2013年4月18日木曜日

第15回「薩長の密約」

薄暗いとある船室から始まりました、第15回。
甲板に出たのは元治元年6月14日(1864年7月17日)に函館から密航した七五三太さん。
彼を乗せた船はその後、まず上海に到着しました。
その後、ボストンへ向かうアメリカ船「ワイルド・ローバー号」に乗り換え、そこから1年ほどの太平洋の旅を経て慶応元年閏5月28日(1865年7月20日)にアメリカ大陸の土を踏みます。
その時には名は既に襄となっており(船中でジョーと呼ばれていたので)、22歳、数えで23歳です。
この航海中、襄さんは自分の刀を8ドルで船長に売り、漢訳の聖書を買っています。
英語での意思疎通が出来なかったから、そのための勉強でしょうか?
「刀=武士の魂」の概念が浸透してた世界観の中で、この時点で襄さんが先験的な性質というか、まあそういう傾向であることはよく分かるエピソードですね。
ちなみに襄さんを函館から上海まで乗せて行った船長は、密航の手伝いをしたということで会社から解雇処分を受けています。
そういえば密航は国禁で(今でいうなら出国手続きを受けずに海外に行くような感じですかね)、とすれば襄さんは犯罪者と言うことになり、後に八重さんと結婚する相手が犯罪者で良いのかと言う気もしなくもないですが、安中藩では襄さんのお父さんが襄さんの死亡届を出して、死亡扱いされていたのが現実のようです。
しかし書類の面では死んでいるはずの人間が、明治になって日本に戻って来たときにどうなったのでしょうかね。
その辺りはまだまだ私も勉強中です。
ちなみに襄さんの左の眉の辺りに傷がありましたが、あれは彼が子供の頃に遊んでいた時に負った大怪我の跡が残ってしまっているのです。
当時8歳だった襄さんは、あの傷を恥じてそれから二か月間、家から一歩も出なかったそうです。
現在私たちがよく目にする襄さんの写真からも、その傷跡ははっきりと見て取れます。
昔の写真なので落剥とか傷とかと思うかもしれませんが、あれはそういったものではないのです。

一方、御所では慶喜さんが如何にも神経質そうに苛立っています。
・・・この人が穏やかに映された時って、ほとんどありませんよね(笑)。

二条関白はまだか。長州処分を決める大事な朝議に、何をしておいでなのだ

二条関白こと二条斉敬さんは、慶喜さんとは従兄弟の関係に当たります(斉敬さんのお母さんが斉昭さんのお姉さん。斉昭さんは慶喜さんのお父さん)。
慶喜さんが近々徳川幕府最後の将軍になることは皆様ご存知でしょうが、斉敬さんは日本史上最後の関白になります。
まあその関白なしでは、朝議が始まらないので慶喜さんは苛立っているわけです。
何の朝議かと言えば勿論長州征伐(第二次長州征伐)。
使いの方が、斉敬さんは薩摩に足止めされているが、ほどなく参ると伝えます。
正しくその通りで、斉敬さんは別室にて大久保さんに、長州征伐の意味のなさを説かれていました。

一匹夫の策謀で朝議が左右されるとは何事!斯様なことでは某も守護職も、揃って職を辞するほか御座りませぬ。後はご勝手になされませ!

じゃあ今すぐ守護職辞させてあげてくださいよ、切実に、と寸暇を置かずに突っ込みたくなったのは私だけじゃないはずです。
まあこれは慶喜さんが、公家を脅すために言ったことなので、更々その気はないのでしょうけどね。
公家としても、御所(=自分達のいる場所)を守ってくれる力=京都守護職に都を離れられると困るので、結果的にはこの脅しは効いて、慶応元年9月21日(1865年月日)、第二次長州征伐の勅命がようやく下されます。

年が明けまして、慶応2年(1866年)。
海の向こうの話になりますが、ドフトエフスキーが「罪と罰」を連載し始めたのは確かこの年ですね。
分厚い雪に覆われている会津ですが、山本家では穏やかに新年を迎えたようで、一家揃って氏神様の祠に手を合わせてご挨拶。
勿論、八重さんと所帯を構えた尚之助さんも一緒です。
家の中ではみねちゃんが、覚馬さんから送ってもらったぽっくり下駄の鈴を嬉しそうに鳴らしてはしゃぎ回ってます、本当平和な風景です。
しかし覚馬さんが会津を離れて4年、赤子の時に別れたきりのみねさんは、覚馬さんの顔も覚えていないだろうと佐久さんは溜息を吐きます。

