2013年8月7日水曜日

第31回「離縁のわけ」

会津藩が廃され、新たに下北半島の一部に設立した斗南藩。
そこで強国を作ろうと意気盛んな大蔵さん達旧会津藩の皆様ですが、物事はそう上手く運びません。
もともと会津領の石高は23万石、そこに色んなものが付属して会津28万石、実質的な収入は30万石程度でした。
それが一気に斗南3万石という、数だけ見ると10分の1に落とされたのです。
更に悪いことに、極寒の地であり作物の収穫がほとんど見込めない斗南は、実質7000石程度の石高しかない領地だったので、普通に考えて暮らしが成り立つはずがありません。
そんな不毛の地ともいえる斗南で生きて行くには、林業と海産物に頼るしかなかったのですが、極寒のため港の開設も覚束ない状況でした。
しかも藩士達は、そういう仕事は自分たちの階級がするものではないという感覚がまだ残っていたから(藩に籍を置いてるだけで扶持が貰えると思ってた)、その辺りでも上手く回らなくて行き詰まり。
そういうわけですから、生産高も思うように上がりません。
つまり文字通りの極寒の地獄で、会津藩は藩丸ごと島流しにあったも同然なのですね。

八重さん達は相変わらず米沢の内藤家に厄介になりながら、行商をして生活を立てていました。
八重さん達が何故斗南に行かなかったのか、ドラマでは前回触れられましたが、実際のところの理由は何だったのでしょうか。
はっきりとは分かっていませんが(そもそも戦後八重さん達が米沢にいること自体近年に分かった新事実ですから)、行かなかったのではなく、尚之助さん辺りは後で八重さんを斗南に呼ぶ予定だったのではないかなと思っています。
それなら最初から伴えば良いじゃないかとも思えますが、働き手にカウントされない女ばかり人数のいる家が、ただでさえ貧窮極まる藩の食い扶持を頼るようなことに、躊躇いを覚えたのではないでしょうか。
まずは男手の尚之助さんが斗南に行き、斗南で生活の目途が立ってから、女の自分達が斗南に行く。
それまでは藩のお世話にならず自分達で生きて行きます、というのが山本家にはぼんやりとあったのではないでしょうかね。
少なくとも、「ただでさえ困窮している藩のお世話にはなりません」というのはあったと思うんですよ。
しかし山本家に残された唯一の男手の尚之助さんから、八重さんのところへ離縁状が届けられて、事態は一変。
これで将来的に生活の目途が立ってから斗南に呼んで貰う、という可能性が潰えました。
「待っています」と言っていた八重さんも、待ってる意味がなくなってしまったわけですね。
会津戦争後、八重さんと尚之助さんが離縁したのは事実ですが、いつ離縁したのかは、理由も含めて実際のところは不明です。
ただ明治8年(1875)の書類に、八重さんが 「川崎尚之助妻」や「川崎尚之助妻、八重」ではなく、「山本八重」と記されていることから、少なくともその時点ではもう離縁していたのだろうということが推測出来ます。
一方的に、しかも淡々と離縁を言い渡された八重さんを気遣ううらさんですが、八重さんの心は何処か頑なです。

文も斗南がら出されたのではながった。きっと、何が訳があって・・・
そんじも、話して貰わねば何にも分がらねぇ。困ってるなら知らせで欲しい、苦労してんなら、私も一緒に苦労してぇ!それが夫婦だべ。・・・あの時だって・・・。何でもひとりで決めっつまう。尚之助様は、勝手だ・・・

事情を知らない八重さんからすれば、確かに尚之助さんの行動は自分勝手以外の何物でもない。
こういう時、みっとも無くても良いから言い訳のひとつやふたつされた方が、何も言われないより百倍まし。
・・・ではあるのですが、佐久さんも指摘していた「きっと何が訳があって」の「訳」は、八重さん達の想像も及ばないとんでもない事情だったのは、後々で触れることにしましょう。

