2013年8月13日火曜日

第32回「兄の見取り図」

米沢から上京し、覚馬さんの家に居を移した山本一家。
さあ新生活だ!・・・と思いきや、旅の疲れが出たのか、しっかりもののの佐久さんも含め、三人仲良く寝過ごしてしまいました。
飛び起きた八重さんが枕元を見ると、そこにはきっちり畳まれて準備されたそれぞれの着物が・・・。
(帯揚げとかまだ一般的じゃないはずなのに、何であるんだろうという奇妙さに少し驚きましたが・・・時代考証頑張って・・・)
それに袖を通して台所へ駆け込むと、既に時栄さんが全て朝食の支度を整え終えていて、やる事なくて身の置き場に困る八重さん。
おまけに覚馬さんの支度まで既に整っているというのですから、物凄い手際の良さです。
自分達は客じゃないから、何かせねばと思う八重さんが労力を呈する隙もありません。
こういう時って、八重さんの立場ですと気まずいですよね。
しかしまあ、朝起きて朝食の支度整えて、覚馬さんの支度も整えて・・・の生活リズムは時栄さんにとっては「毎日の当たり前」ですから。
ある日突然やって来た身の上で、それに食い込んで行こうという姿勢は、ちょっと女同士ですと上手く行かない。
「何かさせて下さい!」と意気込んでやってくるのではなく、静かにやって来る佐久さんが角の立たない、時栄さんの生活リズムへの入って行き方だとは思いますが、まあそこは佐久さん年の功でしょう。
それに女性なら分かると思うんですが、台所に主婦が何人も立つと、却って煩わしいことになるので入って来るな!手伝わなくていいから!みたいなことにもなりますよね(笑)。

父上、三郎・・・九年ぶりに、皆で暮らせるごどになりました。力合わせで、生ぎで参ります。ご安心下さい

朝餉の前に、そう仏壇に手を合わせる覚馬さんですが、この覚馬さんの「皆」の中にうらさんが入っていない悲しさと言ったら・・・。
で、覚馬さんが「皆」という言葉を使うたびに、「皆じゃねぇよ」と言わんばかりのみねちゃんの表情がまた・・・そしてその表情が、覚馬さんには見えていないのがまた・・・。
しかし見えていないからなのか、みねちゃんの様子には気付いていない覚馬さんが、しれっと朝餉を始めようとすると、みねちゃんが立ち上がって飛び出して行きます。

揃ってねぇ・・・皆揃って何かねぇ!

追い駆けようとする八重さんを、覚馬さんが制して代わりに時栄さんを行かせます。
みねちゃんは納戸に籠って、うらさんから貰った赤い櫛をじっと見つめます。
そこへ時栄さんが様子を見に来ますが、納戸の扉をぴしゃりと閉めて完全拒否。
時栄さんに今のみねちゃんがどうにか出来るわけないでしょうに、何故覚馬さんも行かせるのか(苦笑)。
みねちゃんからすれば、時栄さんが居なければ自分はうらさんとお別れしなくて済んだんですから・・・。
しかも同性同士だから、余計に・・・ね。
それに、みねちゃんだけにはありますよね、うらさんのことで覚馬さんを責め立てる権利みたいなの(実は八重さんにはない)。
うらさんからみねちゃんを任された手前、みねちゃんのことを気にかける八重さんではありましたが、覚馬さんはみねちゃんのことも含めた家のことは時栄さんに任せろと命じます。
で、八重さんには他にやる事があるのだと。
そう言って覚馬さんが八重さんを伴ったのは書斎。
そこで覚馬さんは、『万国公法』を八重さんに渡します。