んだげんじょ、長州との戦が済んだら、あんつぁまも、今度こそお戻りになんべ
今年の内には都を引き上げることになろうと、日新館でも話しています
ご重役方も、その見通しだ
んだら、今年はきっと良い年になんな

佐久さんが微笑みながらそう言いますが、歴史の教科書を繰るようにしてこの年に起こる主な出来事を浮かべますと、薩長同盟成立に坂本龍馬さんの方の寺田屋事件、第二次長州征伐、三条制札事件 、家茂さん病没、慶喜さん将軍就任・・・などなど、実は良い年どころか先行きの悪すぎる年なんですよね。
いえ、ですが私が言いたいのは、佐久さんなんて呑気な!ではなくてですね(如何な聡明な佐久さんでも、先に起こる歴史のあれこれまで見通せていたはずがありませんから)、本当そういう風に、今年はいい年になるだろうと何の疑いもなく信じていた人々が、そう遠くない内に悲惨な戦争に否応なしに巻き込まれていく、その様子をちゃんと見ていくためにも、この八重さんパート(会津パート)が存在するのだろうと思っているということです。
常に政局が動きつつある都の様子は、在京の覚馬さんの目を通して、故郷の様子は会津本国にいる八重さんの目を通して、そのふたつの線を並行させて描いて行く。
これが従来の幕末大河と『八重の桜』の大きな違いではないでしょうか。
ふたつの線、という点では『篤姫』もそうだった気がしますが、あれはもう片方の線を担うのがゆくゆくは薩摩の重鎮となるべきお方だったのですし、ちょっと違いますよね。

さて、ではそのもうひとつのパートを担う覚馬さんと言えば、官兵衛さんと同行して市中見廻りの最中でした。
皆様の視線の先には、筒袖に股引姿の歩兵。

(画像:増田家淳、1987、きものの生活史、新草出版)
幕府も洋式調練に着手し、歩兵の服装が筒袖に股引か裁着袴(膝から下が細い袴)に変わったのです。
何となく、着こなしの問題もありましょうが遠目にはジャージにしか見えませんが、この頃にジャージは存在しませんしね(笑)。
第二次長州征伐が囁かれて数カ月が経過していますが、一向に実行に移らない現状に、幕府兵の士気は下がっているのが現状です。
また薩摩が邪魔をしているのだろうかと言う官兵衛さんに、広沢さんは薩摩藩邸に探りを入れたが大久保さんにはねつけられたと言います。
八月十八日の政変の時に結ばれた会薩同盟の立役者、悌次郎さんがいないので、薩摩との橋渡しがどうにも上手く行っていない様子ですね。
そのため、会津の皆様には薩摩が何を企んでいるのか分からないどころか、企んでいるのかどうかすら定かではないと言った状況に。
これから目まぐるしく変わる政局の中で、会津が後手に後手に回ってしまうことになりますが、その様子の一端が既にほのめかされていますね。
そんな彼らの前に新選組が現れます。
斎藤さんが率いているので三番隊でしょうか、しかしこの時点ではもうあの有名な浅葱のだんだら羽織は着用されてないはずですが・・・まああれがないと視聴者には「新選組」って分かり辛いからでしょうか。
官兵衛さんは「市中警固は別撰組だけで事足りる」と仰ってますが、正直新選組と別撰組とじゃ受け持つ区画が違ってたはずなので、市中警固中に鉢合わせ何てことはなかったと思うのですが。
ともあれ、新選組に対しては予想通りと言いますか、会津にいた時から色々思うところもあって挑戦的な態度を取る官兵衛さん。
ですが酔った歩兵が暴れたのを、髷を一閃して斬った斎藤さんの腕の見事さと、「味方は斬らない」の言葉に評価が変わったようです。
新選組(特に斎藤さん)と会津は後々にも交流を持つことになるので、ここでの関係修復はそこへ繋げていくためのものでしょうね。

