2013年7月4日木曜日

第26回「八重、決戦のとき」

慶応4年8月23日(1868年10月8日)、会津に冷たい雨が降ったこの日から始まりました、第26回。
午前4時頃、戸ノ口原を出発した新政府軍がいよいよ会津城下へと迫り、午前7時頃、城下に半鐘が鳴らされます。
敵軍がどれだけ強くても、城下に侵入するのは後二日、三日はかかる、と会津軍事局の判断が大いに誤りで、城下の人々のほとんどは朝食を取る暇もなく戸外に逃れました。
八重さん達や、山川一家のように半鐘が鳴らされたらすぐに飛び出して行けるように準備していた家もあるにはありましたが、そうでない家の方が多かったと思います。
逆に人数が多すぎて入城の機会を逸し、お城の北出丸のすぐ前に位置しながら、入城出来ずに全員が自刃して果てた内藤家のような家もあります。
ユキさんのおばば様は、「年寄りがお城に上がっては穀潰しになるだけ」と、城には入らないと言います。
後でまた触れますが、全員が全員、城に入れたわけじゃないのです。
ちなみに、八重さんが度々怪我人の手当の手伝いに通っていた日新館に収容されていた怪我人は、この突然の出来事に放置されたままになりました。
自力で歩ける人は自力で脱出・避難しましたが、そうでない人は這って城の濠に身を投げ、身動きが全く取れない重傷者はそのまま後に起こった火災で焼かれました。
会津上層部の危機管理能力の欠如は、何度もこのブログで触れていますが、この人災は完全に会津藩上層部の手落ちが招いたものなので、どうにも弁護出来ません。
歴史を知ってる結果論視点からそう言っているのではなくて、当事者視点からでも危険予測すればもっと出来たことあっただろうに・・・。
どうして籠城の決断が、殆ど首元近くに刃突きつけられてからなのかが本当に謎です。

容保様のおられる滝沢村まで敵の銃弾は迫り、容保様は城に戻ることになります。
その際、付き添っていた弟の定敬さんに、容保様は会津から離れるよう言い渡します。

何を仰せです。それがしも共に城に入って戦いまする
ならぬ!
お言葉従えませぬ
いや!・・・ならぬことはならぬ。わしは城と命運を共にする。そなたは連れて行けぬ、去れ
兄上!
行け!急ぐのだ!

そう言われ、定敬さんは必ず援軍を連れて戻って参ります、と言って会津から離脱します。
その後、米沢を恃んで行ったのですが、既にこのとき米沢は薩長連合軍側に付いているので恃みとならず。
米沢の次は先代を経て、果ては榎本さんや大鳥さん、土方さんらと共に北の大地まで転戦します。
援軍は連れて戻っては来れませんでしたが、最後の最後まで抗い続けたのですね。

さて、無事に鶴ヶ城に入ることの出来た山本家。
周りには白装束を纏った女性や、かと思えば煌びやかな衣装の女性もいます(山本家はいつも通りでしたが)。
前者は説明するまでもありませんが、後者は主君の傍に仕えるということで晴れ着を纏っていたのでしょう。
お城に男装して上がるのは不躾ではないか、と囁かれるのを気にも留めず、八重さんはすぐに戦場へ赴こうとします。

おっかぁま、私は行ぐ。私はここに・・・戦いに来だんだから
言葉が出ねえ。戦に出ていくおなごに、かける言葉なんて知らねぇもの
さすけねぇ。必ず無事で戻っから

佐久さんにしてみれば、この時点で覚馬さんの生存不明(ほぼ死んだものとして考えている)なので、八重さんまで戦死してしまたら、実子を全員喪うことになるんですよね。
八重さんの「必ず無事で戻る」は、自分がやられるわけないとかそういうものではなくて、そういう佐久さんを慮った一言だったのだろうなと思いました。
するとそこへ武装した侍女を伴った照姫様が現れ、控えた八重さんの姿に目を留めます。

八重か・・・
はい
勇ましい姿じゃな
これは、伏見の戦で亡ぐなった弟の形見にごぜいます。私は・・・弟の魂と共に戦う覚悟にごぜいます
弟と共に・・・。では、その鉄砲に、会津武士の魂を込めよ
はい

照姫様の励ましを受けた八重さんは、その後ろに控えていた時尾さんと目が合います。
時尾さんに何かあったら、いつでもお城に飛んでいく。鉄砲を担いで。
そんな会話を二人が交わしたのは4年前のこと。
それが現実となってしまったこの二人の心中、如何ばかりか。

さて、敵を掻き分けて鶴ヶ城に官兵衛さんの部隊が無事に帰着しました。
内蔵助さんは向町口、官兵衛さんは大町口に、それぞれ守りに付いて、滝沢から無事に容保様を城に戻すのだと意気込む二人に、平馬さんが待ったをかけます。

それでは、お城の守りが手薄になる!
鉄砲の撃てる者を掻き集めておげ!
年寄りと子供ばかりで、指揮を執る者がおりませぬ
敵は!外堀で打ち払う!
敵に城を囲まれては、いぐらも持たん!

