2013年8月22日木曜日

第33回「尚之助との再会」

明治5年11月9日(1872年12月9日)、改暦詔書が出され、明治政府は明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、太陽暦を導入します。
12月2日の翌日が1月1日になったということは、12月がたった2日で終わったということです。
誰がどう見たって性急すぎるこの改暦の動きですが、これには、官僚の12月分の給料を支払わなくてよくなる・・・などなどといった、明治政府の財政的困窮問題が背景に絡んでいるのですが、冒頭からあまり脇道に逸れたくないのでこのネタに付いてはこの辺りで筆を止めておきます。
また、覚馬さんが英文を作り、八重さんが植字した「京都案内書」が使われた第二回万国博覧会が行われるなど、文明開化の波がこの時日本に押し寄せていました。
・・・ドラマでは、万国博覧会一瞬で流されてしまいましたが(苦笑)。
それはさておき、女紅場の舎監として住み込んで働くことになった八重さん。
ちなみに京都の女紅場には新英学校及女紅場、市中女紅場、遊所女紅場の3タイプがあり、それぞれ何に重点を置いて教えるのかが違います。
八重さんの勤めているのはこの内の、新英学校及女紅場。
そこで八重さんは3円以上4円未満くらいのお給金を頂いて、舎監として女子生徒の指導に当たりつつ(裁縫や礼儀作法を教えていたそうです)、自らも英語を学びます。
女紅場の英語教師はインバース夫妻だったように記憶しているのですが、ドラマで教鞭を取っていたのはウェットンさん。
彼女は授業で、1863年 11月19日に行われた、エイブラハム・リンカーンさんのゲティスバーグ演説を取り上げました。
It is for us, the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us (ここで戦い命を落とした者たちが、成し遂げられなかった仕事を受け継ぐのは、生きている私達だ。私たちの目の前に残された大いなる責務に尽くすのは、まさにここにいる私たちなのだ)

ゲティスバーグ演説と言われてぱっと来ない人も多いかも知れませんが、「人民の、人民による、人民のための政府」のあの演説だと言われると、あああれかと思うのではないでしょうか。
そして記憶されている方も多いかと存じますが、リンカーンさんのゲティスバーグ演説は「八重の桜」の冒頭でも出て来ましたよね。
33回の話を経て、漸く冒頭のシーンに繋がったのです。
ゲティスバーグ演説の解釈をしながら、皆さんの夢を聞かせて下さいとウェットンさんは言います。
しかし自分の考えを述べる自己主張というものに、殊の外慣れていない日本人女性陣からすれば、聞かせて下さいと言われてもなかなか言い出せないものです。
そこへ、八重さんが挙手して、自分の夢は女紅場をもっともっと大きくして、もっと沢山のことを学ぶことだと、覚えたてのたどたどしい英語で話します。
先週、長州の人間が作った女紅場に通うだ何てごめんだと言っていたのとは、同じ人物が言ったとは思えないですね。
「学ばねば」という一心が、八重さんをそこまで変えたのだということでしょうか。

東京に明治天皇が移ってしまって、事実上の遷都が行われ、京都が人口の減少と衰退に悩まされているというのは、明治編に入ってから何度も触れて来ました。
ところで、そんな京都に小野組という商家がありました。
井善という名で店を出してた、大丸や三井と並ぶ豪商で、戊辰戦争の際に薩長方の勘定方となり、新政府にも援助を尽くしてきた名家です。
その小野組は、槇村さんに東京への転籍を願い出ますが、槇村さんは取り合いません。
まず何故小野組が東京への転籍を望んでいるのかと言いますと、この頃小野組は東京で為替業営んでたんですね。
ですが当時、御用商人が銀行業や為替業をするには、戸籍の謄本が必要だという規則がありました。
つまり本籍を京都に置いたままでは、いちいちそれを東京まで取り寄せなければいけない手間が生じるわけです。
その煩わしさから、東京に移ってしまいたいと、小野組の言い分はそれです。
筋が通っているので、それなら小野組の東京転籍を認めてあげれば良いではないかと思うかもしれませんが、それを許さなかったのが真っ白なスーツに身を包んだ槇村さんです。
上記の通り、小野組は富豪なわけですが、彼らは御用金という名の税を府に納めてたんですね。
加えて多額の寄付もさせられていました。
それは、当時の京都府にとっては得難い収入であり、それを手放すのが惜しいから、小野組の訴えは聞き入れてもらえないのです。
しかし地方官が人民の届け出を握り潰し、移住を妨げたりする場合は裁判所に訴え出ても差支えないという司法省令がこの頃既にありました。
小野組はそれを使い、槇村さんを訴えます。
覚馬さんも大きく関与することになる、小野組転籍事件と呼ばれる出来事が起こったのは、こういう背景からです。