幕末史の大きな転機として欠かせない「薩長同盟」ではありますが、大概にして過去の幕末大河、幕末小説では、この場に坂本龍馬さんを登場させてきました。
そのため、龍馬さん最大の偉業=薩長同盟、と認識している方もさぞや多いことと思われます。
そういう方には、今回のこの龍馬さんの扱われ方は物足りない感じだったのではないでしょうか(苦笑)。
何せ龍馬さんの登場と言えば、後ろ姿とほんの少しの横顔と、「土佐脱藩浪士」というナレーションのみ。
私が龍馬好きだったら、塩の入ってないフランスパンを食べさせられたような心地になると思いますが、この描き方はこの描き方で、新鮮且つ正解のひとつだと思います。
上記の通り、薩長同盟に龍馬は不可欠!という印象がどうにも一般的には強いですが、薩長同盟は別に龍馬さんだけのお手柄ではないのです。
逆に言わせて頂くと、そういうことですので、寧ろ従来の大河で薩長同盟と言ったら西郷さんよりも桂さんよりもまず龍馬さんを前面に、とされていたスタイルが私には謎でした。
色んな新しい斬り込み面から幕末を描いている「八重の桜」ですが、龍馬さんの扱いについての既成概念をある意味で打ち砕いたのもその一環かと。
それはさて置き、桂さんのいる部屋に大久保さんと向かった西郷どん。
桂さんは袴の裾を見る限り、旅支度を整えていることは一目瞭然です。
ちなみにここのお宅は薩摩藩士小松清廉さんのお宅です。
それと省かれてますが、実はこの会談の前に既に一回場を設けられていたのですが西郷どんが来なくって、お流れになりました。
なので実質的にこの会談は二回目の正直となります。

坂本さあから聞きもした。国にもどいやっとな?
もう十日になる。これ以上長居しちょっても、貴藩と同盟の話はできゃーせん
まあ待っちゃんせ
あんたがたは長州に幕府の処分を受けろと言う。同盟の話はそれからじゃと
毛利公の隠居と石高減知、一旦受け入れて謝罪すれば、戦は避けられるものと思いもす

しかしそれは出来ないという桂さん。
長州側としては、禁門の変での発砲の罪は、家老三人の首を差し出したことと、それらを補佐した人物ら4人を斬罪にしたことで区切りがついてるのです。
その上更にまだ幕府からの処分をほいほい受け入れては面目が立たない、というのが桂さんの言い分。
それに対して、今は意地を張っている時ではないというのが西郷どんの言い分です。

長州は!・・・仲間たちはっ、あんた方薩摩と会津を相手にして一歩も退かんかった

語る桂さんの脳裏に思い出されるのは、燃える鷹司邸で別れた久坂さんの姿です。
ふたりの道はいつの間にか分かれてしまっていたのかもしれませんが、それぞれに想いがあったから、桂さんは自分の方の道ではない分の意思までちゃんと拾って行こうとしてるんだなというのが、次のやり取りでよく分かりました。

ここで意地捨てては、死んだ仲間たちに合わす顔がない。たとえ!防長二州を焦土と化しても!・・・それだけは、出来んのじゃ!

意地に巻き込まれて焦土にされる地に住んでる長州の民が哀れですが、ここでそれを突っ込むのは無粋でしょう。
あるいは待敵令が藩内庶民に至るまで配布されてるので、その辺りは問題なかったと見ても良いのかな。
桂さんの言葉を受けた西郷どんは、少しの間を置いて、分かったと譲歩の姿勢を見せます。
つまり、幕府の要求はそれでは呑まなくても良いと。
西郷どんにしても、この第二次長州征伐には大義を見い出せていないようです。
というより、薩摩以外の諸藩も、この第二次長州征伐には大義を見い出せていません。
理由は個々でありましょうが、まず共通するところで言えば、桂さんが自分で言っていたように、禁門の変で禁裏に発砲したことについては家老の首を切ったことにより、既にお裁きが終わっていると各藩も見做していたからです。
あとは第一次長州征伐の時にも散々書いた気がしますが、各藩の財政状況ですね。
前回出兵して、また今回の出兵にも耐えられるほど、諸藩の財政状況は芳しくありません。
なので幕府は諸藩の足並みを揃えるために、朝廷の力を借りて第二次長州征伐の勅許を出させ、「朝廷からの命令だから」という大義名分を得て第二次長州征伐を発令することになります。
それがこの場面より少し先の、慶応2年6月7日(1866年7月18日)に起こる出来事です。
先のことはさて置き、大義を見出せないと言っているけれども実際問題薩摩は萩口の攻め手を任されているではないかと、冷静に桂さんは指摘します。
ですが、西郷どんは兵は出さないと言います。
どころか、薩摩に同調して出兵を断る藩が出てくると。
事実西郷どんの言葉に通り、第二次長州征伐では薩摩のような外様大藩が、薩摩に倣って出兵拒否を申し出てくることになります。
しかしそこで桂さんが気にかかるのは、3年前に結ばれた会薩同盟の存在。

