2013年7月9日火曜日

第27回「包囲網を突破せよ」

最早男子で言う元服状態な八重さんの斬髪。
「女の八重さん」の葬式という意味も少なからずあると思うので、まあ軽い演出されても困るのですが。
切った髪は、時尾さんが丁寧に懐紙に包んでくれました。
そこへ健次郎さんがやって来て、日新館が燃えていると八重さんに伝え、春英さんが怪我人を連れて現れます。
日新館は「(敵に)焼かれた」のかと問う八重さんでしたが、春英さんから返って来たのは「敵に奪われないように焼き払った」という答えでした。

動ける者のみここへ来た。動けぬ者たちは自害した

以前の記事で触れましたが、日新館に収容されていた負傷兵の内、自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の濠に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま後に起こった火災で焼かれました。
ドラマでは、日新館の火は「会津側の判断」とされていましたが、実際どうなのでしょうね。
確かに日新館があるのは城の西出丸のすぐ傍なので、敵に奪われたら厄介なのは確かでしょうが・・・遮蔽物無くすために城下にも火矢を射掛けてますし・・・。
はっきりとした真相は勉強不足なので断言致しかねますが、ともあれ「早ぐ、追っ払ってしまわねぇど」と八重さんは泣き出しそうな顔の時尾さんに見守られて、男に混じって勇ましく夜襲へと出掛けて行きました。

その頃、入城出来ずに郊外に逃れたユキさんとその家族は、農家に一夜の宿を求めていましたが、「とばっちり食うのは、ごめんだから!」と断られてしまいます。
薄情と思われるかもしれませんが、農民にとってはこの戦はお武家様階級の人たちが国に持ち込んで来たものでもあったのです。
しかもそのお武家様階級と御殿様は、長年京都守護職やら何やらで多大な出費をし、農民は重税と、それでなくても不作に喘いでいたので、こういった目を向けられてしまうのは、人間の感情としては当たり前の流れだというのも理解出来ます。
都で会津が孝明天皇の篤い信頼を受けてるだなんだと言っても、国許の彼らのお腹は膨れないのです。
彼らにとって大切なのは、そういうことではなくて日々の生活、明日の腹をどう満たしていくか。
尤も、そうなったのはこのとき追い返されたユキさんやその家族のせいではないのですが、武家階級に属している以上、彼女らも武家階級に向けられる目と同じ目を向けられる対象になります。
厳しい言い方をすれば、ユキさん達の受けたあの待遇は、会津藩が国許のことを省みずに京都守護職に固執し続けた結果とも言えるのではないでしょうか。
けれどもその一方で、冷遇ではなく藩士を匿ってくれた武家階級でない人が沢山いたのも事実。
会津戦争を見ていくには、八重さん達の活躍だけではなく、こういった「“土”の視線」(私の造語です)にも触れていくことも欠かせないと思います。

場面は戻って、夜襲に加わった八重さん。
しっかり当てろよと言われ、任せてくなんしょと頼もしい返事をしつつ物陰から狙撃、「一人も逃さぬ」と続けて三人撃ち殺します。
敵に撃ち返す暇すら与えません。
見るに、ドラマでは八重さんはスペンサー銃を夜襲で使用しているように思われましたが、実際彼女が夜襲で使用したのは旧式のゲーベル銃だったと八重さん自身が回想しています。
日暮前までの戦闘であれだけ撃ってて、しかも銃弾を100発しか持って行ってないので、そろそろスペンサー銃は弾切れになってるはずです。
それでもまあ、スペンサー銃は籠城する八重さんの象徴的アイコンみたいなものでしょうから、この先もずっと弾切れなど起こさずにドラマでは使用されていくのでしょうが(苦笑)。
顔面血だらけの敵の顔に至近距離で対峙して、「鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。人間の心の臓さ撃ち抜くっつうことだ」と幼き頃権八さんに言われた言葉が脳裏を過ぎる八重さん。
一瞬躊躇った八重さんの、眼前のその敵を、横槍を入れる形で仕留めたのが黒河内先生でした。
ここは引き受けたから行けという先生ですが、先生はとっくにご自宅でご自害なされてるはずなのですが・・・。
今年の大河は数日~一年くらい死期がずれてる人が多発してますね(苦笑)。
八重さんも、躊躇いはまだ含んでいるものの、再びスペンサー銃の引き金を引いて敵を仕留めます。
かねてより、幼い頃に権八さんのあの教えを受けた八重さんが、人を殺す覚悟と人を殺したという荷を背負う覚悟は一体いつ決めて来たのだろうかと思ってたのですが、これは目と目が合う距離に敵を捕らえて、初めてその実感(?)が追い付いて来たということになるのでしょうかね。