まさか訴えられるだ何て思ってもみない槇村さんは、京都舎密局に出仕している明石博高さんからシャボン(石鹸)を見せられ、上機嫌です。
明石さんは天保10年(1839)のお生まれですので、このとき34歳、数えで35歳。
四条通堀川西入ルにあった薬屋の息子として生まれ。京都府へ出仕したのは明治3年閏10月からです。
出仕中、勧業掛、療病院掛、医務掛、グランド将校接待掛、博覧会品評管理、化学校校長などなどを務めたのですが、時代が明治になる前に、明石さんは覚馬さんが開いていた洋学所へ蘭学の研究に行っていました。
だけでなく、英語を学びたいがためにその教師を紹介してもらうなど、関係があったんですね。
舎密局というのは、明治3年12月に長州屋敷跡の西北隅、後に鴨川の西岸に移転した実験場です。
舎密という字からも分かるように、色んな化学実験がそこでは行われていましたが、実験だけでなく、実験の結果出来た製品を作って売り出していました。
明石さんが持って来たシャボンとレモネードもそれですし、他にはラムネや漂白剤、銀朱、あと焼酎に砂糖と橙汁を加えて作ったポン酢なんかもあったみたいです。
後々に清水寺の音羽の滝あたりでビールも作ったのですが、社会的にビールの需要が低かったせいもあって、成功しなかったようですね。
京都の近代化を図るための舎密局ですが、他にも槇村さん達が着手していたことに、ドラマの会話の中にもあった府立病院設立があります。
その府立病院は、現在の京都府立医科大学の前身となります。
明治天皇は京都復興のために御下賜金を京都に与えていましたが(いつか覚馬さんが、新政府が京都を見捨てたと言っていましたがそれは大間違いです)、その御下賜金も病院設立にまでは回らず、そのため建設資金は一般人民の寄付金に頼ることになりました。
槇村さんが、「金は三井にでも小野組にでも出させりゃええ」と仰ってましたが、確かに三井・小野組からの資金提供はあったでしょうが、中心となったのは京都中にある各州の寺院です。
病院設立について何より大きかったのが、明石さんが願成寺の住職、與謝野禮巖さんと懇意であったことです。
この與謝野さんが金閣寺と銀閣寺の僧侶を引っ張り出して、そこから各寺院に寄付を納得させる話が回ったという次第ですから、明石さんの人脈様様だったわけですね。
こういった経緯で病院開設費用が調ったので、明治5年1月に粟田の青蓮院に仮の病院が建てられ、その間に河原町の里坊に病院が建てられました。
明治13年7月に完成したそれは、竣工費は当時にして5万9千311円ですから、かなりのものです。
医師養成もそこで行われていましたが、病院がメインで医学校は飽く迄付属、という形でした。
病院が創設されたとき、槇村さんは京都ホスピタルを訳して「京都病院」と名付けようと言いましたが、これに異を唱えたのが設立資金に協力した僧侶たちです。
彼らは、聖徳太子が四天王寺を建立したときに療病院というものを設けているから、そこから取って療病院と名付けたいと譲りませんでした。
結局は府立療病院という名前になっているので、言い分は僧侶たちのものが通ったことになりますが、これは槇村さんが譲ったんですね。
代わりに槇村さんは、病院の徽章は赤十字を模して黒十字と定めます。
名前は譲られたので、僧侶たちも異議なくこれを受け入れますが、当時キリスト教に強い反発を持っていた僧侶たちの尽力によって建った病院に、キリスト教の象徴ともいえる十字架を掲げるとは、いやはや・・・と思わなくもないです(笑)。