一方、斗南藩。
冒頭でも触れた通り、不毛地帯にして極寒という気候も相俟って、困窮する藩士が藩庁に詰め掛けます。
斗南藩の支給は、大人1日玄米3合、子供は2合で銭200文。
普通に考えて、これでは生きて行くのは難しいですよね。
こういった状況下に陥った時、まず最初に倒れて行くのは女子供と老人です。
斗南での生活の過酷さは、会津藩士芝五郎さんの遺書が詳しいので、そちらに目を通してみて下さい。
大蔵から「浩」と名を改めた浩さんが、この冬さえ乗り越え得ればと皆を宥めますが、冬どころか明日すら危うい藩士たちはそんな悠長なこと言っていられません。
米をくれ、と盛んに叫ぶ藩士たちの声を聞いて広沢さんたちが思うのは、「川崎殿の米の買い付げさえ上手く行っていれば」ということ。
どうやら米の買い付けに失敗したらしい尚之助さん。
この場に姿は見えず、では何処へと思いきや、彼は詐欺事件に巻き込まれていたのです。
これが、佐久さんの言葉を借りるならば「きっと何が訳があって」の「訳」に当たる部分です。

会津戦争中、門田町の肝煎、伝吉さんの家に匿われていたユキさんは、戦後、戦で命を落としたお父さんとお兄さんの遺体を捜しました。
ユキさんのお父さん、左衛門さんは加賀谷大学さんの屋敷内にある竹藪で切腹しており、ユキさんがそこへ辿り着いたのは雪が融けた頃。
上顎の骨が見つかり、骨に身内の人間の血を着けるとよく滲むという話から、指先を斬って血を垂らしてみたらよく滲んだので、「これは自分の父の遺骨だ」と浄光寺に、同じく見つけて来たお兄さんの首の骨と共に埋葬しました。
ユキさんは亡くなる昭和19年(1944)まで、会津戦争時の自分達のことを折に触れては家族に話して聞かせ、それが「万年青」という題で書留められてまとめられているのですが、そこで「あの戦争はあまりにもひどく、悲しいことが重なって、思い出しただけで涙が出てまいり、とても話す気にはなれないのです」と語っています。
悲しいこと、の中には、お兄さんとお父さんの骨を捜し歩いたこともきっと含まれていることでしょう。
そのユキさんも斗南に渡っており、僅かな施し米を貰えると聞いて吹雪の中を歩いていたところ、斎藤さんに助けられます。
その斎藤さんによって時尾さんのところへ連れて来られ、晴れて再会を果たすふたりですが、斎藤さんと時尾さんが夫婦になるのはまだ少し先・・・ですよね?
あまりに二人の空気が自然だったから、そう錯覚してしまいましたが(笑)。
ユキさんは、自分を助けてくれた男性が新選組だと知ると、はっと身を固くします。

何でこんな人ど!新選組は人斬りの集まりだど聞いだ。近所の人が言ってだ。長州が会津をこごまで憎むのは、新選組がやりすぎたせいだ。こんな仕打ぢ受げんのは、新選組何か雇ったがらだって
そうでねぇ!斎藤様達は、会津のために命懸げで働いでくれだ。最後の最後まで、共に戦ってくれだんだがら!

ユキさんに一言言わせて頂くと、長州が会津を憎むのは新選組のせいではありませんね、ハイ。
新選組はやり過ぎた、っていつか西郷さんもぼやいていたような気がしますし、ひと欠片もそうでないかと言われたら返答に窮しますが、全部が全部新選組のせいではありません。
長州に恨まれる理由は、もっと大きなところにあります。
つまり、「孝明帝の信用奪って、自分達を御所から追い出して朝敵にした」というのが一番根本にある気がします(八月十八日の政変~禁門の変)。
要は長州にとって会津は、自分達に一時でも朝敵の汚名を着せた張本人なのですよ。
ドラマを見てきた人々は、長州がやったことは朝敵にされても何らおかしくない、やり過ぎ行為ばっかりだったというのはお分かりでしょうが。
そういうことなので、別に新選組のせいじゃないでしょう。
会津が新選組雇ったこと後悔していたかとか、目に余ってたかとか言われると、むしろその逆で信頼寄せてましたし。
しかし澄江さんの発言が的確過ぎますね、「みんな生きるのが辛くて、恨みぶつける先を探してんだ」。
さり気無い台詞ではありましたが、重い台詞だったのではないかと、ひしひしと感じました。
理不尽な苦難に直面した人間は、誰かを恨むことで心の平静を保ったり、その憎しみで自分を支えようとするんですよね。
八重さんは、そんな恨みに塗れて生きるのは嫌だというようなこと(前に進みたい)を、先週言ってました。
ユキさんは、どうするのでしょうね。
近々薩摩藩士の方と結婚されるはずなのですが。

