2013年4月25日木曜日

第16回「遠ざかる背中」

慶応2年8月8日(1866年9月16日)に会津城下で起こった大火から始まりました、第16回。
この大火は孫右衛門焼けと呼ばれており、下図のこの色の辺り一帯が焼けました。

A地点が山本家のある場所で、が諏訪神社の場所です。
火事の騒ぎの中、みねちゃんの姿が見えないということで飛び出して行ったうらさんと、そのうらさんの後を追って行った八重さん。
ところが、みねちゃんのぽっくりがないと聞いた尚之助さんは、そう言えばさっき鈴の音を聞いたような・・・と棚を覗いてみると、そこには寝入ってしまっていたみねちゃんの姿が。
尚之助さんは、城下にみねちゃんを探しに飛び出して行った八重さんとうらさんと合流し、煤だらけになりながらも家に戻ってきます。
うらさんは心配をかけたみねちゃんを叱りますが、同時に涙を流して無事を喜びます。

うらは、覚馬が当分帰って来れねぇものど、覚悟を決めだみでぇだ。何があったら・・・その時はみねが跡取りだ。しっかり育てねばなんねぇ
それでみねに厳しくしてたのがし
んでねぇ。うらは己に厳しくしてたんだ。・・・甘やがして弱い子に育でだら、覚馬にすまねぇがらど。可愛いみねを、怖い顔して叱んのは、うらも辛かったべ

先週からうらさんがカリカリしてるように見えたのは、夫の長期不在で荒んでた部分もあったかもしれませんが、夫が不在だからこその責任感のようなものがずっしり圧し掛かっていたということですね。
覚馬さんも、日々色んなものと戦っているのでしょうが、国許でもうらさんがまた違った意味の色んなものと戦っているのだと思うと、改めて良い夫婦だなと思います。
一方でここまで覚馬さんの留守を補い、母娘の絆を育んでいるふたりが、後々に別れることを思うと何とも言えなくなります。
覚馬さんと、うらさんと、みねちゃん。
この三人、史実の行き着く先は知っていますが、ドラマではどう描くつもりなのでしょうね。

会津が大火に見舞われていた8月8日と同日に、都では慶喜さんが参内して将軍名代として長州征伐に出陣することを奏上し、孝明天皇から節刀を賜っていたのは前回の記事で触れた通りです。
その慶喜さんが、出陣中止を言い出したことも既に前回触れました。
ただ、出陣中止にされて戦意が収められない人たちがいるのもまた事実。
官兵衛さんや別撰組の方々など、正にそうでした。

この期に及んで出陣取り止めどは、何事で御座るがっ!必勝を誓った下の根も乾がねぇ内に。断じで許せぬ。槍を振るって、長州まで追い立てる!

今にも飛び出していきそうな官兵衛さんたちを、土佐さんや内蔵助さんや修理さんが必死で押し止めます。
官兵衛さんが行っては事が荒立つ、と言われたのに対し、事を荒立てに行くのだと言ってきかない官兵衛さん。
そこへ登場された容保様が、言葉が過ぎると官兵衛さんを諌めます。

逸るな。朝廷のお指図も待たねばならぬ。今は鎮まれ

とは言われるものの、官兵衛さんの表情からは無念と遣る瀬無さが拭い切れず・・・。
分かるよ!分かるよ!慶喜さんがあんなだから余計に分かるよ!と、思いっきり同情してしまいました。

