2013年9月25日水曜日

第38回「西南戦争」

明治9年(1876)、相国寺門前の地所5800坪を覚馬さんから500円で譲り受けた襄さんは、そこに同志社英学校を移転させます。

真新しい木の匂いがする
私達の新しい学び舎です。若者たちがここに集い、研鑽を重ね、やがて世界をよりよく変えて行く。わくわくしますね
おめでとう、襄

新築の校舎を見渡して、そういう八重さん。
そこへ、前回の灰汁の強さは何処へやら、熊本バンドの皆様が荷物を運び入れたり・・・と、「自分達の学校だから、自分達が大きくしないと」と言います。
同志社英学校は基本的には寄宿舎学校でしたので、彼らにとってはここは学校であると同時に生活空間の場所でもあるのですよね。
そこへ猪一郎さんが新聞を持って駆け込んで来て、西郷どんの挙兵の報を持って来ます。
(以下、ずらずらと記述が続くので、政府側の人間はこの色で、薩摩軍側の人間はこの色で表記させて頂きます)

明治10年(1877)2月15日、西郷どんは「拙者儀、今般政府へ尋問の廉これあり」と、熊本鎮台司令長官の谷干城さんに対して状況の趣意書を送り、薩摩軍の先発隊が鹿児島を出発します。
その数は17日にかけて総員1万3000人ほどになり、彼らは鹿児島では珍しい大雪の中の進発となりました。
しかしこの装備は、軍隊が平時に刑軍する程度の者でしたので、戦にしては無謀無策な様相だったと言われています。
出兵の大義名分は、「政府に尋問することがある」、つまりドラマ内で言われていた「政府の不正を糾弾し、大義を天下に問うべし」と同じですね。
薩摩軍はまず熊本の政府軍を鎮圧すべく、熊本へ向かいましたが、このとき熊本鎮台兵は3300人しかおらず、その内の3分の2は徴募兵だったので、薩摩軍は熊本城はすぐに攻略出来るだろうと楽観視していた節があります。
しかし、加藤清正さんが渾身の技術を込めて作り上げた熊本城が、そんな楽観視を見事に打ち砕き、結果熊本城はこの実戦を経て「難攻不落」が実証されることになります。
それについてはまた後ほど触れることにして、殆どスルーされた西郷どんの挙兵に至るまでの出来事を、いつものことながら拙い補足させて頂きます。
西郷どんが鹿児島に設けた私学校については、以前の記事で既に触れました。
その私学校、徐々に鹿児島で大きくなったは良いのですが、関係者が鹿児島県の区長や副区長の席をほとんど占めてしまったり、警察を牛耳ったり・・・と、鹿児島は木戸さんに「独立国の如し」と言われるような場所になってしまうのです。
何より地租改正に従わず、よって鹿児島の税金は国庫に納められることはありませんでした。
これは明治政府としても放っておくわけにはいきません。
何より明治9年からこっち、全国各地で不平士族の反乱が相次ぎ、不平士族らに決起を期待されている西郷どんと、明治政府の関係は非常に不安定とも言えました。
その不安定が揺らぎ、西郷どん挙兵に至ってしまった理由が、槇村さんの言ってた「内務卿の大久保さんが、鹿児島に密偵を送り込んで様子を探らせちょった。で、その密偵が西郷暗殺を企んじょると、私学校の者らが騒ぎ出したんじゃ」です。