川崎尚之助と言う人物が、会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男、という認識が、近年までされていたのは既にブログで何度か触れて来たことです。
その認識を覆す、即ち川崎尚之助史に大きな前進を与えたのがあさくらゆうさんだと言うのも何度か触れたことだと思いますし、その著書は私がブログを書く上でも大変重宝させて頂いております。
参考文献にも挙げさせて頂いてますし、以下の文章の殆どもその著書を参考にさせて頂いてます。
さて、では川崎尚之助史はどのように覆ったのか。
それは、「会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男」から、「懸命に斗南藩の困窮を救おうとしてた男」に認識が改められました。
「きっと何が訳があって」の「訳」の部分を考慮する形で、この辺り補足させて頂きます。
尚之助さんが斗南の野辺地に到着したのは、明治3年10月、同月23日には開産掛を命じられて函館に渡っています。
函館に渡った理由は勿論、斗南藩の窮状を打開するためです。
尚之助さんは交易が盛んにおこなわれている函館で、商人との取引を成立させ、藩の資本を得ようとしていたのでしょう。
しかしビジネスをするにも、今の斗南藩には元手となるものが何もないので、出来る取引は先物取引だけです。
まず尚之助さんは、その先物取引に応じてくれる相手を探す所から始めなくてはならなかったのですが、それに応じたのが米座省三さんという、斗南藩商法掛を自称する人物でした。
実はこの米座という人が詐欺師だったのですが、そうとは知らない尚之助さんは米座さんの紹介の元、将来斗南で収穫される見込みのある大豆を担保に、デンマークの商人であるデュースさんと広東米の交換取引の契約を交わします。
これで米は手に入ったかと思いきや、事態は尚之助さんの思わぬ方向へと転がって行きました。
まず米を受け取るべく、明治3年12月19日に尚之助さんが米手形を出そうとしたところ、その米手形がありません。
何でも米手形は、米座さんがイギリス商社、ブラキストン商会に預けたのだとか。
米手形がなければ米が手元に来ないので、尚之助さんは預けられている米手形を取り出そうとしますが、ブラキストン商会から借用証を書くように言われます。
そこで米座さんと共に署名した借用証を同月20日にブラキストン商会に持って行った尚之助さんですが、今度は拒否されます。
実は米座さんは、ブラキストン商会から個人的に250両の借金をしており、それが完済されない内は米手形を渡すことが出来ないと尚之助さんは言われてしまいます。
米座さんは逃亡し、尚之助さんはここに至って米座さんに騙されていたことに気付きます。
斗南藩商法掛何て真っ赤な嘘で、米座さんの正体はただの出入り商人でした。
しかし、米座さんは斗南藩士ではありませんので、彼の作った借金250両も、それが完済されているされていないも、斗南には与り知らぬところです。
それより米手形を、と求める尚之助さんでしたが、ブラキストン商会はそんなの関係がない、と尚之助さんの言い分を突っぱねます。
やむなく尚之助さんはブラキストン商会に対し、訴訟を起こすのですが、ここからまた更に状況が複雑化します。
そうです、取引相手だったデュースさんが、期限になっても大豆が入荷されないことに怒ったのです。
実は尚之助さんが栽出来ると見込んでいた大豆ですが、結局斗南ではその栽培に成功しませんでした。
なので尚之助さんからすれば、入荷したくても物がないし、そもそも大豆と取引した広東米は米座さんのせいで未だに尚之助さんの手元にはありません。
が、それはデュースさんからすれば尚之助さん側の事情であり、怒った彼は尚之助さんと米座さんを詐欺罪で訴えます。
これが明治4年3月末の出来事。
同年7月11日に米座さんが東京で逮捕され、ブラキストン商会との一件は米座さんが単独で仕組んだ仕業ということで落着し、同年12月には念願の米手形が斗南藩に渡ります。
米手形が来たということは、広東米が斗南に来たということで、一件落着・・・と思いたいのですが、更に事態は続いたのでした。
つまり米相場の関係で、米を換金しても、契約時の3分の1程度の1582両にしかならなかったのです(契約当時の相場だと4500両)。
この差額約3000両を損金として、全額弁済してくれないと、詐欺罪で訴えた裁判の和解には応じないとデュースさんは言います。
ドラマで出て来た、「3000両近い賠償金」というのは、おそらくこの3000両のことを指しているのだと思います。
まあそれで、藩民全員の明日の米さえ危うい状態の斗南藩が、3000両何て大金を払うことが出来るわけありません。
尚之助さんも、この支払い責任が今の状態の斗南藩に向けられたら、斗南藩の人間全員を路頭に迷わすことくらい分かっていたでしょう。
なので、斗南藩の指示でやったのだろうと言われても、