さて、明治政府内では朝鮮対策を巡って激しい対立が起こっていました。
当時の朝鮮は日本との国交を拒んでおり、その理由は鎖国状態だった朝鮮から見て、鎖国を解いて西洋諸国と条約を結んだ日本を蔑んでる部分があったからです。
見下すような態度の朝鮮に対し、まず征韓論を唱え始めたのは木戸さんです。
国交を求める文書の受理が拒否された日本は、明治3年2月には外務権大録の佐田白芽さんと権小録の森山茂さん、斎藤栄さんを朝鮮に派遣します。
しかし彼らは朝鮮の首都である漢城にも入れて貰えず、この一件から佐田さんは朝鮮の対応に憤慨し、帰国後征韓を建白します。
そうして日本国内で征韓論の声が徐々に高まるのですが、よく誤解されがちなのが、西郷どんもこの征韓論者だったということ。
実はこれは誤解で、西郷どんは寧ろその反対の、征韓論反対の立場にありました。
色分けしますと、居留民保護を理由に軍隊を朝鮮に送って武力で開国させることを主張する【征韓論派】が板垣さん、木戸さん等々。
それに対し、遣韓使節を送って礼儀を尽くした交渉を行うべきだと主張する【反征韓論派】が西郷どんを筆頭とする、江藤新平さん、後藤象二郎さん等々です。
そして朝鮮に目を向ける前に、国内の政治に目を向ける必要があると主張するのが、岩倉さんと大久保さんです。
と、まあかなりざっくり説明させて頂きましたけれども、実際征韓論というものは単語の短さに反して非常に複雑なものでして・・・。
今でも研究者・専門家の間でも様々な解釈が行われており、「これが史実です」と申し上げることも難しい部分が多く、通説と言われているものでも数多く存在致します。
「八重の桜」では、西郷どんの

おはんの目は国内に向いちょるようじゃっどん、そん実は列強の方しか見ちょらん。大久保どん、おいが朝鮮に行っとは士族の不平を抑ゆっためじゃ。廃藩置県以来、新政府は武士たちの力を奪って来た。維新の大業のため血を流しながら、ないごて報われんとか。士族のやり場んなか怒りが朝鮮に向けられちょる。朝鮮の問題をしっかい片を付けんな、こん不発弾、いつ破裂すっか分からん。この件、おいが収めてくっで。決して戦にゃせんが

というセリフからも分かるように、不平士族の目を国内から外に向けるための対象として、朝鮮が掲げられていました。
廃藩置県が行われて藩がなくなった以上、士族は藩から家禄を受け取ることが出来なくなってしまったばかりか、明治政府による秩禄処分を決定したことで、ますます経済的に追い詰められていました。
西郷どんはこういった士族たちの没落を何とか食い止め、何とか士族に活路を見出せないものかと思い悩んでいたのですね。
第31回の廃藩置県が行われるとき、「武家の世に幕を引くっちゅうとは、そいほど重かこつごわんで」と仰ってましたが、重さを分かってたから人一倍士族のことを考えていたのでしょう。

さて、皆様のドリームは何ですかと訊かれ、困り顔の女工場女子生徒たち。
というのも皆様嫁ぎ先が決まっていて、今習っている英語も所詮は芸事みたいなものだから役に立たないだろうと思っているのです。
しかしそんな彼女らに、八重さんは言います。

英語が分かれば異人の考えが分かる。そしたら、新しい考えも生まれる。ドリームも思いつくかもしんねぇ。鉄砲や蒸気船を発明したのは異人だけんじょ、次は、日本から新しい何かが生まれるがもしんねぇよ

