2013年9月18日水曜日

熊本バンドはこうして生まれた

前回から同志社英学校にやって来て、熊本旋風を巻き起こしている「熊本バンド」。
ドラマ内での彼らの「行き過ぎた」部分への補足は、以前の記事でさせて頂きました。
今日はもう一息補足と言う形で、熊本バンドがどのようにして生まれたのか、出来事の年表をあっちこっちに飛ぶ形で、至らないながらも書かせて頂きたいと思います。

まず熊本バンドを育んだ、熊本洋学校。
ここにアメリカの退役軍人リロイ・ランシング・ジェーンズさんを教師として招かれ、その教えを受けた生徒35人がキリスト教に入信し、それが原因となって廃校になったのですが、廃校はさて置きこの学校が建てられた経緯のようなものを見て行きましょう。
熊本洋学校は明治3年(1870年)、熊本実学党によって、西洋の文物技術を取り入れるために創設された学校です。
とだけ書くと、「へー」で終わってしまうのですが、その前に「熊本実学党」って何?と思われる方もいると思います。
熊本実学党を説明するために、まず熊本藩主細川重賢さんの時代まで時間軸を巻き戻したいと思います。
この重賢さんの時代に、「宝暦の改革」と呼ばれる藩財政の改善と、藩教育の革新に力を注いだ試みが行われます。
このとき、宝暦5年(1755年)に時習館という藩校と、翌年には再春館という藩の医学校が作られました。
時習館は、江戸時代の藩校によくある文武両道は勿論のことでしたが、一方で非常に開明的な藩校でもありまして、干拓などをやっていて、そこで収穫されたもので藩校経営を回していました。
つまり藩校側としては、生徒から授業料を取らなくてもやっていける経営状態が成り立っていたということになります。
だから武家の子供じゃなくても、私塾などで推薦された人も通えるという気風を持った藩校でした。
授業料がかからないから、身分関係なく、優秀な人が学べるよ、という意味でオープンな藩校だったのです。
それでもまあ、生徒には武士階級が多数を占めていましたが、それでも少数には非武士階級の生徒がおりまして、この非武士階級の人たちが藩校で優秀な人材になったりすると、やっぱりそこは身分というものの悪い性格でしょうか、武士階級の人間はそれが面白くないんですよね。
それで身分風を吹かせるようになるのですが、そんなことをすれば折角のオープンな藩校は台無しです。
時習館が出来て数十年経って、そういう武士階級の身分に固執するような形で組を作るのは如何なのかと批判したのが、このブログでも時折名前が出ていた横井小楠さんです。
ちなみにそんな彼らのことを、後に「学校党」とあだ名されるのですが、小楠さんはそんな彼らに対して、そんな学問の学び方では駄目だろう、という姿勢を取りました。
今学んでいるで学問が現実に対応していないと意味がない、現実世界の変化も見なければならない、と。
先の「学校党」に対して、小楠さんは「実学」を提唱したわけです。
実学、と書くと、漢字の意味をそのまま拾ってしまって「実用的な学問」と捉えてしまいそうになりますが、そうでなく、現実に対して能動的な学問であれ、と言う意味での「実学」です。
要は「経世致用の学」でしょうかね。
そういった具合で、「学校党」と小楠さんの提唱する実学を実践する「実学党」、このふたつが熊本藩内で対立します。
まあこのふたつの対立は、家老をも巻き込んだ藩内の権力闘争にまで発展し、学校党がそれを制したかと思えば今度は勤王党というのが出てきて、三派鼎立・・・ということになり、それぞれの顛末を迎えて行くことになるのですが。
その後の実学党は、分裂もしましたし、何より小楠さんが福井の松平春嶽さんのところへ行ってしまったため(政治顧問として招かれたのもありますが、春嶽さんの奥さんが熊本のお殿様のお姫様だったので無下に断れなかったというのもあります)、熊本藩内で力は弱くなります。
ですが維新後、勤王党学校党諸々が失速してくれまして、その隙に実学党が熊本の政権を握るに至りました。
政権を握った「現実に対して能動的な学問」を掲げる熊本実学党が、明治になって「西洋の文物技術を取り入れる」ために、それを学ぶ場を設けた、それが熊本洋学校です(かなり割愛の説明を経ての結論になりますが)。
分裂してようが、実学党が「現実に対して能動的な学問」を掲げている限りは、小楠さんの弟子と言えるのではないかと思いますし、そういう意味では、熊本洋学校から輩出された熊本バンドの皆様も、そういう位置づけになるのではと思います。

まま、それで。
熊本実学党が何かはぼんやりと伝わったが、さっきから無駄に連呼してる小楠さんとは誰ぞや、という追撃突込みが来そうなので、もう少し記事を続けます。
このブログでも何度か触れて来てますが、「八重の桜」的に解説するなら、小楠さんは覚馬さんに『管見』を書かせた(直接的にではなく、影響的にという意味で)人物です。
坂本龍馬さん何かも影響を受けてまして、正直なところ「八重の桜」で「何でこの人出て来てないんだろう?」と思う人物はそこそこにいるのですが、その最たる人物が小楠さんだと言っても過言ではないと私は思っております。
龍馬さんの『船中八策』、及び覚馬さんの『管見』には、口論を国政に取り入れるという構想が反映されていますが、これは小楠さんが春嶽さんに提出した「国是七条」の中で説いた考えです。
春嶽さんが「共和政治」と言っていたのも、小楠さんのこの考えを受け入れたからです。
またこの共和政治論は、春嶽さんに受け入れられ、『船中八策』や『管見』の構想の取り入れられただけでなく、勝さんや西郷さんにも影響を与えましたし、明治期の議会開設の際にも取り入れられます。
明治に入って覚馬さんが京都で殖産興業を実践していますが、これも小楠さんの「国是三論」に影響されたからでしょう。
あまり書くと、戻って来られないくらい脱線しそうですので、小楠さんについてさらに詳しく知りたい方はご自分で追及して頂くことにして・・・。
覚馬さんにとって小楠さんは、影響を受けたどころか、それを通り越して大尊敬の対象となっております。
なので、小楠さんの熊本実学党から出た熊本バンドを同志社に受け入れる時、本当はドラマ見たいに難色は示さず、むしろ即答でOK出す勢いだったんじゃないかなとも思わなくもなくて。
覚馬さんがどれだけ小楠さんを尊敬していたのかについては、小楠さんの嫡男、時雄さんをみねさんの婿に迎えている辺りからも、お察し頂けるかと思います。
(ちなみにその時雄さんも、熊本バンドとして同志社に入学します)

相変わらず着地点の見えにくい論理を展開しておりますが。
要は熊本バンドは、覚馬さんの尊敬する人の弟子にあたる「実学党」から出たものですよ、と。
その関連性だけ、補足としてご紹介させて頂きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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