いいえ、藩命では御座いませぬ。・・・全て、私の一存で執り行ったことに御座います

そういって藩に迷惑が及ばないようにしたのですね。
供述記録によれば、尚之助さんが斗南は無関係、独断でやったこと、というのを言ったのは明治5年6月のことみたいです。
で、時間軸を少し遡って、八重さんに離縁状を送って来たのは明治3年3月以降のことだとは思いますが、その頃の尚之助さんってごたごたに巻き込まれてる真っ最中か、函館で資本求めて物凄く苦労してる最中です。
今回時間軸が非常に整理しにくい物語の運びになっていますが、「訳」は尚之助さんがそう言う立場に立たされていたからだと思います。
勿論、そんな「訳」を米沢にいる八重さんが知る由もないのですが・・・。
で、斗南藩の対応としては、広沢さんが尚之助さんの米の買い付けは、斗南藩のためにやったことだから捨て置けない、というものの、浩さんは3000両の借金を払って尚之助さんを救うことより、尚之助さんを切り捨てて藩に害が及ばない決断をします。

にしは・・・川崎殿を見捨てるお積りが!それでは、あまりにも!
鬼だ!・・・鬼だ俺は

さぞや断腸の思いだったでしょう。
でも実質上藩民全ての命を預かっていると言っても過言ではない浩さんは、感情論に走れないのですよね、巻き込むものが多すぎるから。

明治2年に、戊辰戦争の論功行賞が行われるのですが、主立って取り立てられる比重は薩長出身者に偏っていました。
そうなると、重要ポストを巡って薩長が反目すると言いう流れも然ること乍ら、それって徳川幕府が薩長幕府に首がすげ代わっただけじゃないの?と首を傾げる者もしばしば。
中でも、木戸さんと西郷さんの間には確執が生まれていました。
特に木戸さんが西郷さんに不信感を募らせた経過は、ちょっと今回割愛させて頂きますが、このふたりは新政府に於いて、参議に就任していました。
ところが、西郷さんには他の参議や各省の卿や大輔などといった高級役人を一旦全て辞職させ、適切な人物を任命しようという考えがありました。
一方で木戸さんは、まず廃藩置県を行って官制を改革し、そこから人事に着手すべきだと主張していました。
結局この主張は木戸さんの方が通り、新政府は廃藩置県に踏み切ります。
何より新政府、笑えるほどにお金がないのです。

新政府を築くのに、お銭がのうてはどうにもならん。役に立たん士族らは、もう面倒見てられやしません
じゃから今こそ、政府が全てを握るべきです。藩を廃絶し、その代わりに県を持ちます。土地に縁故のない人間を長として送り込むんじゃ
そいでは武家の世を、すっかい終わらすっちゅうことになってしまいもんど
いずれは、やらにゃあならんこと。第二の王政復古です
じゃっどん、藩を潰せば二百万の武士が職を失うこつにないもんど
また、戦になっかもしれもはん

大抵抗が予想される廃藩置県。
そのために西郷どんが呼ばれ、親兵を設置し、大隈重信さんと板垣さんも参議に任命されます。

兵はおいが引き受けもんす。じゃっどん、こん廃藩置県、万一失敗じゃった時には、全員腹を斬る覚悟でおってくいやんせ。武家の世に幕を引くっちゅうとは、そいほど重かこつごわんで

