2013年9月17日火曜日

第37回「過激な転校生」

新婚ほやほや(といっても八重さんは再婚ですが)の新島夫婦。
尚之助さんと夫婦になった時、こんなにお嫁さんお嫁さんしてただろうかと、若干の苦笑を零したくなるほどちゃんと「お嫁さん」をやってる八重さん。
朝にお肉を食べると力が湧くらしいと聞いて、一体何処から入手して来たのか、七輪でベーコンを焼き加減分からずに丸焦げ寸前まで焼いて、洋食風の朝食を整えてあげる辺り、吃驚するほど完璧なお嫁さんです。
襄さんはそんな八重さんに、夫婦の間には上下がなく、平等であり対等だと言い、自分のことを「ジョー」と呼ぶように求めます。
しかし襄さんがこの対等さ、平等さを求めて「ジョー」と呼ぶように、と言ったことが、後々で周りに波紋を呼んでしまう結果になります。

さて、以前の記事でも触れましたが、同志社英学校が最初に建てられたのは現在の旧新島邸がある場所で、明治9年のこの年に、覚馬さんが寄付した旧薩摩藩邸跡、すなわち現在の同志社大学のある場所に建ちます。
同志社英学校が旧薩摩藩邸に移った後、襄さんはその土地を買い取って新居と、襄さんのご両親の隠居所を建てます。
その建設工事の相談を請け負ってくれるのは、やっぱりといいますか、人足派遣業者を請け負ってる大垣屋さん。
図面を広げてあれこれ相談している内に、襄さんが新居のお手洗いについて解説し始めます。
流石に八重さんが、厠の話を人前でするものではない、と咎めますが、会話の中にあった新島邸のお手洗いはこんな感じです(旧新島邸に現存)。

一応和式風にも洋式風にも用が足せると言った風になっているのかな、という感じです。
八重さんの生活の洋式化は、主に襄さんによって齎されたと言っても過言ではないと思いますが、次に襄さんが八重さんに持って来たのはベッド。
これも同じく旧新島邸に現存していますが、これは直接見ることは出来ないので写真は割愛します。
襄さんは、お手洗いの件について大垣屋さんの前であってもはっきりと自分に物を言った八重さんを、改めて褒め(?)ます。

八重さん。私はあなたが・・・怖い妻で良かった。夫の私を平気で怒る。日本にこんな女性がいるとは思いませんでした

所謂当時の日本人の妻の典型である「夫の影を踏まない」妻ではなく、襄さんは自分の隣を歩き、時には導いてくれる妻が欲しかったのは、「東を向けといわれたら~」の下りで、皆様ご承知のこと。
夫だって時には迷い、間違いもします。だから私が間違ってるときは遠慮なく怒って下さい」というのは、非常に理に適ってますよね。
戦国時代の大名夫人などは夫と対等でしたが、江戸時代に入るとどうも「夫の影を踏まない」女性が美徳というか、テンプレートされてきた節が日本にはありまして。
ジェンダーや女性の人権諸々については話が脱線するので避けますけど、私は襄さんの求める女性観に飽く迄も賛成だなと思います。
しかしこれは現代人の私だから気軽に言えてしまうことで、当時はまだまだその観点が浸透しません。
そのことは、襄さんのことを「ジョー」と呼び捨てにしている八重さんに対して、生徒たちが驚きと「非常識だ」と言わんばかりの視線を向けているのを見て頂いても良くお分かり頂けるかと。
後でもまた触れようと思いますが、「変えて行く」というのは難しいことですね。

さて、明治のこの頃になると、洋学校と言わず、学校がぽこぽこ設立されました。
ナレーションでは「身分から解放された人々の~」とはありましたが、厳密に言えば身分から解放されたとは断言しにくい世の中でした。
いえ、身分からは解放されたのかもしれませんが、出身藩(廃藩置県が施行されたので藩なんて実質存在しませんが)という柵は人々に重く圧し掛かってましてですね。
賊藩(という言い方はあんまり好きではありませんが)出身者は、官僚にはなり難いなどの背景が確かにこの時代、存在しました。
では賊藩出身者がどう明治の世で身を立てて行くのかと言えば、軍人になるか、学問を修めることです。
(『坂の上の雲』の秋山兄弟は、正にこれを地で行った形ですね)
学問が出来れば、身分や出身はどうあれ国が雇ってくれました。
明治5年8月2日に学制が発布されたのも、勿論国全体に「教育」というものに意識が向いた理由として見過ごしてはならないことだとは思います。
しかしこの強制的な学制も、修学することによって子供の働き手が奪われるので、反発していた庶民がいたのも事実です。
まあ、そんな背景の中で、襄さんのところへ、熊本洋学校から生徒受入れ依頼の手紙が来ます。
熊本洋学校というのは明治4年(1871)9月1日に開校した官費の学校でして、授業は全て英語で行われているという先進的な学校でした。
リロイ・ランシング・ジェーンズさんというアメリカの退役軍人さんがひとりで教鞭を取っていたのですが、明治7年ころからジェーンズさんは自宅で聖書研究会を開くようになり、それに感化を受けた生徒が出て来てしまいます。
その生徒たちの中で、35人はやがて熊本城下にある花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約(=集団でキリスト教に入信)します。
キリスト教への入信自体は、風当たりは強かったですが禁止は解かれてるので、問題ないと言えば問題ありませんでした。
ですがこの趣意書の内容が、「神の国を創る」というような宗教国家樹立を宣言したようなものですから、行き過ぎた信仰心が危険視されます。
これが問題視され、まずジェーンズさんは解任され、熊本洋学校は閉鎖となりました。
その彼らを、同志社に受け入れてはもらえないか、という打診が襄さんのところに来た手紙の趣旨です。
八重さんは教師がふたりしかいないことを理由に、覚馬さんは彼らの信心深さを理由に、それぞれ受け入れに難色を示しますが、襄さんは「救いを求める声を無視しては何のために学校を作ったのか分かりません」と、熊本からの生徒を受け入れることを決めます。

