2013年9月11日水曜日

第36回「同志の誓い」

「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人はごめんなのです」という襄さんと、八重さんの仲人を槇村さんは快く引き受けてくれました。
明治8年10月15日時点で、ふたりの婚約は確認されていますから、出会って数カ月で「この人と結婚しよう」とお互い思ったのですね、素敵です。
しかし喜びも束の間、八重さんの思いも寄らぬところでキリスト教である襄さんとの婚約の波紋は広がって行きます。
それが顕著に現れたのが、八重さんの勤務先でもある女紅場。
女子生徒のぬいさんは、明らかに八重さんから目を逸らし、口を利かないでおこうとする態度を取りました。
そんな時、八重さんは学校に来た役人に呼び出され、女紅場の解雇を告げられます。
記録によると、副舎長兼教導試補に任命されていた八重さんが、女紅場を解雇されたのは11月18日のようです。
キリスト教の宣教師である襄さんと婚約したためだ、と自己分析する八重さんに、同僚の方々も、「結婚はめでたいけど耶蘇は・・・」と言うような態度。
解禁になったとはいえ、世間ではまだまだキリスト教への風当たりが強かったということですね。
一方、京都府庁で商人相手に講義を行っていた覚馬さんにも、その風は吹き付けます。

日本海と琵琶湖を結ぶ。そして、琵琶湖と京都と結ぶ。運河を造って、他の土地から必要な資源を運ぶんです

交易ルートの説明に、流石は山本先生だと誉めそやす商人たちでしたが、「先生は耶蘇なんかいな?」と投げ掛けられた問いに、場はざわつきます。

先程申し上げた運河は、云わば器です。この京都どいう新しい器には、それに似つかわしい中身が必要です。私は洋学や英語を教える学校を創って、中身も新しくしたい。西洋の進んだ文明を学ばねぇと、東京においてけぼりを食らいます。いや・・・日本がおいてけぼりを食らうんです
山本先生。この京は戦で深く傷付きました。器を新しくして貰えんのはえろうありがたいことどす。せやけど、中身は何でもかんでも放り込んだらええってものやない。この京には積み重ねがあります。それを育んで来た矜持もあります。この町の者は皆そう思うと思います。もうちょっと、上手いことでけしまへんやろか

覚馬さんの言うことは尤もですが、それでも耶蘇は・・・となるその場でただ一人、大垣屋さんがそう反論します。
ちなみに、マタイではありませんが、マタイと同じく新約聖書のルカ5章36節には

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

と書かれてあります。
「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない」「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」という部分は、覚馬さんのいう「器」に通じているように思えます。
ですが、新しさばかりを求めて古いものの中に在る大切な何かを置いて行ってしまうという部分も、忘れないでいて欲しいですよね。
ともあれその場は、槇村さんが覚馬さんの創った学校では耶蘇は絶対に教えさせません、と宣言することで、何となく納まりをみせましたが、何かあったら槇村さんの進退も問わないといけないようになることなだけに、槇村さんも穏やかにはいられません。
だからでしょうか、実は八重さんの解雇を指示したのも槇村さんでした。
それについて掛け合いに来た八重さんに、槇村さんは一般的な正論を述べます。

年頃の女生徒たちを預ける親の身になってみい。耶蘇に近付く人間が危険じゃとみなされるんは仕方なかろう
でも、日本ではもうキリスト教は禁止されていないはずです
そんなもんは建前にすぎん

そして槇村さんは、女紅場を辞めたくないのなら、襄さんと結婚しても自分は耶蘇にはならないと生徒の前で宣言することが条件だと言います。
ですが、夫となる襄さんの信じるものを自分が蔑ろにすることは出来ない八重さん。
しかしそれは「建前」だと槇村さんは指摘します。
心の中では何を信じてようが構わない、しかし表向きだけは耶蘇ではないと取り繕ってくれれば万事丸く収まるのだと言いますが、京都ならではの「本音と建前を使い分けろ」と言うことでしょうか。
正直、会津人が一番苦手とするのがこの「本音」と「建前」の使い分けな気がするんですが(苦笑)。
これが会津に出来ていたら、幕末史は色々と変わったかと思います(使い分けが出来なかった会津を悪いと言っているのではありませんよ)。
槇村さんは、明日にそれが出来なければ八重さんは解雇で、それ以上は自分も庇い切れないと言います。
襄さんを裏切ることは出来ない、でも生徒を見捨てるわけには行かないと、迷う八重さんですが、今一つ八重さんにとっての女紅場、という部分が強く描けていないので、迷うほどに女紅場に思い入れがあったのか?と少し感じなくもないんですよね(汗)。
少し明治編に入ってから、早送りな感じで物事の展開が進んで行ってる感が拭えませんが、早送りされると、そう言った思いの丈の深さとかがどうしても表現し辛くなる点、要注意だと思います。

