2013年8月1日木曜日

第30回「再起への道」

会津戦争から半年が経った、明治2年(1869年)2月。
アメリカのマサチューセッツ州にあるアーマスト大学内の礼拝堂で、聖書を手に一心に祈っているのは、随分お久し振りの登場の襄さんです。
襄さんがボストンの土を踏んだのが、1865年(慶応元年)のこと。
その後アントンヴァーにあるフィリップス・アカデミー英語科に入学し、翌年アントンヴァー神学校付属教会で洗礼を受けています。
1867年(慶応3年)6月にそこを卒業した襄さんは、9月にアーマスト大学に入学しました。
襄さんはアーマスト大学が初めて受け入れた日本人学生で、今では26歳になっています。
枝葉になりますが、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士ことウィリアム・スミス・クラークさんに化学を教わったみたいです。
学長のジュリアス・ハーレー・シーリーさんに、日本で革命が起こって明治という新しい時代が始まったのだと襄さんは言います。

しかし同じ国の人間が争った傷は深く、痛みはたやすく消えない。報復のために、また戦が起こりはしないかと・・・。互いに恨みを捨て、神の愛と正義のもと、新しい国作りがなされますように・・・。死者と、残された者のため・・・。そして、悲しみ、憎しみ、恨む心を癒し給え

「八重の桜」前半部分のテーマが、幕末の会津の正当性と拙さと、歴史の流れを会津視点から追うことによって、薩長史観からではない幕末を描くことだったのだとすれば、襄さんの言葉は「八重の桜」後半部分の大きなテーマでもありますね。
時代が明治になって、しかし負けた藩の人々の傷は消えませんし、報復のためというのは少し謎ですが、西南戦争が起こる。
日清・日露戦争の頃まで軍の中では薩長出身者が出世街道に乗れ、負けた藩の出身者にはいつもハンデがあった。
明治維新と呼ばれる革命の尾が、色んなところで濃厚に尾を引く中で、それらを「癒し給え」と言えてしまうのはなかなか超絶的なようにも見えますが、それは彼がキリスト教であり、アメリカにいることで日本ではない視点から日本のことを見られるからでしょう。

とうことで、始まりました明治編の30話。
会津戦争中、改元の詔によって元号が既に明治に変わったことは以前の記事で触れた通りです。
少し時間軸が遡りますが、慶応4年7月17日(1868年9月3日)、通称「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」と呼ばれるものが発せられ、江戸が東京になります。
かねてより新政府の中には、明治天皇を中心とした新しい国と政を展開すべく、遷都を行おうという声がありまして、その候補地として大坂が有力視されていましたが、やがて江戸が最有力候補地になりました。
しかし千年以上都として栄えて来た京都を離れると言うのは、公家や宮中の保守派、京都市民にとっては考えられないことであり、事は慎重に運ばれました。
そう言う背景もあったので、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」では「江戸が東国第一の大都市且つ要所であるため、天皇がここで政を行う」とし、それはつまり政治の中枢と天皇が京都から動くわけですので「遷都」になるのではないかと思うかもしれませんが、遷都ではなく「東西両都」という方針を、公家や宮中の保守派、京都市民らへの配慮から取ることにしました。
なので、「東」の「京」なのですね。
飽く迄京都から見た名付け、ということになっております。
明治元年10月13日(1868年11月26日)、東京に行幸した明治天皇が江戸城に初めて入り、その日江戸城は「東京城」と改称され、皇居と定められます。
これらの流れから、「遷都」と明確には言っていないものの、事実上都が京都から東京に移っている、あるいは移そうとしているのは誰の目にも明らかです。
新政府としても、さっさと東京に遷都したかったのでしょうが、事は慎重に進められ、「東西両都」の方針の元、明治天皇は東京と京都を行ったり来たりする羽目になります。
結局明治3年(1870年)3月14日、明治天皇の京都還幸の延期が伝えられ、そのままずるずると「遷都」の二文字が明確に出されていないだけで、ゴリ押しのように都は東京という風になって行きます。
何故こんなことをずらずら書いているのかと申しますと、都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にあるからです。
その辺りのことはまたその場面に差し掛かった時に触れるとして、さて本編に入りましょうか。

