていた健次郎さんが、木炭が多すぎて硝石が少ないのではないかと言うことに気付きます。
後に東京帝国大学の総長になり、同大学で物理学を教えることになる健次郎さんの片鱗が垣間見えた!と思いますが、よくよく考えてみればこのころの健次郎さん、まだ九九すら出来ないのですよね。
いや、でも「出来ない」だけで、豊かな土壌は持っていたということですかね。
それはさて置き、どれどれと尚之助さんが見てみると、何でも使われていた火薬は関ヶ原の頃の調合のもののようで、それだと煙ばかりが上がって爆発の威力が弱いと指摘します。
それなら、火薬を今の調合のものに作り直すだけでも銃や大砲の威力が変わるのではないかと公明を見出した八重さんですが、権八さんがそうなると問題は硝石だと言います。
硝石は雨の多くて湿度の高い日本では国産が難しく、ほぼ唯一国産に成功していたのが加賀藩(五箇山)だったのですが、これも藩の極秘のような扱いをされていましたし、そんなに大量に生産出来ているわけでもありません。
そういう供給状態ですので、権八さんの言うように、硝石は何処の藩にもあまり蓄えがないのです。
ちなみにこの硝石は、火薬を作る上で欠かすことの出来ない材料です。
だから戦国時代、硝石をやり取り出来る港の堺を押さえた織田信長軍は、銃器が他の大名よりも優れていたのだと思います(違ったらごめんなさい)。
まあ、その割には八重さんが角場でじゃんじゃん無駄玉を撃ってるのが気になりますが(苦笑)。
その時、萱野さんのもとに、秋田藩が薩長連合軍に降ったという知らせが飛び込んできます。

この秋田藩が同盟離脱したことは、ドラマでは「何故?」という部分に触れられないまま次に展開が移りましたので、折角ですのでまたまた少し補足したいと思います。
そもそも、秋田藩が何故薩長連合軍に下ったのか、元を糺せば原因は仙台藩にあります。
九条道孝さんと言う方がおられたのを、皆様覚えておいででしょうか?
あの世良さんと共に仙台へやって来た、奥羽鎮撫総督です。
彼が仙台の地を踏んだ時は、まだ先代は薩長と戦闘状態に入ってませんでしたが、世良さんの暗殺などを経て、すっかり仙台は薩長と敵対する構えを見せるようになりました。
つまり、道孝さんは奥羽鎮撫総督でありながら、敵地とも言うべき場所(仙台)で孤立するという状態になってしまったのです。
薩長側としては自分達の総督が敵の手中にあるわけですから、これを見過ごすわけには行きません。
なので救出のため、佐賀藩と小倉藩の兵を派遣させるのですが、仙台藩藩士の若生文十郎さんと玉虫左太夫さんは彼らの入国を断固として拒否します。
まあ、敵なのですから当たり前ですよね。
それに敵軍の総督が仙台藩の手の中にあるとなれば、薩長への圧力にもなりますし、薩長としても仙台に乱暴は働けません。
要は「人質」です。
なのに仙台藩の主席奉行、但木土佐さんは佐賀・小倉藩兵の入国を認め、あろうこともか道孝さんを会わせるという、大失態を通り越して、耄碌したのかと突っ込みたくなるようなことをします。
画して仙台から解放された道孝さんは、盛岡を経由して秋田藩に逃れます。
この逃れた先の秋田藩は、まだこのころ同盟軍だったので道孝さんからすれば敵国になるのですが、秋田藩も列藩同盟に加盟してはいるものの、一枚岩ではないという内情を秘めていました。
それ故、奥羽鎮撫総督の身柄の引き受けについて、藩論はもめます。
元々秋田藩は佐幕色の濃い藩でして、そういうわけもあって家老や奉行でこのとき色々ありまして(キリがないので割愛します)、薩長連合軍の参謀の大山格之助さんが藩内の尊王攘夷派・勤王派を焚きつけて、藩内改革を起こさせて・・・と、新政府側に降るまでそう言う経緯がキチンとありました。
何だかナレーションで淡白に済まされると、あっさり鞍替えしたみたいに感じたので・・・最低限の補足をさせて頂きました。