大久保さん警視庁大警視の川路利長さんに命じて、23名の密偵を鹿児島に送り込みました。
目的は鹿児島の視察と、私学校党の内部分裂工作です。
私学校も一枚岩だったわけではなく、旧藩時代の城下士と外城士(郷士)の対立が残っていたので、薩摩出身の大久保さんはそこを巧みに突いたのでしょう。
けれどもこの密偵の動きはすぐに私学校党に察知され、私学校党谷口登山太さんを逆スパイとして密偵団内に潜入させます。
その逆スパイの谷口さんから、密偵団は「ボウズヲ、シサツセヨ」という密命を帯びていることを知った私学校党は、「シサツ=刺殺」とし、政府ボウズ(密偵団の暗号で、西郷どんを指す)の暗殺計画を立てているのだと騒ぎ出します。
実は本当か嘘かは分かりませんが、この「シサツ」は「刺殺」ではなく「視察」という意味の「シサツ」で明治政府は言ったのですが、どうもこれが取り違えられてしまったようです。
それに加えて、三菱商会の赤竜丸という汽船が、明治政府の依頼を受けて集成館や陸軍省の草牟田の火薬庫から武器弾薬を運び出したのですが、これが鹿児島県庁に何の連絡もないことだったので、密偵団のこともあって私学校の生徒たちは穏やかにおれません。
私学校の生徒たちの緊張が極度に高まるそんな中、1月29日に松永高美さんら二十数名が草牟田の火薬庫を襲い、運び出されようとした火薬を略奪、翌日には1000人以上の私学校生徒が再び火薬庫を襲撃し、これが2月2日まで続きました。
私学校の幹部らには無断で行われたこの襲撃でしたが、幹部らも彼らを咎めず、寧ろこれを契機に政府との全面対決の姿勢を取ります。
陸軍省の火薬庫を襲うということは、立派な明治政府への反逆です。
(追記:後日、政府軍が運び出そうとしたのは「弾薬」ではなく、プレス加工の薬莢の製造設備ではというご指摘を受けました。当時その設備は薩摩にしか存在せず、故にこれは戦争を想定しているあの局面で、確保必須の物資だったと。仰る通りだと思います。ご指摘とご教授、ありがとうございます)
結果から見ると、赤竜丸が火薬から武器弾薬を運び出したのは、明治政府私学校への挑発だったのでしょうね。
何せ私学校側が火薬庫を襲った報を受けた大久保さんは、「密かに心中には笑を生じ候くらいにこれ有り候」と伊藤さんに手紙を書いていますから。
挑発でなくても、口実を待ち望んでいたと考えて良いと思います。
ドラマでは、西郷どんと戦うことに苦悩しているようにも見受けられましたけどね(苦笑)。
当の西郷どんといえば、この火薬庫襲撃は予期していなかったようで、また望んだことでもない。
どころか、その時は狩猟に出掛けていたようで、事態を知った時には私学校生を叱責したそうです。
けれども私学校の生徒の身柄を、火薬庫襲撃犯として明治政府に差し出せるかと言われれば、それも出来ない。
苦悩の末に、西郷どんは「私学校の生徒に自分の命と体をやる」という決断を下し、西郷どんが旗頭となる形で西南戦争へと繋がって行きます。