その頃二条城では、慶喜さんと春嶽さんが勝さんを呼び付けておりました。
用件は、勝さんに長州との和議の使者に立つようにとのこと。
しかし、前回の記事でも散々触れましたが、誰がどう見ても第二次長州征伐は幕府の負けです。
そもそも出兵までに幕府側が無駄に日を費やしている内に、一日ごとに長州で大村益次郎さんの軍制改革が着々と進んでしまったのも敗因の遠因ですよね。
要は敵に猶予を与えてしまったと。
水野忠幹さんの隊は頑張りましたが、それでも負けです。
なので和議などと言っても、負けてない長州がそれを受け容れるかどうかが微妙だと勝さんは言います。
けれども、だからこそ勝さんを和議の使者として白羽の矢を立てられました。
勝さんなら西国諸藩にも名が知れてるので、長州も耳を貸すであろう、といった次第です。
まあ確かに、薩長同盟の立役者のひとりとして活躍した龍馬さんは勝先生の弟子として有名ですし(当時その師弟関係がどれだけ認知度あったのかは知りませんが)、薩摩の伊東祐亨さんとかの海軍操練所塾生との人脈もありますのでね。

即刻、戦を止めて参れ。いつまでも続けられては面倒じゃ

さらっと慶喜さん言ってくれちゃってますが、そんなに簡単な任務じゃありません。
いくら人脈持ってて顔の利く勝さんといえども、幕臣=幕府サイドの人間です。
うっかり敵陣に踏み込めば、首が飛ぶかも知れませんので、流石の勝さんもそれは嫌だと言います。
たとえ慶喜さんの頼みでも。
多分家茂さんが同じことを勝さんに頼んでいたら二つ返事で行ったでしょうが、生憎と勝さんは家茂さんに向けていたものと同じようなものを慶喜さんとの間に築けていないのですよね。
っていうか、築く気は多分ないのでしょうが(あってもことごとく慶喜さんに裏切られるのでしょうが)。
勝さんがどう思っているのかはさて置きまして、勝さんは交換条件を慶喜さんに提示します。

お聞き届け頂けますならば、この首ひとつ、いつでも進上致します。長州の処遇は衆議に諮って、公平至当の判断を下すべきと存じます。まずは・・・勅命にて諸侯をお集め下さりませ
勅命じゃと?諸藩に号令をかけるのは幕府の役目だ。武家を統べるのは朝廷ではない
確かに武家の頭領は将軍に御座ります。なれど、今はその将軍がおりませぬ。徳川ご宗家といえども、将軍でなければ一大名。幕府の長として、天下に号令をかけることは出来ませぬぞ

そこでやっと慶喜さんは気付きます。
つまり、勝さんと春嶽さんは申し合わせていて、自分はふたりに上手く誘導させられたのだと。

此度の負け戦を見ても、幕府だけで天下を治めきれぬことは明らか。諸藩との合議の上で政を行うよう、改めていくべきと存じます
幕府が采配を振るわずに、誰が諸侯を束ねるのだ
帝がおわしまする
徳川将軍家は、その帝から諸政を一任されている
それは一時託されたというだけのこと。日本は徳川一家のものでは御座りませぬぞ。諸侯会議のお約束を賜りとう存じます。それを手土産に頂ければ、命に換えても長州との和議、調えて参りまする!

要は、幕府はもう駄目だ、共和政治に切り替えましょう、まずはその実現の約束をして欲しい、自分は代わりに長州との和議を調えてくるから!と言った次第ですね。

退室した勝さんは、今度は覚馬さんと大蔵さんに呼び止められ、手近な部屋に入ります。
挨拶もそこそこ、いきなり慶喜さんへの不満を爆発させる覚馬さん。

長州は禁裏に発砲した朝敵。然るべき処分を下すべきです!
ここで退いでは・・・何のために戦を始めだのがわがんねぇ!
そうよ。こんな馬鹿げた戦、一体誰が何のために始めたんだ

吐き捨てるように言った勝さんの言葉に、覚馬さんは「え?」と言うような表情を浮かべます。
きっと覚馬さんは勝さんに同意を求めていたのでしょうね。
一緒に「そうだそうだ」と言ってくれるものときっと思っていたのでしょう。
けれども勝さんの示した反応は、覚馬さんの思っていたものとは違うものでした。
覚馬さんは、一戦も交えないで出陣を取りやめることは卑怯で得心が行かない、と言います。
一方で勝さんは、たとえそれが卑怯で見っとも無くても、一日も早くケリを付ける方が世の中のためになる、と言います。