ならば、と生徒たちの中から、自分のドリームは女紅場を辞めなくて済むことだという声がぽつぽつと上がります。
事情を聴くと、近い内に女紅場は生徒から月謝を徴収するということで、その根本には生徒が増えたのに京都府からの援助資金が増えていないという経営事情がありました。
女紅場では、生徒たちが作った作品は売却されて、その一部は生徒に還元されたり学校の運営費用に充てられたりしました。
それでもどうやら経営状態は思わしくなかったようで、赤字を逃れるために生徒から月謝を支払って貰ってそれで賄うということになっていたようなのですが、八重さん、先生なのに生徒に言われるまで知らないって・・・(苦笑)。
それに私の記憶してる限り、女紅場の運営経費は京都府から学校基本金の利子500円と、経済層によって等級に分かれた入学金と授業料で賄われてたように思えます。
最初の方は月謝を取っていなかったということなのでしょうか。
ともあれ八重さんは、意欲ある生徒がこのままではここにいられなくなる事態を避けるために、京都府庁の槇村さんの下へ、直談判しに行きます。
如何にも八重さんらしいこの行動、紛うことなき史実です。
しかし火急の用事として槇村さんに女紅場への資金を増やしてくれるように頼んだ八重さんですが、今しがた体の調子が悪くなったと言われ、お茶を濁すようにその場から退散されてしまいます。
が、それで引き下がる八重さんではありません。
実は槇村さんの家は、覚馬さんの家とはお隣同士なのですが、八重さんは直々に槇村さんの家に乗り込んで行って、女紅場の件の話を付けます。
嬉々として牛鍋を突いていた槇村さんは、突然の八重さんの登場に吃驚と言いますか・・・見咎められたのに慌てふためくリアクションが、どう見ても一昔前にCMで流れた「命!」のポーズにしか見えなかったです(笑)。
ちなみに牛という、西洋のものを鍋にして食している槇村さん。
京都府の事実上のトップである槇村さんが、率先して日本では食べていなかった牛を食べることには、大きな意味があったと考えられます。
明治期になると、牛だけでなく、牛乳の飲用も広まるのですが、そうはいっても当時あの白濁した飲み物は気味悪がられ、なかなか普及しませんでした。
しかし栄養価が高く、西洋に負けない国作りをする体作りのために牛乳が必要だったというのもまた事実。
そこで明治天皇は、毎日の健康のために1日2回牛乳を飲み、それが新聞で取り上げられて普及活動になりました。
槇村さんも同じで、覚馬さんは牛乳を飲めば体が黒くなるのではと尻込みしていた彼に、西洋では牛乳が常飲されていることや、体が黒くなるどころか白くなることを伝え、槇村さんに牛乳を飲ませることに成功します。
当の槇村さんといえば鼻をつまんで飲んだみたいですが、そのお蔭で京都でも牛乳が広く飲まれるようになりました。
この牛乳のように、牛鍋も、槇村さん自身が美味しいと好んで食べていた節もあったかもしれませんが、まず最初に来ているのは牛肉を食べることの普及活動でしょう。
個人的には、あのドラマの槇村さんが、鼻をつまんで覚馬さんに牛乳を説得の末に飲まされてる場面が見たかったのですが・・・(笑)。

その頃、覚馬さんは明石さんを通じて、尚之助さんが東京にいるという消息を掴みます。
覚馬さんの様子を見るに、八重さんは覚馬さんに尚之助さんとのことをまるで話していなかったようで、また覚馬さんもそれに一度も触れていなかったようですね。
そこで覚馬さんは、槇村邸への討ち入りから戻った八重さんを部屋に呼んで、尚之助さんは如何しているだろうかと、京都に来て初めて尚之助さんの名前を出します。

尚之助様とは離縁しやした。私にはもう、分がんねぇ・・・

努めて明るく言いますが、無理をしていることは一目瞭然(といっても覚馬さんには見えてないのですが、兄妹ですし、声の感じとかで分かったでしょう)。
うらさんの方から手を放された覚馬さんと、尚之助さんの方から手を放された八重さん。
まあ覚馬さんはうらさんから三行半(現物)を突き付けられたわけではありませんが、ちょっぴりこの兄妹、立場は似てるんじゃないかなとふと思いました。

