2013年9月5日木曜日

第35回「襄のプロポーズ」

先週、散歩に誘うような自然さと気軽さで八重さんにプロポーズした襄さん。
それについて考え事をしていて、夜中に庭を散歩していたらみねさんに不審者と思われたのか何なのか、悲鳴をあげられる始末。
まあ、夜中に庭にぼんやりと白い服着た人影がいたら、悲鳴のひとつでもあげたくなりますよね。
寧ろ、あそこに八重さんがいたら薙刀か何か持って来て撃退されてたと思うので、八重さんが女紅場にいて良かったねと思ってしまいました。
それはさておき、朝食の席でさらっと「八重さんにプロポーズしました」という襄さん。
案の定プロポーズの意味が分からず、「ぷろぽー?」と小首を傾げる佐久さんが、何とも無邪気で微笑ましいです。
朝食後、台所に立って女性と同じように片付けに勤しみつつ「台所が好きです」と当時の日本男児からは考えられない発言を憚らない襄さんを見て、「明るくて、正直で、良い御方だなし。西洋の男は、皆ああだべか?」と佐久さんは覚馬さんに言いますが、襄さんはアメリカ帰りとはいえ少々規格外な気もします(笑)。

新島さんのお人柄でしょう。気取ったところが一つもねぇ。人の心にすっと入って来る
んだげんじょ、魂消た。・・・八重を嫁に欲しいっつのは、本心だべか
悪い縁ではねぇと思います。ただ、八重がどうか・・・

尚之助さんとのことが、まだ引っ掛かりとなって残っているのもありますよね。
いつ離縁したのか、何故離縁したのか、それについても史実でははっきりとしたことが明示されていないので、正直襄さんと再婚するまで、八重さんが何をどう思っていたのか等々は、もしかしたら見つかってないだけかもしれませんが、八重さん自身もそれについて触れた記述などを残してませんので、八重さんのみぞ知るところとなっています。

一方、女紅場にいる八重さんのところへ、時尾さんが訪ねて来ます。
開城の日以来の再会ですので、およそ7年ぶりの再会です。
離れていた7年の間に、時尾さんは元新選組三番隊組長と結婚しております。
その旦那様もご一緒の登場に、八重さんは「あなたは確か新選組の・・・」と言ってしまい、女子生徒は色めき立ちますが、維新間もない京都で新選組というのはかなり嫌われ者でしたので、これは八重さんも少々迂闊な発言でしたし、女子生徒が色めき立つのも不自然な反応ですね(苦笑)。
ちなみに現代でも、京都では(よく誤解されていますが)新選組は、一部地域を除いてあまり好かれてはおりません。
それはさて置き、時尾さんと斎藤さんがいつ結婚したのか、という正確な年月日は不明(あるいは私の情報収集不足)なのですが、祝言の仲人は、容保様が上仲人、官兵衛さんと浩さんと倉沢平治右衛門さんが下仲人を務めるといった、錚々たる顔ぶれの下に執り行われました。
それ以上の詳細は分かりかねますが、時尾さんは照姫様の侍女の中でもそこそこ上位にいたので、きっと照姫様からも祝辞などはあったのでしょうね。
ちなみに斎藤さんは時尾さんの前に、既に一度結婚をしていた経験があるので、初婚ではなく再婚でした(一人目の奥様は篠田やそさん)。
時尾さんとの間には3人の男の子を儲け、その血は現代にもちゃんと繋げられています。

最後まで会津に尽してくれた者達に、いつか報いたいと願っていた。それが、ようやく一つ・・・報いることが出来た。幸せに暮らせよ

祝言の席で、容保様はそんな言葉を二人に贈っていました。
常(徳川時代)ならば、大殿が一藩士の娘の祝言に直々に赴いて、仲人務める・・・何てことは、まず考えられない光景でした。
良くも悪くも、徳川時代にあった身分の決定的な上下の距離が縮まったのが、明治という世の中なのだなと、改めて時代の変遷を思い知らされる場面でもあります。

場面が多少前後しましたが、学校開設に向けて生き生きと必要書類を取り揃えた襄さんでしたが、槇村さんからそれらは受け取れないどころか、外国人教師の雇用は罷りならん、と、学校建設を許可した時の態度とは打って変わった態度に襄さんも戸惑いを覚えます。
官立学校にも外国人教師は大勢いる、と襄さん。
所謂「お雇い外国人」的な人たちのことでしょうね。
例えば、この翌年には「Boys, be ambitious」で有名なウィリアム・スミス・クラークさんが札幌農学校に赴任しています。