会津戦争後、故郷の会津を離れた山本家は米沢藩にいました。
どうしていきなり米沢藩に御厄介になっているのか、作中で思いっきり飛ばされたので急なことに見えるかもしれないので、少し補足させて頂きます。
会津戦争が勃発する前、米沢藩から藩士43人が砲術修行として会津に来ていたというのは既に以前の記事で触れました。
それに加えて山本家には、奥州列藩同盟の米沢藩との連絡役として遣わされた米沢藩士が逗留していました。
尚之助さんも、砲術修行に来た米沢藩士に指導を行っていましたし、つまり山本家は米沢藩士の宿舎兼学校のような場所になっていたのです。
そのご縁があって、八重さん達山本家はその修行に来ていた米沢藩士の一人、内藤新一郎さんの家に厄介になっているのです。
米沢藩に移ったのは何も山本家に限ったことではなく、米沢と会津の藩同士の関係も相まって、多くの会津藩士が戦後米沢に移住しました。
列藩同盟の片翼だった米沢藩ですが、藩士の宮島誠一郎さんが奔走したお蔭で、戦後処分の領地削減は18万7000石が14万7000石(※数値訂正しました)になっただけです。
23万石(実質は30万石ほど)を悉く没収された会津藩と比べると、変な言い方になりますが、頼られても大丈夫な家や余力ある家が多かったのでしょう。
ちなみに仙台藩は藩主父子東京に謹慎の上、62万石から28万石に減封、玉虫左太夫さんと若生文十郎さんは処刑、長岡藩は藩主東京に謹慎の上、7万4000石から2万4000石に減封、盛岡藩は23万石から13万石に減封、庄内藩は藩主東京に謹慎の上、17万石から12万に減封となりました。
こう見ると、特にもう片翼の仙台藩と比べると、米沢は処分がまだ軽い方で済んだことが数字の比較でも良くお分かり頂けると思います。
しかしそれでも、ただ飯を女四人分食べさせてもらうだけの余裕が内藤家にもあるわけではないので、八重さんは行商で日々の生計を立てていました。
売るのは主に反物や、それで作った布製品。
今日も今日とて精を出して、みねちゃんとそれを売り歩いていると、会津藩士の未亡人の千代と言う女性に出会います。
あちらは、戦で鉄砲隊を率いていた八重さんを知っていたようで、しかしそう言われた八重さんの表情はやや複雑そうなものでした。
そこへ田村屋宗右衛門という男が出てきて、八重さんたち武家が商いをしていることに同情し、反物を一反買ってやるように言います。
みねちゃんには、食べるものにも苦労しているだろうと蕪を渡そうとしますが、「いらねぇ」とみねちゃん。
うらさんはしっかりみねちゃんを武家の娘として育てたようで、どれだけ貧しくても施しは受けないということですね。
結局八重さんが蕪を頂くことでその場は収まりましたが、武家の誇りはもうずたずたでしょうね、八重さん達。
でもその痛みを抱えて、女四人で力を合わせて生きて行く。
しかし、PTSDのようなものに魘される八重さんは、見ていて痛ましいです・・・。
ちなみに戦に敗れた旧会津藩士たちは「会津降人」と呼ばれていました。
またこのとき、彼らの故郷には「白河以北一山百文」という汚名を着せられていました。
先程八重さんが売っていた反物が一反500文でしたので、一つの山が反物二反と同価値であると見下されていたのです。

戦後の会津藩の処分について、寛典論と厳罰論に分かれ、木戸さんはやはり長州だからか、容保様の処刑を主張して譲りませんでした。
結論としては死一等を減じ、永禁錮、城と領地の没収と言うことになりました。
しかし、それでは会津の戦争責任は何処へ行くのかという話になります。
これについては、照姫様の実弟、ご実家の上総飯野藩保科正益さんが、この件の首謀者は田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんの三人だと朝廷に上申しました。
前者の二人は既に故人となっておりますので、事実上は萱野さんが一身に全てを背負わされることに、これではなってしまいます。
そんな話が明治政府に通るわけがないだろうと思われるかもしれませんが、会津藩が土佐藩や米沢藩、薩摩藩などに働きかけ、実質上の犠牲者は萱野さんひとりだというのを認めさせたのです。
勘の良い方はお分かりだと思いますが、萱野さんは席次で言うと四番家老でしたので、もし西郷さんが城を出ていなければ、萱野さんが腹を斬る必要はありませんでした。
西郷さんがいないから、萱野さんにお役目がスライドしてきたのです。
そして明治2年(1869年)5月18日、萱野さんの刑執行日がやって来ます。
刑の前に麻布広尾にある保科家に、大蔵さんと平馬さんがやって来て、萱野さんに詫びを言います。