さて、ドラマでは八重さん視点になったり明治政府視点になったりで、同時に話を進めて行かねばならないので場面展開があっちにこっちにとなりますが、ここから先は視点を絞って、その視点ごとの時系列をなぞりながら話を進めさせて頂きます。
それでないと、ただでさえ拙くてまとまりのない文章に、更に磨きがかかってしまうので(苦笑)。
まず明治政府サイド。
先程も触れましたが、西郷どんは朝鮮に兵を出すことに反対しており、自らを使節として朝鮮に派遣するよう政府に求め、これが内定します。
西郷どんの朝鮮派遣が決定されたのは明治6年(1873)10月15日。
既に8月の時点で決定していたようなのですが、外遊から帰国した岩倉さんと大久保さんと揉めて、激論となっていたようです。
ところがその西郷どんの朝鮮派遣を、征韓論派は一向に明治天皇に上奏しませんでした。
江藤さんが三条さんに詰め寄っていたのは、そのことです。
西郷どんが朝鮮に派遣されない以上、朝鮮との外交は何も進まないことになります。
詰め寄られた三条さんは、その件については木戸さんや大久保さん達が反対しているので慎重に・・・と言いますが、板垣さんが薩長による独断専横をもう許すことは出来ないと、激怒します。
ちなみに閣議によって決定となった西郷どんの朝鮮行きに対し、大久保さんは参議の辞表を叩き付けます。
すると大久保さんに辞められては自分も困るということで、慌てた岩倉さんも辞意を表明します。
そしてひとり取り残されたのは、三条さん・・・。
彼は、相棒ともいえる岩倉さんが、まるで自分ひとりに責任も何もかも押し付けて逃げ出すような態度に衝撃を受け、自宅で高熱を発して卒倒したそうです。
この卒倒までの流れが、ドラマではいまいち伝わり難かったですね。
あれでは、強面の殿方に囲まれて、吃驚して意識を手放したようにしか見えません(笑)。
まあそれで、卒倒した三条さんはお気の毒というしかありませんが、この三条さんが卒倒した後、何故か辞意を表明していた岩倉さんが再び顔を出します。
しかも、太政大臣の三条さんの代理としてですから、本当にちゃっかりしてると言いますか、策士と言いますか。
勿論太政大臣代理として再び現れた岩倉さんが何もしないわけがなく、彼はそこで閣議の決定を無視し、朝鮮使節派遣の延期を明治天皇に奏上して、勝手に使節派遣を無期延期にしました。

何が公平じゃ、岩倉様の思惑でどうとでもなるがやないがか!
たとい太政大臣といえども、閣議決定したもんに私見ば添えるなど許されん

板垣さんと江藤さんのお言葉もご尤も、要は岩倉さんは、西郷どんの朝鮮行を阻んだのですね。
西郷どんは、この政治陰謀ともいえるからくりに、大久保さんが絡んでたことを理解しておられたようです。
まあ大久保さんや岩倉さんの立場で物を考えさせて頂くと、政府の大物でもある西郷どんが直々に朝鮮に足を運んでは、それこそ戦争の火蓋を切りかねないと危惧していた部分もあるでしょう。
前代未聞のこの暴挙に、閣議で決まったものが行われないのなら何のための閣議だと憤慨した西郷どんは、すべての職を辞して下野することになります。

・・・ここにはもうおいのでっくっこつはなか。破裂じゃ。最早止めがならん

いわゆる明治6年の政変と呼ばれるものの結果が、この西郷どんら参議の半数と、軍人、官僚ら約600人の辞職です。
もう少しメスを入れさせて頂くと、伊藤博文さんが江藤さんの代わりに大久保さんを参議にしようと働きかけていた政府の内紛や、長州閥のことなどが溢れ出て来ます。
ですが冗長になるのもあれですし、あーだこーだ考察を付け加えるのはやめておきます。
(というより、これだけで最低新書が軽く一冊書ける情報量を有してますので、纏めるにも纏められないのです)
私から見ると、廃藩置県によって藩は消滅したのに、その藩を消滅させた人たちが藩閥政治の主権を争ってたんだな~藩に一番囚われてるのは誰だろうな~、などと思わなくもないです。
私のぼやきはさて置き、この政変を皮切りに、佐賀の乱、神風連の瀾、萩の乱、秋月の瀾、そして西南戦争へと、駒が進んで行くことになるのです。