ここは京都じゃ。開港地でもなきゃ、異人の居留地でもない。坊主たちが嘆願に押し掛けて来て、うるそうて敵わんのじゃ

と、つまり他で罷り通っているのに、ここで罷り通らないのは、ここが京都だから。

耶蘇の宣教師が学校で教えるなど、以ての外じゃと

そう言って槇村さんが襄さんの目の前にわさりと積んだのは、大量の嘆願書。
言うまでもなく、京都の各寺院からのものですね。

西洋の学問、大いに結構。じゃが、耶蘇教を教えるなら許可は出せん。京都で坊主を敵に回しては、府政が立ち行かん
槇村さん、それでは話が違います。私が作りたいのはキリスト教に根差した学校で・・・
そんじゃあ、自分で寺を回って口説いてみるんじゃな

一度受け入れておきながら、且つ襄さんが西洋の学問もそうですが、その学問所はキリスト教に根差したものであるものを目指していることを知っておきながら、この態度はあんまりだな・・・と思わなくもないです。
ですが、府立病院建設について補足解説を加えさせて頂いた時にも書かせて頂きましたが、槇村さんは槇村さんなりに、現在京都の寺院と仲良く・・・というかバランスを取っているのですよ。
そのバランスが崩れたら、府政が立ち行かないのが重々分かっているから、扱いに慎重にならなければいけないのでありまして。
じゃあ襄さんの学校設立のためだけに、府政のバランス崩す危険も顧みずに協力出来ますかと言われると、府政を担う人間からすればそんなの出来るはずありません。
なので、冷たく突き放してるように確かに見えますが、槇村さんが府知事である以上、これはある意味当然の態度なのですよね。
(それならほいほい襄さんに学校建設の許可出すなって突っ込みはしたくなりますが)
余談ですが、本当に自分で寺を回る襄さんに、とある僧が「日本古来は仏教」みたいに言ってましたが、訂正も込めて突っ込ませて頂くなら日本古来は神道でしょう(苦笑)。
仏教も仏も、海の向こうから6世紀半ばに天皇制の正当性を植え付けるために(その他もろもろ諸説あり)仕入れた輸入品です。
まあ訪ねた先が、たまたま神様ではなく仏様を拝んでるところだったのでしょうが。

一方、京都滞在中、山本家に厄介になることになったらしい時尾さんと斎藤さんの新婚夫婦。
時尾さんが八重さんに、尚之助さんのことを尋ねると、八重さんは二年前に東京で一度だけ再会したと答えます。

斗南での訴訟のことは?
聞いた。訴訟が片付くまで、東京から動けねぇことも。お傍にいたかったのに、京都に戻れと言われて、それっきりだ。もう夫婦ではねぇ。何度か文も書いたげんじょ、返事は一度も来ねぇ
・・・斗南の暮らしは、苦しかった。飢えと寒さに怯えて、みじめな思いして、死んでった人が大勢いる。尚之助様は、今も自分を責めておいでなんだべ。あの時、米の買い付けさえ上手く行ってればと。だから・・・何もかも一人で背負って、言い訳もせず、助けも拒んで・・・
わがってる。そんじも、私は力になりたかった
もし八重さんが尚之助様の立場なら、なじょした?きっと、自分のことは忘れて欲しいと言うんでねぇべか。大切な人を辛い境遇に巻き込みたくねぇもの

多分このタイミングで、八重さんにこういうこと言える立場の人が、時尾さんしかいないから、今回「八重さんの幼馴染で親友」の時尾さんが出て来たんじゃなかろうかと感じました。
おそらく時尾さんの言う通り、八重さんが尚之助さんの立場だったらそうしてたでしょう。
そこは八重さんも自分のことですから、自分がそう言ってただろうなということはきっと理解してるはず。
でも立場を入れ替えた仮定の話ではなく、現段階の状態だと、八重さんは納得がいかないんですよね。
前回井戸のところで襄さんにもはっきり言い渡していたように、八重さんには「自分は人(男性)に守られる女ではない」という強い自負があります。
だから、庇って貰ったり、巻き込みたくないからと気遣われるのには、「何で?」という反応を示してしまう。
何より会津時代、八重さんのそういうところを誰よりも理解していたのが尚之助さんだったから、猶更でしょうね。
ただ、この流れで行くと、尚之助さんと再会した2年前に「尚之助様に甘えで・・・意地張って・・・私は馬鹿だ」と言っていた八重さんとの辻褄が、微妙に合わないのです。
八重さんの自負って、要は意地ですよね。
なので、八重さんの意地とそれによって生じる「何で?」は、少なくともあの再会の時に謝罪を交わしたことによって一区切りついてるんじゃないのかな、と思わなくもないです。
あの再会は、「自分も意地を張ってました」と言う八重さんと、「自分もあなたの誇りを知っていながら踏み躙りました」という尚之助さんによって、開城の日から八重さんの中に続いていた「なじょして」を解決したものだったのではないかなと、個人的には捉えていたので。
自分が何が言いたいのか段々分からなくなってきましたが、要はここに及んでまだ八重さんが納得しかねてるというのは、可笑しいとまでは言いませんが、じゃああの再会の時のやり取りは一体なんだったのか、という疑問が生じるなと思いました。