しかし、と渋る平馬さん。
外の守りを固めるのも大事ですが、万一突破された時のことを考えると、本陣である城の守りが手薄なのはどう考えても拙いのです。
ですが大蔵さん達主力部隊はまだ国境付近から戻って来ておらず、兵力不足に人材不足は否めません。
このとき城にいた戦闘員らしい戦闘員は火縄銃を装備した玄武隊くらいで、後は平馬さんが言ったように女子供、そして年寄りばかりです。
そこに、「私がやりやす!」と名乗りを上げる人物が介入しました。

私が、鉄砲隊を指揮いたしやす!
八重殿
やらせてくなんしょ

しかし、内蔵助さんは女子の出る幕ではないと言い、官兵衛さんは女子に戦は出来ぬと、まるで八重さんに取り合おうとしません。
八重さんを無視してそのまま場を平馬さんに任せ、去ろうとする内蔵助さん達に、八重さんが声を張り上げます。

今この時に、そんな昔ながらの考えでなじょしますか!これは、男だけの戦いではねぇなし!都から傷だらけになって帰って来た皆様を見だ時から、帰って来なかった家族を待ち続けたあの時から、男も女子もねぇ!これは、会津全ての戦いだ!私を戦に加えっせ。私の腕はお役に立つ。それを使わねぇなら、戦いを放棄したと同じごど!私は、山本覚馬の妹です!鉄砲のごどなら誰にも負げねぇ。敵にお城は渡さぬ。仲間がやられんの、黙って見るつもりはねぇ!私達の、大事な故郷・・・会津は、この手で守る!

八重さんの言っていることは、半分は正しい。
難しいところかもしれませんが、確かにこの戦は「男だけの戦い」ではないのでしょうが、男性陣にとっては「女子供は巻き込めない」のです。
だってそれは、それは武士の面子に関わってくるから。
「今この時に、そんな昔ながらの考えで」と八重さんが一蹴出来るほど、武士の価値観は軽いものではないのです。
だから、八重さんは半分だけ正しいのです。
そんな八重さんに、「んだら、心行くまで励め」と内蔵助さんは肩を叩きます。
これは八重さんの言を受け入れたということなのでしょうが、 まあこれはドラマですから。
実際の八重さんは、やはり女と理由で戦場で持ち場を与えられるなんてことはなかったでしょう。
単独でスペンサー銃構えて、北出丸に自分でスペースを作って、そこから狙撃してたものかと思われます。
(北出丸での様子については、以前の記事で軽く触れておりますので、宜しければそちらでどうぞ)

一方、山本家に少し遅れてお城の前まで辿り着いたユキさんとその家族ですが、既に城に入る道には柵が立てられてしまっており、入ることが出来なくなっていました。
詰め掛けた人々がそれでも入ろうとしますが、門兵に押し返されます。
こんなところで押し問答している間に、後ろから襲われたら逃げ場はない。
しかし、眼前のお城には入れない。
そこでユキさんはお城に入ることを諦め、「こったらどごで死にたぐねぇ!」と別の場所へ避難することを選びます。
同じく、城に入れなかった女性に、竹子さん達もいました。
竹子さん達は城への道中に商家に立ち寄って握り飯を貰ったり、髪を断髪にしたりと、道草を食ってしまったから間に合わなかったのでしょう。
しかし彼女らは城に入れない場合を想定して、城下に集合場所を決めていました。
河原町東端の広場がそれだったのですが、ドラマでは諏訪神社になっていましたね。
薙刀隊の女性たちは、照姫様が城下北西にある坂下村に移られたと知るや、自分達もそこに行って照姫様の警護に当たろうと頷き合います。
その時、御堂から雪さんがふら付きながら出て来ます。
雪さんは実家の井上家にいたのですが、家族全員が円座して自刃しようとした時に、「お前は神保家の嫁だ。神保家に戻り、生死を共にすべし」と言われていました。
雪さんの尋常じゃない様子に、どうなされたのだと竹子さんが駆け寄ります。

境内で・・・何人も、自刃しておられます・・・。いっそ、私もお宮で・・・
死ぬのは、一人たりとも敵を倒してからになさいませ。修理様の仇、討たなくても良いのですか!