と言った次第で、始まりました第27回。
再びOPまでの前振りが最長記録を更新しました。
非常に申し訳ないことですが、今回分の録画が18分しか出来ておらず、18分以降の物語の展開についてはいつも以上に「触り程度」になっております。
よって、18分以降の台詞収集もほとんど出来ておりません、ご了承願います。

8月24日(1868年10月9日)、籠城二日目。

仕事は、兵糧炊きと、手負いの者の介抱。皆様、ご自分の役割は、よーぐ分かっておりやすね。弾が飛んで来ても怯まずに、持ち場を守らんしょ

籠城した女性たちを実質上纏めているのは艶さんです。
返事をする女性陣の中に、戦場に出ていたはずの八重さんの姿がありますが、実は八重さん、前線を外されて屋外に出ないようにさせられてしまっていたのです。
事の発端は、八重さんの勇ましい姿と活躍を聞いた城内の元服前の少年たちが、自分達も戦うと言い出したことにあります。
流石に八重さんも元服前の少年を戦場に出させるわけには行かず、そのことが自然と会津上層部に伝わり(つまり八重さんに中てられて少年たちが戦場に出る気になってしまっている)、これはいけないと、戦場から八重さんを遠ざけたのです。
具体的には、屋外に出ないように側女中格に昇格させられて、側女女中頭の大野瀬山さん、御側格表使の根津安尾さんの指揮下に組み込まれました。
そういう水面下の事情があって、八重さんは前線から外れているのです。
そんな女性たちの中で、何処となく元気の無い二葉さん。
家老の家の者が率先して働かないとどうするのだと艶さんからたしなめられますが、どうやら虎千代さんがお城に向かう途中で乳母と一緒に逸れたみたいです。

私、探しに行ってきやす
慎みなんしょ。お城には、お身内を亡くされた方も、大勢いらっしゃるんだ

そう言われて、しっかりしねぇと、自分は旦那様の妻何だから、と自分に言い聞かせて私情を押し殺す二葉さんが、気丈というよりも痛ましいです。
でもこういう時だからこそ、私を優先する思慮分別に欠けた行動は最も厭うべきものでもあるんですよね。
二葉さんは聡い方ですから、それがよく分かっておられる。
それでもやっぱり、母親としては気が気でないでしょう。

坂下に照姫様がいると聞いて向かった竹子さん達(後に娘子軍と呼ばれるこの集まりですが、このときは婦女隊と言ってました)ですが、誤報であると分かり、23日の夜は法界寺の板の間で宿を取りました。
翌朝早朝、婦女隊は近くの越後街道にいた萱野さんの陣所に赴き、従軍を懇願します。
ちなみにこのときの竹子さんは、青みがかった縮緬の御召し物だったと思うのですが・・・。
それに白羽二重の襷で袖をからげて、兵児帯に裾を括って、義経袴に脚絆に草履、腰には大小で手には薙刀と言ったスタイル、髪は斬髪だったと言いますが・・・ドラマでは髪は長いままでしたね(汗)。
ともあれ、 斬髪して男装して、というのは何だか八重さんの専売特許のようになってますが、大蔵さんの妹の操さんだって髪の毛切って鎧身に付けて鉄砲担いで城壁にへばりついましたし、竹子さん達婦女隊も男装してました。
会津の女性は基本、雄々しいですね。
竹子さん達の懇願を、しかし萱野さんは「ならぬ」と請け合いません。