2月5日、薩摩軍で募兵が開始され、この日だけで3000人が志願してきます。
作戦会議も設けられまして、西郷小兵衛さん(西郷どんの末弟)は「一軍は熊本へ、一軍は日向路から豊前・豊後に、一軍は海路長崎を襲い、長崎・熊本を押さえて全国の反政府派の放棄を促す」「長崎を奇襲して政府の軍艦を奪い、海路で神戸と横浜に向かうべし」という戦略を述べます。
これに対して、野村忍助さんは「海路長崎から東上」「土佐の反政府派と連携し上阪」「熊本から福岡を制する」の三方面戦略を提案しました。
しかしこの二つの案は結局採用されず、採用されたのは桐野さんの、正攻法ともいえる熊本攻めでした。
天下に大義を問う戦で、奇襲は義戦の名を辱めると彼は考えたのです。
何より神風連の乱で熊本鎮台200名足らずの不平士族に占拠された先例があり、それが説得力のある前歴と、過剰な自信となっていたのです。
桐野さんは「百将兵を叩くには、青竹一本で十分。此の丈が折れる前に東京に着くだろう」と言っていたほど。
が、しかしいざ彼らが熊本県下に入ると、鎮台兵は開戦に備え熊本城に籠城の構えをみせていました。
鎮台の司令長官の谷さんは、熊本城の天守閣や城下を焼いてと背水の陣としていたのです。
城下を焼いたのは、会津戦争の時に会津が鶴ヶ城かを焼いたのと同じ理由、即ち遮蔽物を無くすためです。
のみならず、砲台は増設され、地中には地雷が埋められ・・・と、言うならば「掛かって来るならどこからでもどうぞ」な状態ですね。
そんなこんなで明治10年2月22日、52日にも及ぶ熊本城籠城戦の幕が遂に切って落とされたわけですが。
熊本城って、今でこそ「天下の名城」だの「難攻不落」だの言われてますが、加藤清正さんが築城した時から薩摩軍が攻め寄せるこの瞬間まで、じゃあ誰かが攻め寄せてその防御の高さを実感したのかって言われたら、多分誰もしてないのですよ。
つまり、さっきも似たようなことをチラッと書きましたが、彼らが攻め寄せたからこそ、熊本城は防御力の高さを立証出来たのです。
肝心の熊本城の戦いですが、薩摩軍は攻撃部隊を二つに分け、城の南東面と西北面から進攻しました。
が、熊本城はなかなか落ちません。
熊本城の堅城っぷりをここで話し出しますと、熊本城が大好きなので大きく脱線してしまいそうなので割愛させて頂きますが、苦戦を強いられた薩摩軍は熊本城を全軍で総攻撃するか、包囲戦に持ち込むかで作戦会議を開きます。
一旦は全軍総攻撃に作戦が固まりかけましたが、熊本城で時間を費やしている内に政府の軍勢が整って四方から攻められればどうしようもなくなると、3000人の兵を熊本城の抑えに残し、他の兵は上京すべしという意見が出ます。
実際遡ること2月19日、有栖川宮熾仁親王を総督として西郷軍追討が発令されており、追討軍は九州へと向かっておりました。
戦況を見た西郷どんは、総攻撃ではなく包囲策の方を採り、坪井川と井斧川を堰き止めて熊本城下を水没させ、主力部隊は田原坂へと北上して行きました。
しかし包囲ではなく、全軍総攻撃にするべしと、伊地知さんたち西郷どんを批判しました。
彼らは、熊本城の陥落は自軍の勝利を意味し、逆にその攻略失敗は自軍の敗北を意味していると感じていたのでしょう。