親兵という武力を背景にした、一種のクーデターですね、廃藩置県は。
廃藩置県の詔が下ったのは明治4年(1871)7月14日ですが、もしこれに反対する藩や人物がいたら、西郷どんがこの親兵を使って屈服させるという図式です。
つまり、廃藩置県の構想は木戸さんだったかもしれませんが、実行出来たのは西郷どんの力あってこそだったのです。
でもまあ、反乱分子が出てこないはずがありませんよね。
だって、会津藩のように「戦に負けた組」なら兎に角、「戦に勝った組」の自分達がどうしてそんな目に遭わなきゃいけないのだと、納得しかねるでしょうし。
余談ですが、実はこの廃藩置県、西郷どんの故郷薩摩の久光さんは最も強硬な反対者でして、この実行に激怒しています。
まあ、西郷どんは久光さんとはずっとしっくり来てない関係でしたので、久光さんが怒ろうが如何なろうが、西郷どんの中ではどうでも良いことだったでしょうが。
しかしあの協議の場で、「武士の世の中終わらせる」ことの本当の意味が見えているのは、西郷どんと岩倉さんくらいじゃなかろうかと言う気がしました。
西郷どん、贅沢なな暮らしして威張る西洋かぶれの役人に嫌気がさしてましたから。
だから、そんな人間らが武士の世の中終わらせると口先だけで言ってるように聞こえるけど、本当に意味分かってるのか?本当に重みが分かってるのか?となってるのではないかかなと。
で、本当にその意味が分かってた西郷さんだから、西南戦争に巻き込まれて行ってしまったのかなぁ・・と。

廃藩置県が施行されると、斗南藩もなくなります。
浩さんが、尚之助さんを蜥蜴の尻尾のように切り離してでも守ろうとした斗南藩がなくなるのです。
今まで藩というものに、武士は俸禄を貰うという形で養われていたようなものですが、その藩が無くなってしまっては養い手を失うことになり、且つ武士が武士である意味も根本から揺らぎます。
主にさぶらうと書いて侍、即ち武士です。
藩が無くなれば、その主=藩主の存在もなくなるということですから。
藩でなくなった斗南には、新政府から役人が来て治めることになります。
つまりここに、生き地獄を耐え抜きながらも夢見て来た会津再興の望みが潰えたのです。
生活力のない武士は既にお払い箱。
では武士だった者はどう生きて行くべきかというので、栄達を目指すなら学問を究めるか軍人になるかですね。
『坂の上の雲』の舞台はもう数年先ですが、秋山真之さんが母親から「貧乏が嫌なら学問をしろ」と言われていたのも、長州派閥に冷遇されていた松山藩出身者のレッテルを持っていたが故のことでしょう。

廃藩置県のお達しに八重さん達も驚きを隠せませんが、そこに重ねるように驚くべき報せがもたらされます。
やって来たのは獄中、覚馬さんと一緒に居続けた野沢さん。
彼は手紙と共に、覚馬さんの消息を山本家に持って来たのです。
覚馬さんが生きていたことに喜ぶ山本家ですが、覚馬さんの状況を聞いている内に、八重さんは去年覚馬さんが牢から出された「去年」の部分に引っ掛かりを覚えます。
つまり、牢から出た去年から今まで、どうして放って置かれたのか。
どうして去年から今までの間に、自分で会いに来ようとしてくれないのか、人を寄越すのか。
京都へ皆を呼びたいという覚馬さんの申し出をどう思うよりも先に、八重さんのもやもやは募って行きます。
何より、野沢さんはどうも何か重要なことを隠している。

どなたが・・・おいでなのがし?身の回りのお世話は、誰が?

ここでようやく野沢さんの歯切れの悪さの理由が判明します。
つまり、覚馬さんには時栄さんという人がいて、ふたりの間にはこの春に女の子が生まれたと。
視聴者はずっと時栄さんの存在を知ってましたので、遂に山本家の耳に入ったか・・・と言うような感じですが、うらさんからすれば愕然とする事実ですよね。

その頃の覚馬さんと言えば、二条城に定められた京都府庁で、府参事の槇村正直さんと会っていました。
現在の場所に京都府庁(ちなみに京都守護職屋敷跡)が出来たのは明治37年ですので、覚馬さんが京都の行政に関わっている間の府庁は二条城でした。
槇村さんは長州藩士で、木戸さんに重用されており、京都府権参事の二代目ですね。
『管見』の見識を買われた覚馬さんは、その槇村さんの顧問のような形で新政府に出仕していたのですが、この時点では廃藩置県が終わっているので、正式に京都府十等出仕扱いの身分です。