それでは、長州一藩にご公儀が敗れでも良いど仰せですか!
べらぼうめ。幕府は長州に負けるんじゃねぇ、己の内側から崩れていくんだ。ご公儀の屋台骨はとうにガタが来てる。おい覚馬、おのしの目は節穴か!こんな戦に勝ちも負けもねぇ。勝ったところで幕府が一息吐くだけだ。その幕府ってのは、一体何だ?本を糺せば、数いる大名の中で一番強かったってだけのことだ、二百六十年の間、それで天下は治まって来た。だが、もういかん。幕府は年を取り過ぎた。見た目は立派な大木だが、中身はスカスカの洞だらけ。いつ倒れても不思議はねぇ
聞き捨でならぬ!安房守様は幕臣でありながら、ご公儀を貶めんのが!
幕臣も外様もねえっ!外を見ろ、世界に目を向けてみろ。日本は小せぇ国だ。内乱なんぞしてたら、忽ち西欧列強に食い潰される。徳川一家の繁栄と、日本国の存亡。秤にかけてどっちが重いか、よく考えてみろ

私は前回の記事で、休戦になった方が長州軍幕府軍双方で相応の戦死者を出さずに済む、というような、超現実的観点からのことを書きました。
勝さんの考えは、また私のとは違う場所に観点が置かれていますね。
しかし外に、世界に目を向けてみろ、と言われてしまうとは・・・。
会津に在りし頃の覚馬さんは、どちらかと言えば世界に、とまではいかずとも、外に目は向いてました。
少なくとも私にはそう見えました。
第3回で「井の中の蛙だ!」と、目上の重臣方に言い放った覚馬さんは、まだ皆様の記憶にも新しいかと。
そんな覚馬さんが、どうして勝さんに「外を見ろ、世界に目を向けてみろ」「おのしの目は節穴か」と言われるようになってしまったか。
・・・は、憶測になりますが、勝さんと覚馬さん、何処で差が付いたと言えば、勝さんは旗本だから所属している藩がなくて、覚馬さんには会津という所属藩がある、という部分にあるのだと思います。
(飽く迄これは私個人の見解ですので、賛同を求めているわけではありません)

だったら俺達は、なじょすれば良がった?都どご公儀を守るために他にどんな手があったんだ・・・

この覚馬さんの呟きは、「都の枠組みの中で、出来ることを必死に模索した会津藩」、という立場からのものですよね、完全に。
変な言い方に聞こえるかもしれませんが、覚馬さんが「節穴」と言われてしまった理由として、会津という藩に所属している藩士という身分だったから、というのは無視出来ないと思います。
こう書くと、それが良いとか悪いとか、会津に縛られていたとか、捉えようは人様々だとは思いますが、ともあれその結果が今の勝さんと覚馬さんの物の見え方に如実に表れているのだと。

さて、覚馬さんに厳しい一言を突き刺して行った勝さんはそのまま単身で宮島に行き、大願寺で長州藩士の広沢兵助さんと井上聞多さんと停戦交渉をします。
慶応2年9月2日(1866年10月10日)のことです。
会談はスムーズに進んだようですが、長州は領地の返還だけは断固応じませんでした。
それでも停戦交渉は手際よく終わり、勝さんお見事大手柄!と思った矢先、信じられないことが起きます。
勝さんにしてみれば、共和政治の実現を取り付けたかったのでしょう。
だから和睦を調えてくる交換条件として、それを慶喜さんに提示した。
あの場では春嶽さんと申し合わせて上手くやったつもりでしょうし、実際慶喜さんもしてやられたと言わんばかりの顔をしていましたが、慶喜さんは更にその上を行くお方でした。
慶喜さんは、将軍の喪に服するため、という名目を以って朝廷から休戦の勅を引き出したのです。
それについては前回の記事の末尾部分で触れましたが、それがどういう影響を与え、どういう流れの元、どのタイミングで行われたのかについてはまだ触れていませんでしたよね。
この勝さんが長州と停戦の話を纏め終えたというタイミングの元にそれは発せられたのです。
これでは勝さんのまとめた停戦の話は台無しどころか、長州から見れば勝さんは嘘吐きになります。
尚且つ、慶喜さんは、休戦は朝廷の意向だからと交換条件であった諸侯会議の約束はなかったことに、というような態度を取ります。
こんなことされたら、春嶽さんが怒って「ご宗家とはこれ限り!」と言うのも当然です。
勝さんも怒って辞表を出して、江戸に帰って行きます。
このときふたりが離れて行かなければ、幕末史はもう少し違ったものになってただろうなと思ったりもするのですが、去って行く二人の背を見て嘆いていても仕方がありません。

