2013年4月10日水曜日

第14回 「新しい日々へ」

会津名産、絵蝋燭の柔らかい光に照らされた八重さんの輿入れの様子から始まりました、第14回。
覚馬さんとうらさんの祝言の時にも書きましたが、婚の字に「昏」の字が含まれている通り、昔は花嫁は黄昏に出立して婚家にやって来ました。
しかし嫁を貰い受ける側として、権八さんは外に出てたら駄目なんじゃいないのかな・・・とも思いましたが、まあめでたい席ですのでその辺りは気にしないことにいたしましょう。
改めまして、八重さん、ご結婚おめでとうございます。
ちなみに20歳、数えで22歳での嫁入りです。
当時にしては遅いかもしれませんが、親友の時尾さん何て明治に入ってから結婚しますもんね。
年頃の藩士がこぞって守護職として都に取られていたのも八重さんの結婚が遅れた理由かも知れないですね。
八重さんの白無垢姿、非常にお綺麗ですが、白無垢が白いのは、日本では古来白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされてきたからです。
衣装として定められたのは、小笠原流などの礼儀作法が確立し出した室町時代。
綿帽子の起源は、婦人が外出するときに小袖を被いたことに端を発しているようで、それが江戸期に綿帽子になったと。
では角隠しは何処から来たのかと言いますと、あれは幕末期から明治にかけて登場したもので、婚礼衣装の変化を順に追っていきますと綿帽子→練帽子→揚帽子(=角隠し)となります。
ところで、数年前に放送された「坂の上の雲」の第8回の、秋山真之さんと稲生李子さんの築地の水交社での結婚式の様子を覚えておられますでしょうか。
あれは明治36(1903)年6月2日の出来事なのですが、あの時の季子さんの花嫁衣装は黒の裾模様の留袖に角隠しとなっていますよね。
何故かと申しますと、幕末から明治にかけて西洋の考えが輸入され、文化面にも適応される部分がありまして、その影響で神聖な色が白から黒に変わったからなんですね。
もう少し白から黒への変化を語りますと、「坂の上の雲」では正岡子規さんの葬儀の際、律さんや八重さんの着ている喪服は白でしたが、現在私たちが着る喪服の色は黒ですよね。
そこも西洋化によって、色に対する捉え方(認識)が変わってしまったからなんです。
・・・と、随分と話が随分と逸れてしまいました。
祝宴は賑やかに、余計なことをいう親戚や、お酒が進みすぎる人たちがいるのはいつの時代も変わらないようですね(笑)。
しかしご親戚の方が指摘していた、尚之助さんの扶持がない件ですが、蘭学所からの役料は別に雀の涙ではないと思うのですけどね。
そもそもドラマでは触れられてませんでしたが、最初は蘭学所からの役料すら断っていましたので、そんな尚之助さんの人となりをもっと評価してあげて下さいよ親戚一同さん。
権八さんに助け船を出して貰った尚之助さんではありましたが、「衆寡敵せず」と輪の中に参戦し、結果権八さん共々酔い潰れることに。
宴終了後、仕方がないと八重さんはそんな尚之助さんを米俵のように担ぎ上げて運びます。
屋敷を賜ってない尚之助さんの新居は、角場の二階でしょうか、あそこは。
箪笥が一棹に鏡台、豪華さこそはありませんが、権八さんの「」な嫁入り道具が既にそこには並んでいました。
着替えた八重さんの小袖が、今まで赤色系統も混じった色合いでしたが、青色系統で統一されたものに変わってますね。
嫁いだことで、娘らしさを抜いて落ち着きを出そうということでしょうかね、うらさんも青色系統の着物ですし。
さて、嫁入り道具の前に「御祝」と書かれた木箱を見つけた八重さん。