戦場に、おなごを駆り出しては、会津は兵が尽きたのかと敵に笑われるわ

八重さんがどれだけ有能とわかってはいても、八重さんの戦闘力に頼りきれないのも、きっとそういった概念が会津上層部の何処かで引っ掛かってるからでしょう。
即ち、戦は男がするものという概念が、取れない染みのように付いてしまってるのです。
しかし誤報を信じて此処まで来てしまったことが悔やまれると婦女隊。
何としても敵陣を突破して、お城の照姫様の下に行きたいという彼女たちに、萱野さんも譲りません。
ならば、と竹子さん。

今日まで鍛錬してきた甲斐が御座いませぬ。ここで自害致します

皆様、と竹子さんの呼びかけを合図に、その場の全員が脇差を引き寄せます。
その覚悟を目の当たりにした萱野さんはとうとう折れ、明日婦女隊に共に出陣することを許します。
実際は萱野さん達とでなく、旧幕府の将である古屋作左衛門さん率いる衝鋒隊が明日到着する予定だから彼らと一緒に戦え、ということだったようですが。
その夜、竹子さんはお母さんと、出陣の前に妹の優子さんを殺していこうかという相談をします。
とびきり美人の優子さんが、もし敵に捕まって辱めを受けでもしたら・・・というのを案じてのことです。
しかし同じ婦女隊の仲間が、皆で助け合えばと竹子さんの意見に反論したので、この話は立ち消えました。

鶴ヶ城の一室では、顔ぶれの変わった重臣達による軍議が開かれていました。
コンパスで距離を測る尚之助さんは、小田山から城までの距離が僅か十四丁(約1530m)だと指摘し、そこから大砲を撃ちかけられては防ぎようがないと言います。
これに「小田山から城に撃って届くか?」と言う声が普通に出てきてしまう辺り、会津の大砲に対する認識の甘さが浮き出てしまっていると言いますか・・・。
ちなみに「敵はこの辺りの地形を知らぬ」という声もありましたが、斥候放って地形を視察するのは戦国時代以前からの戦の常套手段だと思いますし、きっと白河を落とした時のように伊地知さん辺りがあらゆる情報を集めてると思います。
いつか三郎さんが、小田山からは城が丸見え、と無邪気に言っていましたが、その城が丸見え=重要地点の小田山の防御を即刻固める必要が会津にはあるのですが、兵を動かせば却って敵を呼び寄せ小田山の重要性に気付かれてしまうかもしれないと、なかなか踏み切れない平馬さん。
尚之助さんは、そのリスクはあるが、そのリスクを敢えて受け入れてでも小田山は守り抜くべきだと考えているのでしょうが、口に出せず。

小田山を守るには兵の数が足りぬ!せめて、大蔵が戻れば・・・

取り敢えず平馬さんは、小田山の麓にある天寧寺の辺りだけでも押えようとします。
小田山に向かう敵があってもそこで食い止めればいいと言う彼の考えですが、本当に重要地点だと思ってるならここで兵力の出し惜しみなどしてる場合ではないと思います。
西郷さんが「考えが甘い」と言ったのも、白河の敗戦を身を以って知っているからでしょう。

小田山の地の利を敵が気付けば、白河の二の舞だぞ?
分かっておりやす。んだげんじょ、他に打つ手があっかし?兵も大砲も、何もかも足んねぇのです!
何もかんも、何もかんも足んねぇ!だげんじょ!会津を救う策は立てねばなんねぇ!
策があるなら、白河の戦で打って置くべきでした。指揮は頼母様が執っておられた