修理様の仇というのなら、寧ろ薩長ではなく慶喜さんのような気がするのですが、その辺りはどう伝わってたのでしょうね。
ともあれ、弱腰になる雪さんを空かさずぴしりと叱咤する竹子さん、物凄く凛々しいです。
さあ、と励まされ、雪さんは竹子さん達と同行することになります。
しかし視聴者の皆様は冒頭で見た通り、この時照姫様は城内におられました。
つまり竹子さん達が聞いたのは誤報だったのです。
ですが城下がこれだけ大混乱しているのですから、情報も錯綜しています。
そうして竹子さん達は、坂下へと向かうのでした。

心行くまで励め、と内蔵助さんに言われた八重さんではありますが、あれは八重さんが願い出た通りに鉄砲隊の指揮権が八重さんに委任されたというわけではなさそうです。
その証拠に、少年兵の射撃の訓練をしていた八重さんに向かって、通りかかった老兵が「勝手な事すんな」と言ってます。
けれども少年兵は、八重さんの指揮に従うことを決めている様子です。
まあ、鉄砲のことをよく知ってる人に従う方が良いって分かってるのでしょうね。
そこへ健次郎さんが駆け込んで来て、五ノ丁から敵が侵入したと報せます。
外堀の一角が破られたことを察した八重さんは、北出丸で敵を迎え撃つよう少年兵に指示を出します。

私は先に行ぐ。健次郎さんは、皆が支度出来たら北出丸に連れて来てくなんしょ
分かりやした
いいか、上手く出来ねえ子は、決して連れて来てはなんねえ

健次郎さんにそう指示し、八重さんはスペンサー銃を構えてひとり北出丸へ。
上手く出来ない子は連れて来るなというのは、戦場で上手く出来ない子のフォローまでしている余裕は誰にだってないからでしょう。
戦なのだから人が死ぬのは当たり前ですが、無駄に死なせたくないのですよ、八重さんは。

甲賀町口に、容保様が滝沢村から馬で戻られました。
これが午前9時前の話です。
容保様の入城がどれだけ際どいものであったかは、以前の記事で触れた通りです。
滝沢峠を下った薩長連合軍は全軍を二隊に分け、一隊は飯盛山から鶴ヶ城東南に、一隊は滝沢村から鶴ヶ城大手門方面に、それぞれ突撃しました。
この薩長連合軍が城下に到着したのが午前9時頃なので、ドラマにあったように、容保様は本当間一髪だったのです。
踏み止まろうとする容保様を、権八さんが半ば引き摺るようにして城の中へ連れて行き、代わりにそこは土佐さんが防ぎます。
これが土佐さんと容保様の、今生の別れとなりました。
ちなみに甲賀町口は城に入る公式の道で、会津城下には郭内と郭外を隔てる門が甲賀町口を含め十六ありました(東から天寧寺町口、徒町口、三日町口、六日町口、甲賀町口、馬場町口、大町口、桂林寺口、融通寺町口、河原町口、花畑口、南町口、外讃岐口、熊野口、小田垣口、宝積寺口)。
この内、この23日に突破されたのは天寧寺町口の郭門で、熊野口は敵を撃退、甲賀町口も敵軍に突破されましたが、撃退して後退させました。

その甲賀町口をずっと辿って行くと、眼前に現れるのが鶴ヶ城の北出丸です。
そうです、先ほど八重さんが敵を迎え撃つと言っていた、あの北出丸です。

さて、長い長い時間をかけて、物語は第1回冒頭のシーンに戻って来ました。
スペンサー銃をを手に砲弾の中を潜り抜ける八重さんは勇ましいことこの上ないですが、一説には八重さんは当初怯えていて、伯母の励ましを得て勇気を奮い立たせたという話もあります。
早速何発か命中させた八重さんは、弾込めを終えたは良いが砲弾の嵐の中でおどおどする少年兵に駆け寄って、

敵は、お城のすぐ外だ。旗の近くにいんのが侍大将だ。よーぐ狙えば、必ず当たる。合図したら、一斉に撃ぢなんしょ!

と言いますが、そのすぐ横で敵の砲弾が着弾し、爆発が起きます。
どよめく少年兵に、八重さんは優しく諭すように「さすけねぇ」と言います。

私が一緒だ。んだら、行くべ!