あんつぁまがらだ

包みの中は文、砲術書の『新砲二種』、それから桐の小箱。
文には「これよりは夫婦力を合わせ、紅のごとく赤々と生きること肝要に候」とのお言葉が。
桐箱の中身は結婚式には欠かせない蛤貝で、中身は紅です。
起きた尚之助さんがそれを八重さんの唇に差してくれますが、ちゃんと薬指で差しているのが良いですね。
薬指は普段使わない指なので、それだけ清潔と見做されているのです。
いま指で塗るタイプの紅はお見かけしませんが、指で塗るタイプのリップクリームを薬指で塗ってる人を見かけると、ああよくご存知だなぁ、などと思ってしまいます。

まさしく幸せの絶頂とも言うべき八重さんですが、都の覚馬さんはまさにその真逆の状態でした。
以前から目の不調があった覚馬さんですが、医者に診断された病名は「白そこひ=白内障」。

気の毒だが、いずれは失明するものと覚悟した方が良い
先生、覚馬さんは先年の戦の折に目に怪我を負われております。それが長引いているのでは?
目を痛めたのであれば、それが元かもしれぬな。そこひには違いない
いづ
ん?
いづ、見えなくなんのでしょうが

分からない、と医者は答えます。
治る見込みも難しいと。
しかし、いつ「治る」のかではなく、いつ「見えなくなるのか」を問うた辺り、覚馬さんには「その日」の覚悟が出来てるのだなと伺えますね。
だから、何で自分が、とかありがちな悲観には暮れない。

見えなぐなんのが、俺の目は・・・。目が見えなくて、なじょして銃を撃づ・・・なじょして書を読む・・・何もかんも、出来なくなんのが・・・

自分の目がいつ見えなくなるのか分からないというのは、推し測ることの出来ないほどに怖いことだと思います。
その日が明日か明後日か分からない、今日見えてたものが明日見えなくなるかもしれない。
余命宣告とはまた少し違った意味で、覚馬さんはここで時間を限られてしまったのですね。
その限られた中で、今後彼がどう動いて行くのかはこのドラマの見どころのひとつだと思います。

幕末は時として、世界史の中から日本史を見る必要がある(だからややこしくなってくる)、という旨については、既にこのブログの冒頭で触れたことです。
1856年4月3日、アメリカ南部の首都リッチモンドが陥落し、同月9日に南北戦争は事実上終了します。
勝利を手にしたのは北軍ですが、国を二分した戦いの戦死者は約62万人で、これは現在に至るまでのアメリカ史上最悪の死者数です。
日本が被った南北戦争の波紋は、戦争終結によって不要の産物と成り果てた武器の捌け口となってしまったことでしょう。
武器商人風に言えば、次の市場として日本がロックオンされた。
アメリカが南北に分かれて戦ったように、その後日本もふたつに分かれ、日本人同士の血を流していくことになります。
12代将軍家斉さんが将軍として在った頃と同じ頃に、イギリスでは産業革命が起こり、フランス7月革命(『レ・ミゼラブル』の舞台辺りですね)からヨーロッパ中に革命運動が起こり始め・・・と、世界各国が近代化に向けて、或いは何かに向けてアクションを起こしていました。
その時代の中から長期航海に耐え得る蒸気船が生まれ、それが黒船として日本に来るタイミングと、徳川幕府の屋台骨の限界が、示し合わせたようにほぼ重なるのが、面白いと言えば面白いところです。
日本史の中だけで物事を見ていると、急に黒船が現れて、その存在に日本中が引っ掻き回されて、やがて諸外国が介入してきて日本中が大混乱して・・・と言う風に思えますが、日本の外から幕末を見ると、黒船は来るべくして日本に来て、日本は近代化の波に呑まれるべくして呑み込まれていったのだなというのが分かります。