さて、田原坂の戦いに移る前に、西南戦争に明治政府側の征討軍として参加した会津藩士について触れたいと思います。
「ただひとつ、無念なのはな、会津が、逆賊の汚名を晴らす日を、見届けずに死ぬことだ。戦で奪われたものは、戦で取り返すのが武士の倣い。頼むぞ!そうでねぇと、そうでねぇと、死んだ者たちの無念が晴れぬ!」と、切腹直前の萱野さんはそう浩さんに言いました。
その言葉を思い出すような素振りは見せてませんでしたが(きっと心の中では思い出してくれていたと勝手に解釈しています)、萱野さんの言葉にあった、「戦で奪われたものを戦で取り返す」ための戦がやって来ました。

薩摩人見よや東の丈夫が提げ佩く太刀の鋭きか鈍きか

この浩さんの対処、本物は5m程の掛け軸で、現存しております。

会津の戦から10年、やっと正々堂々薩摩軍と戦える時が来た
薩摩に一矢報いねぇと、地下の仲間たちに顔向け出来ねぇって皆勇みだっている
それは?
殿より賜った正宗だ。大失態を挽回する折が、とうとう巡って来た
会津の名誉を、この戦で取り返す!

この会話のやり取りからも察して頂けるように、西南戦争は、戊辰の折に「逆賊」の汚名を着せられて「官軍」を名乗る薩摩に負けた会津が、その鬱憤やら積年の恨みを晴らす場でもあったのです。
なので、後に八重さんが戦の経緯を聞いて「日本人同士がまた銃を撃ぢ合う何て・・・」など悲観するのは、間違ってないけど少しずれてる気がするのですよね。
鶴ヶ城開城の時、容保様に「会津は逆賊ではねぇ」と言っていたのは何処の誰ですか、別人さんですか、と突っ込みたくなります。
つまりドラマの八重さん、逆賊の汚名を着せられていた会津藩士が、官軍として戦に臨めることの意味が本当に分かってないんですよ。
その点、山川さん達の活躍を聞いて「お手柄だなし」と無邪気に喜び、いずれ逆賊の汚名も晴れるだろうという佐久さんやみねさんの反応が「正解」というわけではありませんが、会津人としては自然な反応ではないかと。
八重さんってそんな、聖人君子じゃないんですよ。
後々に同志社に薩摩の生徒が入って来たときには、やっぱり薩摩出身でない生徒と目に見えて贔屓してしまって、襄さんに窘められたというエピソードもあります。
なので、あんまりこういう言い方は好きではありませんが、会津人がこのときまだ持っていたであろう薩長への恨み辛みは、八重さんの中にも少なからずあったはずです。
なのにあまりにも無関心というか、他人事というか、「あ、そう、戦が起きてるのね。何で戦何てするんだろう?」って言ってる感がひしひしと八重さんから伝わってきてしまうのですよ。
で、そんな八重さんに、いやあんた会津人だったらもっと違う反応が来るんじゃないの?そもそも知ってる人大勢出陣してるのに、何でそんなに達観したような態度取れるの?と。
うん、要は八重さんから温度を感じないんですね。
会津あっての八重さんであって、八重さんあっての会津じゃないはずなのに、何故あんなに八重さんの中から「会津」がすっぽり抜け落ちてしまっているように見える(八重さんから会津を感じられない)のか・・・何か、不思議と違和感がない混ざったような、平たく言えばドラマの中の「八重さん」を私が完全に見失った瞬間でした。
あんなに八重さんから「会津」を感じられなくして、ドラマは彼女をどうしたいのでしょうね。

まあ私のドラマの八重さん考察は脇へ置いておくとして、新聞が西南戦争を報じる頃、襄さんが女学校設立の許可を取って来ます。
この女学校が、現在の同志社女学校の前衛になることは語るまでもないことだとは思いますが、八重さんは自分の考える女学校の方針を襄さんに伝えます。

女紅場は女学校を作るための参考になると言ってくれたげんじょ・・・私は、もっと違う学校を作って貰いたい。女紅場は良き妻、良き母となるため、女子の仕事を学ぶところです。それも大切だけんじょ・・・それだけでは探している答えは見つからねえ
答え?
また、戦が始まった。会津を滅ぼし尽くしてまで新しい国を作ったはずなのに、戦をしなければならぬ訳がまことにあんのか・・・。答えを探すには、学問がいると思うのです。だから女子も学ばねばなんねぇ

しかし襄さんも同じ思いを抱いていたようで、女学校の時間割は万国通史、代数学、日本通史、化学・・・などなど、同志社英学校とほぼ同じです。

私はね、八重さん。知性と品性を磨いた女性には、男子以上にこの世の中を変える力があると信じてるんですよ

ちなみにこの襄さんが作ろうとしている女学校について、補足させて頂きます。
明治9年(1876)の5月から6月頃、京都御所の北側にあった公家屋敷・柳原邸(現在の京都迎賓館)のデイヴィス方同居の アリス・スタークウェザーさんの部屋で、京都府農齊藤某さんの女の子(8歳くらい)と、丹波綾部旧藩主九鬼隆備さんの二女に、スタークウェザーさんが勉強を教えていたのが、事の始まり。
そこに高松センさん、下村智喜さん、下村末さん、伊勢ミヤさん、本間春さんらが加わり、八重さんもスタークウェザーさんと共に英語のスペリングや小笠原流の礼儀作法を教える側に加わりました。
つまり女子塾が開始されたのです。
デイヴィスさんと、旧三田藩主の九鬼隆義さんの関係については以前の記事で触れましたが、隆備さんはこの隆義さんの御兄弟ですから、そう言った関係で姪御さんがこの女子塾の生徒の一人にいたと考えられます。
やがてその女子塾に通学生と寄宿生が増え、教師陣にはH.F.パーメリーさんも加えられることになり、明治10年4月22日に襄さんが京都府へ女学校の開校許可を願い出、28日に許可されます。
つまりこの新島夫婦のやり取りのシーンは、明治10年の4月から5月頃にかけてのものと推測出来ます。
同志社女学校が、開校当初は「同志社分校女紅場」でしたは、9月に「同志社女学校」と改称されました。