一方で、八重さんサイド。
八重さんの直談判のお蔭で援助資金も増額された女紅場でしたが、その平穏は束の間のものでした。
といいますのも、先ほど既に触れましたが、槇村さんが小野組に訴えられ、東京に召還された槇村さんは、臨時裁判所に出廷しましたが、法廷内の態度が不遜とされ、身柄が拘束されていました。
京都府の事実上のトップがお縄に付いたというのはただ事でもありません。
そこで京都府の上層部は、覚馬さんを東京に差し向けることにします。
覚馬さんが差し向けられたのは、槇村さんの一件の背後には木戸さん対江藤さん(=征韓論派VS反征韓論派)の政治抗争図が出来上がっていたからで、府の人間が行って下手するよりは、法律などの知識が豊富で、色んな方面に顔をの利く覚馬さんを遣わした方が良いだろう、という采配からでした。
覚馬さんは失明していたので、東京までの旅には八重さんが付き添いました。
まず京都から横浜まで人力車、そこから汽車で東京の汐留停車場に行って、八丁堀の三井の抱え屋敷に明治6年8月から12月まで滞在しました。
ちなみに横浜東京間に走るこの汽車の車体が黒いため、「黒船が陸を走ってる」と開通当時周りの人はそれはそれは動揺したそうです。
八重さんなど動揺するどころか、子供のようにはしゃいでましたね。

東京の文明開化は京都とは比べもんになんねぇ
東京だげ開化したって国は変わんねぇ。そのためにも槇村が必要だ

そう言って覚馬さんと八重さんは、拘束されている槇村さんを訪ねます。
槇村さんは司法権の独立を目指す江藤さんが、長州藩を牽制する政治的意図のとばっちりを受けた、と仰っていましたが、全部が全部そうとも断言しかねると思います。
八重さんの言う、「法律を破れば誰でも罪になりやす」というのが一番の正論だと思います。
法律を破って罪にならなければ、法律が法律である存在意義がなくなってしまいますから。
ですが、後に覚馬さんは槇村さん救出のために江藤さんに意見を提出するのですが、此度の件の裁判所の担当裁判官に、槇村さんと対立する立場にある裁判官を起用し、その裁判官の姓名を開示しないのは公平性に大いに欠いた裁判ではないのか、という指摘がありました。
そのことから、つまり裁判そのものが槇村さん不利の状態で進められており、そこに何らかの意図が絡まっていたのだろうなというのは明らかなので、政治意図が全く無縁とも言えないでしょう。
覚馬さんは今から木戸さん達に掛け合ってくると言い、ついては槇村さんの存念を聞かせて貰いたいと言います。
すると槇村さんは、自分が間違ったことはしていない、と譲りません。

日本はまだよちよち歩きの赤子のようなもの。赤子の内は理屈より親の助けがいると思わんか?わしは、命がけで幕府っちゅう錆びついた国を壊してくれた木戸さんらを尊敬しちょる。じゃが、壊しただけじゃ。わしは、壊された荒地に命懸けで新しい国を作るつもりじゃ。そのために、今はまだ強力な指導者が必要じゃ。法を破り罪人と言われようと構わん。何が正しいかは、立場で変わる

見事な開き直りと言いますか、いやしかしここまで図太くないと(?)、生まれたてで何かと難しい状態の明治初期というのは切り抜けられなかったでしょうね。
そんな槇村さんを、中央の派閥争いに巻き込まれるのは勿体無いと、覚馬さんは皇居となったかつての江戸城の田安門近くにある木戸さんの屋敷を訪ねます。
(ドラマでは木戸さんのお屋敷のみでしたが、実際は岩倉さん、江藤さんなどの政府有力者を歴訪しています。その中でもとりわけ頻繁に会ったのが木戸さんでした)
自分がバックボーンについていた槇村さんの件については、木戸さんも表立っては動きにくく(動けば叩かれるので)、よって木戸さんも覚馬さんに期待しているところが大きかったようです。
初対面の席で、八重さんは木戸さんにまたまた殺気に似たものが籠った視線を向けていましたが、記述によれば八重さんは木戸さんを「居心地の良い人」と好印象を持っていました。
同じく、現れた岩倉さんにも同様に、八重さんは左程悪い印象を抱いてなかったようですが、まあドラマですから分かり易くということでしょう。
しかしこの岩倉・木戸コンビに対して、山本兄妹は痛快でしたね