しかし、この慶喜さんにひと言物申したくなるのも確か。
という視聴者の心中を代弁するかのように、容保様が言って下さいました。

ご宗家は春嶽殿、安房守殿をも謀られたのですか?出陣の決意を翻され、ご自身が放った和議の使者さえも騙す。・・・それではあまりに
不実だと言うのか?

さらっと言えてしまう辺り、本当流石慶喜さんだと思います。
しかも一片の悪気もないと来たものですから厄介この上ないですが、容保様は続けます。

このままでは長州も治まらず、また幕命に従って出兵した諸藩にも不満が広がりましょう
ではわしが出陣して敗れていたらどうなった?幕府の権威は地に墜ちる。それこそ長州の思う壺ではないか
なれど信義に背いては、幕府から人心が離れまする
構わぬ。泰平の世に胡坐を掻いた幕府など、一度壊れた方が良いのだ。この戦ではっきりしたのは、長州一藩にしてやられるほど幕府が弱いということよ。旗本八万騎など当てにはならぬ。幕府を鍛え直さねばならぬ。黴の生えた軍制から職制の大本に至るまで、全てを作り直す。・・・それが、将軍の務めだ
ではご宗家は、将軍職を・・・?
無論、継ぐ。わしでなくて、誰にこの役目が務まる
ならば何故今まで渋っておいでだったのです
老中共に担がれるだけの、飾り物の将軍にはなりとうないからよ。長州攻めは、この手で片をつけた。わしが将軍職に就くことを阻むものはもう何もない。武士の棟梁に相応しい将軍が、強い幕府を率いてこそ、諸藩は服従し、朝廷との和もなり、国はひとつにまとまるのだ

慶喜さんは多分、出来るだけ責任回避をしてるんでしょうね。
それと、こんなこんがらがってややこしくなってるご時世だからこそ、トップに立つなら自分の意思が迅速に反映される組織体制を整えておきたいと言ったところでしょうか。
整えた上で、漸くトップに立つ=将軍になる、という筋書きがかねてより慶喜さんの頭の中にはあったのでしょうが、如何せん誰もそこまで慶喜さんを理解出来ていなかったというか、慶喜さんの思考回路に誰も付いて行けてなかったと言いますか、だから何となく彼からはひとりで突っ走ってる感じが拭えません。
それに、自身の身を削る覚悟のない人が頂点にある組織って、絶対に組織としてやって行けないと思うのですよ。
その慶喜さんに、会津の助けがいると迫られ、将軍宣旨が下るまではどうか都にいて欲しいと頼まれる容保様は本当憐れです。
画して、漸く見えかけた帰国というゴールがまた遠ざかったわけですが、その間にまた歴史は七転八倒していきます。
しかし会津藩の皆様だって黙ってはおらず、慶喜さんの帰り際、官兵衛さんが「愛しい故郷を捨てたのは義のためにこそまるで雨雲の中の月真心が見えぬこれより我らの取るべき道は」などと槍の演武(どう考えても慶喜さんへの痛烈な批判)をしておりましたが、慶喜さんの神経にかかればそんなものは鼻で笑って終わりです。