会津とはどうなっちょる?薩摩は会津と、結んじょったはずじゃ
既に、手は切りもした
もしもん時は、会津と一戦交えてでん、お味方致しもす

あの時会津と手を組んでおかなかったら復権出来なかったのは薩摩なのに、まるでひと夏の恋人のようにあっさり切り離すこのえげつなさが正しく薩摩ですね。
けれども思うに、もう少しこのときの長州が「朝敵」の立場であることを明確に描いたら良いのにとな。
その方が、そんな立場の藩と手を組もうとする薩摩のえげつなさがよく分かるじゃないですか。
会津主体なら猶更、長州を「朝敵」だとはっきり作中の誰かが言葉に出すなり何なりしても良いと思うのですが。
その薩摩のえげつなさを…多分桂さん(長州)は良く知っているでしょうね。
何せ第一次長州征伐の時に、長州人を以って長州人を処置させるような策を出したのは、他ならぬ参謀だった西郷どんですから。
長年の敵同士、と桂さんは言いますが、その一言に込められた意味は想像以上に深いです。
尚且つ天下を敵に回している今の長州と手を結ぼうとする西郷どんの思考回路が、いまいち読めない桂さん。
これは相手が薩摩なだけに、疑って当然ですよね。

最早徳川だけに国を任せちゃおられん。そん思いは、薩摩も同じごわんで。そのために組むべき相手は会津じゃなか
むしろ会津は、都から取り除かねばなりもはん

幕府を取り除くなら、家訓で幕府側に縛られ続ける会津もまたその対象になります。
何より西郷どんがこの間から口にしていた共和政治は、前にも書きましたが徳川幕府が大きな顔して天下に居座ってる限り、永遠に来ないものなのです。

桂さあ、手をば組みもんそ。お望みの洋式銃も、薩摩の名義で調達致しもす。そいで、信用しっくいやんせ

薩摩名義で調達した銃を、龍馬さんの亀山社中が長州に運び入れ、逆に長州からは米の取れにくい薩摩に兵糧米を返す・・・という物流の流れは、既に過去の幕末大河で何度も触れられて来たことです。
ですが、自分を信用して欲しいと頭を下げる西郷どんはなかなか新鮮なような。
西郷さんの誠意が通じた・・・わけではないでしょうが、長州の現状奪回のためには、薩摩と手を結ぶことが肝要としたのでしょう、桂さんは密約を受け入れます。
こうして慶応2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が結ばれます。
後日桂さんは龍馬さんに、この会談の内容を確認する手紙を送付しています。
以下の六ヶ条は、その手紙の中で掲げられたものです。
 一、戦いと相成り候時は直様ニ千余之兵を急速差登し只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両処を相固め候事
 一、戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力之次第有之候との事
 一、万一戦負色に有之候とも一年や半年に決而潰滅致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度有之候との事
 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に屹度尽力との事
 一、兵士をも上国之上、橋会桑等も如只今次第に而勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事
 一、冤罪も御免之上は双方誠心を以相合し皇国之御為に砕心尽力仕候事は不及申いづれ之道にしても今日より双方皇国之御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力可仕との事
ざっと文字を追って頂いたらお分かり頂けると思いますが、朝敵の汚名を背負っている長州のために薩摩が朝廷工作をして汚名を晴らしてあげますよ、と言ってるんですよね。
長州としては一番気にかかってる患部を取り除いてくれるというのですから、おそらくこれには、武器を融通してくれるよりも嬉しい節があったのではないでしょうか。