さて、そうこうしている内に季節は夏。
越前福井城には西郷どんが、春嶽さんを訪ねて来てました。

ご公儀の慢心ぶりには困ったものよ
こんままでは、再び長州征伐の兵を挙ぐことになりもすな

ご公儀も慢心、というのは、第一次長州征伐が西郷さんの献策により一戦も交えないまま終わったことは前回でも描かれたことですが、まあ長州から家老三人の首を差し出された幕府は、「長州は自分たちに屈した」と思ってしまう節があるのです。
それが春嶽さんの指摘する「慢心」の部分です。
その後更に天狗になった幕府は、長州に藩主父子(毛利敬親さん・定広さん)を江戸に呼び付け従わない場合には再び長州征伐の兵を挙げると脅しをかけますが、藩主父子は従いません。
このままだと第二次長州征伐勃発もそう遠くないかと思いきや、結果的に翌年の慶応2年(1866)にそれは起こるのですが、それに臨む薩摩の姿勢がこのときから触れられています。
つまり、内乱など不毛で、いま戦をすればメリケンの二の舞になって世の中が荒れ果てることになるという春嶽さんの言葉を受けて、西郷どんは薩摩に帰って出兵しないように進言すると応じます。
実際、この後起こる第二次長州征伐で、薩摩は兵を出しません。
ですが、長州征伐に兵を出さない、と薩摩の人間が言ったことに奇妙さを感じる春嶽さん。

妙だな。何故薩摩が長州の赦免に向けて動くのだ。長年の仇同士ではないのか?
幕府のひとり天下の世に戻さんがためにごわず。政は公論を以って行わねばなりもはん
共和政治か。わしがかねてから目指しておるこの国の形じゃな
はい。新しか国の形でございもす

共和政治、というのは前回からちらほら出て来たフレーズですが、今は亡き斉彬さんが目指しておられたこれは、実は斉彬さんが在りし頃、春嶽さんも一緒に目指していたものです。
なのでこのシーンは、「全く関係のない西郷どんが春嶽さんを訪ねて来た」というのではなく、「斉彬さんの衣鉢を継いだ西郷どんが、かつて斉彬さんと共に共和政治の夢を追いかけた春嶽さんに会いに来た」という場面になるわけです。
西洋の林檎の「接ぎ木」というのも、その関係があるからこそのものかと。
今年の大河は、こういったもののリンクのさせ方が非常に上手いなと思います。
しかし「西洋の良きものを大いに取り入れ、国内の物産を育てることが肝要じゃと思うておる」とえっへん顔で言う春嶽さんですが、その考えをおそらく春嶽さんに説いたであろう横井小楠さんの名前も少しは出て来て欲しいな、と思いました。
いえ、小楠さん自身は禁門の変の直前に越前藩の政治顧問を辞めて肥後に帰っちゃってますけど・・・。
それじゃあ何で小楠さんの存在にそんなにこだわるのかと言いますと、後々に必ず出てくるであろう覚馬さんの『管見』に必要な存在だからです。
『管見』についてはまたその時に詳しく触れますが、あれは覚馬さんが何かを閃いて書き綴った(正確には口述させた)ものではありません。
色んな人の影響とか受けて、それを自分の中に一度インプットして、アウトプットさせたものだと、少なくとも私はそう考えています。
そのインプットの要員に、小楠さんは不可欠なのですよ。
・・・『管見』、どんな風に描かれるのか、ちょっぴり不安になってきました。

さて、何かを勘違いして慢心気味の幕府が次にしたことは、京都守護職の役料の差し止めです。

京に来て以来の莫大な出費で、日々金繰りに腐心しているどいうのに

金銭問題は常に会津に付き纏っているように思われるかもしれませんが、実際会津の赤字はどれくらいだったのか。
実を申しますと、上洛後は年間に約12万両前後の赤字も赤字、真っ赤な大赤字でした。
寧ろこの赤字を抱えて、よくもまあ何年もやって行けてるなと思うばかりです。
幕府からは役料なども出てましたが、そんなものは焼け石に水、足しにもなりません。
足しにもなってはいませんでしたが、それでも役料さし止めなどとなったら、焼け石にかける水すらなくなってしまうというわけですので、皆様がざわつくのも無理のない話です。