熊本城籠城戦の幕が落とされた2月22日の夜、北上して来た薩摩軍を、政府軍は植木で迎え撃ちます(植木の戦い)。
最初は政府軍の乃木希典隊200に対し、薩摩軍も村田さん(シルクハットにフロックコートという格好+アコーディオンを手放さなかったという伝説的歴史をこの戦で刻むことになる、あの村田さんです)率いる小隊200ほどでしたので兵力互角でしたが、途中から薩摩軍の伊東直二さんの部隊が合流し、乃木さんは敗走してしまいます。
翌日、増員して兵力を1800に増やした薩摩軍に対し、乃木さんも他の隊を合流させて700人ほどでそれを迎え撃ちますが、乃木隊は再び敗走します(木葉の戦い)。
しかもこのとき、薩摩軍乃木隊の退路を先回りして塞いでいたので、乃木さんは命からがら、部下に身を挺され庇って貰いながら九死に一生を得ました。
南東方面で敗走した政府軍ですが、翌日から反撃し始めます(高瀬の戦い)。
乃木隊は木葉から田原坂まで進軍し、田原坂を確保します。
政府軍4000に対し、薩摩軍は2800政府軍が要地である稲荷山を占拠したことから形成が政府軍有利となり、弾薬が尽きた篠原国幹隊が無断で撤退したことから村田さんの部隊も撤退を余儀なくされ、戦場に取り残される形となった桐野隊は全滅の危機に瀕しますが結露を見出し山鹿まで撤退します。
木葉の戦いでは敗北を喫しましたが、高瀬の戦いで巻き返した政府軍
その政府軍の進撃を食い止めるべく、薩摩軍が待ち構えたのが田原坂です
田原坂は加藤清正さんが、熊本城防衛の北の要地として切り拓かせた、1.5kmほどの坂道で、熊本城に通じる道で唯一大砲を引いて通れるだけの道幅がありました。
薩摩軍はここを防衛ラインとし、政府軍との17日間の激戦を繰り広げることになる「田原坂の戦い」が3月4日、始まります。
ところで、先ほど田原坂は乃木隊が確保したということについて触れました。
なのに何故そこに、薩摩軍が防衛ラインを築いているのか・・・については、実は政府軍、何故か確保したはずの田原坂から撤兵するように命令を下したのですよね。
後から見ればこれが如何に失策だったか・・・というか、誰がこんな命令を下したのか・・・謎です(汗)。
そう言うわけで、一度は確保していたのに撤兵した田原坂に、今度は薩摩軍に防衛ラインを築かれ、政府軍は苦戦することになります。
民謡にも「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」とある通り、両軍はここで一進一退の攻防戦を繰り広げ、夥しい死者を出します。

たかが坂一つ、何で破れんのじゃ!何が足りん!小銃か!?この坂を越えん事には熊本城の救援には行けん。どねぇしたもんか・・・

そう福岡の政府軍本営山縣有朋さんが荒れておられましたが、かく言う山縣さんだって、戊辰の折、北越で榎峠がなかなか突破出来なかったじゃないですか(笑)。
とまあ冗談はさておき、逃した魚は大きかった、改め、撤兵した田原坂は重要地点だった、と言ったところでしょうか(本当撤兵の命令出したの誰よ・・・)。
田原坂は守るに易く、攻めるに難い地形(人工的にくり抜かれた凹道で、道の両側に5~6メートルの高い土手があるので、通ろうとすると頭上より攻撃される)で、政府軍は一日平均32万発の小銃弾、1000発の大砲弾を撃ち込みました。
地の利は守る薩摩軍にありましたが、薩摩軍は弾薬不足に悩まされ、現地の農民を雇って政府軍の撃った弾丸を拾わせていたりしたそうです。
何だか会津戦争の折、鶴ヶ城で行われていたのと同じことを、あの時攻め手だった薩摩が行っていた何て、少し不思議ですよね
しかし火器に頼る政府軍が、17日間もここで激闘を繰り広げることになったのは、兵の訓練不足を火器に頼っていたところに原因があります。
そんな彼らは、白兵戦で頭上から斬りかかってくる薩摩兵に震え上がってしまい、号令が出ても進めない、なんて状態もあったようで。
これじゃあ駄目だということで、政府軍はこれの対処として警視隊巡査抜刀隊を結成します。

諸君らの中に命を捨てて敵軍の土塁に斬り込む者はおるか!?