世界の国同士、守らねばならぬ法が書いである。京都では小学生にも教えでる。八重には、難しいが?
まさが。これぐれぇ読めます

学制発布はこの翌年(明治5年)ですが、この時点で既に京都にはふたつ、小学校というものが存在してます。
ただ、米沢から出て来たばかりの八重さんに、いきなりそんな単語出して通じるのかという疑問は残りますが。
『万国公法』は、幕末期、藩校の教科書として取り上げてたところもあります。
でも藩校での教育を受けられたのは武家の男児だけでした。
で、徳川の世が終わって明治になって、今は女の八重さんがその『万国公法』を学べる立場にある。
女性にも学問を、という新たな姿勢に、時代は確実に変わったのだなと思う瞬間です。
その八重さん、覚馬さんに後でテストをするから『万国公法』をテストするから頭に入れて置けと言われ、よく分からないなりに本に齧りつきます。
文字としては「読める」けれども、意味が拾えない八重さん。
しかし持ち前の負けん気のお蔭か、翌朝覚馬さんと京都府庁に行く道すがらにテストされると、なかなか頭に入っていたようですから、八重さん頭は悪くないのでしょうね。
ちなみに当時の覚馬さんの体重は80キロ。
八重さんが会津でよく持ち上げてた米俵は一俵60キロなので、すれ違う人には驚かれてますが、覚馬さんおぶって何処かへ行くなんてことは八重さんには余裕だったと思います(笑)。

そんじゃあこの人が、城に籠って官軍を撃った女傑か?府知事の槇村じゃ、元は長州の微禄もんじゃがな

そんなこんなで覚馬さんに引き合わされた槇村さんが長州の人間だと知ると、八重さんの目に敵意が宿ります。
即座に出て行こうとする八重さんを覚馬さんは止めますが、八重さんの敵意に気付いているのかいないのか(多分気付いてる)、槇村さんは上機嫌で八重さんに話しかけます。
ここで、この府知事の槇村さんと、その顧問を務める覚馬さんのコンビは、一体何の仕事をしているのかについて、ドラマだけでは把握しにくかったので、ドラマの流れを掻い摘みながら補足させて頂きたいと思います。
以前の記事でも触れましたが、遷都と言葉にしていないだけで、今や明治天皇は完全に東京に留められ、日本の首都は暗黙の了解で東京となりつつありました。
天皇という都の象徴を奪われた京都は、それによって衰退の一路を辿ります。
嘉永3年(1850)には29万人はいた京都の人口は、明治5年(1872)辞典で24万4883人にまで減少していて、人口の他地域(主に東京)への流出に歯止めがかからない状態でした。
天皇が東京へ移ったということは、東京へ一緒に移る公家も出て行き来ます。
(鷹司家など、京都に残った公家もいますが)
すると困るのが、公家や朝廷相手に商いをしていた人達と、その産業です。
お客が京都からいなくなってしまったので、大打撃を受けます。
例えば西陣と言った呉服関係であったりですとか、あと菓子商などもですね。
そういった状況に加えて、当時の京都では洋式化を推進し、旧弊を排斥するという動きもあったので(これは全国的にありました)、ひな祭りや門松、五月の大将祭り(端午の節句)などがそれに伴い禁じられました。
他の地域では、外国人の目に不気味だからという理由で卒塔婆を禁じられたところもあったそうです。
槇村さんのところに来ていた嘆願は、そういった経緯からのものです。
しかし嘆願に来ていた人たちが言っていたように、ひな人形作って生活していた人たちからすれば、ひな祭りが禁じられればそもそも人形が売れず、食べて行けないことになります。
この問題を、見事に解決したのが顧問の覚馬さんです。

お前だぢ、日本中でひな人形は幾づ売れる?その数は高が知れでる。しかも、一度買ったら二度は買わねぇ。だが買い手を異国に、世界中に広げだらどうなる?何万両かの商いが、何千万両にも増える。ドイツ人のレーマンに見せだ。京の人形は素晴らしい、是非取引してぇど言って来たぞ