場所は移りまして、新選組西本願寺屯所。
新選組は、壬生の八木・前川邸から元治2年3月10日(1865年4月5日)西本願寺に屯所を移しています。
先日の一件で官兵衛さんの新選組に対する蟠りが解けたのか、新選組隊士と別撰組隊士が交流試合をするほどに打ち解けています。
新選組と覚馬さんは、実は交流があるので、そこを触れるのかと思いきや、触れられませんでしたね・・・これって贅沢な悩みなのでしょうか。
ちなみに象山先生の息子さんは、父の仇が取りたいと、覚馬さんを介して新選組に入隊してます。
その後の彼の動向は、知る人ぞ知るということで・・・気になった方がおられましたら調べて見て下さい(苦笑)。
試合の様子を官兵衛さんと並んで鑑賞していた近藤さんですが、実は近藤さんは昨年(慶応元年11月)に、、第一次の戦後処理の長州訊問使・永井尚志の給人役として安芸へ同行してます。
近藤さんの手紙に、「(自分に)万一の時、新選組は歳三へ任せ、天然理心流は沖田へ譲りたい」というものが残っているのですが、それはその時故郷の佐藤彦五郎さんに宛てて書かれたものです。
しかし結果としては近藤さんは長州に入国を許されず、無念の帰京となってしまったのですが、池田屋で長州の人をばっさばっさと斬った張本人が長州に行こうとしたのですから、命がけですよね。

慶応2年6月7日(1866年7月18日、幕府軍の軍艦富士山丸が上関村沖から砲撃し、第二次長州征伐の戦端が開かれます。
第二次長州征伐は長州側の人からは「四境戦争」とも呼ばれるのですが、何故「四境」かと申しますと、まずは以下の図をご覧下さい。