今ここに至って白河のことを言及してる時点で、重臣一同の心はばらばらです。
それに、恭順派である西郷さんの策を「打って置くべきでした」ではない状況にしてたのは他でもない、抗戦派の平馬さん達です。
なのでこのふたりの会話は、何かがおかしいというか、何かが噛み合ってない。
取り敢えず言えるのは、責任問題持ち出してごちゃごちゃ言ってる暇があるんだったら、会津救う現実的且つ建設的な策を一つでも考えましょうよとな。
これは視聴者という立場だからこそ言えてしまう、私個人の感想ですが。
そこへ官兵衛さんが、秋月さんと一緒に300人ほどの兵をかき集めて帰城し、早速その兵は平馬さんの指示で天寧寺に送り込まれることになります。

長らく会津を支えて来られた、土佐様も内蔵助様も、もうおられぬ。この先、会津は我らが率いねばなんねぇ!

毅然としてそう言う平馬さん、退室してとぼとぼと城の廊下を歩く西郷さん。
城中での西郷さんの孤立は、西郷さんが口を開けば開くほど悪化するばかりです。
藩上層部がそんな状態の中、城内には怪我人が次々に運ばれて来て、八重さんら女性陣がその看護と介抱に当たりますが、薬なんてほとんどありません。
出来ることと言えば、鉄砲傷なら弾を抜いて、後は傷口を洗って包帯を巻いて、ひたすら励ますくらいです。
そんな野戦病院化とした鶴ヶ城城内では、傷口を化膿させて悪化させる者、また死者も続出し、遺体の置き場に困って果ては井戸に投げ込むが、それでも追い付かないという状態になります。
八重さんは滝川口から運ばれて来た負傷から、子供達、つまり子供たち、白虎隊が戦場に出たのだということを伝えられ、悌次郎さんの身を案じました。
視聴者の皆様は既に悌次郎さんがどうなったのかご存知でしょうが、一日経った今でも城内には白虎隊自刃の報せは城に届いてなかったということですね。

8月25日(1868年10月10日)、内藤介右衛門さんらの隊が入城し、城内の守備が何とか体裁を整え始めたその一方で、新政府軍の援軍は、装式アームストロング砲やメリケンポートといった最新兵器を携えて、次々と会津に集結していました。
その早朝、城下にほど近い柳橋近くで、婦女隊は萱野さんの隊と共に(史実ですと古屋さんの隊と共に)陣を構えます。
柳橋は、通称「涙橋」と言って、こちらの名称の方が今でもよく知られているとか。
涙橋の由来は、この橋の北側の薬師堂河原は藩の刑場で、首を落とされる咎人が一度そこから城下を振り返ってこれが宿世の見納めと落涙するところにあるそうです。
ふと雪さんは、竹子さんの薙刀の先に、いつかの「もののふの」の歌の短冊がが結ばれているのに気付きます。

私は、旦那様のご無事を願う歌を書きやした。僅かの間に、何もかも変わってしまった
ええ。お城に戻ったら、八重さんに鉄砲を教えて貰いましょう
竹子様が?
やはり、鉄砲は強い