ということで、ひな人形商だけに限らず、大打撃を受けている京都のあらゆる産業をどうやって救い、どうやって息を吹き返させ、あわよくば海外に輸出という形で産業の販路を見出していくか、を考え実行するのが、槇村さんと覚馬さんのお仕事の、大まかなところです。
博覧会という言葉が会話の中で出て来ましたが、その博覧会も、色んな人に京都に来てもらって、色んな人に京都の素晴らしい産業を見て貰って技術交流をはかり、そこで交易の話が結べたら万々歳というのを狙ってのものです。
要は、勧業意欲を高めるためのものですね。
余談ながらこの博覧会で、「祇園や先斗町の芸妓を集めてぱーっと踊らせる」というのは、今もなお京都で開催されている「都おどり」の始まりとなります。
ちなみに京都博覧会の第1回目は明治4年(1871)10月10日~11月11日まで西本願寺書院で行われ、第2回は明治6年(1873)3月13日~6月10日まで御所や仙洞御所庭園で開催されました。
覚馬さんが「異国からの客人のために、英語で都の名所案内を作りましょう。私が草案を作り、妹に手伝わせます」と言っていた外国人向けの英文京都案内が発行されたのは第2回目の博覧会の時です。
印刷機はレーマンさん経由でドイツから輸入したもので、英文原稿は覚馬さんが、アルファベットの活字と植字は八重さんと丹羽圭介さんの妹によってなされました。
が、しかし現時点で八重さんは英語が出来ない。
なのでこれから八重さんにそれを学ばせるべく、女紅場に入れるという。
女紅場というのは、正式には新英学校及女紅場と言いまして、明治5年4月14日に、土手町丸田町下ルにあった九条家の別邸に設けられました(この会話の時点では建設中)。
最初は華族士族の娘のみ入学が許されてましたが、後に一般庶民の娘の入学も許されるようになりました。
英語と高等の和洋の女紅(=手芸)、礼儀作法などを身に着けるための教養所ですね。
覚馬さんはそこで八重さんに教師をしながら英語を学べと言いますが、長州の人間が作る学問所に入るのは嫌だと八重さんは大反発します。
しかし覚馬さんは取り合わず、寄宿舎で暮らす娘たちの舎監を務めるべく、あっちに住み込めと言います。
みねを育てる約束をうらさんから請け負った八重さんに、そんなことが出来るはずもありません。

あんつぁまは、分がっていんのがし?姉様が、なじょな思いでみねど別れだが。私は、姉様と約束したんだし。みねをしっかり育でるど
いいがら、言う通りにしろ
あんつぁまは、人が違ったみでぇだ。長州の者ど笑って話して、手下になって。私にまで手伝いをしろど。・・・あんつっぁまは平気なのがし?憎ぐはねぇのですか?薩摩や長州に攻められで、会津がなじょなったが。城に籠って二千発の砲弾撃ぢ込まれんのがなじょなもんか、あんつぁまは分がってねぇ!あの時、お城にいながったがら

京都にいなかった頼母様に何が分かるのです!と言っていた会津首脳陣が脳裏をよぎりました・・・。
確かに現場にいない人間に、現場の生々しい状況を察せというのは難しいことなのかもしれません。
八重さんに散々言われ、それでも黙して語らずの覚馬さん。
そんな兄を、変わってしまった、会津を忘れてしまったみたいだと、八重さんは佐久さんに零します。
私個人としては、変わったとか忘れたとかではなく、被害者の藩の人間でありながら、恨みとかそういったものを乗り越えて、笑って接せる覚馬さんは凄い器の大きいことだと思うんだけどな。
で、佐久さんも覚馬さんは変わっていないと言います。
実は覚馬さん、うらさんの着物もちゃんと用意してたみたいなんです。
忘れてなかったんだなというのと、覚馬さんに悪気はなかったけど、呼ぶ気満々だったというのと。
勝さんや象山先生が妾と正室同居させてるので、それ普通じゃないの?何かおかしい?というのはやっぱりあったのだろうなと。