幕府方からは不満茫々な慶喜さんの第二次長州征伐の終わらせ方ですが、岩倉村でこそこそと動いている岩倉さん達にはなかなか手痛い策だったようです。

しくじったわ。慶喜が戦を放り出した時には、これぞ天与の好機と、若手公家たちに幕府を糾弾させたのやが。・・・慶喜の根回しに先を越されてもうた
背後にはフランスが付いております。慶喜はフランスの手を借りて、兵制の刷新、幕政の改革に取り掛かりました

大久保さんの言う、背後のフランス、というのはフランス軍事顧問団のことで、彼らの一部(ジュール・ブリュネさんなど)は後の函館戦争まで幕府軍と共に戦います。
本当はイギリスにも軍事顧問団の要請が行ってたのですが、イギリスは薩英戦争以来薩摩と関係を深めてましたので、薩摩の敵に塩を送るようなことはしなかったのです。
ともあれ、西洋のものを取り入れることに何の抵抗も覚えない慶喜さんは、「強い幕府」を作ることに着手し始めます。
しかしここで幕府が強くなられて、はてまたかつての幕府らしい力を取り戻してしまったら、岩倉さんたちにとって不都合この上ありません。
困ったことになる、と漏らす岩倉さんに、西郷どんは腹を括る時かと言います。
即ち倒幕に向けて本腰入れて取り掛かるということで間違いないでしょう。

仮に戦をするとして、勝てるのか?相手は腐っても幕府やぞぉ
幕府方十人をば倒すのに、こちらは一兵で十分。・・・幕府の命脈は、既に尽きておいもす

強ちこれが法螺でないのは、第二次長州征伐で兵制改革を遂げた小勢の長州が、大軍の幕府軍を打ち負かしたことで既に実証済みです。
況してや薩摩は長州よりも先にそれに着手していましたからね。

一方会津では、ひとりの女性が江戸より帰国を果たしました。
江戸詰勘定役・中野平内さんの長女、竹子さんです。
会津戦争に於ける知名度としては、八重さんと同等かあるいはそれ以上の方ですよね。
雪さんに続いて八重さんまで薙刀で打ち負かしてしまう竹子さんですが、それもそのはずで、彼女は幼少期に江戸の赤岡大助さんに師事して薙刀を学び、道場では師範代を務めるほどでした。
この赤岡さんは、照姫様の薙刀の師に当たるお方です。
会津が京都守護職を拝命する前は、江戸藩邸の目付職を務めてまして、竹子さんは17歳くらいの時に乞われてこの赤岡さんの養女になっていますが、2年後に赤岡家から離縁されています(だから記録には「赤岡竹子」ではなく「中野竹子」で残ってます)。
守護職拝命以降は禄を離れて、会津城下の北西にある坂下というところに道場を開いたようです。
竹子さんはそのお供をして、国許に参られたのだとか。
江戸生まれ江戸育ちの竹子さんからすれば、これが初めての会津です。
鳥羽伏見の戦いの後に、江戸から会津に引き上げたという資料もありますが・・・竹子さんの正確な会津入りはいつなのでしょうね。
というのはいまはさて置き、赤岡さんは書も歌もよくする方でしたので、弟子で養女でもあった竹子さんも当然その手解きは受けています。
同時に、ドラマでは黒木メイサさんが演じておられますが、実際の竹子さんも非常に美しい方だったようで、まさしく才色兼備な方です。
江戸の長屋では「会津名物業平式部小町はだしの中野の娘」と誰知らずとも謳い始めたのだというのですから、相当ですね。
そのパーフェクト女史の竹子さん、八重さんが鉄砲を撃つことを聞いて、眉を顰めます。

鉄砲?何故そのようなものを?強くとも、鉄砲はただの道具。武士の魂が籠る、剣や薙刀とは違います

これに対して、負けたくないと言った八重さんの表情は微笑んでましたが、心中を察するに薙刀でも負けて、その上鉄砲まで「ただの道具」と言われてしまったのですから、どうしようもない敗北感のようなものは感じていたのではないでしょうか。
竹子さんは今後も出てくるでしょうので、また様々なことは折々に触れていくことにします。
しかし眉を顰めた鉄砲に被弾して命を落とすことを見据えれば、なかなかに皮肉の利いた演出ですね。
今年の大河ドラマはこのパターンが例年より多いような気がします。