そうこうしてる内に、小競り合いが始まり婦女隊も出陣します。
彼女たちが立ち向かう敵軍の装備はスナイドル銃やスペンサー銃ですので、射撃の腕前はさて置き、装備だけなら八重さんレベルの軍団に立ち向かっているということになります。
果敢に薙刀を振るう竹子さんですが、銃弾に胸を撃ち抜かれ、落命します(撃たれたのは額とも)。
その後、竹子さんの首について。
ドラマでは、竹子さんのお母さん・孝子さんが首を掻き切ろうとして、しかし敵軍が迫っていたためやむを得なく竹子さんの首をそのままにして退却しておりました。
実際は、会津兵に周りを固められる中で優子さん(または孝子さん)が介錯を施し、鉢巻きに包んでその場から持ち去りました。
或いはまた別の説として、竹子さんと孝子さんが介錯しようとしたが、髪が襟足を覆っていて刃が通らず、一旦退却して再び竹子さんのところに戻るともうその首はなかった。
翌日、竹子さんの首は真徳寺を経て法界寺に運ばれ、事情を聞くと小野徳兵衛なる人物が敗走する途中で竹子さんの遺体に気付き、不憫に思って首を袖に包んで運んで来てくれたのだとか。
どちらにせよ、竹子さんの首は敵の手に渡るようなことはなく、今も法界寺にて彼女は眠っております。
竹子さんの実父・平内さんが亡くなったのは明治11年のことですが、彼は「花みればわがなでしこの面影も散りにし数に入あひのかね」と、尚も娘の死を信じきれない思いの籠った歌を残しています。
妹の優子さんと、弟の豊記さんは会津戦争後も生き抜き、優子さんは元会津藩士の蒲生誠一郎さんと結婚して八戸で水産業を営み、昭和6年(1831)まで生きています。
豊記さんは新潟県師範学校長などを歴任し、明治43年(1910)に没しています。
そういえば優子さんには誠一郎さんとの間に三人のお子様がおられたようですが、その血は今も何処かで続いているのでしょうかね。

一方、敵軍に捉えられた雪さんは、長命寺と思われる寺に縄を打たれていました。
脇差を求める雪さんに、脇差を差し出したのは土佐藩迅衝八番隊隊長の吉松速之助さんと言う方です。
長命寺は大垣藩の兵が駐屯していたのですが、25日早朝に会津からの奇襲を受け、奇襲自体は失敗に終わったのですが、それを警戒して迅衝隊が派遣されていたのです。
名を尋ねても口を固く閉ざす雪さんに、「三途の川を渡るときはちゃんと何処の誰か名乗れ」と脇差を手渡された雪さんは、その切先で首を切って自刃します。

その頃城方は、薩長連合軍に、小田山を奪取されます。
会津松平家を怨む蘆名氏系の極楽寺の和尚さんが、敵軍を導いたのです。
小田山には会津藩の火薬庫がふたつあったのですが、敵軍はこれを一つ占拠、もうひとつを爆破します。
加えてそこからの砲撃によって、鶴ヶ城の煙硝蔵が爆破され、会津はただでさえ少ない兵站の一部を失うことになります。
尚之助さんが何度も言ってましたが、小田山は鶴ヶ城を見下ろせる位置にあるので、大砲の弾は鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所がやられたそれのように、降るように撃ち込まれます。
会津側も反撃として、天神橋口の手前に唯一小田山を射程距離に納められる四斤砲を設置しますが、大砲の数が向こうと此方とでは違います。

殿、この上は開城の決断を

白河の敗戦で、集中砲撃を食らうことの恐ろしさを知っている西郷さんはそう進み出ますが、官兵衛さんには腰抜けと言われ、平馬さんには負けることばかり言い立てると冷たい目を向けられます。
容保様でさえ、西郷さんの進言を聞き入れません。

事ここに至っては、開城恭順の道などない。城内一丸となって戦い、城と命運を共にするのみ

飽く迄徹底抗戦を貫く容保様たちと、完全に孤立した恭順を唱える西郷さん。
どちらの気持ちもよく分かります。
朝敵の汚名を着せられて、黙っていられないのが容保様達の根底にはあるのでしょう。
でも、死んで、滅んで、それで正之公以来続いた会津松平家はどうなる?会津という国はどうなる?自分は「会津」を守りたいんだ!、というのが西郷さんにはある。
どちらも、全然間違ってないんですよね・・・だからこそ平行線を延々とたどり続けることになるわけですが。

その夜、城の見回りをしていた八重さんと出会った西郷さんは、鉄砲が命を奪う道具だという実感を得て僅かな迷いを見せる八重さんに、「人の生き死にを握るもので、少しも迷わねぇ者がいんだろうが」と言います。
敗戦の責任とって腹を斬るのも、戦で死ぬのも簡単だが、死んでいった一人一人の無念を背負って生きなければならないと、そう言うことでしょう。