我らが朝廷をお味方に付け、ご公儀に楯突くものとお疑いの様子がごぜいまする

故にその疑いから、幕府は会津を怖れ、その力を削ぐために役料を差し止めるという経緯に至ったのではないかと平馬さんは推測します。
しかし権助さんが言ってるように、会津は先祖代々将軍家に尽くして来ましたし、そもそも京都守護職の貧乏籤を敢えて引いたのだって、将軍家への絶対の忠義を守るようにとの御家訓あってのこと。
それを逆手にとって京都守護職を押し付けておきながら、この掌を返すような仕打ちを前に、こうまでされて都に留まる理由はないから守護職を退いて会津に戻ろうという声が上がるのは当然ですよね。
けれども容保様は首を縦には振りません。

世が平穏にならぬ内は、主上ひとりをお残しして都を去るわけには参らぬ

掘り下げますと、この容保様の台詞で、ある意味会津が縋れるものは孝明天皇の信頼だけだということが露呈してますね。
だから、孝明天皇がいなくなったら会津のその足場そのものが崩れるということになる。
そしてご存知の通り、歴史は皮肉にもそうなったんですよね。
神様も仏様も、本当に残酷で無慈悲です。
容保様は、自分たちが京に残るのはそう長いことではないと言います。

朝廷とご公儀が手を取り合い、長州が禁裏に発砲した大罪に将軍家が裁きを下してこそ、まことの公武一和が相成るものと思う

ここで特記したいのが、長州にとって会津は憎悪の対象ですが、会津(容保様)は何も長州を「憎し」とは思ってないこと。
ただ容保様にとって許せないのは、攘夷を唱える長州が御所へ発砲した不敬のみであって、正すべきはそこだという。
罪を憎んで人を憎まず、ではありませんが、容保様らしいと言えば容保様らしい物事の捉え方だと思います。

もうしばらくの辛抱じゃ。・・・これを成し遂げたら、皆で会津に帰ろう。磐梯山の見守る、故郷へ

容保様にこう言われては、一同沈痛な面持ちで平伏するしかありません。
その夜、月を見上げながら「会津のお城の月を見たい」と零した内蔵助さんと、それを一緒に見上げる修理さんと覚馬さん。
内蔵助さんはさて置き、修理さんも覚馬さんも、それは叶わないことなのだと知っている身からすれば、非常に切ないシーンでした。
八重さんは会津戦争で会津が降伏した日の夜に、「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影」という歌を櫛を使って城内三の丸雑物庫の白壁に刻んだと言います。
会津のお城の月、というのはそこへの伏線かなと、ぼんやり考えたりもしてしまいました。
この歌が詠まれる時まであと約3年です。

その八重さんと言えば、会津で新婚生活大満喫かと思いきや、尚之助さんを「旦那様」ではなく未だに「尚之助様」と呼んでることについて、そういうことを疎かにしてはならないと権八さんから厳しく言われます。
渋々と尚之助さんのことを「旦那様」と呼び始めることにし、鉄砲も撃たずにいますが、お蔭様でもやもやが溜まった八重さん。
道場で居合わせたお雪さんに、どうしたら良い夫婦になれるのか、そのノウハウを乞いますが、お雪さんは薄く笑って自分にも分からないと言います。
お雪さんは、自分と修理さんは夫婦の真似事をしているような気がしているようです。

嫁いでからすぐに、旦那様が都に上られることになったべ。早ぐ良い嫁になって、送り出さねばどばっかり思って・・・諍いひとつしながったげんじょ、私は一度県がしてみだがった。叱られでみだがったし、困らせてもみだがった
お雪様
旦那様が都がらお戻りになったら・・・私はもういっぺん、初めがら夫婦をやり直してぇ