襄さんと同じアメリカン・ボードの宣教師に、ジェローム・ディーン・デイヴィスさんと言う方がおられます。
デイヴィスさんは襄さんより4年早く日本にやって来て、神戸や三田を中心に布教活動を行い、成功を収めていました。
外国に向けて開港されていた神戸は勿論、内陸部の三田で布教の成果があったのは、旧三田藩主の九鬼隆義さんが、西洋文化への関心も高く、英語を学ぶための手段として聖書を欲していたからです。
明治5年(1872)に、デイヴィスさんが避暑のため有馬温泉に滞在していた時に、隆義さんと出会い、そこから交遊が始まったとされています。
キリスト教への風当たりが強かった当時、元藩主自らが積極的にキリスト教と関わろうとしたのは、元家臣らに大きな影響を与えました。
明治8年(1875)に日本で三番目に古いプロテスタント教会が三田に建つのですが、献堂式の際にデイヴィスさんが説教を、襄さんが司会を務めたのも、そういった伝道活動の成果によるものでしょう。
そのデイヴィスさんが、襄さんが学校を作るにあたって色々と協力してくれるために上京します。
学校の仮校舎の物件については、大垣屋さんが奔走してくれたそうで、早速襄さんはデイヴィスさんと八重さんを連れて、その視察に向かいます。
向かった先は、見事なまでのボロ屋敷。
住所で言えば、現在の京都市上京区寺町通丸太町上ル、ですね。
元々は禁裡幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷がありましたが、明治期になると堂上華族、高松保実さんが所有していました。
ここに高松さんは住んでいなかったということになるのでしょう(きっと東京に移住した)・・・しかし、いくら耶蘇が嫌いでも、堂上華族のお屋敷に石を投げ込む京都の人って、少しおかしな絵図ではないかと思うのですが(苦笑)。
しかし目の前の惨状に、襄さん拍手を送りたくなるような素晴らしいポジティブシンキングを発揮します。

八重さん、ここにいくつ机が置けるでしょう。何人の生徒がここで学ぶことが出来るでしょう。幾人の生徒がここから巣立っていくでしょうか。大事なのは何処で学ぶかではない。何を学ぶかです。何かを始めるにはこれぐらいが丁度良い。見かけばかり立派な校舎なんていらない。私達で修繕しましょう

主の名の下に受ける苦しみは、喜び、と以前襄さんは公言していましたが、基本宣教師の姿勢ってそうですよね。
どれだけ苦難に阻まれても、自分達にとっての戦いだと思ってるから苦ではない、と。
そこへ、殺気を纏わせながら町民たちが入って来ます。
皆さんと共にここで歩みたいと言う襄さんの申し出を、町民たちは一蹴します。
キリスト教への嫌悪を隠さない彼らですが、思えば明治のこのとき、廃仏毀釈が全国的に行使されていて、寺社の立場も絶対ではなかったですし、酷い目にも遭っていたでしょう。
ですから、そんな状況の中へ異教が混じろうとするのに、寺社だけでなく民も、強い抵抗を覚えずにはいられなかったのでしょう。
(そもそもどうして廃仏毀釈が、ドラマ中でひと言も触れられていないのか謎)
成り行きを見ていた大垣屋さんは、そっと口を開きます。

私も耶蘇のことはようわからしまへん。せやけどこの方達のご覚悟が全くの偽物とも思えなくなりました。遷都以来、この京はどうもぱっとせえへん。このままでは廃れていくばっかりや・・・。それじゃああんまり悔しいやおへんか。この方達は皆さん方が見向きもしなかったこの家に、大きな望みを託してくれはった。それで十分や。私たちはこの町を愛おしく思うてます。皆様のご覚悟がこれきりでないかどうか、ずうっと見続けさせて貰います

鶴の一声ならぬ、大垣屋さんの言葉でその場は納まりますが、まあ表面上は穏やかに見えますが大垣屋さんは任侠の親分みたいな顔もお持ちでしたからね。
なので覚馬さんの講義の時の言葉と言い、今のこの場をまとめたことと言い、他の町民とは少し違う重みがあるのはそういう設定があるからでして。
しかし気になったのが、これほどまでに京都愛な京都人である大垣屋さんが、「遷都以来」と言ってしまっていること。
事実上は遷都だけど、誰も遷都とは口に出してないのに・・・いうことはこのブログでも何度か触れましたが、他らなぬ京都の人が言っちゃって良いのだろうかと。
細部の粗を、揚げ足取るようにいうのもアレですが、気になったので。