素晴らしいカリスマ性と統率力です、八重さん。
少年兵は八重さんの指示に従い、城壁の前に並んで狭間から一斉に射撃します。
八重さんの手が行き届かないところは、健次郎さんがフォローしていたりと、良いコンビですね。
鶴ヶ城の正面部分に当たる北出丸に、スペンサー銃を持った八重さんが居た影響力は、見過ごせるものではありません。
周りの少年兵の装備はゲーベル銃なので、彼らだけだと守備範囲は射程距離の200m程度しかないのですが、スペンサー銃がその場にいることによってこの範囲が一気に800mにまで伸びます(それでもスペンサー銃を北出丸で持ってるのは八重さんひとりなので、800m完全守備出来るわけじゃないですが)。
攻める新政府軍は城の近くの建物を遮蔽物にするしかなかったのですが、会津は鳥羽伏見の敗北の教訓として周辺の遮蔽物を排除すべく火矢を射かけて焼失させました(ちなみに道幅は約22m)。
つまり、遮蔽物を失った敵軍は隠れるところがない状態で、且つ遮蔽物のあった距離は火縄銃の射程距離内でしたので、火縄銃装備隊がまるで役立たずだったのかといえばそういうわけでもないのです。
きっとドラマの少年兵にあるように、頑張ってたと思いますよ。
何より、隠れるところがない状態で撃たれる薩長連合軍とは違って、八重さん達には城壁という身を隠すものがありますから、やはり城という要塞を攻略するのは一筋縄では行かないということですね。
多分その「一筋縄で行かない」ことが分かっていたからこそ、江戸城無血開城というのは大きかったんだと思います。
仮に江戸城相手に戦を仕掛けていたら、この「一筋縄でない」のに薩長連合軍は散々苦しめられたでしょうから。

激戦が繰り広げられている北出丸の、その目と鼻の先にあるのが西郷さんの邸では、千恵さんを始めとする女達が白装束に身を包んで円座していました。
次女の瀑布子さんが「手をとりて共に行きなば迷はじよ」と詠むと、下の句を長女の細布子さんが「いざたどらまし死出の山路」と継いでやります。
千恵さんの歌は、「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」。
何をしているのかは言わずもがな、辞世の句を詠んでいるのです。
全員分の辞世を認めた短冊を、人に預けて西郷さんに届けて貰おうという千恵さん。
細布子さんは、これから自分達がしようとしていることを、西郷さんが叱らないのかと問い掛けます。

お叱りにはならねえ。会津は、罪もないのに罰を受げ、無念を飲み込んで、敵に恭順した。それでもまだ足りなぐて、敵は、会津を滅ぼしに来た。そんな非道な力には、死んでも屈指ねえ!この事、命を捨てて示すのが、西郷家の役目だ

諭すように千恵さんに言われるまでもなく、全員がもう覚悟を決めている西郷家。
ただ、これから何が起こるのか幼くて理解出来ていない四女の常盤さんが、「これから何するんですか?」と無邪気に問い掛けます。

良い所に行くのですよ。皆で行く旅だ。何にも恐ろしい事は、ねえがらな

そう言って全員で手を合わせた後、ゆっくりと懐剣の鞘を払います。
これが有名な西郷家の自刃ですが、実際は千恵さんが、まず三女の田鶴子さんを刺し、驚いた四女の常盤さんを制して刺し、次に二歳になる季子さんを刺し、刃を返して自らを刺したというものです。
長女の細布子さんと二女の瀑布子さんは自らの手で逝ったのでしょうか、西郷さんの妹二人も自害し、西郷さんの実母の律子さんと祖母も隣室で自害、親族の小森駿馬の家族五人、西郷さんの再従弟夫婦、軍事奉行の町田伝八さんとその家族二人、浅野新次郎の際し二人、計21人が西郷邸で自刃しました。
午前11時くらいの出来事です。
流石にこれに忠実な形でドラマを作るのは壮絶極まりないことになってしまいますので、大河ドラマではこのような演出となったのでしょう。
先に触れた瀑布子さんや細布子さん、千恵さんの辞世の他にも、このとき自刃した女性の辞世は後世に伝わっています。
このことから考えられるのは、この自刃には目撃者がいた、或いは事前に辞世を詠んでいたということです。
西郷家の自刃については、後ほどまた触れたいと思います。