平馬さんのお宅で、広沢さん達相手にスナイドル銃(シュナイダー銃)の解説をする覚馬さん。
洋学所の様子は最近とんと描かれていないように思えますが、覚馬さんなりにきちんと兵器の新しい知識や情報は仕入れているようで、説明の口調も滑らかです。
スナイドル銃は長州が使っていたミニエー銃と違って、装弾方式が後装式(手元に近い位置で銃弾を入れられる)なので、覚馬さんが指摘しているように弾込めが従来よりも早くなります。
両者に有効射程距離及び最大射程距離の差は左程ありませんが、装弾に於ける時間のかかり具合が違うのは、いざ鉄砲を持った同士の打ち合いとなると大きな差になってくると思います。
また、もうひとつスナイドル銃とミニエー銃で違うのは、弾丸の形状です。
スナイドル銃の弾丸はエンフィールド弾という弾丸と薬莢が一体となった実包です(撃発式)。
対してミニエー銃はゲーベル銃と同じように、つまり以前八重さんがよくやっていたように、銃口から粉火薬、弾丸を装填してラムロッドで突き固める方式です(雷管式)。
ずらずらと書きましたが、戦国時代の火縄銃から続くやり方で弾込めをしていたのがミニエー銃・エンフィールド銃までで、スナイドル銃以降は現代我々が想像するような、手元から弾込め出来るライフル的な銃になった、という変化だけ頭に留めて頂ければ幸いです。
このスナイドル銃が更に連射可能になったのが、第1回冒頭で八重さんが持っていたスペンサー銃ですね。
追々それも登場するでしょう。
話が脇に逸れましたが、覚馬さんはスナイドル銃が、戦の終わったメリケンやヨーロッパからどっと流れ込んで来ているということを指摘します。
主な市場は勿論長崎で、会津に限らずどの藩も最新兵器は揃えたいでしょうが、中でも特に資金豊かな薩摩は既に買い付けているだろうと広沢さんは言います。

会津も砲戦に備えねば、次に戦となった時には、長州攻めの二の舞になりやす

先程登場された竹子さんは、銃をただの道具のようにしか見做してませんでしたが、都の皆様はたとえ「ただの道具」だとしても、剣や薙刀はもう戦の主流ではないことを流石に分かっておいでです。
しかしやはり、薩摩や長州と比べると後手に回っている感は否めませんね。
そこへ大蔵さんが、樺太国境画定交渉のロシア使節団として、外国奉行の小出大和守さんのお供に加わってロシアに発つのでその挨拶に来ます。
それと、平馬さんが家老職に昇進したので、そのお祝も。
平馬さんの実兄、信節さんも、亡くなられた神保内蔵助さんに変わって家老職に就いているので、兄弟揃って家老になっているのですね。

山川家は家老の家格。にしも、いずれ会津を背負う男だ。異国で見聞を広げるのも、修行の一づど思え

平馬さんは大蔵さんにそう言いますが、実際大蔵さんはこのロシア行で、ロシアだけではなく第2回パリ万国博覧会などにも足を延ばしたようです。
ちなみにこの使節団の中には、榎本武揚さんもいました。

今に誰もが大手を振って海を越えで行ぐようになる。が・・・黒船が来た頃、勝先生がそう言ってだ。それが真のごどになりつつある。俺も一度はこの目で異国を見たがった・・・