~してみたかった、とお雪さんが過去形で話すあたり、何だか先の展開が透けて見えて切ないです。
あの八重さんとユキさんが、「戻って来たらいつでも喧嘩出来る」的な慰めをひとつもしてないのも意味深ですよね。
それはそうと、結局八重さんは、尚之助さんに「馬鹿なこと」「つまらないこと」を辞めるように怒鳴られてしまいます。

つまらぬことだべが?私は、尚之助様が人に後ろ指指されねぇように、ちっとでも夫婦らしぐなりたぐて
私は鉄砲を撃つおなごを娶った。世間並みの奥方なぞお、初めから望んでいない
んだら、私では世間並にはなれねぇど言うのですか!
ええ、そうです

余りの言われように眉を吊り上げていた八重さんも絶句。
尚之助さんって、実は結構失礼なこともズバズバ言いますよね(笑)。

世間並なんぞにならなくて結構。あなたはあなたであれば良い

自分の妻は他の誰でもなく、鉄砲の名人の八重さんなので、それで良いというのが尚之助さんの言い分です。
思えば尚之助さんはずっと言ってましたよね、八重さんは八重さんであればいい、って。
別に八重さんに変われだの、もっとこうしろだの、そう言った口出しをしたことは一度もなかった。
言ったところで変えられないし変えようとしない八重さんですから、これはこれで良い夫婦の組み合わせなのでしょう。
史実の尚之助さんがどういった方なのか、今はまだよく分かっていません。
だから、ドラマの尚之助さんは創作に依った部分がどうしても多いキャラ設定になっているのでしょうが、上手く人物像が立っていますね。

元治2年4月7日(1865年5月1日) 、元号が元治から慶応に改元されます。
禁門の変などの災異のためですが、このとき慶応の他に候補にあったのが「平成」です。
平成にならなかったのは、字の中に干と戈があり、災異を厭うての改元で、それは却下せざるを得ないという事情から、平成は候補から外れました。
もし平成になってたら、慶應義塾大学は「平成義塾大学」になっていたのでしょうかね。
それはさておき、慶応元年閏5月16日(1865年6月9日)、家茂さんが1万7千の兵を率いて江戸城を発し、同月22日に自身三度目となる上洛をしました。
二度目の上洛は海路を使ったのですが、今回は一度目と同様に陸路での上洛です。
家茂さんこのとき19歳、数えで20歳。

藩主親子が再三のお召し出しに応じぬのは、長州に謀反の心がある故にござります。毛利親子には切腹を申し付け、長門・周防は減藩にすべきと存じます。上様の御出陣の上は厳罰を以って当たらねば、ご公儀の威信に関わりまする

幕府は既に長州再征を考えており、4月には前尾張藩主・徳川茂徳さん(容保様の実兄)を征長先鋒総督に任命して着々とその準備を始めていました。
家茂さんに上洛を願い出たのもそのためです。
だからこの時点では長州征伐に幕府の方針としては固まっていていいはずなのに、何故か総大将の将軍まで上洛させておきながら、未だに長州に対しての処罰の重さを論じるのは、ちょっとおかしくないかな、とも思わなくもないのですが・・・。
老中の阿部正外さんの発言に、容保様は、厳しい処分に出れば却って反発を招くので、藩主親子は押し込め、領地は減封に処するのが適当だと言います。
定敬さんも容保様の意見に同意のようですが、これまた老中の松平康英さんに「手ぬるきことを」と一蹴。
老中さん方から見れば、そもそも家茂さんを都に引っ張り出す様に進言しておきながら、公明正大を手堅く守りつつも穏便にことを運ぼうとする容保様が、「じゃあなんで将軍にお運び頂く必要があったんだ」と映るのかもしれませんね。
そんなこんなで、既に家茂さんも上洛しているにも拘らず、長州征伐の方針はなかなか定まらず・・・。
このもたつきの方が、よっぽどご公儀の威信とやらに関わるような気もしますけどね。