正午頃、薩長連合軍は大手門付近まで突破しました。
城に入ることを諦めたユキさんとその家族ですが、しかし城下は何処もかしこも敵だらけです。
物陰に身を顰めて辺りを窺っていると、敵兵(長州兵かな?)に見つかり、しかしそこに槍を構えた黒河内先生がやって来て、ユキさん達を逃がすべく奮闘します。
幕末最強剣豪と名高い黒河内先生ですが、実は刃を振るったのはこの23日に自刃する息子の介錯の時のただ1回だったという話があるので(先生はその後を追って自刃)、となるとこの救出劇はおかしいことにはなります。
ですが、これはこれで良いと思います。
「入城出来た女達(八重さん)」「城にいた女達(時尾さん)」「自刃を選んだ女達(千恵さん達)」「薙刀を手に戦うことを選んだ娘子隊(竹子さん)」とカテゴライズされる中に、「入城出来なくて城下をさ迷うことになった」というユキさんみたいな人も真実いたのですから、そこを描くための演出なら良いと思うんです。
ちなみにこのユキさん達のような数万の市民は先を争って城下の出口に殺到し、折り重なって倒れました。
そこを抜け出すと、折からの雨で川が増水しており、小舟で渡ろうとしましたが人を満載した小舟が次々に転覆し、溺れ死ぬという事態も発生していました。
避難勧告がもっと早い内から行われていれば、こんなことにはならなかったでしょう。
そういう意味で、ユキさんは戦火と同時に人災に巻き込まれた被害者でもあるのです。
この後ユキさんは無事に郊外に逃れ、門田町の肝煎、伝吉さんという方の家に世話になり、戦が終わるまでずっとそこに匿われていました。

再び、第1回の冒頭シーンに戻って来ました。
無事に入城を果たし、只管に「殿はご無事か!?」と連呼され、容保様の姿を見て涙ぐむ西郷さん。
しかし涙の再会を喜んでいる暇などなく、北出丸では板垣さん指揮する土佐兵と、八重さん率いる鉄砲隊の激戦が続いていました。
砂塵を巻き上げ大砲(四斤砲?)をずらりと並べ、砲撃の準備を指揮する板垣さんの右肩に、八重さんの弾が掠めます。
少年兵に「旗の近くにいんのが侍大将だ」と言ってましたが、軍団の誰を撃ったらより効果的なのか、彼女はちゃんと分かってるんですね。
引き付けが足りない距離で撃ち始める少年兵を制し、きびきびと指揮を執る八重さんの姿に、共に戦う老兵達も「女だてらにながながやりおる」と感心しきりです。
八重さんは自分の「出来る」を、行動を以って裏付けたのですね。
男社会で女が認められるための手段のひとつですが、言うほど簡単なことではありません。
ここから見えてくるのは、只々八重さんの「強さ」の部分ですね。

西郷家自刃には、複数の発見者がいました。
一番有名なのが、土佐兵のものです。
西郷邸が北出丸の真ん前に位置することは先程も触れた通りですが、この土佐兵は邸内に入って会津軍の反撃を避けようとしました。
念のため発砲し、人がいないことを確認して奥の部屋に入ると、そこには自刃した何人もの女たちが倒れていたのです。
その中に、まだか細く息をしている女性(細布子さん)がおり、人の気配を察して「敵かお味方か」と問い、土佐兵は咄嗟に味方と答え、すると懐剣で介錯を頼まれたので直ちにそれを施した、というのはあまりに有名な話です。
この土佐兵について、後年会津側で詮議を行ったところ、中島信行という男ではないかと実しやかに言われていましたが、当の中島さんは会津戦争には参戦していませんでした。
ならば別の中島という土佐兵かと、再び探したところ、中島茶太郎という人物がいたのですが、これも確証はなく、今に至るまでこの土佐兵が誰であったのかは謎に包まれています。
ドラマでは板垣さんでしたね。
ところで何故、西郷家は自刃の道を選んだのか。
作中では、230人余りの自刃を選んだ人々を、「新政府軍の没義道な侵攻への抗議」と捉えていました。
多くの家では確かにその意味も、そして「非戦闘員の身でありながら城の兵糧を食い潰すまい」「敵軍に捕まって恥辱の目に遭うよりは死を選ぶ」という考えも、共通項のようにあったでしょう。
ただ、西郷家にはそれとは別の背景事情が潜んでいるのではないかなと個人的には思っているので、少し触れさせて頂きます。
西郷さんは主戦派が数多く占める会津重臣の中で、少数派の恭順派でした。
主戦派から見れば、恭順派の西郷さんは「薩長に屈する軟弱者」に映ったはず。
その恭順派の西郷さんが、そもそも白河口総督に選ばれていたのがおかしな人選なのですが、白河口で大敗北を喫したため、ただでさえ少数派だった西郷さんの家中での立場は弱くなります。
白河での敗北の後、西郷さんが謹慎を申し渡されていたのは皆様の記憶にも新しいかと思います。
そんな中で起こった、会津城下での戦い。
何度も触れていますが、西郷邸は北出丸の真ん前ですので、すぐに行動すれば城に入れる距離です。
しかし千恵さんは入城を選ばなかった。
先程触れた共通項も勿論その理由だったでしょうが、西郷さんの置かれていた立場を考えるに、夫の面目を保つには自分は如何に振る舞うべきかと考えたのではないでしょうか。
恭順派の西郷の家族である自分達が入城して生き残るより、自分達という犠牲を出すことで夫の面目を立たせる。
・・・何だか上手くまとまらなくて申し訳ないですが、西郷家が自刃を選んだ理由に、夫である西郷さんの置かれていた立場も視野に入れて考えると、また別の面が見えてくるのではないかなと、私は思うのです。