一方、覚馬さんから八重さんの「過去」を聞いていた襄さんは、彼なりにそれをどうにかしてあげたいと、常々思っていたのでしょうか。
そんな襄さん、初対面なのにすっかり打ち解けた斎藤さんとの会話から、何かを掴みます。

俺がいた頃、都は酷く殺伐としていた。幾度も斬り合い、血を浴びた。・・・だが、今は妙に懐かしい。おかしなもんだな。良い時ばかりではなかったのに。近頃は、よく京都の夢を見る
それだけ、激しく、熱い日々だったのですね
皆、命がけだった。時尾に一度見せたくて、連れて来た。俺達が会津と出会い、共に戦った場所を。良いところも、嫌な思い出しかないところも


明治8年3月20日午後3時、東京下谷和泉橋にあった東京医学校医院にて尚之助さんが亡くなります。
享年39歳、死因は慢性肺炎でした。
遺体は何処かの墓地に埋葬されたそうですが、現在に至るまでその場所は特定されていません。
あるいは無縁仏に入ったのでは、とされています。
それでも、歴史研究者のあさくらゆう先生のお蔭で、尚之助さんが生家の出石の川崎家に、同一没年月日の戒名が記された墓碑があったことが判明しました。
曰く、尚之助さんの戒名は「川光院清嵜静友居士」。
そんな尚之助さんの訃報が、ドラマで覚馬さん達の下にその報が伝えられたのは、蝉時雨の聞こえる明治8年の夏。

・・・これが、残されていた。守護職を拝命してから、会津に何が起きたか、国許にいた尚さんの目に映ったことが皆書いてある。籠城戦の途中で、終わっている

覚馬さんが八重さんの前に置いたのは、「会津戦記」と題された紙の束。
前々から尚之助さんが、咳込みながらも書いていたものの正体が、どうやらこれのようです。
尚之助さんの死を聞いて、八重さんは「また置いて行かれた」と家から出て行ってしまいます。

都を旅立つ前、俺は尚之助に家を託し、会津を託した。あの男は律義に俺との約束を果たして、どうしたら会津を守れるか、家を、八重を守れるか、それを考え、やり続けた。戦に敗れ、斗南で辛酸舐めても・・・まだ考えていた。なじょして、会津が滅びねばならなかったのか・・・それを書き記したのが、これだ。何一つ、報いてやれなかった。尚之助は、病に倒れたんじゃねぇ。あの戦で死んだんだ。ゆっくりと、時を掛けた戦死だ・・・

事情を把握しかねる襄さんに、覚馬さんはそう話します。
何一つ、報いてやれなかった」は、容保様の「ようやく一つ・・・報いることが出来た」の対になっていますね。
ただこの台詞、前半部分では「自分が尚之助を会津に縛り付けた」という自覚が滲み出てるのに、締めくくりが「ゆっくりと、時を掛けた戦死だ」というのは、最初見た時は「時を掛けた戦死って斬新な表現だな~」と思ってたのですが、咀嚼するとちょっとおかしくないかなと。
この切り出し方ですと、自分が会津に縛り付けたせいで尚之助は死んだんだ、と言わないと、何だか整理すると「尚之助を会津に縛り付けたのは自分ですが、尚之助が死んだのは自分のせいじゃありません」と聞こえなくもない。
それと、「何一つ、報いてやれなかった」についてですが、報いる気があったのか、と。
正直、覚馬さんは尚之助さんをほったらかしにしてた感が拭えないのですよ。
なのでこの台詞、咀嚼すればするほど空虚なものに聞こえてしまって・・・私がひねくれてるのもあるでしょうが。