一方、将軍が上洛すれば戦は避けられないと危ぶむ大久保さんは、西郷どんに『叢裡鳴虫』と書かれたものと、洛北の岩倉村にとある人物がいると紹介されて、訪ねて行きます。
大久保さんは文政13年8月10日(1830年9月26日)のお生まれですのでこのとき35歳、数えで36歳。
訪ねた先にいたのは、まあ岩倉村というくらいですから岩倉具視さんです。
文政8年9月15日(1825年10月26日)のお生まれですのでこのとき40歳、数えで41歳。
寂びれた住まいに居を構え、幽居している岩倉さんですが、何故公家だったこの人がこんなところで落ちぶれているのかと申しますと、まあ要は三条さんとはまた違った意味で宮中を追われたのですね。
それが文久2年8月20日(1862年9月13日)の出来事です。
宮中を後にすることになった岩倉さんは、その後攘夷強行論者の武市半平太さんに「洛中にいると首を四条河原に晒す」など脅され、紆余曲折を経て岩倉村に落ち着いたという次第です。
一体絶対どうしてそこまで追われる身になってしまったのかと申しますと、和宮さんっておられたじゃないですか、孝明天皇の異母妹さんで、家茂さん御正室の。
かつて彼女を江戸に降嫁させる推進運動をしたのが、この岩倉さんなのです。
朝廷権威の高揚に努めてはいましたが、結果的に皇女降嫁の推進をしたことが、三条さんたちには「幕府にへつらう公家」と捉えられ、辞官落飾を余儀なくされました。
攘夷派の者どもに首を狙われ、というのはそう言った背景事情です。
しかし野良仕事でもしないと食べて行けない、と岩倉さんは仰ってますが、実際は自分の屋敷のスペースを博徒に貸し出して、場所代をせしめて小金を稼いでました。
蟄居しているとはいえ、ぼろ屋であれ、公家屋敷は藩邸と同じく治外法権で幕府の役人は立ち入れませんから。

ご意見書を拝読し、西郷共々感服仕りました
草むらで鳴く虫の戯言や

そんな岩倉さんの隣に、大久保さんはさり気無く黄金の饅頭を・・・。
ひとつじゃ見向きもしなかった岩倉さんですが、ふたつみっつ重ねられると、破れた団扇でそれを引き寄せてしめしめと頂戴します。

薩摩は田舎もんで、岩倉様のお知恵をお借りせねば、何事もないもはん
強い朝廷を作るというわしの望みは、薩摩の武力なしには叶わん。相身互いやな

そう言って笑う辺り、本当に公家だなと思わされるばかりです。
さて、このふたりが出会って利害を共有し合うというのでしょうか、そうすることによって幕末という時代は会津の目に見えないところで動き始めることになります。
えげつない外交も出来るし、潤沢なバックアップ資金もあるし、西郷どんや大久保さんのような第一線で動ける人が育っている薩摩と、麻呂麻呂言ってるだけじゃなくてちゃんとした実行力と構想力を持つ公家が結びつくと怖いということですね。

将軍が大坂城に入り、いよいよ長州征伐に動き出すように御座います
大久保、この戦、どっちを勝たしてもあかん。幕府が勝ったら、またひとり勝手な政をする
はい
長州が勝ったら、朝廷が意のままにされる
はい
どっちが勝っても、わしらにとって良いことは何もない。ここは、薩摩が上手く立ち回らんとあかんのや
しかし、戦が始まればすぐに勝敗が付くのではあいもはんか。兵力では幕府方が圧倒しています
いや、長州は侮れん。藩内の勢力が変わった。先祖代々の鎧兜を売り払い、洋式銃を買うようにと藩士一同に命じた知恵者もおる。桂小五郎や
逃げの小五郎か・・・