ぽつりと漏らされた覚馬さんのつぶやきに、どうしようもなく胸が苦しくなります・・・。
長崎の医者にかかれば、という励ましを受けて笑う覚馬さんですが、その笑顔すら痛々しいと言いますか無理しているような感じで。
江戸遊学していた時も、禁門の変で戦の最中だというのに薩摩のスペンサー銃に見惚れていた時も、思えば覚馬さんは真新しいものに子供のように夢中になる人でしたよね。
そんな人ですので、もし異国を見られたのならどれだけはしゃいだことやら。
そうこうしている内に、二葉さんが俄かに産気づき、元気な男の子を生みます。
覚馬さん曰く「蒸したての饅頭みたいな匂いがする」と言われた彼の幼名は寅千代くん、後の梶尾景清さんですね。

さて、色々あったものを、とりあえず将軍職を継ぐと決めた慶喜さんの宣旨は、12月5日に下ると定められました。
その前に、孝明天皇は容保様と一対一で話をするため、容保様を御所へ呼びます。

宗家は裏も表もある男や。わしも心底から信ずることは出来ぬ。なれど、今は難しい時や。あの利口さがないと将軍職は務まらぬであろう。・・・そなた、帰国を願い出てるそうやな
宗家が十五代将軍を相続されるのを見届けましたならば。会津の役目はもう終わりに御座います。都は将軍家がお守り致します。我らが留まっていては、却って争いの種になりましょう。・・・会津は、敵を作り過ぎました故
そうやな・・・。もう引き留めるわけには行かぬな。都を守護するそなたの苦労、よう分かっていた。・・・なれど、わしにはそなたが支えであった。心の深いとこで通い合う物があったからや
主上・・・勿体無いことを・・・
我らは、重い荷を背負う多者同士。ご先祖代々、守り、培って来たものを、両肩に背負うて歩んでゆかねばならぬ。・・・時には、因循姑息との誹りも受けながら。今の世では壊すことよりも、守り続けることの方がえろう難しい。その苦しさを、まことに分かち合えたのはそなたひとりであった
主上・・・
将軍宣旨が済んだら、早う国許に戻れるよう、わしも力を尽くす。・・・会津から教わった。・・・もののふの誠は、義の重きに着くことにあると。・・・長い間誠を尽くしてくれて、ありがとう

落涙する容保様ですが、私も一緒に目に涙を滲ませてました。
いえ、確かに元を糺せば幕末史がこんがらがったのも、やれ攘夷だの何だの出て来たのも、幕末史後半部分は慶喜さんが引っ掻き回したせいですが、前半は孝明天皇の異国嫌いに端を発していると言えなくもないのですよ。
だから、自分の異国嫌いっぷりがどれだけの波紋を呼び込んだのか、何処まで帝が分かっておられるのかは甚だ謎なわけですが、帝も帝で偽勅で自分の言葉はちゃんと伝えられないわ何だで、帝なりの苦労や心痛があったのは、今までドラマを通じて見てきた通りです。
容保様も、幕府と孝明天皇どっちが大切なの?と幕閣に誤解されてしまうほどに孝明天皇に赤心を捧げ続けたお方で、そんな立場故に帝の信頼というのは心の縋り所のようだったも同然だったでしょうから、変な言い方をすれば孝明天皇がおられたから容保様も今まで頑張って来られたのですよね。
その人に、自分の苦労を深く理解してもらえただけでなく、感謝の言葉まで述べられたとあっては、容保様でなくても涙を零しますよ。
京都守護職として彼是五年間、色々あったけれども、慶応2年12月5日(1867年1月10日)には慶喜さんが第十五代征夷大将軍に任ぜられ、ようやく会津の重い任が終わりを迎えようとしていました。
けれども神様も仏様も、会津に対しては何処までも無慈悲なようで、慶喜さん将軍就任から僅か20日後の慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御します。
余りの急な死に、本編後の「八重の桜紀行」のナレーションでも毒殺されたのでは、と触れられていましたが、諸説あって確定にはまだどれも至っていません。
ただ言えますのは、家茂さんと孝明天皇が相次いで亡くなられたことで完全に公武合体は崩壊し、会津は帝の信頼という後ろ盾を失うことになったということです。
歴史はこれから、会津視点で見ると、悪い方にばかり傾いて行きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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