一方で八重さんは、襄さんか生徒たちか、自分の中の迷いに踏ん切りをつけました。

私は、宣教師の男性と夫婦になる契りを交わしました。私は妻として、夫の考えを認め、支えなければなりません。なぜなら、これは自分で決めだ結婚だからです。私が自分で決めだ道です。人は誰でも自由に自分の考えを持づ事が出来る。これが私の信念です。だから、私は皆さんに、嘘を吐けと教える事は出来ません。だから、皆さんも自分を偽るごとなく、自分のドリームを・・・自分の心に従って、自分の道を進んで・・・

役人に阻まれ、最後まで言葉を続けられず、教室から引き摺り出されるような形の八重さんを、女生徒たちは「Beautiful dreamer」の歌で送り出します。
「美しき夢見る人よ、我が為に目覚めよ」という言葉で送り出してくれたということは、八重さんの「皆さんも自分を偽るごとなく、自分のドリームを」と言う言葉を、女生徒たちはきちんとキャッチしましたよ、という表れでもあったのでしょう。
欲を言えば、ここで字幕か何か出て欲しかったのですが・・・後、もう少し感動したかったので、八重さんと女紅場のシーンが沢山あったら良かったのですが・・・まあそれはさておき。
この会津者が、と毒づく役人への八重さんの切り返しが、お見事でした。

会津の者は、大人しく恭順しねぇのです。お忘れでしたか?

毅然と言い放つ八重さん、カッコいいですね。
まあ、この台詞も振り返って見れば少し突っ込みどころがないわけではないのですが、突くのは野暮でしょう。
女紅場を出た八重さんに、八重さんが解雇を迫られていることを覚馬さんから聞きつけて、必死に走って来た襄さんがやって来ます。
気遣わしげな顔をする襄さんに、しかし八重さんはにっこり笑って「グッドニュースです」と言います。

たった今、女紅場を辞めて参りました。これで却って、聖書を学ぶ時間が増やせます。だからグッドニュースでしょう?これがらは、あなたの行く道が、私の行く道です。あなたと同じ志を持って生ぎて行きたいのです
ひとつだけ約束して下さい。あなたの苦しみは私の苦しみです。全てを打ち明けて欲しい。必ずです、必ず言って下さい

八重さんは尚之助さんに、意地を張って言えなかったことがありましたよね。
最後の再会の時に全て吐露して、「私は馬鹿だ」って自責してましたが、少なくとも襄さんにはその意地を張る必要がないと言うことで。
そう言った意味では、同じ轍はもう踏まないのでしょうね。

少し時はこの時点から遡りまして明治7年(1874)6月、薩摩に戻っていた西郷どんが、県令の大山綱良さんの協力を仰いで私学校を創設します。

おいに付いて来てしもた若か者達を放っておくわけにはいかん。あん連中にも教育は必要じゃ

と、訪ねて来た大山さんにそういう西郷どんですが、そもそもどうしていきなり西郷どんが教育を必要と思ったのか、私学校を創設するに至ったのか、少し補足させて頂きます。
西郷どんの下野と共に、彼を慕って多くの軍人や文官も下野したことは、既にこのブログでも触れました。
それに加えて、西郷どんの下野より少し時期を前にして、近衛兵を満期退役して帰郷していた1352人がいまして。
下野組は仕事もなく、徒な日々を送るわ、帰郷組はさながら凱旋兵士のようにふるまって、酒は飲むわ我が物顔で町を闊歩するわ・・・だったので、彼らのために学校を作って欲しいと渋谷精一さんが西郷どんに頼みました。
そうして篠原国幹さんが監督する銃隊学校と、村田新八さんが監督する砲隊学校を本校とする学校が創られました。
これが先程も触れたように、明治7年(1874)6月のこと。
明治8年の春には分校も建設され、城下に12、県下に136の学校が作られ、軍事訓練や漢文の素読などが行われていました。
学校を作った目的は、西洋列強のアジア進出に危機感を感じて外国との紛争を想定し、国難に当たる兵士の養育でした。
襄さんや覚馬さんの学校設立目的とはまた少し異なっていますが、「日本のために」という根本では両者は共通していると言えるのではないでしょうか。
しかしこの私学校は次第に勢力を拡大させ、鹿児島県はさながら私学校王国と化します。
木戸さんにして「独立国の如し」とまで言われた鹿児島で、やがて私学校の生徒が暴発し、政府の挑発に乗せられた挙句、西南戦争へと続いて行きます。
作中で不平士族の反乱とかがソフトタッチだから、うっかり忘れてしまいそうになりますが、何気に西南戦争カウントダウン段階に入ってました。
「枯葉には枯葉の役目がある」と言っていた西郷どんですが、まさか私学校の生徒が暴発して、それが戦争を巻き起こす事態になるなどとは、少しも思っていなかったでしょう。