明治9年3月28日、帯刀禁止令が発布されます。
廃刀令、と言った方が馴染みがあるでしょうか、これによって大礼服着用者、軍人、警察官以外の一切の帯刀が禁じられます。
ちなみに庶民の帯刀は既にこれより6年前の明治3年時点で禁止されています。
明治4年に発布された散髪脱刀令は、「刀を持っても持たなくても、好きにして良い」という内容のものでしたが、この帯刀禁止令によって、明確にそれも禁止ということになります。
明治維新で封建制度が崩壊し、廃藩置県で所属すべき藩を失い、秩禄処分で俸禄を奪われ、最後に刀まで取り上げられた武士階級がこれに黙っているはずはなく。
浩さんの幼馴染の竹村幸之進さんは帯刀禁止令を厳しく批判した記事を新聞に載せます。
この竹村さん、実は1話時点からずっと出演していて、浩さんの周りにいたようなのですが、不覚にも全く気付きませんでした・・・。
そんな竹村さんの行動を、浩さんは「こんな記事を出していだら、お前の命が危ねえど言ってんだ」と危惧します。
これだけではなく、竹村さんは新聞社で度々政府を鋭く批判する記事を書いては、発禁を食らっていました。
しかしそんな浩さんに、それでも会津の武士かと竹村さんは怒鳴り返します。
竹村さんの目には、唯々諾々と新政府に仕官してる浩さんが、薩長の手下になったと映るのでしょう。
そのまま、幼馴染の二人は袂を分かちます。
勝手な憶測になりますが、時代が変わって刀の時代が終わって、でもその終わりを受け容れられなかった人ってのは竹村さんに限らず、大勢いたと思うんですよね。
竹村さんのように、やるせない気持ちをぶつけたりしたり、噛み付いた人もたくさんいたはずで。
別にそういう人達が馬鹿とか柔軟じゃないとか、そういうのじゃなくて、そう簡単には人間変われませんよ、ってことの現れなんじゃないかなと個人的には思ってます。
武士という職業階級が日本に誕生してどれだけの年月が経ってるか考えれば、その根がすぐに抜けないほど深いのも道理かと。
逆に浩さんみたいに、歯を食い縛って新しい時代を受け容れんとしてた人もいると思うんですよ。
武士の世を壊したのは武士階級(と一部の公家階級)の人で、それによって新時代で困る武士階級の人々。
そんな難しさも含みつつ、危うい調整をして(結果的には西南戦争が起こりますが)、近代国家を目指そうとしてたのが「明治時代」という性格の一面だと、私はそう考えてます。
学制を始めれば、子供を労働力として考えていた人々から反発を食い、近代国家を目指すために封建制度の名残を払拭しようとしたら、武士階級諸々から反発を食らう。
それでも一生懸命一生懸命、国家を築こうとしてたんですよ、明治政府は。