帝が東京にお移りになられて、都はすっかり寂びれてしもた。元の如く、いや前よりももっともっと、繁華に立て直さにゃーなりません
立派な仕事です。まずは人材の育成。これがらは女にも、教育を授げるごどが肝要ど存じます
その通り。先生が獄舎で書いた建白書にもそうありましたな。あれには目を開かされた。こげな知恵もんが賊軍にもおるんかと・・・あ、これは失敬。力を合わせ、都を一新させましょう
はい。私の命は、そのために拾ったものど思っております。精一杯努めます

以前の記事で、「都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にある」と書きましたが、その関係が槇村さんの言葉にあります。
つまり、明治政府は遷都ではないとは言張るものを、実質遷都以外の何物でもない明治天皇のお移りが実行され、天皇が東京にいるのですからまず公家がそれに伴って東京に移住します。
町人らも東京や大坂に移住し、人口流出により京都は人口が激減、町は寂れて活気を失います。
それを復興させるべく、尽力していく・・・というのが後半の覚馬さんの主な生き方になります。
今もなお京都で行われる都踊りなども、覚馬さんと槇村さんの行った復興の一環だったと思います。
勿論失敗に終わってるものもありますが、今の京都にちゃんと残ってるものもあるのですよ。

と、まあ覚馬さんは無事で、しかも京都でなかなかに活躍しているという知らせを受けて、うらさんは喜びたいのに喜べません。
勿論それは、時栄さんの存在を知ってしまったから。
そんなうらさんを見て、八重さんは覚馬さんに文を書くと鼻息を荒くしながら、京都には行かないと佐久さんに言い放ちます。

覚馬に会わねぇつもりが!死んだものど諦めかげでだ覚馬が、折角生ぎでいだのに
あんつぁまが会いに来たら良い
京都府顧問というお役目があって、来たくても来られねぇんだべ
京都府の役人は、薩長の者達だべ。あんつぁまは、なじょしてその下で働いでんだ?おっかさまは悔しぐねぇの?
訳があんだべ。会って話してみねぇど、何にもわがんねぇ
姉様のごどは?あんつぁまのお戻りを待って、みねを立派に育てて来たのに・・・こんな仕打ぢ、あんまりだ。家にいるおなご、まず追い出して貰うべ。そうでねぇど、姉様とみねを連れで都には行げねぇ!
んだら、覚馬の娘も追い出せど書ぐのが?その子を、家がら放り出せど書ぐのが?私達が覚馬は死んだがど思ってたように、覚馬も、山本家は死に絶えだど思ってたのだもしんねぇ

何だか今回は、「訳」という一言に集約される意味が各場面でありすぎるようにも感じますが(苦笑)。
まあ、ここは佐久さんが正論ですよね。
覚馬さんが詳細は「会ったら話す」と言うようにしか伝えて来てない以上、会わない内からは何も言えないのですよ。
この伝え方がそもそも少し卑怯だな~と感じなくもないですが(苦笑)。
そしてそれから数日後、うらさんは佐久さんと八重さんに、いつ都に行く予定だと尋ねます。
そして、みねちゃんも都に連れて行って欲しい、でも自分はこっちに残ると。
都に行くならうらさんも一緒にという八重さんに対して、佐久さんは覚馬さんのことが許せないのかと静かに問います。

ずっと考えでおりやした。京都に行って向ごうの親子ど、一づ屋根の下で暮らせるものか・・・
あんつぁまの妻は姉様だ。遠慮はいらねぇ、堂々としてたらいい
そんなごど、出来んべが?こんな荒れた手で、顔もくすんで、すっかり歳取っちまった。都の若い娘に焼きもちも妬かず、堂々どしていられんべが?きっと、旦那様に恨みぶっつげる。向ごうのおなごを憎んで、繰り言を重ねる。そんな情げねぇ母親の姿、みねには見せたぐねぇ。私が行ったら、みねのためにならねぇべ・・・。私にもおなごの意地がありやす