さて、学校の建物も確保した襄さんは、後は学校で教える授業内容を詰める必要がありました。
ですが、聖書の授業を科目として据えることが出来ない、でも聖書の授業は外せない。
どうしたものかと気を揉むデイヴィスさん達に、襄さんは、今は学校を開校することが一番大切だと言います。

やがて時代は変わります。聖書を自由に教えられるときも来るでしょう。その時に教える場所が無かったら意味がない

と、そこへデイヴィスさんのボーイの杉田勇次郎さんと言う方がやって来ます。
勇次郎さんは摂津国三田藩士杉田泰の次男として生まれたので、三田に伝道活動を行っていたデイヴィスさんとはそこで知り合ったのでしょう。
初めての生徒に喜ぶ八重さん達に、聖書の件について、良いことを思いつきました、と覚馬さんがちょっと悪い笑みを浮かべます。
後日、槇村さんに授業のカリキュラムを提出した際、聖書の授業は省いており、「新島さんは話が分かる」と快く受理されます。
覚馬さんの思いついた良いこととは一体何なのだろうかと思いつつ、ここでようやく学校名が定められます。

新しい日本を作りたいという同志が集まる学校だ
同志社・・・
いい名前です。同じ志を持つ者、ですね

こういった経緯を経て、明治8年11月29日、同志社英学校が開校します。
最初の生徒8人は、同志社の資料によれば上野栄三郎さん、中島力造さん、本間重慶さん、二階堂円造さん、田中助三郎さん、須田明忠さん、元良勇次郎さん、それに高橋何某さん。
ちなみにこの8人は、明治12年6月に行われた同志社初の卒業式の卒業生に、誰一人として顔ぶれが被っていません。
修学期間を全うせずに中退したり、仮卒業して世間に飛び出して行ったり・・・と、色んな事情があったようです。
ともあれ8人でスタートしたこの学校も、一か月後には28人まで増えてます。
東京開成学校への入学には、英語の出来のみが重きを置かれてたので、英語教育の質の良かった同志社はこの後も拡大を続けます。
先のことはさて置き、早速聖書を使って授業を始めると、見張ってたのですかと言わんばかりの早さで槇村さんが怒り顔で乗り込んで来ます。
聖書は禁止と言ったのに、何故使っているのだという槇村さんに、これはリーダーの授業で、聖書は読み書きの教材に過ぎないと襄さんは言います。

何じゃと、屁理屈じゃ
いいえ、建前です。建前が大事だと仰ったのは槇村さんではねぇですか。槇村さんだって、西洋から学ばなければならないと思っておいでだから、学校を許可して下さったのですよね?この子たちの学ぶことの大切さを、槇村さんが分からねぇはずがありません

八重さんに見事言いくるめられて、ぐうの音も出ない槇村さん。
逆に当時の日本のことを学ぼうと思って、神道や仏教のことを学ばずして学べますかと言われれば、結構な無茶ぶりですよね。
だから西洋の学問は学びたいけどキリスト教は駄目って言うのも、結構な無茶ぶりなんですよ。
立場逆に考えたらすぐ分かることですが、まあ実際の槇村さんは、聖書全部駄目!と言っていたのではなく、修身の授業でのみなら使用を許可していました。
なのでドラマで描かれてるほど極端な人でもありませんでした、と一応ここで擁護。
そんな槇村さんが立ち去ろうとすると、廊下に覚馬さんがいました。

山本先生、あれはあんたの入れ知恵か
生徒に西洋の文明を伝えながら、それを作り上げだキリスト教の考えだげは伝えない何てどだい無理な話だ。今は開かれた世、技術も思想も全て入ってくる。その中がら、我々が自分で選び取るのです。形だげ真似でも、西洋を追い越すごどは出来ません
山本先生、あんたには東京で獄に繋がれちょった時、駆け付けてくれた恩義がある。今回はあんたに免じて良しとしよう。じゃが、これっきりじゃ

