2013年11月11日月曜日

会津藩最後の姫

「八重の桜」第44回での照姫様の描かれ方が、私的にかなり釈然としないものでしたので、これを機にあまり知られていない「鶴ヶ城開城後の照姫様」について、私の知る限りをご紹介したいと思います。
鶴ヶ城を出た照姫様は、妙国寺で謹慎し始めて間もなく髪を下ろし、照桂院と名を改められました。
あれはてし 野寺のかねも つくづくと 身にしみ増る よあらしのこゑ
と詠んだのは、自身の儚い境涯を哀傷していたからでしょうか。
その後容保様には東京への出頭命令が下され、10月17日に照姫様はそれを見送りました。
容保様は芝赤羽橋の久留米藩邸に永預けとされ、12月7日には詔によって死一等を宥されたものを、この容保の代わりに旧会津藩は誰かを罪に服すべき叛逆首謀の臣三名を差し出さなくてはいけませんでした。
旧会津藩は、やむなく家老職の田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんら三人を出したのですが、この内田中・神保の二人は籠城戦で既に命を落としており、実の所は萱野さん一人が一身に罪を背負うことになったのは、既にドラマで描かれた通りです。
照姫様は明治2年(1869)3月に東京に護送されており、青山の紀州藩邸に預けられていました。
そこで一死を以て容保の罪を贖ってくれる萱野さんの事を聞き、彼に
夢うつつ 思ひも分かず 惜むぞよ まことある名は 世に残れども
と言う歌を寄せ、切なくも苦しい胸の内を伝えました。
皮肉なことに、執行を言い渡されたのが飯野藩主、保科正益さん、つまり照姫様の血の繋がった実の弟でもあったので、彼女の悲しみは一入だったことでしょう。
萱野さんが麻布広尾の保科家別邸にて死を賜ったのは、同年5月18日。
表向きは斬首ながら密かに切腹の形を取ることを許され、萱野さんは武士としての対面を全う出来ました。
その翌月、容保様側室の佐久さん(田代孫兵衛さんの娘)が容保様の嫡男、容大さんを出産し、11月にはその容大さんに旧会津松平家の家督相続が認められ、旧会津藩は下北斗南三万石として再興されました。
それに伴い照姫様も、12月の内には紀州藩から飯野藩へ預け替えとなり、27年ぶりに生家へ戻ることが出来ました。
明治5年(1872)には容保様も漸くお預け御免となり、その時に喜びの歌として照姫様は
いくかへり むすべる霜の うちとけし うたげうれしき けふにも有哉
と詠んでいます。
照姫様は以後、保科家からの援助で暮らすことになります。
明治12年(1879)には、旅先の東山温泉で
岩くだく 滝のひびきに 哀その むかしの事も おもひ出つつ
との歌を詠んでいます。
「むかしの事」とは一体如何なることかは、照姫様自身が語っていないので、謎のままです。
照姫様は明治17年(1884)2月28日、東京小石川の保科邸でその生涯を閉じました。
享年55歳。
同年の3月15日付の読売新聞では、
奇特 此のほど旧會津藩主松平容大君の伯母君照桂院殿が卒去せられ内藤新宿の正受院へ葬送せられし時在京の旧藩士は勿論郷里の人々も数名出京して会葬せられしが葬式は旧格に依旧臣の頃の順序に一同行列せし中にも当今在京にて顕職に在る人々も旧例に依りて自身に□れしは奇特の至りと会葬者一同感服せしといふ

と報道しました。
照姫様が旧藩士達に慕われ、大切にされていたと言うことが窺える記事ですね。
現在、照姫様は会津若松の松平家の墓所に眠っておられます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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