藩を自分達で壊しておぎながら、未だ薩長だ佐賀だと拘られるとは、いささか滑稽。権力は政治を動がす道具に過ぎぬ。たかが道具に足を取られで、まどもな政が出来ますか?八重、岩倉様は何をご覧になってる?
先程がら何が愉快なのが、ずっと笑みを浮かべでおいででごぜいやすが、その目は・・・何を見てんのが、私には分がりません!

ともするとこの無礼な八重さんの言葉に、しかし覚馬さんは口元に笑みさえ浮かべます。
何かもう、凄い兄妹ですね・・・三郎さんって色々とやり難かったでしょうね。
八重さんは仇敵ともいえる木戸さんと岩倉さんに、槇村さんのことを再考して欲しいと頭を下げます。
けれども槇村さんの釈放は、覚馬さんの奔走に反してなかなか先が見えない状態でした。
しかし先ほど触れた明治6年の政変の機に乗じて、太政大臣代理御権力を行使した岩倉さんが、槇村さん釈放に踏み切ります。
勿論これに反発する声はあり、司法省高官が総辞職するという事態が起こりますが、木戸さんの政治的立場を飽く迄も岩倉さんは配慮したのです。
といっても槇村さんも無罪放免というわけではなく、懲役100日、罰金30円の判決が下されました。
ともあれそれで、小野組転籍事件の幕は下ろされます。

ところで東京に出て来たついでと言いましょうか。
八重さんは、覚馬さんに依頼されていたらしい尚之助さんの消息を頼りを勝さんから聞いて、鳥越明神の付近を訪ねて行きます。
尚之助さんは件の一件の裁判のために東京に連行されており、この頃は二人目の身元引受人となる川上啓蔵さんの預かりとなっていました。
鳥越明神にある川村三吉さんの自宅に居候していたそうですが、ドラマでは長屋になっていましたね。
戸を叩いた八重さんが中を覗いても、尚之助さんは留守・・・と思いきや、向こうから痩せて擦れた着物を着た尚之助さんが現れます。
長屋に上がった八重さんは、自分が女学校の舎監をしていることを話し、自分が尚之助さんの裁判に付いて何ら知らなかったことを詫びます。
ところがこの川崎尚之助という御仁ときたら、「これが私の身の丈にあった暮らし」と、言います。

尚之助様は、飢えと寒さに苦しむ藩の皆様の命を、守って下さった!・・・私のことも。何一づ文句言わねぇで、誰より打たれ強い会津のお人だ。ずっと後悔してだ。斗南に行げば良がったって。こんなごどになってだ何て・・・許してくなんしょ
私こそ、あの時猪苗代に行こうと命懸けで私の隣に立ったあなたの誇りを踏み躙った。許して下さい
謝んねぇで・・・何も悪ぐねぇ。尚之助様に甘えで・・・意地張って・・・私は馬鹿だ・・・馬鹿だ・・・

三行半を送られた時、八重さんは「話して貰わねば何にも分がらねぇ」と言っていました。
本当に、話せば互いすぐにわだかまりも溶けて分かり合えたのですが、時既に遅しというわけではありませんが二人の道は完全に分かれてしまっています。
再び交わることはない・・・というより、尚之助さんが交わらせない。

八重さん・・・がっかりさせないで下さい。八重さんには京都で生徒たちを守る舎監の仕事があるのでしょう?