戸ノ口原を退却した白虎隊は、城に帰ることを決意して滝沢峠に向かいましたが、そこは既に敵兵で溢れ返っていました。
そこで灌漑用水路である戸ノ口原堰洞穴(上図参照)を潜り、飯盛山へと向かいます。
食糧を探しに行った日向さんは戻っておらず、彼が何故戻らなかったのか、真相は明らかではありません。
敵軍が押し寄せて現場が混乱し、白虎隊と行き違いになってしまっていたことも考えられます。
また小隊頭や半隊頭が、いつどこで彼らとはぐれたのかも分かっていません。
意外に白虎隊のことは、分かっていない部分もまだ多いのです。
前日の夜から握り飯一個程の食事しか摂っていないため、空腹と、そして寒さに襲われながら、飯盛山に辿り着いた白虎隊が眼下に見た光景は、燃える鶴ヶ城。
しかしよく見れば燃えてるのは城ではなく、城下の邸だと分かります。
これは先程も触れた、遮蔽物を無くすために会津側が火矢で焼き払ったのと、薩長連合軍の砲撃によって焼けたものでしょう。
ともあれ城が無事なことを確認した白虎隊は、城に帰るための道の相談を始めます。
滝沢街道は敵でいっぱい、南から回り込むのもよし、討死覚悟で正面から行くのもよし。
しかし、討死だったら良いが、その前に敵に捕まったら・・・という意見が出ます。
敵に捕まれば恥も恥、というのは日新館で彼らは教え込まれてます。
ならば、生き恥を晒しては容保様に面目が立たないと、腹を斬ろうという結論に至ります。
誰もが容保様から下賜された袖印を握り締めました。
実際、どうするかの話し合いを、白虎隊は小一時間していたそうです。
「策の講ずべきなし、城に入るは不可能ではないが、誤って敵に捕まり、捕虜となったら上は君に対し、面目あるや。下は祖先に対し何の申し訳やある。潔くここに自刃し、武士の本分を明にする」と、唯一の生き残りである飯沼貞吉さんはそう回想しています。
皆いいか、と言われ、誰も否と唱えない集団心理。
もしここに、日向さんなり、小隊頭や半隊頭といった大人がいれば、この集団心理には至らなかったでしょう。
そう考えると、寒さと空腹で精神力が限界まで削られた少年たちが、大人のいない内に早まってしまった決断とも取れなくないです。
負の要素が負の要素を招き、悲劇というべき結末に辿り着いてしまったわけです。
そうして皆、懐を寛がせ、城に向かって頭を下げた後に刀を抜いて腹を斬り、或いは喉を突きます。
敵の銃弾を受けて身体の自由が利かなかった隊士は、別の隊士が介錯をしてやりました。
腹に刃を突き立てている隊士と、首を掻き切る隊士がいましたが、自刃という意味ですぐに死ねるのは首です。
腹だと完全に事切れるまで、激痛に耐えねばなりません(首を落としてくれる介錯がいないので)。
白虎隊士中二番隊二十人の自刃は、午前11時頃の出来事でした。
唯一の生き残りである飯沼貞吉さんが、印出ハツさんに発見されたのは午後4時頃。
ハツさんが何をしに飯盛山に来たのかと言えば、ハツさんは会津藩士印出新蔵さんの奥さんですが、戦に出た我が子を捜していたのです。
そこでひとり、苦しそうに呻いている少年、貞吉さんを発見し、彼を背負って下山し、夜になってから塩川町の宿屋に運んで医者を呼び、手当てをしました。
こうして、仲間の白虎隊士中二番隊十九人が逝った中、貞吉さんはひとり生き残ってしまったのです。
しかし貞吉さんはそれがために裏切り者扱いされ、亡くなった後仲間達の眠る飯盛山への埋葬が長年許されず、共に眠ることが出来るようになったのは彼の死後二十四年後のことでした。