(地図作成協力:CraftMAP様)
幕府は長州の、四つの国境、石州口(山陰道側)、芸州口(山陽道側)、大島口(瀬戸内海側)、小倉口(関門海峡側)からそれぞれ兵を寄せました。
故に、「四境」です。
本来ならば薩摩が萩口の攻め手を担うはずだったのですが、出兵を拒否しましたので・・・もし出兵拒否しなかったら「五境戦争」になってたかも。
そんな仮定は脇に置いておくとして・・・。
戦の様子について色々と補足し出すと、本当に枚挙に遑がないのでざっくり割愛しながら筆を勧めさせて頂きます。
後日別に第二次長州征伐の戦況についての記事を設けるのは・・・きっと時間的に無理でしょうから。
各国境の幕府軍長州軍の布陣は以下の通りです
①石州口・・・浜田藩・福山藩・因幡藩・松江藩(約3万人)VS南園隊・精鋭隊・育英隊(約1000人)
②芸州口・・・彦根藩・高田藩・紀伊藩・大垣藩・明石藩(約5万人)VS岩国兵・遊撃隊・御楯隊・鷹徴隊・鴻城隊・干城隊(約1000人)
③大島口・・・松山藩・幕府艦隊(約2000人)VS商農隊(約500人)
④小倉口・・・小倉藩・肥後藩・柳河藩・唐津藩・久留米藩(約2万人)VS奇兵隊・報国隊・長州艦隊(約1000人)
数だけ比べれば幕府軍の圧勝に思えます。
「~藩」が並ぶ幕府軍とは違い、長州がすべて「~隊」となっている点、本当日の本を統べる幕府と二国の主でしかない長州の戦いなのだな、と思います。
ところが、「戦は数でするものではない」とよく小説などでは目にするセリフですし、有田中井手の戦いなどでも見られるように、少数が大軍を跳ね返した例は古今少なくありません。
それは幕府軍も歴史として知っていたでしょうが、まさか今度はその歴史を自分たちがそうなるとは思ってなかったでしょう。
ですが現実は、幕府軍が敗北を重ねました。
まずドラマの、「大島が奪われたのに続いて、芸州口の彦根勢も敗れたとの報せじゃ」について。
大島方面幕府編成軍は、松山藩に加えて宇和島藩・徳島藩・今治藩ら四国の藩で形成されていましたが、松山藩以外の三藩は幕府からの出陣命令に応じようとしませんでした。
故に幕府艦隊の援護はあれども、松山藩一手で大島口を担わなければならない事態になったのです。
大島口を守る長州側から見れば、これは好機ですよね。
本来ならば四藩相手にしなければならないところを、松山藩の相手だけでよくなったのですから。
先程も触れましたが、数の上では長州が圧倒的に不利です。
ということは、敵の人数が減ってくれるに越したことはないですし、余力があれば回せるところに兵力を回したいというのも長州にはあったはずです。
しかも幕府は、流石に松山藩だけで大島口を任せるのは不安に思ったのか、本来芸州口担当だった幕府の歩兵隊二個大隊を大島口に回しています。
芸州口は幕府の主力部隊がいましたので、これもまた長州から見れば、主力部隊の兵力を少しでも分散させたことにもなるわけです。
しかし長州の大村益次郎さんは、少ない戦力で如何に大軍の幕府と戦うかについての戦略を練っておりまして、そんな彼は大島防衛に兵を割くよりも長州本土の防衛にその戦力を回した方が良いと考えました。
また、大島を占領されても左程問題ないと見ていたのでしょうか、大島を破棄する方針を固めますが、捨て駒のようにすると大島住民の反発を買いますので、気持ちばかりの兵を配置していきます。
大島口の長州軍の兵数が、他の三か所に比べてはっきりと分かるほどに少ないのは、そう言った背景事情からでしょう。
且つ大島口を守る兵の装備は西洋化され切っておらず、調練もままならぬ状態でしたので、最初は幕府軍が圧勝し、大島を占領します。
ですが占領後、幕府軍の島での素行が良くないどころか最悪で、また大島のそんな惨状を見過ごせば長州の人心は長州から離れるということで、長州は大島奪還の策を練り始めます。
この大島奪還に至るまでの高杉さんや世良修蔵さんの活躍は割愛させて頂きます。
結果的に幕府軍は、大島を長州に奪還されます。6月19日のことです。
その数日前の6月14日(1866年7月15日)、芸州口の攻め手を任された彦根藩の軍・井伊隊が、安芸と周防の境に流れる小瀬川に差し掛かります。
しかし数で負けていることを自覚している長州軍は、幕府軍相手にゲリラ戦を持ちかけます。
山中を駆け巡り、物陰に身を隠しつつ、絶妙な射撃の腕を以って奇襲されたら、井伊隊もそりゃ大混乱しますよね。
加えて長州軍が使っているのは、薩長同盟によって薩摩経由から買うことが出来たミニエー銃なので、有効射程距離300メートル、射程距離800メートル。
そんな距離から弾が飛んで来るゲリラ戦を持ちかけられた井伊隊は逃走、海へ逃れようと舟に人が殺到して溺死する人や、彦根兵の代名詞「赤備え」の具足も重いとその場に捨てていく始末。
井伊の赤備えは有名ですし、彦根兵にとっては誇りだったでしょうが、近代化の壁の前では時代遅れ以外の何物でもなかったのですね。
そして先方の彦根兵が敗走してくると、後続していた高田藩(榊原隊)もそれに倣うように、一戦も交えずに撤退します。
芸州口の初戦は、こうして長州側が制することになりましたが、そのまま東へ進んだ長州軍を食い止めたのが、紀州藩藩主補佐の水野忠幹さんの隊。
忠幹さんの隊は井伊隊とは違って西洋式装備が整っており、且つ隊を率いる忠幹さんの士気が高かったので隊の士気も高く、長州軍と忠幹さんの隊は一進一退の戦況を極めました。
残りの三方面は手痛い敗北を喫した幕府軍ですが、芸州口のみ、忠幹さんのお蔭でそれを免れることが出来ました。
それでも全体図から見れば、数で圧倒していたはずの幕府軍は長州軍に惨敗です。
そんな芳しくない戦況報告ばかりが届けられる慶喜さんの元に、更に追い打ちをかけるようにして幕府軍総大将である家茂さんが発病したとの報せがもたらされます。

一方、征伐軍に加えられていない会津にも、戦況は刻一刻と伝えられます。

報せによると、長州兵の銃は悉く命中。幕府軍の弾は敵に届きもせぬどのごどにごぜいます

平馬さんの言葉に、火縄銃や、ゲーベル銃であっても最早時代遅れだと権助さんは言います。
覚馬さんは、長州の銃はミニエー銃で、ゲーベルとの違いを説明しつつ、鎧具足などを着けていては鉄片が弾と共に体にめり込んで命取りになると説明しました。
蛤御門の時、覚馬さんがっつり鎧具足着込んでましたけど・・・あの時はまだその認識が薄かったということなのでしょうかね(苦笑)。
ちなみに長州の弾が命中して、撃ち返す幕府の弾が命中しなかったということについて補足説明をさせて頂きますと、400メートル離れた距離で撃ち合った時、単純に確率だけを計算すると、ゲーベル銃は20発に1回しか当たらないのに、ミニエー銃は2発に1回当たることになります。
銃だけが戦は決まらないのではないかと内蔵助さんが言いますが、これは昔ながらの兵法をまだ信じ切っている発言ですね。
しかしそこで、修理さんは、はて妙だと言います。