さてさて、東北の空気もなかなか穏やかではありませんが、京都太政官の空気も負けていません。

ほう、貴公もここにおいでか。なるほどのう

と、岩倉さんと木戸さんを待っていたのは春嶽さん。
言葉に滲む嫌味を隠そうともしません。

御用じゃったら、こちらから御伺致します
いや、木戸殿もご政務にお忙しい。万事公論で決するはずの政策が、悉くこの辺りで決められているのでな

この辺り、というのは言うまでもなく岩倉さん周辺の公家と、薩長土の人間たちのことですね。

越前殿には、内国事務総督という御役目をお任せしてるやないか
ところが、国事に関わるご相談は一向に耳に入りませぬ。そればかりか、会津討伐取りやめの建白書、幾度願い出ても御取り上げがないのは、なにゆえに御座いましょう
会津は朝敵や。討伐は、お上のご意向にあらしゃいます
会津殿が朝敵とは、誰かのでっち上げでは御座いませんか
禁旗に向こうて発砲したのやぞぉ
太政官の中には、かつて御所に向かって発砲した御方もおられる。会津から謝罪恭順の願い書が幾度も届いたはず。それを握りつぶした結果、奥羽一円は戦乱の地となっております。罪なきものを罰し、内乱を起こすことが、王政復古にございまするか
大政を一新すべき時に、甘い処断はしちょられん。会津の帰順を受け容れるなぞ以ての外

痛烈な皮肉と、さぞやこのふたりの耳に痛かろう正論をざくざくと並びたてていく春嶽さん。
視聴者からすればこの上なく痛快ですが、会津が現状に至った遠因の、京都守護職の話を容保様に持って来たのはこの春嶽さんなんだよな、と思うとやや複雑。
ですが、一方で春嶽さんは「慶喜さんが謹慎を受け入れたのなら、東征軍を速やかに停止すべき」という建白書を三条さんや岩倉さんに送っています。
ですのでまあ、春嶽さんの中ではそれ(京都守護職のこと)はそれ、これ(会津救済)はこれ、なのでしょう。
岩倉さんも春嶽さんのことを、春嶽さんが薩摩と力を合わせて朝廷の補佐をしてくれたら天下のことは八割九割方成る、と言うくらいに買ってたのですが、そんな春嶽さんの会津救済嘆願は聞き入れないご様子。
春嶽さんは、一体何を恐れているのかと岩倉さんと木戸さんに言います。

会津討伐は、かつての長州討伐の裏返し。官軍と賊軍と、いつ入れ替わるか分からぬという
じゃから、二度とそげなことが起きんよう、禍の種は、絶たんにゃならん。そのために僕の仲間たちが血を流して来たんじゃ
だからと言って、政権を私して良いと言うことにはならん
何?
越前殿、全てはご叡慮や

卑怯な切り札ですね、ご叡慮って。
その卑怯な切り札をさらりと使う岩倉さんも、本当腹黒いです(余談ですがこの腹黒い御仁が後に吃驚キューピッドと化するんですよ・・・信じられますか)。
木戸さんだって、血を流したのは仰る通り本当に木戸さんのお仲間であって、木戸さん自身は逃げ回って都を離れて出石に潜伏して、そこで現地妻作って宜しくしてただけじゃないの、と。
馬鹿にする気はないのですが、何でしょうか、台詞のせいか何のせいか、物凄くこの場面の木戸さんから小物臭がします(苦笑)。
そんなふたりに、最後の一撃といわんばかりの指摘を春嶽さんは残して行きます。