此度は・・・戦の責めを一身に背負って頂き、まことに・・・申し訳ございやせん
城中にて戦の指揮を執ったのは私でごぜえます。まことは、私が・・・私が腹を斬るべきところを・・・
馬鹿者、皆で死んでなじょする。一身を以って、御主君をお守りするのは武士の誉れだ。このお役目、にしらには譲れぬわ

仮にもう後二人、故人分の首を差し出せと言われたら、間違いなく大蔵さんと平馬さんの首がそれになったのでしょう。
ですが、そうしてしまっては会津再興の目途が立たなくなりますので、会津上層部はそうならないようにしました。
結果この二人は首が繋がったのでしょう。
そんな萱野さんへ、容保様の文が差し出されます。
今般御沙汰之趣、竊ニ到承知恐入候次第ニ候。右ハ全ク我等不行届ヨリ斯ニ相至候処、立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至リ、不堪痛哭候、扨々不便之至ニ候、面会モ相成候身分ニ候ハハ是非逢度候ヘ共、其儀モ及兼遺憾此事ニ候。其方忠実ノ段、厚心得候事ニ候間、後々ノ儀ハ毛頭不心置、此上為国家潔ク遂最後呉候様頼入候也 五月十六日 祐堂 萱野権兵衛へ(星亮一、1995、奥州列藩同盟、中公新書)

この手紙の趣旨をまとめると、ドラマにあったように「権兵衛、ひと目だけでも会いたかったが、今の身の上ではそれも許されぬ。そなたの忠義、終生忘れぬ」と言うことになるのでしょう。
目頭を熱くする萱野さんに、更に青山の紀州藩邸に預けられている照姫様からの歌が寄せられました(ドラマで映っていたのは歌だけでしたが、本当は歌だけでなく手紙部分もあります)。
そこには「夢うつつ思ひも分かず惜しむぞよまことある名は世に残れども」と書かれており、容保様と照姫様のこのときの文と歌は、現存しております。
機会があって目にすることが御座いましたら、どうかこのときの場面を思い出して下さいませ。

まことある名は、世に残れども・・・。ありがたい。これほどの、ご厚情を受けて、わしは幸せ者よの。ただひとつ、無念なのはな、会津が、逆賊の汚名を晴らす日を、見届けずに死ぬことだ。戦で奪われたものは、戦で取り返すのが武士の倣い。頼むぞ!そうでねぇと・・・そうでねぇと・・・、死んだ者たちの無念が晴れぬ!!!

そうして想いを託し、萱野さんはその場を去ります。
表向きは、戦争責任を取るということで斬首を言い渡されていた萱野さんですが、保科家の温情で武士として切腹の形を取ることが許されました。
しかし、萱野さんの言葉で少し気になったのが、「戦で奪われたものは、戦で取り返せ」と、復讐を煽っていたこと。
前者の「戦」と後者の「戦」は含まれている意味が違うのかとも検討しましたが、そうでもないようですし・・・。
何と言いますか、会津の家老としての無念は察しますが、でも家老の最後の言葉らしくない、非建設的な言葉だなと感じてしまいまして。
それに、容保様の最後の君命は「生きよ」だったじゃないですか。
これは復讐するために生きろ、と言うわけじゃないですよね。
会津の民ひとりひとりがあってこその「会津」だから、容保様は皆に生きて欲しかったわけで。
「死んだ者たちの無念」というのは、生き抜いた先に晴れさすことが出来るのであって、復讐でそれを晴らすのは、容保様の君命と照らし合わせても何か違和感を覚えるなぁ・・・と。
とてもいいシーンのはずだったのですが、台詞後半に何だか妙な引っ掛かりを覚えてしまいました(苦笑)。