と人を募る大山さんの台詞は、そういった背景から出て来たものです。
官兵衛さん斎藤さんがそれに志願してましたが、この抜刀隊は士族出身者で組織された警視庁巡査の中から100人を抜粋したもので、非常に勇敢に戦いました。
その中にいた官兵衛さんが元会津藩士だと知ると、「まさか会津と手をば組んで、あにさあと戦するこつになっとはな」と大山さん。
まあそうでしょうな、と視聴者の我々でも思うのですから、当時の彼らは世の中って分からないものだな~、とかなりしみじみ(?)思っていたのではなかろうかと・・・もしかしたら我々が想像するほど気にしてなかったのかも知れませんが。
そうして結成された抜刀隊として、容保様から賜った正宗を佩いて薩摩軍に斬り込む官兵衛さんでしたが、3月18日に被弾し、戦死します。

10年前、賊軍として追われた俺達が、今は官軍だ。官だの賊だの・・・時の勢い。武士はただ・・・死に物狂いで戦うばかり望みが叶った。戦場で斬り死に出来る。あ・・・ありがてえ

死に場所を求めていた、という言い方は少し違うような気がします。
(ちなみにドラマではどうしてもそう言う風に見えましたが、官兵衛さんが亡くなられたのは田原坂ではありません)
そんな暗い感情が似合うような人ではありませんよね。
辞世にある「君がため都の空を打ちいでて阿蘇山麓に身は露となる」からも察せるように、一に容保様(=君)と会津のため、と思ってこの戦に臨んだのだろうと。
そして官兵衛さん戦死の二日後、政府軍は遂に田原坂を制します。
田原坂の戦いは雨が多く、「薩軍に困るもの三つあり、一つに雨、二つに赤帽、三つに大砲」と謳われました(赤帽は近衛兵のこと)。
このとき薩摩軍の主力銃はエンフィールド銃で、先込め式の子の銃は雨に弱かったのです。
対して政府軍の主力銃はスナイドル銃なので雨に強く、そういったところも勝敗に影響を及ぼしたと考えられます。

一方で熊本城です。
薩摩軍によって包囲されていた熊本城ですが、政府軍応援部隊を八代南方の日奈久海岸に上陸させ、包囲軍に迫ります。
そんな中、浩さん救援部隊を率いて熊本城に入城(軍律違反の独断専行)を果たすという、会津戦争の折の彼岸獅子入城を彷彿させるようなことをまた遣って退けるのですが、本編では「4月12日、部隊を指揮して西郷軍の熊本城包囲網を突破した」のナレーションだけで片付けられてしまったのが、かなり寂しかったです・・・。
そういえば、有名すぎる「自分達は官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」の台詞もなかったですね・・・。
で、その熊本城に入城する前に、浩さんは不審人物に出くわします。
曰く、「犬を捜しちよお。見かけもはんやったな?」。
それで何故この不審人物が西郷どんだと浩さんが分かったのかは物凄く謎でしたが、西郷どんの犬好きっぷりを彼が知っていたということで無理矢理納得したいと思います。
殺気立つ浩さんですが、匕首一本持ってない戦意のない西郷さんを前に抜くわけにも行かず、代わりに問いをぶつけます。

西郷、訊くことがある。戊辰の折、会津は幾度も恭順を示した。それでもにしらは会津を朝敵に落とした。女子供も籠る城に大軍を以って襲いかかった!何でそこまで会津を追い詰めた!?
旧勢力が会津に結集してはいつまで経っても戦は終わらん
会津は人柱か!今のこの国は会津人が・・・会津人が流した血の上に出来上がっている!
そいを忘れたこつはなか。じゃっどん、もう収めんなならん。内乱は二度とは起こさん。おいが、皆抱いてゆく

会津は恭順はしてましたけど、恭順しつつも武装解除はしませんでしたし、奥羽越列藩同盟が結成されて刃向う気満々だったし・・・というのは敢えて触れないでおきましょう。
このやり取りの場面、要るか要らないのかは視聴者で分かれるだろうなと思いました。
要は西郷どんの「おいが、皆抱いてゆく」の台詞で括ってしまいたいんだろうな、ということなんでしょうが、その言葉に至るまでの浩さんとのやりとりが何とも言えない微妙さで・・・。
これ以上深く突っ込むと色々言われそうなので、ここで控えさせて頂きます。