大量の新式銃、長州は一体何処で手に入れだのでしょう
んだな。長州は朝敵だ。銃の売り買いは禁じられでる
何者かが武器の買い付げに手を貸しているのでは・・・。広島、宇和島、あるいは・・・薩摩

長州と薩摩が長年の旧敵同士だということをよく知っている内蔵助さんは、まかさと言いますが、大蔵さんの分析は冷静です。

一時会津と手を組んだのも、目先の邪魔者を除ぐのに我らの武力を使っただげがもしんねえ
では、我らが邪魔になれば・・・
会津をも、除こうどする

事ここに至って、ようやく薩摩の黒い影に気付いた会津は、急ぎミニエー銃の調達に取り掛かろうとします。
しかし会津藩の財政は、かねてよりこのブログでも触れているように逼迫してる何てレベルのものじゃありませんので、調達したくてもお金がありません。
どうにもこうにも、手詰まり感が否めない会津です。
ですがその少し後、土佐さんは覚馬さんと修理さんを呼び出し、覚馬さんには近々銃の買い付けに長崎へ行くように命じます。

勝手向ぎは苦しいが、もうそったごども言っていられねぇ。長州に勝る新式銃を揃えねばならぬ。金の算段にちっと時がかがる。秋には出立出来るよう、支度しておげ

とは言うものを、どうも泥縄感があります。
そしてもうひとつ、覚馬さんを長崎に行かせる理由に、眼病が専門の医者に覚馬さんの目を診せるというのがありました。
この医者はアントニウス・フランシスカス・ボードウィンさんを指しているのでしょうが、土佐さんは覚馬さんの様子がおかしいので、心配していたようです。

馬鹿者、眼病のごど、なじょして早ぐ報告しねぇ。にしの目は、会津になくてはならぬ。治すごどもお役目ど思え

しかしその場に水を差す様に、家茂さん薨去の報せが入ります。
家茂さんが亡くなられたのは、慶応2年7月20日(1866年8月29日)の大坂城に於いてでした。
数え13歳の時に将軍となり、享年は21歳。
第二次長州征伐の、幕府軍敗色が日毎濃くなる中での出来事でした。
幕府からの公式発表はその死からひと月後の8月20日(1866年9月28日)とされていましたが、家茂さんの死を悼むと同時に考えなければいけないのがその後継者です。
家茂さんは、孝明天皇の妹、和宮さんを正室にしており、側室はなく且つおふたりの仲はそれはそれは睦まじいものだったそうですが、子はありませんでした。
そこで家茂さんは、死に際して自分の後継は従弟の田安徳川家の徳川亀之助さんにと言い残しますが、このとき亀之助さんはわずか3歳、数えで4歳の少年でした。
如何な先代将軍のご指名と雖も、現在幕府は第二次長州征伐の難局を乗り越えなければいけない重要な時で、その舵を取る将軍が少年では話にならないわけですよ。
というわけで亀之助さんへの相続は却下され、十五代将軍に前尾張藩主徳川慶勝さんも候補に挙がりましたが、既に隠居の身は将軍に相応しく無いと判断されました。
そうして白羽の矢が立ったのが、性格難ありですが英邁(何といっても家康様の再来とまで謳われたほど)な慶喜さん。
7月27日に「徳川宗家」は相続しますが、将軍職に就くことは固辞しました。
これを今風に言うとどうなるか、良く使われる譬えですが、「与党党首となった慶喜さんが、総理大臣になるのは嫌がっている」という風に捉えて頂くのが一番理解して頂きやすいかと。
ともあれ将軍ではありませんが、徳川宗家を継いだこの時に「徳川慶喜」が誕生します。
そんな慶喜さんを説得するために、春嶽さんが二条城を訪れます。
何故引き受けて頂けないのかと詰め寄る春嶽さんに、慶喜さんも負けていません。