同志社英学校の開校辺りを境目に、こうして覚馬さんと槇村さんの蜜月は終わりを告げます。
その後の二人は、今後の展開に任せるとして、折角なので同志社英学校設立時の、生徒募集の要項をご紹介していきたいと思います。
まず授業料ですが、通常の授業料は一科につき25銭。
二科以上は授業料が毎期1円10銭と、毎週食費が5銭。
入学資格は小学校卒業、もしくはその程度の者。
学科は、英学、綴学、正音、読本、文法、支那学、史類(本朝史、支那史)、文章学、復文、訳文、散文、算術、点算、三角法、地理、天文、物理学、人心窮理、化学、地質学、万国歴史、万国公法、文理学、経済学、性理学、修身学、講説、演説、でした。
科目を見ただけでも分かる通り、物凄く本格的です。
生徒募集の刷物に、覚馬さんは設立の趣意を以下のように書いています(一部読みやすくしました)。

一、我輩同志の徒我国に於て文学の隆興せんことを望ミ明治八年新に一社を設け英学校を開き之を名けて同志社と曰ひ米国宣教師ジェー・デー・デヴィス理学士、ドワイト・ダブリウ・レールネッド等を招し普通学科を教授せしめ且内外教師数名を雇ひ其の足らざる処を補はしむ

一、学校は上京第十区相国寺寺門前町に在り、此の地広豁大気の流通頗る好く市中とは雖も鬧熱の地に遠ざかり閑静にして読書に宜し且塾舎を清潔にし飲食を注意し務めて健康に益あらしむるを以て学業を修むるには実に佳適なりと謂ふべし有志の諸君左の概則を一覧して子弟の来学を促さんことを深く希望するところなり

そんなこんなで発足することになった同志社英学校。
襄さんは、それを陰ながら支えてくれることとなった八重さんのことを、アメリカで世話になったハーディ婦人宛てに、結婚報告も兼ねて、こう書き送りました。

彼女は幾分、目の不自由な兄上に似ています。あることを為すのが自分の務めだと一旦確信すると、もう誰をも恐れません。私の目には、彼女はただただ生き方がハンサムな方です。私にはそれで十分です

本当はこの文章、私の目には、の前に、「ほんの数日前に撮った彼女の写真を同封します。ごらんになるとおわかりのように、彼女についてなんらかのご批評がいただけるものと思います。もちろん彼女は、けっして美人ではありません」というのが入ってるのですが、八重さん役の女優さんに「美人ではありません」が当てはまらないためか、割愛されていましたね。
原文ですと、「She is not handsome at all She is a person who does handsome」という風になっており、後々に八重さんの代名詞となる「ハンサムウーマン」はここから来ています。
結婚式前夜の明治9年1月2日、八重さんは京都御苑内のジェローム・ディーン・デイヴィスさんの家で、デヴィスさんから洗礼を受けます。
そんな八重さんに、佐久さんはウェディングドレスを差し出します。

小せえ頃がら八重にはいづも驚かされでばっかりだった。鉄砲を始めだ時も、お城で戦った時も・・・それが今度はキリスト教の方ど結婚して西洋のお式をするっていうんだから魂消た。他の人が思いもつかないことをやんのが、八重だ。それを私は誇りに思ってんぞ。信じたように生ぎでみなんしょ。私は、ずうっと八重を見守ってっから。おめでとう

しかしあの覚馬さんと、この八重さんをお腹痛めて産んだのは紛れもなくこの佐久さんなわけで、育てたのもそうなのですから、そう考えれば佐久さんって物凄くゴットマザーですよね。
ちなみにこう話している佐久さんが洗礼を受けたのは明治9年12月3日なので、もう少し先のことになります。
覚馬さんが洗礼を受けるのは、更に先の明治18年(1885)5月17日です。
公職に就いていたため、洗礼を憚っていたのでしょうかね。

そして明治9年1月3日、八重さんと襄さんはデヴィスさんの家で挙式しました。
日本で初めてのプロテスタント式の結婚式でしたが、残念ながらウェディングドレスは初ではないのです。
非常に質素な式で、かかった費用といえば、ふたりが乗った人力車の10銭程度だったそうです。
列席者は30~40人で、彼らには八重さんのお手製クッキーとお茶が振る舞われました。
安中にいる襄さんのご家族は式に出席することは出来ませんでしたが、この年の4月26日には一家総出で京都に転居してきます。
式で「My pleasure」と襄さんに微笑んだ八重さんの行く先は、まだまだ穏やかにはなりませんが・・・今は、八重さん、ご結婚おめでとうございます、と祝福だけ送っておきましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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