一度も会わなくて良いのかと確認する佐久さんに、覚馬さんには赤い櫛が似合っていたころの自分を覚えていて欲しいから、と言ううらさん。
・・・本当、「女の意地」ですねぇ~。
でも凄くよく分かります。
好きな人に思い出してもらう自分は、いつも綺麗でいたいのです。
よく「別れたくない!別れるなら死ぬ!」とか泣き喚く潔くない現代女子もいますが、それは見苦しい。
実際問題、覚馬さんは目がもう見えてないので、若かろうが何だろうが、見えないから関係ないんです。
でもそこじゃないのよね、うらさんのいう女の意地は。
手が荒れてようが、顔がくすんでようが、見た目じゃない。
うらさんにとって大切なのは、覚馬さんの中にある自分像を、如何に綺麗なまま保っておけるかということなのです。
男性視聴者諸君はこの辺りの女の心境をどう受け止められるのでしょうか・・・。
そしてみねちゃんとうらさんの、別れの日がやって来ました。
おっかさまと離れたくないと泣くみねちゃんに、うらさんは覚馬さんから貰った宝物の赤い櫛を持たせて、送り出します。
一見思い出以外覚馬さんに連なるものは、これですべて手放したように見えるうらさんですが、これって覚馬さんがみねちゃんの持ってる赤い櫛を見るたびに、否応なしにうらさんのことを思い出さざるを得ないということになりますよね。
うらさん自身がそれを狙ったのかどうかは知りませんが、ただ覚馬さんの両目は光を失ってしまってるので、意図を含んでの行動だとしても肝心の覚馬さんに櫛は見えないという悲しい落ちが・・・。

山川家には、浩さん、二葉さんの他に、官費留学でアメリカに留学している健次郎さん、会津藩士の小出光照と結婚した操さんなどがいるのですが、末娘の咲さんは斗南にいた頃、浩さんの提案で函館に行かされ(里子に出されたとも)、そこで住込みの勉強を始めました。
誰のところかは諸説あるようですが、外国人宣教師のところだったみたいです。
その函館では北海道開拓が始まっており、責任者の黒田清隆さんはアメリカの西部開拓を見習おうと、何人かアメリカに留学生を送ります。
健次郎さんが含まれたのはこの留学生組だったのですが、清隆さんはアメリカの女性の地位の高さを知って、女子も留学させるべきだと考え、女子留学生も募りました。
留学期間は10年、費用は全て国家負担で、年間800ドルの手当も支給されるという破格の留学待遇だったにもかかわらず、一次募集には応募がなく、二次募集で5人集まったそうです。
この5人の中に、12歳の咲さんと、そして有名な津田梅子さん(当時8歳)がいました。
敗戦、斗南行、廃藩置県・・・と苦労の出来事続きでしたが、山川家の皆様は懸命に前に進もうとしています。
が、そんな時、平馬さんが浩さんの前で、二葉さんに山川家に戻るようにと言います。
この場合、つまりは離縁ですね。
姉に何か至らぬことがあったのかと膝を進める浩さんに、平馬さんは首を横に振ります。

いや、何も不足はねぇ。俺には過ぎた妻だ。んだげんじょ・・・今はそれが重い。東京でやり直す気力が、もう俺にはねぇ。・・・こごに穴が開いぢまった」

別れるのは嫌だと言う二葉さんですが、平馬さんは自分を抜け殻だと言います。
会津も斗南もなくなって、心が折れたのでしょうね。
そんな時に、しっかりものの奥さんの存在は確かに重いでしょう。
あ、なんか自分もしっかりしてなくちゃいけないのかな、って気負うか、支えられることを申し訳なく思って気が滅入るかしますので。
この後平馬さんは北海道に渡り、第20回でも出て来た水野貞さんと再婚して、教育者としての道を歩んだのであろうと言われています。
北海道に渡った後の経緯はよく分かっておらず、平馬さんのお墓が見つかったのでさえ、昭和63年(1888)のことでした。

明治4年(1871)10月、八重さん、佐久さん、そしてみねちゃんが京都に到着します。
住所を片手に辿り着いた一軒の家には山本覚馬の表札が。
扉を開けて、訪いの声を掛けて出て来た女性に、八重さんの顔は強張ります。
どころか、目に殺気すら宿っていたような気がしなくもないです。
覚馬さんの家は、河原町御池通りにありまして、新門辰五郎さんのお屋敷跡でした。

