2013年4月11日木曜日

歴史の跫音を聴く 其の弐

此方の記事から内容が続いてます)
さて、お腹も満たされ、いざ後半戦です。
午後からのとある目的地を目指して、京都府庁から御所を横切って、まずは新島旧邸を目指しました。
八重さんの二人目の夫、新島襄さんの私邸ですね。
二階建てのコロニアル様式、和洋折衷の建物。
明治11年(1878)に建てられたもので、当時の生活の様子などが色濃く残っているということで胸を躍らせていざ!・・・と思いきや、本日の予約なしでの見学受け付けは終了したとのことで。
今度はキッチリ予約を入れて来ようと、心に刻んでしぶしぶと新島旧邸を後にしました。
そのままトコトコと歩いて向かったのは、丸太橋の袂にある女紅場址。
明治5年(1872)から八重さんはここで権舎長・教道試補として働いていました。
後の府立第一女学校、現在の鴨沂高校で、当時京都の女子教育の魁となった場所でもありました。
八重さんはここに4年務めましたが、襄さんと婚約すると、すぐに解雇されます。
理由は襄さんが「キリスト教だから」。
まだ異国の宗教に対して、かなり風当たりが強かったことがこの件からも窺えます。
そのまま更に、丸田町を東にてくてく。
目的地に行く前に、一旦岡崎道の向こうで左折して北上して、到着したのが金戒光明寺、通称「黒谷さん」。
まずは文殊塔に向かって階段を上り、会津藩殉難者墓所に行きました。
ここには会津藩士352名が眠っています。
秩父宮勢津子妃殿下(松平容保の孫)御手植えの槙の木などもありました。
その手前の西雲院の中には、鳥羽・伏見の戦いの時、会津藩兵の遺体を埋葬したと言われている会津小鉄さんのお墓もありました。
しばらくお墓に参らせて頂き、文殊塔の麓まで行って、ああここは本当に高台にあるんだな~と思ったりなどして。
色々思いを巡らせながら歩き回って、黒谷さんを後にしました。
非常に静かな空間です。
大河の影響で、あまり賑々しくなってほしくないなと思いますが、さてさて。
再び丸太町通りへ出て、東へてくてく。
ほどなく熊野若王子神社に到着しますので、そこから境内の脇の道を抜けて、目的地である同志社墓地を目指します。
写真の道は結構最後の方のものですが、如何せん山道です。
しかも滑り易いですし、最低限の整備しかされてないので、間違っても大河ドラマ効果キャー!な軽いノリで来たりしないことをお勧めします(そもそもそんな心構えで墓地に来ないで下さい)。
特に女性の皆様、ヒール、ブーツの類は絶対に辞めておきましょう。
猪が出没する山道です、と言うと、少しはこの厳しい言い方の意味がお分かり頂けるでしょうか。
さて、そんな山道を、私は山道慣れているのでひょいひょいと10分ほど。
そこにあるのが襄さん・八重さんのお墓です。
襄さんの碑銘は勝さんが、八重さんの碑銘は徳富蘇峰さんが書いたものです。
襄さんは、勝さんとは10年以上に及ぶ親交があって、同志社の事業拡大の相談などもしていたようです。
少し離れたところに、覚馬さんのお墓が。
墓碑銘には「明治廿五年十二月廿八日歿 友人南摩綱紀追悼揮涙書之」と書かれてました。
南摩綱紀さんは会津藩士の方です。
山本権八さん(八重さんのお父さん)、佐久さん(八重さんのお母さん)、三郎さん(八重さんの弟)のお墓。
覚馬さんとうらさんの娘、みねさんのお墓。
覚馬さんと、覚馬さんの二人目の奥さん、小田時栄さんとの間に生まれた久榮さんのお墓。
他にも徳富蘇峰(猪一郎)さんや、新島家、外国人教師たち、同志社関係の方々のお墓が周りにはありました。
方々キリスト教であったので、お寺の墓地には入れなかったようです。
ここへのお墓参りを以って、此度の旅は幕を閉じました。。。


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