不肖の身じゃ。老中たちが何と言おうが、そのような大役はとても務まらぬ
要らぬご謙遜を・・・。今は戦の最中にござります。天下安泰のため、何卒お引き受け下さりますように
のう春嶽殿。よく似た話があったな。公武一和のため、天下のためと請われて奥州の一大名が京都の守護を引き受けた。身を粉にして働き、今も四苦八苦の有様じゃ。そういえばあの折、説得に当たったのも貴公であったな

春嶽さんからすれば、元々十四代将軍の座を家茂さんと争った身の上なんだから、十五代将軍に就任したって良いじゃない、と思っていた節も多分あるでしょう。
ですが慶喜さんを弁護させて頂くなら、慶喜さん自身はあの折一度も「将軍になりたい」と思ったことはなく、寧ろあの時は慶喜さんの周りが慶喜さんを神輿として担ぎ上げたのです。
「余はもう、そなたたちに担がれる神輿ではない」の一言は、その経験から来ているのでしょう。
慶喜さんのその経験について、もう少し弁護がてら掘り下げますと、十四代将軍の座を巡っての争い→日米修好通商条約→後継者は家茂さんに→慶喜さんに登城差し止め・隠居謹慎の処分が下される(安政の大獄)、の流れは第4回で既に描かれたことです。
以前の記事でもその流れは触れさせて頂きました。
慶喜さんがこのとき下された処分を全て解かれるまで、隠居謹慎蟄居の処分自体は翌年に説かれますが、再び日の目を見るには約3年の歳月を待たなければいけませんでした。
年齢で言えば数え22歳から数え25歳までの間です。
神輿として担がれたのなら、たとえ神輿自身にその気がなかったとしても、処分を免れないのは仕方がないと言えばそうなのでしょう。
けれどもそれが水戸の人に同情を呼ぶ水となり、波紋となって、少なからず桜田門外の一件にも繋がって行ったかもしれません。
一橋家に養子入りしていたとはいえ、慶喜さんは水戸の烈公(斉昭さん)の息子ですし・・・。
自分の意思に関係なく神輿にされ、神輿として相応の責任を負わされ、その神輿とその父(斉昭さん)に同情した水戸浪士が桜田門外の一件を起こした、と繋げて行ってみると、慶喜さんがどうにもこうにも「責任を負わされる」と言う立場から逃げ腰なのも、受け入れられるかどうかは個々で違うと思いますが、多少の理解を示してあげることは出来るのではないかと、私なんぞは思います。

そして8月8日、慶喜さんは参内して将軍名代(将軍空席なので名代も何もありませんが・・・)として長州征伐に出陣することを奏上し、孝明天皇から節刀を賜ります。
大坂城に戻った慶喜さんは、旗本達を鼓舞するようなことを言いますが、その場に立ち会っていた覚馬さんと大蔵さんは空々しくその言葉を聞いていました・・・うん、今まで散々苦い思いをさせられてきた会津藩ならそう言う反応になりますよね(苦笑)。
旗本軍をフランス式編成に改めて・・・と、やる気スイッチの入っていた慶喜さんですが、覚馬さんたちの反応が現実となったと言いますか、
けれども幕府軍の九州方面の拠点である小倉城が、小倉藩士の放った火で炎上し、事実上陥落したとの報せを聞くや否や、慶喜さんはあっさり出陣を取り止めます。
それが8月11日のことですから、慶喜さんのやる気スイッチの発動はわずか3日間の起動だったのですね(苦笑)。
しかし孝明天皇の勅命まで賜って出陣するのに、形勢不利だから出陣を辞めますと言うのはあまりに身勝手が過ぎますので、家茂さんの喪を理由に休戦の勅命を長州に対して出して貰おうと言うことになります。
尊王を謳う長州からすれば、勅命は無視出来るものではありませんし、幕府側としても「休戦」なので、「敗戦」の汚名だけはそれで免れます。
筋は通ってますし、名案と言えば名案なのでしょうが、慶喜さんのやる気に煽られてた人たちからすれば肩透かしも良いところですよね。
確かにそのまま休戦にならなければ、長州軍幕府軍双方で相応の戦死者が出たわけですが、流石慶喜さん素晴らしい名案!と膝を叩いて賛同出来ない後味の悪さを残すのは、一体何故でしょうね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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