西南戦争の最中、木戸さんは京都にいたのですが、ある日覚馬さんが襄さんと共にその木戸さんを訪ねます。

木戸さん、どうか停戦の勧告をお出し下さい。戦が続けば両軍に多くの戦死者が出るでしょう
内乱は田畑を荒し、人々を困窮させます
いや、最早行き着くところまで行かんとならんのじゃ。膿は出し尽くす。これは維新の総仕上げじゃ。さあ、もう行ってくれ

木戸さんはそう言いますが、史実ですとこの木戸さんの言葉は、実は覚馬さんの言葉でした。
政府軍と薩摩軍の勝敗の行方について尋ねられたとき、「是で維新の統一も出来、甚だ結構です」と覚馬さんは言ったのです。
「明治維新」の終わりを何処で区切るのかは、戦国時代の終わりを何処で区切るのかということと同じくらい、人によって様々です。
大きく分けますと、「大政奉還時」「江戸城無血開城時」「鶴ヶ城開城時」「五稜郭降伏時」「西南戦争終結時」、中には「日露戦争集結時」という声もあります。
覚馬さんにとっての「維新の完了」は、中央集権国家の樹立が完全なる意味で果たされた時であり、その妨げとなっている薩摩軍が排除された時、と言うことなんですね。
ちなみに覚馬さんは西南戦争の見通しを、こう述べています。
戦争は晩くとも本年十一月まで続かない、その故は、九州地方昨年の産米は何万石、その中本年二月までに大阪の蔵屋敷へ送米せられた分何千石残米何程、九州の総人口何程、薩軍の総数凡そ何程、兵を動かす糧食を考へねばならぬ。薩軍如何に決死の健児でも、食はずして戦へない

加えて史実の覚馬さんは、自分が薩摩に赴き西郷どんに投降するよう説得したい、と木戸さんに申し出ました。
戦争は憂えるが、大人物の西郷どんを失うのは惜しい、と考えていたようです。
木戸さんは有名な 「西郷・・・大概にしちょけ!」の言葉を遺し、西南戦争の終結を待たず、5月26日に世を去ります。

かつて薩摩藩邸のあった土地に、君らは学校を作った。西郷の蒔いた種は、君らの学校で芽吹くかもしれんな

この言葉は、「教育」という、今の時代に何が必要か考えて見出したものは同じだったのに、捉え方が違ったのか何だったのか、結局同志社と私学校が異なった道を言ってしまったことを示しているのでしょうか。
でも「教育」という、見出したものは西郷どんも襄さん達も同じだから・・・と。
ドラマの明治編の軸を「教育」に据えれば、もう少しこの辺り具体的な肉付け諸々が出来たでしょうに・・・何だか惜しいです。

薩摩軍が熊本城の攻略に失敗したということは、敗北を意味しているに等しいことでした。
しかしそれでも薩摩軍は降伏せず、保田窪、健軍で政府軍と有利に戦いを進めましたが御船で大敗してしまい、人吉まで退いて再起を図ろうとします。
が、政府軍に七方面から攻め立てられて敗走し、都城に再結集しましたが、政府軍に包囲網を敷かれ、7月24日には都城を放棄して佐土原~高鍋~美々津と敗戦を重ね、本営の延岡に行きます。
しかしその延岡も陥落し、それを奪還しようと薩摩軍は和田越に陣を展開しますが、ここで初めて西郷どんが陣頭指揮を執ります(和田越の戦い)。
けれども西郷どんの向こうにいるのは、政府軍5万の大軍・・・西郷どんの陣頭指揮で薩摩軍の指揮は上がりますが、それでもやはり人数と火器の差に押され、西郷どんは8月16日に全軍解散令を発します。
ここで薩摩軍に呼応する形で従軍していた各地の士族は次々と政府軍に投降しますが、私学校党の生徒ら600人西郷どんと運命を共にすることを決意してました。