強ぐなれ、八重。・・・背負った荷物の分だけ強ぐならねば、一足も前には進めぬぞ

何だかこの言葉は八重さんに言ってるのに、自分に対しても改めて言っているような気がしました。
前に言っていた「家老一同が腹切って事おさめる」と言っているのとは違うじゃないかとも思うかもしれませんが、多分西郷さんは「自分の命を捧げるならば、それは会津のため」であって、戦場で無為に散らして堪るかというものを抱いているのではないかと。
無念を背負って生きるけど、自分の命をどうしても使わなくなっちゃったときが来たら、自分はそれを差し出すよ、と。
上手くまとまりませんが、ここ最近の西郷さんの言ってることなどを自分なりにまとめて解釈すると、私はそんな結論に辿り着きました。

白虎士中二番隊の話が出ましたが、飯盛山で自刃した隊士らとはまた別に、滝沢村に出陣した白虎隊士の中には、飯盛山の麓を迂回して無事に城に戻った人もいます。
途中彼らは日光街道で、日光口から退却してきた大蔵さんに合流するのですが、その時大蔵さんに「死すべき時に死ねずにやってきたのか。情けない者どもめ。粥でも貰え」と言われたそうです・・・大蔵さん、手厳しい(苦笑)。
城に無事帰還した後も、彼らが夜襲に加わろうとすると、大蔵さんは「命惜しさに逃げていた奴らに何が出来る」と夜襲参戦を許さなかったとか。
普通だったらこの言われ様に激怒するのですが、隊士らは純粋だったのか、それとも建前で言ったのかは知りませんけど、この大蔵さんの厳しい言葉の数々を喝と捉えたようで、「自らが憎まれ役となって自分達に生きる気力を与えてくれた」と言っています。
その大蔵さんは、目下味方部隊を率いて、城への帰還を図っているところでした。
あちこちで敗戦続きのように思われる会津戦線ですが、大蔵さんが守っていた日光口だけは突破されていません。
でも大蔵さんがそこを一生懸命守ってる間に、本陣である鶴ヶ城が薩長連合軍に包囲寸前になってしまったという。
城から彼のところに帰還命令が届いたのは8月24日。
しかし24日に行われていた八重さんの戦闘を見てもお分かりなように、正面から突っ込んで入城すれば、辿り着く前に兵の半分を失います。
そこで「やってみっか」と大蔵さん。
さて、8月26日(1868年10月11日)。
峰ちゃんがうらさんのところへ、何やら嬉しそうに駆け寄って「彼岸獅子が来た」と言います。

なぁにを言ってんだ?彼岸獅子は、春来るもんだべ
んだげんじょ、お囃子が・・・

そのお囃子は八重さんのいる場所からも聞こえていて、何事かと八重さんが銃を構えて城壁の外を見遣ると、彼岸獅子を先頭にした隊列の馬上に、大蔵さんがいるのを認めます。

彼岸獅子を迎え入れよ!会津兵の入城だ!

官兵衛さんが命じる声に、城内にいる人々の顔がぱっと明るくなります。
これが、大蔵さんの「やってみっか」です。
とはいっても発案は大蔵さんではなく、城に入るために、水島弁治さんが彼岸獅子の行列に紛して入城するのは如何かと、大蔵さんに献策したのです。
それを採用した大蔵さんは、城下の手前にある小松村で協力を求めます。
敵中を行くわけですから、会津軍だと見破られれば即座に殺されるこの危険な作戦に、小松村の村長は「今こそ松平家の恩顧に報いる時」と承諾してくれ、画して高野茂吉さんを隊長とした彼岸獅子隊十人が結成されます。
隊長以外は全て少年たちでした。
ちなみにこの彼岸獅子隊は戦後、全員無事に村へと戻り、容保様は彼らの勇気を湛えて小松彼岸獅子に会津葵の使用を許しました。