そして権兵衛さんの刑が執行された日は、奇しくも、箱館戦争終結と同日でした。
箱館の五稜郭に拠点を構えた旧幕府軍ですが、北の大地まで転戦を重ねた土方さんは一本木関門の乱戦の中で5月11日に落命し、18日に総裁の榎本さんが降伏を決意します。
鳥羽伏見の戦いから1年半、戊辰戦争がようやくここに幕を下ろしたのです。
降伏の日、榎本さんと盃を交わした西郷さんは、本当は自分の役目だったのに萱野さんひとりに責めを負わせたことを申し訳なく思いながら、そっと呟きます。

わしは・・・生きる。千恵・・・わしは生ぎっぞ。わしらの会津を、踏み潰してった奴らが、どんな世の中作んのが、この目で見届けてやる

箱館戦争後、西郷さんは上州館林藩国許お預けになりました。
切腹した萱野さんや、それに同調した大蔵さん達とは違い、西郷さんは復讐心は灯ってないように見えました。
ただ、「見ていてやる」と、ある意味達観の境地に至っているとでも言いますか。

みねちゃんと田村屋の千代さんを訪ねた八重さん。
八重さんは千代さんの息子、長次郎さんの槍を見てあげるのですが、その時千代さんから鉄砲を教えて欲しいとせがまれます。
常の八重さんならば・・・というより、会津時代の八重さんなら喜んでそれを引き受けたことでしょう。
しかし今の八重さんは、首を縦に振りませんでした。
八重さんなら絶対に教えてくれると思っていたのでしょう(同じ会津の女性ですから、自分の復讐心も分かってくれるだろうと思ってたのかな)、しかし芳しい返事を貰えなかった千代さんは声を荒げます。
薩長に恨みを晴らしたくないのかと詰め寄られる八重さん。
八重さんとで恨みを晴らしたくないわけではなさそうですが、どうにもそこへ踏み込んでしまえない何かが彼女の中にはある様子(これは最後の方で判明します)。
薩長への憎悪と、強くなって薩長に一矢報いるようにと我が子に言い聞かせる千代さんを、八重さんは複雑そうな目で見つめます。
会話を聞きつけた中村屋さんが、「毎日毎日仇を討てだの恥を雪げなど、同じ繰り言並べて、辛気臭くてかなわんわ。会津、会津と念仏のように唱えでるけども、そだな国はもうとっくに潰れてなぐなった。落ちぶれ者が。食べ物が欲すければ裏に回れ。会津の者なんぞがずうずうしく屋敷に上がりやがって」と、物凄い暴言を吐きます。
怒ったみねちゃんを千代さんが庇い、その千代さんが殴られて八重さんは彼女が生きるために田村屋さんの妾になったことを知ります。
この期に及んで会津への侮辱を止めない田村屋さんに、八重さんは稽古用の槍を取り上げて一瞬で田村屋さんをやり込めますが、千代さんに止められます。
八重さん、目が本気だったので、千代さんが庇わねば確実に撲殺してたんじゃないかな。
千代さんは、田村屋に何かあったら長次郎は生きて行けなくなるから、止めて欲しいと八重さんに縋ります。
あんな男に縋るようにしなければ生きて行けない自分を、情けないという千代さんに、八重さんは言います。

何にも情けなくねぇ。今は、生き抜くこどが戦だ。生きていれば、いつかきっと会津に帰れる。それを支えに、生きて行くべ

情けなさを感じているのは八重さんも同じですよね。
武家の身なのに、行商して、施しまでして貰って、本当は屈辱だしプライドもずたずただけど、でもそうしなくては生きて行けない。
アイデンティティーや自身の方向性は見失ってしまっている八重さんですが、容保様の最後の君命をあの場で聞いていたからか、今は「生きよ」だけを忠実に守っています。
それを「どう生きるのか」という色付けが、今後なされていくのでしょうね。

さて、次なる場面は東京護国寺会津藩士謹慎所ー・・・と移る前に。
まさかスルーするとは思いませんでしたが、一瞬自分が寝てたりして見逃したのかとも思いましたが、やっぱりスルーされてた物凄く大事なことを補足させて頂きます。
萱野さんが切腹したその約半月後の6月3日、会津城下の御薬園にて容保様の御側室、佐久さんが、容保様の嫡男慶三郎さんをお産みになりました。
後の容大さんのご誕生です。
容大さんは後の八重さんと襄さんにも関わりが出てくるお方ですし、何よりも降伏やら何やらで暗いニュースばかりが続いていた会津にとって、容保様に和子様がお誕生されたことは、藩士らにとってはこれ以上ない吉報だったかと思います。
なのに、何故か華麗にスルーされました・・・私は不思議でたまらない。