長州征伐長州征伐と対象にされていた長州ではありますが、その内部では幕府への恭順を主張する俗論派(保守派)とそれに反対する正義派(改革派)に藩論が分かれていました。
まず政権を握ったのは俗論派。
そこで第一次長州征伐が起こり、その後正義派の高杉晋作さんが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で挙兵して(有名な「これよりは長州男児の肝っ玉 をお目にかけ申す」のあれです)クーデターを起こし、元治2年の初めには正義派が俗論派を一掃して藩政の実権を握ります。
これによって長州の反論は開国倒幕に統一され、倒幕に向けて軍事力強化が図られます。
岩倉さんの、藩内の勢力が変わった、というのはそういうことです。
また桂さんが先導して長州が洋式調練に励んでいる様子でしたが、このとき長州は幕府から一応は睨まれている状態ですので、軍備を西洋化しようとしても、銃を諸外国から買うことは出来ません。
そこでそんな長州のために、武器の売買の中間地点として請け負ったのが坂本龍馬さんの亀山社中です。
・・・と、歴史はこんな風にぐるりと繋がっているわけですが、この辺りの流れは散々今までの幕末大河でも触れられて来たことですよね。

一方会津では、横山常徳さんがその生を終えようとしてましたが・・・かねてより散々触れているように、この方は1年前の夏(元治元年8月7日)に亡くなっているはずなのですが・・・。
何故生きておられるのだろうという疑問と違和感は尽きませんが、言っていることは正論です。

おかしなことじゃ・・・。幕府のため、朝廷のため、誠を尽くせば尽くすほどに会津はますます泥沼に足を取られて行く。・・・帝からご宸翰を賜ったときの嬉しさ・・・あの時の嬉しさが、今は会津を都に縛り付ける鎖となってしもうた

加えて容保様は、御家訓という鎖にも縛られてます。
そこは以前西郷さんが指摘した通り。
在京の家臣は、一応は納得していますが、同時に会津に帰りたがっているというのは、容保様の姿勢に完全に賛同しているからじゃないという現れですよね。
その二本の鎖に縛られているからでしょうか、容保様は現実的な視点をなかなか設けることが出来ないでいます。
帝を尊守し、古くからの決まりごとを遵守するというスタイルは武士としては鑑なのでしょうが、同時に指導者としての欠点にも成り得ます。
故に会津は、こんな世情下で悌次郎さんを左遷などということも出来てしまう。
新しい観点を持っている人たちへの危機管理が薄いのでね。
既存の価値観に依ったままでは、西郷どんや大久保さんや桂さん、あるいは春嶽さんに置いて行かれるばかりです。
しかしだからと言って、容保様の置かれていた状況を慮ると、容保様を閉塞した時代感の人と切り捨ててしまえないのもまた事実。
尽くした分だけの労力と結果が、常に釣り合わない、場合によっては保障されないのが人の世ですよね。
このドラマに登場してきた人々の言葉を借りるならば、「ままならぬ」でしょうか。

程無くそんな会津で、悌次郎さんは蝦夷地の斜里郡代官に任じられます。
悌次郎さんはそれを前向きに受け入れつつも、また会津に戻って来たときには会津が今よりもう少し頭の柔らかい国になっていれば良いと言います。
そして八重さんと尚之助さんに、新しい力はふたりのように古い秩序から縛られない者の中から生まれてくると信じているのだと。
見方によっては、会津が容保様スタイルを貫いた結果の犠牲者が、悌次郎さんとも言えるのではないでしょうか。
そして修理さんもまた、その犠牲者となる。
冷厳に聞こえるかもしれませんが、会津の側面としてはそこはちゃんと受け止めておくべき部分ですよね。
最後に八重さんが指さした先には大きな虹がかかっていましたが、あれはやがて消えていく儚い幸せを意味しているのだろうなと感じました。

しかし今回は対比が多かったですね。
貝に入った紅と薬、喧嘩も出来なかったというお雪さんと喧嘩も出来ちゃう川崎夫婦、飛ばされて行く悌次郎さんと戻る方へ動く岩倉さん、現状維持で役目が終われば故郷へと思う会津と現状打破で強くなろうとする長州、などなど。
こういう細やかな演出があるので、なかなか気を抜いて見ていられないです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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