さて、ここで少し、尚之助さんの遺した『会津戦記』について、感想とも私情とも何ともつかないことを、以下ずらずらと綴らせて頂きます。
まず最初に釘を刺しておきますと、史実で尚之助さんはそう言ったものを書き残してはいませんし、『会津戦記』なるものも存在しません。
ただ、小道具として登場したにしては、妙に内容がしっかり書き込まれていたり・・・と出来過ぎていたので、原文は絶対に何処かにあるだろうと思っていましたが、私ではその原文の出所が分からずじまいでした。
ですがTwitterで見つけて下さった方がいて(情報提供、深く感謝します)、原文の出所は『会津戊辰戦史』という書物だそうです(近代デジタルライブラリーで見ることが出来ます)。
『会津戊辰戦史』というのは昭和6年に完成した、慶応3年10月の大政奉還からこっちの会津のことについて書かれたものです。
会津の、京都守護職時代から鳥羽伏見の戦いの直前までの様子を書いたものに、浩さんと健次郎さんの『京都守護職始末』というのがあるのはあまりに有名です。
最初『会津戦記』を尚之助さんが書き遺した、とドラマで描かれた時、この『京都守護職始末』(や『七年史』)の立つ瀬がなくなるので、正直「物凄く要らない創作の嘘だ」と思いました。
この先の話で『京都守護職始末』が出て来ても、『会津戦記』の二番煎じのように見えてしまうではないか・・・とも思いました。
『京都守護職始末』が実在の書物であり、対して『会津戦記』が架空のものであるから、一層そう感じてしまいました。
何より、『京都守護職始末』が出版されるまでの苦労もろもろを知っているだけに、憤りにも似たもやっとしたものも抱きました。
すみません、賛否両論色んな意見はあるでしょうが、そう感じたことは素直にここに書かせて頂きます。
作中、出石藩浪人だった尚之助さんが、会津で生きて、会津生まれではない身ながらも会津藩士になろうとしてたのは分かるんですよ。
籠城戦の最後の、下手な会津弁にその思いは十分現れてました。
だから会津(=斗南)のために奔走して、の行動原理にも繋がります。
「出石の浪人だけど心は会津藩士」な尚之助さんが、『会津戦記』というものを書き残すのも、そう考えると一応筋は通ってるんですよ。
そんなものは勿論現実には存在しませんけど、ドラマ上の尚之助さんが、そういうものを書こうという執筆動機みたいなのは十分にあります。
そこは否定しません。
『京都守護職始末』に繋げて行きたいんだろうなとか、あるいは「こういう、後世に名は残らなかったが、藩士それぞれにそれぞれの戦記がありました」とか、そういう好意的な解釈も出来ますが、それでもこの創作の嘘が本当に要ったかと思うと、やはり不要だったのではないでしょうか。
これは『京都守護職始末』を脅かしかねないとか、『会津戦記』が架空のものだからと言うわけではなくてですね。
他の部分も十分に描けてて、それでも余裕があったからそこを尚之助さんに回して、の『会津戦記』となったのなら、まだ作品としての配分の上で納得出来るんですよ。
でも他の部分、全くと言って良いほど十分描けてませんよね。
十分描けているのなら、明治編からこっち、当ブログでの補足はもっと軽度で済んだと思いますし、もっと色々と明治時代という時代が視聴者に伝わっていたと思います。
どころか、主人公の八重さんであっても足りない部分ばっかりが目立つのに、その中で尚之助さんがひとり設定を特別枠で盛られているわけですから、配分とバランスと優先させるものを間違ってるよね、と視聴者としては一言物申したくなるわけです。
山本家にその訃報が届く、で止めて置いて良かったのではないかと。
『会津戦記』の存在については、一応もやっとしたものが薄まるくらいにはなったのですが、バランスや配分の面では納得しかねています。

そんな私のケチはさて置きまして。
尚之助さんの訃報を受け、ゴードンさんに「心が何処かに飛んで行ってしまったようだ」と言われる八重さんを、襄さんはピクニックに誘います。
しかし一体何処へ連れて行くのかと思いきや、行先は三郎さんが戦った富野森・・・。
表情が険しくなる八重さんですが、そんな八重さんに「向き合った方が良い」と襄さんは言います。

辛くても、三郎さんや会津の大切な人たちが亡くなったことを、あなたがしっかりと受け入れなければ、死んだ人たちは安らかに眠れない。あなたの心の中の、戦も終わりません
あなたに、何が分かるのですか!
分かりません。私は、三郎さんも会津も・・・尚之助さんのことも知らない。あなたに代わって悲しむことは出来ません。出来るのはただ・・・悲しむあなたの傍にいることだけです