一方、一向に覚馬さんや時栄さんを拒絶し続けるみねちゃん。
そんなみねちゃんに、時栄さんがお握りとこづゆを作って差し出します。

寂しいやろな、おっかさまと離れて・・・。私、どないしたらええんやろ・・・

きっと覚馬さんのことだから、うらさんがいなくなったからみねちゃんの母親はお前だ、みたいな丸投げしたんでしょう。
そもそも時栄さんとみねちゃんがしっくりいかないのは、覚馬さんが選択を全部女性陣に丸投げにしたからというのがかなりあると思うんですよね。
だから、時栄さんの身の置き方と言いますか、どう処して良いのか分からない。
みねちゃんはみねちゃんで、うらさんを母として思う気持ちが強く色濃く残ってるから、時栄さんのことはすんなり受け入れられない。
どうなるのかなと思いきや、後々でこづゆを食べて全部解決、みたいなことになってたのには少し驚きましたが・・・。
え、そんな単純なものじゃないでしょう?という感じで(苦笑)。

さて、黙して語らず、だった覚馬さんは、八重さんを金戒光明寺に連れて行きます。

こごに、会津本陣があった

そういって、大広間に上がるふたり。
ほんの4年前くらいですと、そこに会津の皆がいて、上座には容保様がおられるという光景がそこにはありました。
4年ってそんなに遠くないはずなのに、何故か幕末から明治の激動にかけては年月が凄く速いので、遠く感じます。

殿には、己の欲などながった。俺達家臣もだ。・・・ただ徳川を守り、都を守り、帝をお守りする。その一心で・・・京都守護のお役目を続げだ・・・。んだげんじょ、俺は気付がねばならながった。もっと大きな力が、世の中をひっくり返しているごどに。・・・会津は底なしの沼に落ぢて行ぐのを、どうにも出来ながった。俺は・・・無力で、愚がだ。薩摩や長州が錦旗掲げて会津を滅ぼしに行ぐのを、止められながった・・・
白河が落ぢで、二本松が落ぢで・・・あの朝、城下に割場の鐘が鳴った。・・・女も子供も、戦った。・・・お城がぼろぼろになるまで大砲撃ぢ込まれでも、弱音は吐がながった・・・会津は逆賊ではねぇがら!間違ったことはしていねぇがら・・・
憎いが。敵が
許せねぇ・・・
俺もだ

ならばどうして長州の人間の顧問などしているのかと追及する八重さんに、これは自分の戦だと覚馬さんは言います。

会津を捨て石にして作り上げだ、今の政府は間違ってる。んだげんじょ、同じ日本の中で、銃を撃ぢ合って殺し合う戦は、もうしてはなんねぇ
んだら、会津は踏み躙られだままなのがし?
いや、そうでねぇ。会津が血を流し、八重が銃で戦っていだ時・・・俺は牢の中で、何も出来ず、ただもがいでだ・・・無念さに、のた打ぢ回りながら・・・俺は気付いた。たった一づ、出来るごどがあるど

そこで覚馬さんが懐から取り出したのは、風呂敷に包まれた『管見』。
提出されたはずの管見が何故覚馬さんの手元にあるのだろうという疑問はこの際黙殺するとして、覚馬さんはこの『管見』に託した自らの思いの丈を八重さんに語ります。

国が敗れ、滅び、灰になっても、その中がら身一つで立ぢ上がる者が、きっといる。・・・俺は書いだ、その者達のために、文明の息吹に溢れる、新しい国の在り方を・・・目が見えなぐなったのも、歩げなくなったのも・・・牢獄で、これを書ぐためだったのがもしれねぇ

すべてはこの『管見』に行き着くためのものだったと思えば、目のことも歩けなくなったことも、経過に過ぎないということでしょうか。
覚馬さんは『管見』の「女学」という部分を八重さんに見せます。
そこには、「国家を治むるは、人材によるものなれば、今より以後、男子と同じく学ばすべし」と書いてありました。
この「女学」と書いた時、覚馬さんの脳裏に浮かんでいたのは八重さんの姿だと言います。
新政府が捨てて行ったわけでは決してありませんが、衰退する京都を復活させるために、覚馬さんは京都を文明(産業と教育)で立て直そうとします。
そのために、覚馬さんに「女学」を書かせた八重さんの力が必要だと。