甲賀町口で敵の進攻を阻んでいた土佐さんですが、とうとう持ちこたえられなくなり、六日町で防戦していた内蔵助さんと共に、五ノ町にある土屋一庵さんの家に入ります。
「ご家老をお守りするのだ」と兵が叫んでいる一方で、土佐さん達は鎧を脱ぎ、疲れたように床に座り込みます。
その様子から、兵の言う「守る」とは、これから二人がしようとしていることの邪魔を誰にもさせるなということなのだと分かります。

甲賀町口も、破られたが・・・
そっぢもが
ああ。・・・切るが
ああ

そう言って二人は脇差を腰から抜きます。
土佐さんは、今から切ろうとしているこの腹を、京都守護職拝命時に家老一同で切っておけば会津はこんな道を辿らなかっただろうと言います。
わたくし個人の意見としましては、最悪の状況回避出来る最後のタイミングで言えば、世良さんが暗殺されて薩長連合軍との衝突が避けられない事態になったときに、家老衆が首を差し出していれば、いつかの長州がそうやって逃れられたように、逃れられたのではないかと思います。
ですが、彼らはタイミングを逸し続けた。
そして状況は今に至る。

もう良かんべ。俺は最後に・・・徳川のためでも、幕府のためでもなく、会津の戦をしたのだ。これ以上の・・・名誉なこどはねぇ
ああ。・・・我らは幸せ者だ。修理も、腹切っだ時は、きっど同じ思いだったべ
んだら、修理も、本望・・・だっだが

修理さんは会津のための戦をしたわけでは決してないけれど、容保様に向けられる怒りを一心に受け止めて、それを容保様に理解されながら、容保様のために死んで行けたという意味では確かに本望だったでしょう。
土佐さんは大蔵さんや官兵衛さん、平馬さんに会津を頼むと言いますが、貴方と内蔵助さんが同時に居なくなることで、高確率で割り食うことになる四番家老の権兵衛さんの心配をしてあげましょうよ、と今後の家老衆の顛末を知ってるだけに、ちらりとそんなことを考えてしまいました。
二人が脇差を抜くと、介錯の兵が傍に寄ってきます。

んだら、生まれ変わる時は、まだ、会津で

内蔵助さんの言葉に頷き合って、二人は互いに刺し違えるという最期を遂げます。
(場所については上図参考。ただし、もう少し上のエリアかも知れません)
土佐さん49歳、内蔵助さん52歳の生涯でした。

そしてまた、第1回の冒頭シーンに戻って来ました。
スペンサー銃を構え、少年兵を率いる八重さんが対峙しているのは、今度は板垣さん率いる土佐兵ではなく、大山さん率いる薩摩兵。
これは、北出丸からの反撃が激しく、選手交代を余儀なくされたからです。
ちなみにドラマでは違っていましたが、このとき大山さんが率いていたのはモルチール砲だったはずです。
そして何の奇縁か、実は大山さんが対峙しているこの鶴ヶ城にこそ、未来の彼のお嫁さんが籠城しているのです。
その辺りのことは、また明治に入ってから追々描かれていくでしょう。
ところで、八重さんは本人の回想の中で後年、「わたしの命中の程は判りません」と述べています。
しかし八重さんのスペンサー銃は、大山さんの右大腿部を見事撃ち抜きました。

薩摩の隊長仕留めだぞ!

健次郎さんがそう声を弾ませ、自然、少年兵の士気も上がります。
大山さんがこのとき右大腿部狙撃されたのは史実ですが、狙撃したのが八重さんだというのははっきり分かっていません。
ただ、彼がいた場所は火縄銃の射程距離圏外であったことから、狙撃手の武器の射程距離は広範囲だったと考えられます
そこで、彼を射程距離に納められるスペンサー銃を持っていたこと、彼が攻めて来ていた北出丸にいたこと、などから、条件の一致する八重さんが狙撃したのでは、と言われています。
ですが会津側で八重さん以外にも数人スペンサー銃を持っていた人がいるにはいるので(記憶曖昧ですが、3~4本あったんじゃないかな)、100パーセント八重さんが撃ちました、と断言するには決定打に欠けます。
でも資料の行間読んで事実像浮かび上がらせるのは、過去にあった女主人公大河のように捏造まみれにされるよりずっと良いと思います。

一旦北出丸を退いた八重さんは、少年兵に腹ごしらえをさせ、装備の確認を命じます。
ちなみに会津の兵糧は、玄米が二の丸倉庫に数百俵備蓄されているだけで、味噌も醤油も左程備蓄はなく、ただ、塩だけは充分にあったそうです。
そこへ、先に城へ入っていた尚之助さんが駆け寄って来ます。
今まで「戦士」の顔付きだった八重さんですが、尚之助さんを見ると、少しだけ表情が柔らかくなったような気がします
やはり来ましたね、という尚之助さんのその顔は、何と言いましょう・・・戦場に同志を迎え入れたような風で、妻に対するそれとはこの時代的にはずれているのでしょうが、これがこの夫婦ですからね(笑)。