(現在地周辺はこんな場所です)
百坪の敷地に、台所付で部屋が五つあったこの物件を、36圓で買い取ったのです(ちなみに覚馬さんの月給は45円)。
ぱっと見て頂いても分かると思いますが、斗南で苦労して来た人たちや、米沢で行商を続けてその日暮らしを続けて来た八重さん達とは違って、覚馬さんは破格ともいえる待遇を受けております。
応対に出た時栄さんが、八重さん達を玄関に案内しようとすると、廊下から壁伝いの手探りで覚馬さんが現れます。
八重さんと、佐久さんと、みねさんの存在を確認する覚馬さん。
うらさんの名前が出てこなかったのは、おそらく事前に手紙か何かで伝えていたのでしょう。
そもそもいつ頃京都に到着予定です、の連絡もなしに八重さん達が京都に行くとも思えませんし。
覚馬さんが失明したことなど知らなかった佐久さんは、その姿はどうしたのだと訊きます。
ここで、八重さんが気にしていたこと、即ち何故覚馬さんがすぐに自分達を捜しに来てくれなかったのか・・・などなどの「訳」が判明します。

こんな体になっつまって、探してやるごども、迎えに行ぐごども出来ながった。すまながった・・・助けに行ってやれなくて。会津を守れず、滅びるのを止められながった。すまながった・・・

そうして実に9年ぶりの涙の再会を果たした八重さん・佐久さんと覚馬さんではありましたが、その感動とは真逆の温度差を以ってそれを眺めているみねちゃんが印象的です。
みねちゃんは赤子の時に分かれた覚馬さんのことを覚えてないので、「誰?この人」という状態なのでしょうね。
しかもこの人が余所に女の人作ったから、自分はおっかさまと離れ離れにならなきゃいけなかったんだと分かると、心中複雑でしょうね・・・。
みねちゃんと覚馬さんと時栄さんの関係は、今後どう描かれていくのでしょうか(苦笑)。
しかしながら当時の時代感覚としては、妾(時栄さん)の存在は当たり前だったというか、少なくとも責められるものではなかったです。
まあそういう風習の時代だったので、多分山本家の皆様も、都にいる覚馬さんに妾がいないとも限らないなとは思ってたはずです。
1ミリも考えてなかったはずはない。
山本家の皆様が「もし妾がいたら」の延長線で、妾との間に子供がいることも想定してなかったわけではないでしょう(吃驚はするでしょうが)。
そもそも盲目になった覚馬さんにとって時栄さんは、言葉悪いけど使い勝手の良い優秀な使用人だったわけですよ。
で、使い勝手良いので長く傍に置いてたら戦が起こって、何だかんだしてる間に「お嫁に出すにはちょっと自分と近い距離で長居させすぎた」となったから、囲ったんじゃないかと。
だって時栄さん、お嫁に行くのに外聞悪いでしょ。
年頃の娘が盲目とはいえ5年近く男の家に通って世話してた、というのは。
で、その外聞の原因が自分にあるなら、囲ってやろうかとなったのが、覚馬さんなりの時栄さんへの責任の取り方だったと思うのですよ。
だから覚馬さんが時栄さんを囲った経緯は、男女の恋愛感情よりも先に、「責任を取る」という義務が来ているような気がするんですけどね。
視聴者からすれば(特に女性視聴者は)、うらさんをずっと見て来ただけに色々心中複雑になるとは思いますが、史実でうらさんが何て言ったのかは知りませんが、覚馬さんはうらさんを京都に連れて来るなとは言ってません。
うらさんが拒んだ。
つまり、覚馬さんから見れば手を放したのはうらさんなのです。
何でうらさんが手を放したかというと、ドラマですとそれが「女の意地」で先程触れたように上手く表現されてたと思います。
別に正室と妾が同居するのも、時代的な感覚としては珍しいけどおかしくはないのですよ。
覚馬さんの尊敬する象山先生や勝さんも、そんなことしてましたしね。
でもうらさんは、一緒に住んでても、自分は正室でも、嫉妬はするし、時栄さんに普通に接せるかも分からない。
嫌なことばっかり言う女に成り下がるかもしれない。
そんな女になった自分を覚馬さんの前に見せつけるって、それは完璧武家嫁を貫いてきたうらさんには許せないことなんですよ。
「赤い櫛が似合っていた頃の私を覚えていて貰いたい」というのは本当難いほど上手い台詞でして、覚馬さんの記憶の中のうらさんは、「完璧武家嫁」のうらさんのままで終わってる。
それを悪い方に更新させるよりはと、うらさんは思ったのです。
きっかけはどうあれ、手を放したのはうらさんの方。
・・・ではありますが、特に女性視聴者は「時代背景は分かるけど」ともやもやしてて良いと思います。
実際私も、感動すべき再会シーンのはずが、色々苦いものを感じてほろりとも来なかったので(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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