歪んでおる。あなた方の作る新しい国は、踏み出したその一歩から既に歪んでおる。誰のための国作りぞ。とくとお考えあれ


慶応4年6月、「慶応4年戊辰、山本覚馬」の一言を最後に、漸く『管見』が書き上がります。
ちなみに前々からちょくちょく指摘していますが、『管見』執筆時の覚馬さんの待遇はこんな劣悪ではないです。
なのでこのドラマの演出は、話半分で捉えておくとして・・・。

ちっぽげなひどりごとだ、狭い見識だ。だげんじょ、十年後、百年後のために、考えに考え抜いだ、新しい国の見取り図だ

覚馬さんが言うように、管見というのは「細い管を通して見ているような、狭い見聞に基づいて申し上げます」というような意味を持つ謙譲語です。
言葉の意味の上に胡座かいて、本当に狭い見聞だったら勿論駄目ですけどね。
覚馬さんはこれを、いつかの時が来たら、然るべき人に渡して欲しいと、時栄さんに預けます。

破れても、・・・滅んでも・・・残るものはある

そう語る覚馬さんの脳裏をよぎるのは、故郷会津の桜、そして妹の八重さんの朗らかに笑った顔。
これは、ドラマのテーマに帰結した部分だなと思いました。
第8回で大蔵さんが八重さんに、「あなたは会津そのもの」と言っていましたが、「八重さん=会津」の図式で、あの「大地にしっかり根を張って咲く桜の樹=八重さん」なんですよね。
ちょっとこの辺りのニュアンスを、言葉で説明するのはこの間の時と同様難しいのですが・・・。
代わりに、何故この状況下で、近代日本のグランドデザインを覚馬さんは書いたのか(口述だけど)について、少し触れさせて頂きます。
場面場面で区切ってしまうと伝わりにくいのですが、先程の春嶽さんの場面と流れが繋がっているのですよ。
要は薩長連合軍に対して、あなた達が徳川幕府を踏んづけて立ち上げた新国家というのは、国家としての基本方針を何処に定めて行くのか?というニュアンスも含んでると思うのです。
で、「国家」という方針で見たとき、会津を攻めようとしてるあなた方のやり口は間違ってないか?どうですか?と、言う辺りが、先々週に出て来た「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の部分。
そんなこんなで、「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」と『管見』を切り離して考えては駄目です。
単独で捉えてしまったら、万国公法に則って会津助命の嘆願を叫んでいた覚馬さんが、何故そのすぐ後にグランドデザインを提唱?会津何処行ったの?という風に映ってしまいます。
なのでこのふたつは併せて考えないと、覚馬さんのことは見えて来にくいと思います。

7月29日(1868年9月15日)、二本松へ板垣軍を始めとする薩長連合軍が侵攻してきます。
この時点で既に奥州街道は薩長連合軍の手に落ちており、三春藩が列藩同盟裏切ってるので、薩長連合軍は棚倉から三春、二本松に兵を進めることが出来たのです。
薩長連合軍2000に対し、守る二本松藩は約300。
何故こんなにも二本松の兵力が少ないのかというと、二本松の主力は郡山にいて、二本松城に帰れなくなっている状態だったのです。
なので二本松藩は、少しでも兵力を掻き集めるために老人や、そして少年たちも駆り出します。
とは言いましても、未成年の少年たちの徴兵は飽く迄有志で、「入れ年」制度(歳のさばを読むことを黙認すること)を使って出陣していきました。
そんな少年兵が所謂「二本松少年隊」と呼ばれるそれなのですが、彼らは緊急構成・配属された為(27日にされたので)、当時は正式名称はありませんでした。
1917年になって、大壇口に出陣していた少年隊の生き残りの水野好之さん(当時は進さん)が『二本松戊辰少年隊記』という回想記述を作り、そこから二本松少年隊の名前が出てきました。
その少年らを率いる銃太郎さんは、「二本松は、敵に寝返って生き延びるより、死すとも、同盟の信義を貫く道を選んだ。誇りを持って戦え!」と、大壇口(二本松城の南)に布陣した少年らを鼓舞します。
いよいよ戦が始まって、畳を重ねて作った防柵を楯に懸命に銃を討つ少年たちですが、ドラマではかなり一方的にやられていたように描かれていましたが、実際は彼らの射撃は正確で、薩長連合軍はなかなか前進出来ませんでした。
薩長連合軍は辛うじて左右から回り込んで挟撃し、そこを突破したのであって、少なくとも少年たちの撤退はあんな風ではなかったと思いますし、もっと善戦してました。
退却の最中、銃太郎さんが少年たちを逃がすために身を盾にして、さながら弁慶の最期を彷彿させるお見事な最期を遂げておられましたが、これも誤りです。
実際は退却の太鼓を鳴らして、「この深手では城に戻れない」からと、副隊長の二階堂さんに首を斬り落として貰ったのです。
首は少年達が持って行き、胴はその場に埋められました。
その後、何とか城下にまで引き返して来た少年たちですが、そこで薩摩兵に遭遇します。
薩摩兵も敵だと思って銃を構えますが、相手が子供だと知って驚きを隠せません。
そこへ登場した弥助さんが、ひと言。