もっと学べ。新しい知識を、世界の文明を。これがらは、学問がお前の武器だ。会津が命がけだこの場所で、俺ど共に戦ってくれ。にしなら、きっと出来る

黒谷がどんな場所か語られた挙句、こんなこと言われたら、八重さん覚馬さんに協力するしかないじゃないですよね。
覚馬さんも策士だな~と思います。
ところで、よく意図が汲み取れなかったので、覚馬さんの話を少し整理させて頂きたいのですが・・・。
まず「敵は許せねぇ」という思いは、八重さんと同じように覚馬さんの中にもある。
でも日本人同士が殺し合う戦はしてはならない、と言う意味で、復讐心はない。
で、戊辰戦争中何も出来なかった自分は、自分の中にインプットされたものを全部アウトプットして『管見』と書いた。
ここまでは分かるのですが、この『管見』は、つまりは敗者側の人間の中で、立ち上がる人に示す文明の国の在り方、ということになるのでしょうか。
で、その文明の国には、勉強が必要になる。
だから、「学べ」に行きつく?
誤った解釈してたら申し訳ないですが、私の低い理解力ではこれが限界でした・・・。

明治4年(1871)11月12日に横浜港を発った岩倉使節団ですが、彼らの主な目的は幕末に結ばれた数々の不平等条約を、平等なものに改正するための親善訪問と、西洋文明の視察でした。
関税自主権や治外法権など、不平等条約改正に辣腕をふるったのが、陸奥宗光さん、通称カミソリ大臣。
しかしこの岩倉使節団の時にそれがなされたわけではなく、陸奥さんの尽力で条約改正がされたのは明治20年代に入ってからだから、まだ先の話になります。
このときは、襄さんが言っていたように、条約改正の交渉は出来ないと言われてしまいました。
交渉の権限を記した新たな委任状がなければ話が進まないというので、それでは大久保さんが帰国して取りに帰ろうと言うと、そこへ木戸さんがチクリ。

その間、我々は足止めですか?廃藩置県で未だ国が治まらん時に、揃って政府を留守にすることに、僕は反対じゃった。無理に引き摺りこんだんは、大久保さん、あんたじゃ。留守を預けて好き勝手されちゃ堪らんと思うたんじゃろうが・・・

まあ木戸さんの嫌味はさて置き、岩倉使節団ら外遊組と、日本に残ってる留守組の間には、留守組が勝手に新政策や人事異動を行わないという誓約書が作られていました。
しかし廃藩置県という改革が行われた今、日本の情勢は不安定です。
そんなときに新政府が、その誓約書に縛られて何も策を打ち出せないというのは、なかなか問題でして・・・。
自分達のいない間に有力者の独裁(西郷どんなど)を防ぎたかった気持ちは分からなくもないですが、そんな政治の事情に日本国民全体を巻き込むなよ、早く何らかの対策打ってあげて下さいよ、と苦言を呈したくなるのが、この頃の明治政府です(苦笑)。
あと目下日本では征韓論が沸騰していたりもするのですが、その辺りのことはまた追々触れられていくでしょうから、その時に話したいと思います。
何となくいがみ合う場の空気を華麗に読んだ襄さんが退室すると、庭には大蔵さんの妹の咲ちゃん、改め捨松さんがいました。
捨松というのは、「(娘を)捨てたつもりで帰りを待つ(=松)」という意味が込められております。
事情によって離れなければならなかった艶さんたちの、切実な思いが籠った名前ですね。
ちなみに彼女はこの時点で11歳、襄さんは28歳です。
そこへ同じく退室してきたらしい木戸さんが、襄さんに声を掛けて来ます。

新たな委任状など手に入れたところで、どうにもなりゃーせん。アメリカは日本を見下しとるんじゃ。大久保には任せられん
不思議ですね。薩摩と長州は幕府を倒し、新しい日本を作るために、手を取り合っていたのではありませんか?
今は互いに腹を探り合い、競い合っちょる