皆聞け。とうとう、御家存続のお許しが下りたぞ

と平馬さんは報告しますが、この「御家存続」は明治2年9月28日に、明治天皇が慶喜さんと容保さんの罪を赦し、翌29日にお生まれになった慶三郎さんを以って会津松平家存続を願い出るように、と保科正益さんに伝えたという背景があります。
つまり、御家存続のお許しには慶三郎さんの存在が不可欠だと言うのに・・・やっぱりスルーされてますね、不思議です。
そして同年11月14日に慶三郎さんは「容大」と実名を定め、家名存続の許しを得、華族に列し、陸奥国の下北半島を中心とする3万石を下賜されました。
ということで、平馬さんも言っていましたが、御家再興の地は会津ではありません。
それに不平不満を言う会津藩士たちですが、実は他の候補地に、会津藩の旧領であった猪苗代もありました。
では何故猪苗代を選ばなかったのか。
撰びたくても、選べない事情があったからです。
ドラマでは基本、容保様を何処までも綺麗なお殿様と描くことを貫いておられますが、実際幕末会津の百姓視点まで視線を下げてみると、必ずしもドラマの通りの素晴らしいお殿様ではないのです、容保様は。
孝明天皇に義理立てたという美談の裏側には、会津の国許の財政状態を省みなかったという面もあります。
長きに亘る京都守護職の在職で、藩の財政は火の車、農民には重税が課せられ・・・というのは何度かこのブログでも触れて来た、会津藩の事実です。
そのため、会津に戦火が迫った時、薩長に加担してしまう農民もいました。
これも以前ブログで触れたことですが、農民からすれば殿様が帝の信頼篤かろうが、忠義が如何とか言っても、それでお米が大量に獲れるわけでもなければ、お腹が膨れるわけでもない。
寧ろ、その殿様が一日でも長く都に滞在するから、重税で喘がなくてはいけない。
彼らにとっての良き殿様は、重税を背負わせず、明日の生活と食事を保障してくれるような統治をしてくれるお殿様なのです。
容保様にも容保様の事情があったのは勿論そうですが、農民にもそんな言い分があるわけです。
だからでしょうか、容保様が謹慎先の滝沢村から東京に護送されるとき、「至る所で人々は冷笑な無関心さを装い、すぐ傍で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津候が国を出て行くところを振り返って見ようともしない」という目撃情報が、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスによって残されています。
で、そんな農民たちは会津降伏後、旧支配層に対する嫌悪を一揆という形で爆発させるのです(ヤーヤー一揆)。
そんな庶民の怒りが渦巻く旧会津領を、再び旧会津藩が再支配するのは困難以外の何物でもありません。
故に猪苗代ではなく、陸奥国の下北半島が選ばれたのです。
ただ、会津の農民の全員が会津藩時代の統治を嫌っていたわけではありません。
会津の処分の論議がされていた時、会津の農民500人は全国に分散して「旧会津への復帰再興」を願い出ています。
また、北海道も候補地に挙がっていましたが、黒田清隆さんが北海道開拓は会津人には向いていないと、却下しました。

新しい藩名を、斗南とする。北斗以南皆帝州という詩文から取った。最北の地も、帝の領地。我らは朝敵ではなく、帝の民であるとの意味だ

斗南という藩名は、「自分たちは賊徒ではなく、朝敵ではなく、北斗の星(=王)を仰ぐ民である」という想いが込められています。
しかし自分達は「会津藩」の人間であり、名前を奪われてまで新政府に従うことはないと、藩士たちはなかなか納得しません。
けれども「斗」と言う字は「闘う」という意味があります。
なので、ただ新政府に従うわけではないのだと、名前に込めた意味を説明しながら、大蔵さんは言います。

我らは会津武士。戦い続けていつの日が、故郷の土地と、会津の名を奪い返す。まず国の力をつける。そのためには、交易だ。会津にはなかった海が、斗南にはある。北辺の地に強国を作る。反撃の狼煙を上げんのは、その時だ。どの地も全て、戦場と思え