不穏な空気が日本中に漂う中、その夏、山本家に熊本から金森通倫さんがやって来ます。
物凄く苦労して京都にやって来たこの金森さん、石破茂さんの曾お祖父さんに当たる方なのですが、熊本洋学校の例の35人の現状を襄さんに伝え、自分達を同志社英学校に入学させてくれるよう懇願します。
襄さんはそれを歓迎し、9月、後に「熊本バンド」と呼ばれる熊本からの転校生が同志社英学校にやって来ます。
熊本バンドのツワモノ達が、初期生徒8人を追いやり、同志社大一期卒業生は初期生徒ではなく全員熊本バンドメンバーになるという事態を引き起こしますが、それは結果論。
今はその過程を、物語の進行と共になぞって行きましょう。
遥々熊本からやって来たというのに、何処か頑なな態度を崩さない熊本バンド。
「牧師になる覚悟」で同志社英学校にまで来たのに、校長の襄先生が教師一年生であり、聖書の授業がないことなどなど、色々彼らなりの不満があるようです。
ただひとり、牧師にはならず、他に夢があるという徳富猪一郎さん(後の徳富蘇峰)は、八重さんを「鵺」呼ばわり。
英語の授業にも不満を募らせ、構内で喫煙・飲酒する生徒からそれらを取り上げ、他を圧倒する始末。
・・・と、これだけズラズラと書いたら、熊本バンドがどうしようもない集団に思えますが、少し弁護させて頂きたいと思います。
要はドラマの演出の仕方が極端すぎるのでありまして、何故彼らがこんなに高い水準の教育を必死になって求めているのか、その理由は「こぎゃんところにおったら、我らん学問は遅るっばかりたい」「俺達にゃもう戻る場所はなか。今はここで学ぶしかなか」と、作中出て来たこの二つの台詞がキーワードとなっています。
まず、彼らがキリスト教に深い(行き過ぎた、とも言えます)信仰心を持つ理由。
逆を言えば、彼らが何故そこまでキリスト教を依拠としたか、ですね。
理由は簡単、今まで依拠していたものが解体されて、霧散してしまったからです。
つまり彼らにとって依拠とも言えた藩が無くなってしまい、忠義(=心)を捧げる対象が無くなってしまったわけです。
そんな彼らの前に、図らずも新しい対象として現れたのがジェーンズさんの熊本洋学校であり、キリスト教の精神だったのです。
次に、何故彼らがこんなに高い水準の教育を必死になって求めているのか、の部分の補足をば。
作中でも台詞で語られました通り、熊本洋学校が閉鎖になった今、彼らには同志社英学校の他に戻る場所はありません。
まあそれならそれで、もっと妥協も出来ないかなとも思わなくもないですが、もう少し彼らの事情に耳を傾けたいと思います。
平たく言いますと、「同志社英学校の他に行く場所のない熊本バンド」は、「同志社英学校を卒業することで食べて行かねばならない」のです。
その卒業時に、ぬるま湯に浸かったような学問を修めてるようでは彼らは困るのです(就職出来ないから)。
何より、何のために郷里を追われて来たのか、ということになります。
そういう危機感が彼らを追い立て、より高い教育水準を求める動きへと変わって行きました。
こういう背景事情にほとんど触れずに熊本バンドを描くから、ドラマの熊本バンドは「鼻持ちならない連中」として視聴者の目に映りますが、台詞の端々から彼らの事情を察すると、このようなことになります。
ただ、熊本バンドと在学生の間に生じる学力差には同志社側も困ったようで。
後にみねさんの旦那様になる横井時雄さんや、山崎為徳さん何かは東京開成学校を中退して同志社に来てますから、基礎学力が在校生とは差があり過ぎるのです。
学力差についてはドラマでも明確に描かれていましたが、熊本バンドは熊本洋学校の1~5期生が来ていましたが、3期生までは英語力も堪能でした。
4~5期生の蘇峰さん達は普通科でも問題なかったので、大学レベルの授業内容を求めていたのは主に3期生までの生徒ということになります。
同志社教師陣もそのあたりは配慮し、大学レベルを求める彼らのために「余科」という通称「バイブルクラス」を設けます。
ドラマでは熊本バンドから改革要求を突き付けられていましたが、それについて授業の見直しをした結果ということになるのでしょうか。
余談ですが、襄さんが熊本バンドに涙ながらに語りかけた

私の目指す学校は、学問を教えるだけでなく心を育てる学校です。私は、日本のために奉仕することの出来る、国を愛する人間を育てたくてこの学校を作りました。国とは国家のことではありません。国とはピープル、人々のことです。国を愛する心とは、自分を愛するように目の前にいる他者を愛することだと私は信じています。主は言われた、『自分自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ』と。型通りでなくても良い、歩みが遅くても良い、気骨ある者も大いに結構。良いものは良い。しかし、己のために他者を排除する者は断じて許さない!

というのは、所謂「愛神愛隣」の精神ですね、マタイ伝22章34節~40節に書かれてあります。
ちなみに、大学レベルの、と言っていることからもお分かり頂けるでしょうが、この時点で同志社英学校は「大学」ではありません。
彼が大学設立運動を起こすのはもう少し後のことになります。

明治9年10月29日、東京の思案橋にて、十数名の会津藩士が警官を惨殺する事件が起こります。
いわゆる「思案橋事件」です。
この前日に起こった萩の乱に呼応する形で起こったこの一件には、竹村さんも実行犯として関与しておりまして、彼らの目的は千葉県庁を襲撃した後、佐倉鎮台を襲い、日光付近で同志を募って会津で挙兵、というものでした。
その千葉に渡るために船を出そうとしていたところ、警官に見咎められ、挙兵は未然に防がれ竹村さん達は逮捕された、という次第です。
政府が士族を追い詰めすぎてしまった結果、爆発してしまったのもあるでしょうが、最後にもうひとつ大きい爆弾が残ってるのですよね。
その爆発が描かれるのは次回なので、詳しいことは次回に筆を送りますが、実はこの思案橋事件と萩の乱の連動、前者の実行が旧会津藩士に対して、萩の乱は旧長州藩士実行なのですよね。
つまり昨日の敵は今日の何とやら・・・とは言いませんが、会津と長州が連動していたという奇妙さを持った一連の出来事でもありまして。
普通なら会津戦争からまだ間もないですし、あり得ないことのように思えますが、そんな怨嗟も一時休戦となるほどに、士族の不満が高まっていたと捉えて頂ければと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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