幕末の薩長同盟からこっち、長州と薩摩の凄いところ(?)は、嫌味は応酬させるし仲が良いとはお世辞にもいえないのだけど、、自分たちの利益に繋がるのであれば嫌味云いながらも仲良く握手や二人三脚出来るところでしょうか。
木戸さんと大久保さんも物凄くゆがみ合っておりますが、色んな人からは「夫婦のような」と言われてますし・・・(笑)。
立ち去った木戸さんの姿に、しかし捨松さんの表情は複雑です。
会津人として、長州の人に心を許せるほどまだ傷は癒えていないが、自分は国費で留学していることに引け目を感じているようです。
しかも留学生はひとりにつき年間800ドルの手当が支給されていますからね。
斗南の極寒で頑張っていた捨松さんのお兄さんの月給が3円なことを考えると、物凄く環境的には恵まれています。
ただ、その環境を整えたのが憎い薩長という一点のみを除いては。
しかしそんな捨松さんに、襄さんは朗らかに言います。

いいじゃありませんか、誰の金でも。むしろ大いに利用して金を使ってやれば良い。あなたの学問のために。美味いものをたらふく食うために!捨松さん、あなたの前には、薩摩も長州も関わりのない、広くて豊かな世界が広がっているんですよ

良い言葉ですね・・・すっと入って来て、心の靄が晴れます。
後にこの捨松さんは、母国語である日本語が不自由が生じるくらい熱心に勉強し、後にその聡明さと美貌で「鹿鳴館の華」として明治に花開きます。

さて、ある日覚馬邸に西郷どんが訪ねて来ます。
紹介された八重さんは、槇村さんの時と同様、目が険しくなります。
西郷どんの方は八重さんを「弥助を撃ったおなご」として知っていたようです。
さてその西郷どん、今日は御所の傍にある薩摩藩二本松屋敷を覚馬さんに譲渡しに来たようです。
東京への人口流出は、天皇に付いて行った公家に限ったことではなく、大名たちもそうでした。
なので京都にあった公家屋敷、大名屋敷は無人の不要物となり、売りに出される始末(女紅場もそう言った場所に建てられましたし)。
薩摩藩二本松屋敷の土地が売り出されたのも、そういった背景からです。
しかし、八重さんは西郷どんが覚馬さんに土地を売ろうと(しかも値段は出せるだけで構わないと)するのを図りかねます。

なじょしてですか?高ぐ売る相手は幾らもおありでしょう。何で、わざわざ兄に?薩摩のお方が、何の思惑があって会津の者に融通してくれんだし
何か一つ違ちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょったじゃろ。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死覚悟で征討軍と戦をした。会津と同じように。新しか国を作るため、戦わんなならんこつになったどん・・・おいは、会津と薩摩は、どっか似た国じゃっち思っちょった。・・・武士の魂が通う国同士じゃち
それなら、なんで、会津が滅びるのをお止めにならながったんだし!

しかし覚馬さんの時と同様、西郷どんも八重さんの問い掛けに対しては黙して語らず。
(ちなみに何かのインタビューかで、現会津松平家の当主様は薩摩に対して「武士の情けはどうしたんだと言いたい」と仰ってた気がするのですが・・・どっか似た国ですか・・・うーん(苦笑))
そのまま、覚馬さんならあの土地を世のために役立ててくれるだろうと言って、去って行きます。
覚馬さんは買ったあの土地を、最初は桑畑にするのですが、後にそこには同志社大学が建つのは皆様周知の事実ですよね。
しかしまたしても「黙して語らず」をされた八重さんは、学問をすれば自分の問いの答えが見つかるのだろうかと思います。
多分自分には見えてないものが、彼らには見えている、だからそれを見るために、その地点に追いつくために、学ぶ必要性を八重さんは改めて噛み締めます。
勝ち負け質疑応答は、そこからだと。

学ばねば、勝てねぇな
行って来い
はい

そうして八重さんは、時栄さんともほんのり打ち解け、女紅場という新たなステージへと踏み出して行ったのでした。
幕末のジャンヌダルクを脱ぎ捨て、ハンサムウーマンへと呼ばれる彼女への第一歩ですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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