だから、自分を傍に置いて欲しいと懇願する八重さんに、こういう風に「八重さんの道」をしっかりと示すんですよね。
こっちじゃないよ、こっちは駄目だよ、と。
初めて八重さんのことを「八重」と呼び捨てにして、一瞬心は揺らいだように見えましたが、こんな時でも自分を見失わない尚之助さん。

私の妻は、人並みの妻ではありません。鉄砲を撃つおなごです。私の好きな妻は、夫の前を歩く凜々しい妻です。八重さんの夫になれたのは、私の人生の誇りです。・・・もう二度とここに来てはいけません。あなたは 新しい時を生きる人だ。いきなさい

言葉だと「いきなさい」にしか聞こえませんが、きっと「いきなさい」は「行きなさい」ではなく「生きなさい」。
深読みすれば、私の先をあなたは生きなさい、と言っているようにも聞こえます。

待っていっからし。前を歩いで京都でずっと待ってっから
それでこそ八重さんだ

そう八重さんは言っていたのに、尚之助さんはこの2年後に八重さんを置いて逝ってしまいます。
亡くなられたのは明治8年3月20日、東京ではまだ桜は咲いてなかったでしょうね・・・。
しかし尚之助さんと八重さんのこのときの再会は、ずっと小説の域を出ない創作話とされてきましたが、創作じゃないという説もあるらしく(尚之助さん研究が進んだのでさえ近年なのに、一体いつそんな説が出たのかは分かりませんが)。
でもやっぱり再会は創作話じゃないかと私などは思うんですよね。
浩さん達斗南藩サイドが、尚之助さんをどうにもしてあげられないのは分かるのですよ。
血を吐くような決断をして、蜥蜴の尻尾のように尚之助さんのことを切り捨てたんですから。
でも、八重さんと再会してたのなら、山本兄弟が何も尚之助さんを取り囲む裁判諸々に介入しなかったのは、ちょっと不自然にも思えるのです。
あの山本兄妹が何もしないわけないじゃないですか。
ましてやドラマのように、「自分達の存在が尚之助さんの人生を大きく変えてしまった」というように自覚しているのなら猶更です。
既に離婚が成立してて、他人と割り切ってたとか、あるいは尚之助さんが亡くなった後に死を知ったか・・・という方が、やはりしっくり来るなと。
ということで、再会はしていなかったという方が、筋が通ってるんですよね。
史実のみが歴史じゃないのは重々承知ですが、あの場面だけ見たら凄く良い場面なんですが、色々と考えてしまうところが正直御座いまして(苦笑)。
次のステップへの襄さんへのハードルをそこまで上げて良いのか、という気もしますね。

さて、そのハードルを上げられた襄さんはといえば、1874年(明治7年)10月9日、アメリカのヴァーモント州ラットランドにある組合派、グレイス教会で開かれていたアメリカン・ボード(海外伝道組織)年次大会で最終日を迎えていました。
そこで世界各地に派遣される宣教師の紹介と挨拶の場面になり、襄さんはラットランド演説と後に呼ばれる挨拶を壇上でします。

我が故国日本は革命戦争の果て、新しい国となりました。しかし民の心は傷付き、迷い、世は荒んでいます。私は愛する故国日本を救うため、学校を作りたい。それが私の夢です!苦しむ日本人を照らす光は物でも力でもない、真の教育です。皆さま・・・どうか・・・どうか私に力を貸して下さい!

この演説は、襄さんが途中で涙ぐみ過ぎて、最早何を言っているのか分からなかったようなのですが、熱意は伝わったのでしょう、その場にいた聴衆からは5000ドルの寄付の約束を得ました。
ただ史実としましては、ラットランド演説は当時のアメリカン・ボードには黙殺されたという面も持っています。
理由は、「日本人を教育するために教師と説教者の養成所を作る」、というのが、アメリカン・ボードの希望するところではなかったからです。
つまりこれが何を示しているのかと言いますと、新教(プロテスタント)を非キリスト教地域に布教することを第一目的としていたアメリカン・ボードと、日本人の救済を第一目的にする襄さんとのズレですね。
前回、木戸さんから日本政府へのスカウトを断ることで、日本政府との距離を保とうとした(そして帰国後も保つ)襄さんですが、このアメリカン・ボードとのズレがあることから、アメリカン・ボードの宣教師とも距離を保つ必要が生じます。
そんな襄さんが日本に帰り着いたのは、演説から48日後の1874年11月26日のことでした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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