まんまと敵の目を欺いたぞ

官兵衛さんがそう言いますが、何故大蔵さんたちはこんなにもあっさりと敵の目の前を通って来れたのでしょうか。
どよめきの中に「何処の藩ぜよ?」という声があったのが、その謎を解くさり気無いヒントになっています。
さり気無さすぎて、ちょっぴり演出的な意味で言葉足らずな部分もあったので、補足させて頂きます。
このとき城下にいた薩長連合軍は、薩摩・長州・土佐藩に加えて、大村藩や備前藩、肥前藩、大垣藩なども含まれた、所謂ごった煮状態でした。
お国言葉も違うし、習慣も違う。
戦場にいる兵士の服装だってばらばらです。
そもそもお互いの藩がどういったお国柄なのか、兵士らの殆どが知っていたはずもありません。
だから彼岸獅子がやって来ても、「あれは何処の藩の人間?」となり、そもそも敵か味方かすらも分からないのです。
水島さんの献策は、この心理を逆手に取った見事なものでした。
しかしこの奇策は、敵軍の目を欺くと同時に、会津側には「自分達は味方です」と分かってもらう必要があります。
例えばええじゃないか風に入城しようとしてても、会津側にも「誰?あれ」となって、お城の中に入れて貰えません。
上手に敵を欺いても、味方に疑われたら意味ないのです。
包囲軍その他大勢は知らないけれど、会津の人は誰でも知っている、そこで彼岸獅子なのです

大蔵さんの入城ルートですが、河原町口から米代一ノ丁を通って、西出丸から城に入りました(上図参照)。
そんなこんなで一兵も損なうことなく、且つ敵の眼前を通って入城を果たすという痛快なことを遣って退けて見事に入城を果たした大蔵さん。
後の「知恵山川」の片鱗ここに在りですね、「事実は小説よりも奇なり」を地で行ったのです。
登勢さんといきなり再会の抱擁してて、周りに「ひゅーひゅー」と言われてるとか、その後男装の麗人と化した初恋の人を、あたかも戦友とまみえたような笑顔で出迎えてるところとかは、ほんのり笑ってしまいましたが(笑)。
春に来る彼岸獅子と共に、さながら春の温かさを城内に運んで来たような大蔵さんですが、実際入城した時の城内の様子はもう狂乱状態だったみたいです。
泥酔して上役の悪口をいう老兵はいるわ、千両箱ぶちまける輩はいるわ、城門の合言葉忘れる兵はいるわ、婦女子は薙刀抱えて城内を駆け回ってるわ・・・で。
それはさておき、彼岸獅子入城は城内の人々の士気を大いに上げたのは事実でしょうが、一方で士気が上がったことにより、戦が延長したとも捉えられます。

城内が彼岸獅子で湧き上がってる同じ頃、西郷さんは再度容保様に恭順を願い出ます。
ですが容保様が返した言葉は、諾ではなく「別の役目」を申し付けるとのこと。

越後街道の萱野の下へ行き、その場に止まり戦えと伝えよ
殿は…っ、この、頼母に!会津を去れと、お命じなされますか!?

越後街道へ行けと言うのは建前、これは事実上の放逐です。
しかしこうしないと、孤立した西郷さんが城内で誰かに刺されかねないから、それを慮ってのことですね。
意見こそ平行線を辿っているこのふたりですが、容保様は西郷さんを喪いたくはないのですね。
ふたりとも、守りたいものが「会津」という意味では共通項だった。
でも、守り方と「会津」の捉え方が違った・・・のでしょうか。
しかし、容保様とは違う角度から会津を案じ続け、尚且つ血筋なら容保様よりも藩祖に近い西郷さんにとって、会津を守ることも出来なくなる場所に追いやられるというのは、身を引き裂かれるよりも苛酷な仕打ちだったと思います。
西郷さん自身が、幕末の会津の中で一体何を成し遂げられたのかについては評価が分かれるところですが、今はその評価はさて置いといて、西郷さんの失意と無念を思いやることに致します。

ではでは、此度はこのあたりで。


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