八重さんの傷は、八重さん自身で何とかするしかない。
前回覚馬さんも「乗り越えで行ぐ道は、八重が自分で探すしかねぇ」と仰ってましたね。
良いこと言うな~と感心していたのも束の間、何処かに三郎さんの気配が残っていないか、何か聞こえないか、地面やら石やらに触れ出した襄さんの行動は、奇行以外の何物でもありませんでした(笑)。
その奇行に対して、何も残っているはずがない、何も聞こえるはずがない、と八重さんは声を荒げます。
ですが襄さんは、「亡くなった人たちに語りかければきっと何か応えてくれる」と言います。

亡くなった人は、もう何処にも行きません。あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように、強くなるように。誰よりも尚之助さんが、それを願っている

これは、死んだ人の魂は輪廻転生しないものだと考えてるキリスト教視点からの発言ですね。
日本の他の宗教は知りませんが、仏教は輪廻転生があるので、死んでしまった魂は転生してしまうから傍にはいられない。
仏教観にどっぷり浸かっていたであろう八重さんにとって、このキリスト教的視点からの言葉は、思いもよらない考え方だったのではないかなと思います。
で、少なくともその考え方(人は死んでも、いなくなるけではなく、自分の傍にいるという)は、八重さんの心の傷の痛みを、このとき確かに和らげたのでしょうね。
実際の八重さんが、何を以ってキリスト教に改宗したのかは分かっていませんが、襄さんの奇行を除けばこれは良いキリスト教と八重さんの結び付け方だなと。
前回の記事でも触れましたが、人間の内面に深く立ち入る宗教の助けが必要なときも、あるのですね。

八重さんの心の傷の回復がどうにか上向きになったのですが、襄さんの学校設立は事態が好転しないまま月日が経過していました。
直接槇村さんのところに赴いた覚馬さんは、木戸さんの後押しがあるから政府に働きかけて認めさせることも出来るはずだと、一見理詰めに見える、法令違反を言います。
槇村さんは拒否します。
当たり前です、そんなことで襄さんの学校の設立を通してしまえば、政府の要人に縋れば法令も何も飛び越えて、何でも出来てしまう先例を作ってしまうことになります。
京都のためだ、京都の発展だ、何だ、と覚馬さんは仰ってますが、ご自身が言ってることの意味が分かってるのかなと。

槇村さん、あなたは誰のために政を行っているのですか?京都のためか、それともここでの成果を手土産に、政府に取り入るためか
そねーなこと、会津の者に話しても、仕方なかろう。あんたは所詮、日の目を見ない側の人間じゃ。坊主と宣教師のことが解決せん内は、学校設立は認められん

この会津者に対する貶めは流石に覚馬さんもかちんと来たでしょうが、要人の権力に縋って法令無視した先例を作るように詰め寄った覚馬さんも覚馬さんです。
そう考えればどっちもどっちな場面なのですが、ともあれあれだけ手際よく物事を捌いて京都の復興と発展に力を注いでいた槇村さんと覚馬さんですが、その蜜月は、終わりに近付いておりました。
槇村さんとの蜜月終了間近ということで、では覚馬さんはどうするか。
その次の行動指針として、「天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い」 の、あのお言葉が出てくるのではと。
つまり政府や槇村さん云々に頼らず、身一つでやろう、ということになるのですが、その経過は今後の展開を見守ることにしましょう。

相変わらず辛抱強く寺院を回り続け、寺で門前払いを食らって路上に突き飛ばされた襄さんですが、今度はその姿を八重さんにばっちり目撃されてしまいます。
襄さんの、格好悪いところ見せたな、あはは、と言わんばかりの表情が何とも言えなかったのはさて置き、家に帰って擦りむけた手の怪我を八重さんに手当てしてもらう襄さん。
籠城戦で大勢の人の手当をして来た八重さんには、襄さんの怪我の手当などお茶の子さいさいです。
襄さんはそんな八重さんの手を、銃で戦ってきた手であると同時に、大勢の人を癒した手でもあるのだなと言って、改めて妻になって下さいと申し出ます。
尚之助さんのことが忘れられない八重さんのことも、それで良いと。

寧ろ、忘れないでいて欲しい。私は、川崎さんに喜んで頂けるような夫婦になりたいのです。私の伴侶となる人は、あなた一人しかいない。あなたとなら、共に歩んで行ける。素晴らしいホームを築ける。どうか、お願いします
新島様は、本当に面白い・・・。私、あなたと一緒に、ホームを作ってみます

微笑んで八重さんが受け入れたというのに、「はい」と言われた瞬間の襄さんの驚きようと言ったらもう・・・(笑)。
しかしこのふたりの結婚そのものに問題はなかったのですが、それによって生じる波紋が再び八重さんを悩ませます。
その辺りのことは、次回描かれるようですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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