ようやった。きばいやったな。皆、こいまでよう戦うた。じゃっどん、勝負はついた。降ろうち思う者は降ってよか

という西郷どんの言葉と、別府さんが、ここに至って卑怯未練を言うものはいない、皆西郷さんと共に死ぬ覚悟だと言うやりとりは、この辺りのことを意識してのものだと。
そうはいっても周りの山はぐるりと厳重に政府軍に包囲されている形でしたので、運命を共にすることを決断しても、彼らは袋のネズミの状態です。
そこでその状況から抜け出すために、辺見十郎さんは断崖絶壁の天嶮でもあった可愛岳を突破することを提案します。
8月17日午後10時、山越えを開始した薩摩軍は、翌朝4時に頂上付近に到着し、油断していた政府軍に突撃をしかけます。
まさかあの断崖絶壁の天嶮を越えては来ないだろう、という油断が政府軍にはあったのですね。
その隙を突かれて政府軍は退却するのですが、その際に放棄していった食料や武器弾薬などは、薩摩軍によって奪取されました。
その後も薩摩軍は苦しい行軍を続け、7か月ぶりに彼らは故郷の鹿児島に戻ります。
やがて城山に追い詰められて立て籠もった薩摩軍372名は、5万の政府軍に厳戒態勢で包囲されます。
このとき、山縣さん西郷どんに自決を勧告する文書を送ったそうです(正確に言えば、山縣さんが福地桜痴さんに頼んで書かせたものですが)。
薩摩軍に向けて総攻撃が開始されたのは、9月24日午前4時のことでした。
激しい総攻撃の前に、寡兵である薩摩軍の部隊は壊滅させらていきます。
午前6時頃、岩崎谷の洞窟の前に西郷どんを始めとする桐野さん村田さん別府さんら40数名が全員斬り死にに覚悟で集結します。
しかし島津應吉邸の前で西郷どんが腹部と股部に銃弾を受け、「晋どん・・・頼む」と別府さんに介錯を頼み、ごめんやったもんせ、と別府さんが刃を振り下ろします。
西郷どん、約50年の人生でした。
武士は自刃の際、西を向くものですが、西郷どんは朝日に向かっていたことからも分かるように、東を向いて手を合わせていました。
これはどういうことかと言いますと、つまり東=東京で、明治天皇のおられるところ、だったんですね。
明治天皇にとって西郷どんは、信頼の篤い師傅のような存在で、西郷どんの死を深く悼んだと言います。
彼の死後も、「かような折には西郷がかうした」などという言葉を度々零されています。
西郷どんの介錯を務めた別府さんも、足に重傷を負っており、その後銃弾に倒れた、あるいは辺見さんと刺し違えて最期を迎えています。
村田さんも戦死、桐野さんは右の額を貫かれて戦士、こうして両軍合わせて1万3000人の戦死者を出した西南戦争は、その日の午前9時頃には銃撃が止み、幕を閉じました。
説明文が多くなったので、薩摩軍の動き諸々を簡単に下図にまとめましたので、また何かの参考にして頂けたら幸いです。

(多少のズレ、誤差はありますが、目を瞑って頂けるとありがたいです)

翌年、紀尾井坂の変によって大久保さんは凶刃に倒れ、所謂「維新の三傑」が相次いで世を去って行きます。
大久保さんだけ、やけにあっさりとした描かれ方じゃない?と感じるような演出方法でしたが・・・いえ、歴史の授業などでちゃんと習うので、あの描かれ方でも分かりますけど。
でも何だか、この大久保さんの最期に関わらず、最近の八重の桜は「後は適当に察して下さい」と視聴者に丸投げにしてる部分が多くて、雑だなという感が否めない。
まあ、何はともあれ西南戦争終結を以って、覚馬さんの考えに則れば「維新の統一も出来」ました。
ということで、いよいよドラマの視点も同志社と同支社女子に絞られてくるのでしょうか?(伊勢みや子さんや徳富初子さんが出て来てましたし)
主人公は八重さんなので、それは流れ的に分からなくもないのですが、八重さんと共に会津の大地で育った皆様も、余り蔑ろにしないで上げて欲しいなぁ、という一視聴者としての我儘な願望があったりもします。
・・・何だか今回は、文句の多い記事になってしまいましたね(苦笑)。
(好きだし大切にして欲しいからこそ文句も出るのですよ)

ではでは、此度はこのあたりで。


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