しかし彼ら再起の心をへし折るように、斗南の地は土地が痩せてるわ極寒だわ・・・だったのです。
(止めは版籍奉還と廃藩置県)
何より、比較的裕福な七戸藩の土地は綺麗にのぞかれる形で斗南藩の領地は与えられましたので(=痩せた土地ばかりの場所)、3万石とは名ばかりの、実質は7000石ほどのされる不毛の地でした。
そして斗南藩の赤貧を何とかしようとして、尚之助さんの運命が大きく左右しまうことになるのですが、それはまた機会が来たら筆を割くとして・・・。
平馬さんの、「斗南は決して、楽土ではねぇ」というのは、その辺りのことも薄々気付いていたからでしょう。
さて、大蔵さんはこの度、斗南藩筆頭の大参事に就任しました。

これを潮に、わしは全ての役職を退く。戦の首謀者はまことはわしであった。頼母様を退け、奥羽諸藩と結んで戦に突き進んだ
義兄上・・・
わしはもう、藩を率いてはいけぬ。後の事、にしゃに託してえ。頼む・・・!

平馬さんは本当に斗南開拓失敗後、北海道に渡って姿を消します。
以後長きに亘って歴史に埋没しており、お墓が発見されたのも昭和63年(1988)のことでした。
二葉さんと離婚したことや、水野貞(第20回でちらっと出て来ましたよね)とのあれこれは伝わってるのに・・・ということで、平馬さんの後半世については、今後の研究が進むことが期待されます(少しずつ進んではいるようですが)。

平馬さんと大蔵さんの会話の中にありましたが、1868年10月、秋月さんは健次郎さんと小川伝八郎さんを、長州藩参謀の奥平謙輔さんに預け、越後方面へと脱出させます。
奥平さんは安政6年(1895)に秋月さんが萩を訪ねた時に顔を合わせていたようで、その縁がここへと繋がったのです。
ちなみにこの奥平さん、会津藩は鳥居元忠さんのように最後まで戦うべきだったと書いたのですが、秋月さんがそれを取り消せと言ったので取り消したというエピソードもあります。
この後健次郎さんは、17歳でアメリカに留学し、帰国後は東京帝国大学に奉職するのですから、命がけで勉強しろというおじじさまの言葉に一片たりとも背かなかったのですね。
彼がアメリカに行ったとき、九九も出来なかったのは有名ですから、本当我々の想像を絶する、血の滲むような努力をしたのでしょう。
少し見習わねばならない勉学姿勢ですね。

明治2年(1869)10月、米沢の八重さんのところに大蔵さんが訪ねて来ます。

会津の、再興が叶いやした

開口一番のその報せに、佐久さんは泣き崩れて喜び、御家再興の御祝にこづゆを作ります。
大蔵さんの口から、会津の皆様の近況が語られます。
斗南に行くことには意気盛んだったり、山川家の皆様はおじじさまは亡くなられたそうですが、女性陣は皆達者のご様子だとか。
八重さんが気にはなっていたでしょうが、訊きにくかっただろう尚之助さんのことは、代わりにみねちゃんが訊いてくれました。
尚之助さんは今は東京にいて、一緒に斗南に行くことになったのだと。
そこで、話の途中だがと、こづゆが供されます。

あれから、一年だ。一年、よーぐ生き延びた・・・。皆で、祝いさせてくなんしょ

うめぇな、うめぇな、と涙ぐみながらこづゆを食べる皆様。
こづゆって、こんなに上手かったんだべか」、と八重さんも涙をぽろぽろ零しながらこづゆを食べます。
別れ際に、大蔵さんは八重さんを斗南に誘います。
新しい国を作るために八重さんの力を借りたいとのことですが、この言葉がちょっと地に足がついてないですね。
だって、八重さんの「力」といえば、砲術の知識が豊富なことと、鉄砲の腕が素晴らしいことです。
それらの「力」は、斗南では何の役にも立ちません。
なのに、何を以って大蔵さんが「重さんの力を借りたい」と言ってるのか、いまいち伝わって来ないなと思いました。
しかし八重さんは、千代さんから「鉄砲を教えて欲しい」と請われた時同様、首を縦には振りませんでした。

私は・・・怖えのです
怖い?
この前、会津を侮辱した人を、もうちっとで殺めでしまうところでした。お城に籠もって戦っだ時、私は、一人でも多くの敵を倒しで、死ぬ覚悟でした。戦場だったから・・・会津を守るための、戦だったから
八重さんそれは
今でも三郎の、お父様の、死んだ皆の無念を晴らしてえ。んだげんじょ、恨みを支えにしていては、後ろを向くばかりで、・・・前には進めねえのだし。さっきのこづゆがあんまり美味しくて、皆で頂けるのが嬉しくて。・・・もうしばらく、こうして生きて行っては、なんねぇべか?