四斤砲がまだ一本、城内に残っていました。壊れたところを直すのに手間取りましたが
あれで、薩摩の大砲隊を吹っ飛ばしてやんべ!
私はあの大砲を率いて大手門に回ります
出丸の外に出たら危ねえ
しかし、出丸の砲座に据えてもやられるばかりです。行ってきます

私はこの辺りのことは素人なので、憶測ですが、おそらく出丸の中からだと城壁が邪魔して満足に大砲が撃てないのでしょう。
だから、大砲を撃つためには出丸の外に出なければならない。
しかし先程まで北出丸で戦闘をしていた八重さんには、出丸の外に出ることがどれだけ危険か目の当たりにしています。
危険を顧みず行こうとする尚之助さんを見て、如何すれば良いと逡巡した八重さんは、とあることを思いつき、健次郎さん達に手伝って貰って、砲弾を避けながら大砲を運び、城壁に大砲で穴を空けてそこから大砲を撃ちこめば良いと提案します。
まるで覚馬さんを彷彿させるような無茶苦茶で強引ですが、合理的な発想。
流石は兄妹です、血は争えません。

その覚馬さんはといえば、獄舎から京の養生所に身柄を移され、高熱に魘されていました。
その傍らで覚馬さんの世話をしているのは時栄さんですが、時栄さんは見舞いに来ていた大垣屋さんに、絵の後ろに隠しておいた『管見』を差し出します。

これを、上の偉い御方に読んで貰えまへんやろか。先生が、心血を注いで書いたものです。お頼み申し上げます

会津の御用掛を務めた大垣屋さんは、手渡された『管見』に少し目を通して、命に代えてもお引き受けしますと覚馬さんに言います。
時栄さんだったら渡せる範囲が限られてきますから、大垣屋さんに『管見』が行くのは分かっていたことですが、今度は大垣屋さんがどうやって、いつ、誰にこれを渡すのか、今度はそちらが気になります。

四斤砲の場所の確保に成功した八重さんは、大砲を指揮する尚之助さんと呼吸を合わせ、鉄砲隊と共に反撃に出ます。
その八重さんに先程右大腿部を撃ち抜かれた大山さんは、抱えられるようにして本陣に引き返してきます。
この怪我が原因で大山さんは前線を退くことになり、実質彼が会津攻撃の戦線にいたのは二日くらいだったかと。

どういた?撃たれたがか?
面目なか。じゃっどん、あん城はすぐには落ちもはんぞ

先程も触れましたが、鶴ヶ城は一種の要塞ですから、如何に西洋の兵器を揃えた薩長連合軍といえども、簡単に落とせるものではないのです。

中は、年寄りと子供ばっかりのはずじゃどん・・・
一気に攻めるつもりやったけんど、包囲戦に持ち込んじゃろが

籠城されたら、包囲戦に切り替えるのは古今の定石ですね。

その夜、八重さんは時尾さんに髪の毛を切って貰います。
夜襲に志願したが、女子は連れて行けないと言われ、でも男装していて髪が短ければ、誰も自分を女子と思わないだろうということで。
「自分で脇差で切ろうとしましたが、なかなか切れず、高木盛之輔さんの姉ときをさんに切って貰いました。城中で婦人の断髪は私が初めてでした」。
後年、八重さんはこのときを振り返ってそう語ります。
しかし髪は女子の命なのに、と涙ぐむ時尾さんに、「私は、三郎だがら。長い髪は、もういらねぇ・・・」と言う八重さんの言葉を聞いて、嗚呼この瞬間、少なくとも八重さんの中では「女」が死んだのだな(というか八重さんが殺した)と思いました。
髪を切るのは、その介錯のようなもの。
では、このとき死んだ「女」の八重さんは一体いつ生き返るのか、そもそも生き返るのか、その辺りのことは、先の展開を待つことにしましょう。

この日の戦いで会津軍の戦死者は460人余、藩士家族の殉難者は230人余、一般庶民の犠牲数は不明ですが少なくないはずがありません。
焼失した家屋は1000戸。
私の時間感覚と歴史認証が間違ってなければ、この第26回はずっと8月23日一日の出来事をなぞっていたと思います。
幕末会津ドラマでの慶応4年8月23日(1868年10月8日)は、過去でいう戦国モノだと関ヶ原、源平モノだと壇ノ浦に匹敵するということですね。
しかし、会津戦争はこれがまだ初日なのです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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