銃を下ろせ。もうよか。よう戦うたな。早よ家せえ帰いやんせ

帰る家が現在進行形で燃えてる可能性があるのですが、という突っ込みはさて置き、子供まで無闇に殺しはしないという意味ですかね。
しかし彼らは子供としてではなく、まだ前髪ですけど「入れ年」制度を使って出陣したことから、心は既に「二本松藩士」なのだと思います。
なので、弥助さんの言葉はこの上なく優しいですが、少年たちにとっては「子供扱い」という侮辱に近いものになったのではないかと。
そして薩摩兵の後に現れた長州兵に、二階堂さんは射殺され、「敵を見たら斬ってはならぬ、ただ一筋に突くのだぞ」と教えられていた才次郎さんはその教えに従い、才次郎の大刀は馬上の長州藩の白井小四郎さんの脇腹を一突きにします。
しかし、どよめく周りの長州兵に対して、「殺すな、殺すな」を繰り返す小四郎さん。
戊辰戦争に於いて、薩長の兵のやることなすこと鬼のように語られていますが(二本松の少年たちの首が斬られて盃に飾られ、酒の肴にされる、という話など)、一方で歴史を丁寧に紐解いていくと、そうではない一面も見えてきます。
実際この小四郎さんは、二本松に今も眠っています。
そしてこの日、藩内の重臣らが最後まで踏み留まって、城楼に火をかけて自刃して国難に殉じたことで二本松城は落城します。
同日、越後の長岡城もついに陥落し、新潟港は薩長連合軍に占領されます。
つまり、会津に薩長連合軍が踏み込むのはもう秒読み段階です。
西郷さんは死を覚悟しつつ、戦場に赴くことを千恵さんに告げると、千恵さんも武家の女ですからその辺りの勝手はよく理解しておられて、「おなごばっかりでも、旦那様の名を辱めるような真似は致しません」と応じます。
後に西郷一族の有名なあの惨事への伏線ですね・・・。
女子供、老人は戦力外になるので城方の荷物になる、籠城時は兵糧を人数分食い潰すだけ、ということが、彼女たちにあの道を取らせることになるのです。
一方で着物の裾が絡げるのも気にせず、一心不乱に走っていた八重さんが日新館に行くと、そこには二本松から逃れて来た少年たちの姿が。
八重さんが鉄砲を撃つときに目を瞑らずに的を見ていられるように、と達磨をあげた篤次郎さんも、瀕死の重体で、最期は八重さんに看取られるのですが、篤次郎さんが亡くなったのは、本町称念寺の仮設野戦病院です。
銃弾が腹部貫通してる状態で、会津の日新館と思しき場所まで行けるわけないでしょうに。
と、あまりの捏造ぶりに、涙を流すべきシーンなのでしょうが、やや興ざめしてしまって・・・。
何だろう、今週はそういう意味でちょっと雑っぽさが目立った回だったような気がします。

ではでは、此度はこのあたりで。


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