鉄砲の腕が何の意味もなくなって、会津は降伏して、自分達は武家のプライドを砕きながらも必死で生きて行かねばならない。
弟も父も戦で亡くし、兄は生きてるとは信じてるけど未だに消息は分からない。
自分の最大の理解者だと思っていた尚之助さんは、自分が男の「山本三郎」として謹慎所へ行くことを許さなかった。
それに、八重さんは会津がどうして逆賊呼ばわりされなくてはいけないのかも分からない。
八重さんの中に広がっているのはそんな無明荒野ですが、八重さんはそこを、恨みや復讐を杖に歩いて行く気はないのです。
何をすれば良いのか分からないけれど、そんな状況だからこそ、こづゆを皆で食べたような小さな幸せを大切にしていきたい。
西郷さんは達観、大蔵さんたちは再興に意欲を燃やす道へとそれぞれ選択しましたが、八重さんの選んだのはそれなのです。
いや・・・しかし大蔵さん、八重さんにずっと淡い思いを抱いていましたが、どう頑張ってもいつも八重さんの視界に大蔵さんが入ってないっていうのは、物凄く辛いでしょうね・・・。
で、そんな自分から口にするのは複雑だったでしょうが、八重さんからは言い難いだろうなと思ったのか、尚之助さんに伝えることはあるかと大蔵さんは言います。

川崎殿は、仰せでした。開城の日、己の勝手な思いで八重さんから誇りを奪ってしまった。それを返すために、斗南の地に八重さんの故郷をもう一度作りたい。その思いを、胸に斗南に行くんだと
尚之助様に、伝えてくなんしょ。待っていますと

そう答えた八重さんの顔は、少しだけ優しいものでした。
尚之助さんも、この小さな幸せの場に加われる日が来ることを八重さんは待っているし、きっと疑ってもないのでしょう。
その実現場所が、尚之助さんが頑張って拓いてくれた斗南か、故郷の会津か、何処になるのかは分からないけれど。
・・・次回予告がその八重さんの心を微塵に砕いてましたが。

年が明けた明治3年(1870)3月、会津藩氏たちは斗南を目指したました。
旧会津藩士は、藩士家族を含めて約2万人いましたが、その内2000人程が会津若松で帰農、1500人程が東京に出て、残り約17000人4300戸が斗南に向かったようです。
移動手段は主に海路で、新政府軍からアメリカの輸送船ヤンシー号を借りて、新潟から南部の地に向かいました。
陸路ですと二本松、仙台、盛岡、沼宮内、一戸・・・と、下北半島に向けて延々と歩いたのでしょう。
尚之助さんはこの斗南行の列の、最後の方におられたようで、この年の10月くらいに斗南に到着しています。

さて、「再び咲くために」と各々が出発し始めた後編がこうして始まりましたー・・・と思いきや、急に場面が京都に変わります。
どうやら京都で新生活を営んでいる覚馬さんのお屋敷のようです。
良い生活をしているのか、以前よりも時栄さんの着物が上質なものになっているように見えます。

不自由な体で、世話をかける。宜しく頼む
へぇ
芳い匂いだ。花を飾ったのか
椿どすねや
見えなくても、花を愛でることは出来るようだな
そうどすな

何だこのシーン(とやりとりは)と思うほどの、何となくそっと頬を染めながら視線を外したくなるようなアダルティーな空気を朝から自重しないふたりですが、場面が変わった直後にすぐに本妻(=うらさん。しかも綺麗な着物来てる時栄さんとは違って、薄汚れた格好をしている)が映るあたり、編集容赦ないです。
いやもう、何と言いますかこの辺りに考察の筆を突っ込むのは野暮と言いますか、「どういうこと?」に対しての答えは数秒後の次回予告が全部暴露してくれちゃってたので敢えて私は言うまい。
その辺りは次回分に回すことにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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