2013年11月20日水曜日

第46回「駆け落ち」

今回のタイトル、当初は「明治の青春」だったのが変更されたそうで・・・しかしドラマを見てみると、どうも変更前のタイトルの方が良かったような気がしてなりません。
まま、そんなボヤキはさて置き、本編の内容に早速踏み込みましょう。
明治20年(1887)1月、みねさんは長男、平馬さんを出産します。
父方の横井平四郎(小楠)さんから「平」を、母方の覚馬さんから「馬」を取った名前です。
作中では第一子出産後の数日、産後の容態芳しからず、儚くなってしまった・・・とありまして、実際もその通りなのですが、実は平馬さんの前に悦子という女児をみねさんが時雄さんとの間に儲けていたという話もありまして。
しかしこの、みねさんから見れば長女に当たる悦子さんのことはあまりよく分かっていません。
ともあれ平馬さんは後に山本家の養嗣子となり、昭和19年(1944年)57歳で没します。
25歳の若さでこの世を去ったみねさんは、覚馬さん達とは違って南禅寺の天授庵に眠っています。
みねさんには舅にあたる横井小楠さんと同じ場所に埋葬されたのですね。
また今回亡くなられた襄さんのお父さん、民治さんも改葬されるまで天授庵に埋葬されていたようで、襄さんも葬儀の直前まではここに埋葬される予定だったそうです。

さて、最終回まであと少しということろで、またもや新しい登場人物、猪一郎さんの弟の健次郎さんの参入です。
・・・とは言っても、ずっと前から同志社の生徒でしたので、今になってやっと出して貰えるのか・・・という感が拭えませんが(苦笑)。
ちなみに健次郎さんは同志社を再入学してこの場にいます。
一時は熊本の実家に帰っていたのですが、猪一郎さんが実家に戻って来て且つ結婚したものだから居辛くなり、家を離れます。
その後今治で牧師活動をしていた時雄さんを頼り(親戚関係なので)、そこで教会活動を手伝って、明治19年(1886)6月に京都へ移って同年秋に編入試験を受けて同志社に再入学したのです。
再入学した同志社で、彼が出会ったのは久栄さん。
このふたりのことは、先週の記事でもご紹介しました健次郎さんの自伝的小説『黒い眼と茶色の目』で有名ですが、まあ折角ですので内容に沿った形で筆を進めていくことにしましょう。
何やら本の貸し借りを通じて親交を深めている様子の二人ですが、そんな健次郎さんが次に久栄さんに勧めたのが坪内逍遥さんの『当世書生気質』。
近代デジタルライブラリーでも読むことの出来るこの作品、平たく言えば当時好評を得ていた小説です。
以前放映されていた「坂の上の雲」でも、確か正岡子規さんが読んでいたように記憶しています。

帝大生が小説など!こんな低俗な娯楽にうつつを抜かしている場合が!東京大学は今や帝国大学となった!お前達には日本を正しぐ導く重責があるごどを忘れるな!

と、山川さん家の方の健次郎さんが帝大生に怒鳴り散らしておりましたが、明治のこの時期、小説がどういう物だったのかについて少し補足したいと思います。
言わずもがな、現代の我々が捉えている「小説」とは、物は一緒でも社会的捉えられ方が全く違います。
あんまり深くメスを入れ過ぎると文学史の話になってしまうので極力避けますが、そもそも「小説」という言葉は「小人(つまらない人のこと)の説」という意味でして、お隣の中国では賤民的な存在であって、伝統的な観念では文学以外のものと考えられていました。
ええ、そうです、かの有名な『三国志演義』も『水滸伝』も『西遊記』も、小説であるが故に文学だとは見做されてなかったのです!
これは儒教的な観念なのですが、転じて、日本にもそういった傾向がありまして、要は健次郎さんの台詞にあるように「小説は低俗な娯楽」と位置付けられていたのですね。
へーそうなんですか~という感じでしょうが、儒学を尊しとした江戸時代の武家の人間として、少なからずその価値観が植え付けられてる健次郎さんからすれば、小説なんてものは差別の対象になってしまうわけですよ。
逆に生徒諸君は、きっと江戸時代が瓦解した明治のお生まれでしょうから、そういった価値観ががっつり植えられてないので、健次郎さんとの間には温度差が生じてる。
きっと彼らは、小説の何が駄目なんですか?という感じだと思います。
それはそっくり八重さんと健次郎さん(以下、ややこしいので蘆花さんと表記します)にも当てはまることでして。
八重さんも江戸期の人間だから小説は差別の対象(=「小説何て絵空事の話」発言)、対して蘆花さん(=「小説は絵空事じゃなか。小説には人間の本当が書いてあっと」と八重さんに反論)は明治の生まれだから小説を差別するだけの価値観を持ち合わせていない。
価値観の違う者同士が言い合っても、平行線を辿るのはいつの時代も同じこと。
近頃の若い者は」と八重さんがぼやいておられましたが、ここに明治という時代の区切りを境にして、前に生まれたか後に生まれたかの温度差のようなものがくっきり浮かび上がっていますね。
ちなみに「帝大生が小説など!」と健次郎さんに言われていましたが、ご存知明治を代表する小説家、夏目漱石やその他文学士を彩る数々の文豪も帝大卒、或いは帝大中退です。
しかしまあ、漱石からして生まれたのが江戸時代が間もなく幕を閉じようとしている慶応3年(1867)ですから、彼にもきっと小説に対する儒教の先入観はなかったのでしょう。
そう考えたら、安政6年(1859)というがっつり江戸時代生まれの坪内逍遥さんが小説に取り組んでいたのは、なかなか開明的というか、先進的というか、価値観に捕らわれない人だったのかなと。
小説というものが、人間の内側に向き合うルーツとして出て来たのは、封建制の時代が壊れた明治という時代ならではの新風。
封建制が終わったということで、「身分や家柄も構いなしになった」一方、「己の才覚だげで生ぎで行ぐ自由もまた、恐ろしかろう」というように、明治という新時代を生きる若者には、明治という新しい時代を生きるための生き方みたいなのがあるのです。
江戸と明治は全く違いますから、それこそ江戸の生き方が明治でそのまま通じるはずもなく。
そう言った意味での生き方の模索の中に、「個人」や「人間の内面」というのが登場してくるのですが、江戸時代という旧時代の人間からすればそんなものが「軟弱」に見えるのですね、八重さんみたいに。
覚馬さんのように開明的だと、明治という新し次代を生きることの難しさに理解を示せるのですが。

話を戻しましょう、覚馬さんの言葉を借りるなら「明治の生まれか」な蘆花さんと久栄さん。
『当世書生気質』の次に蘆花さんが彼女に貸したのは『レ・ミゼラブル』。
曰く「ある罪深い男が娼婦の娘のために一生ば捧げる話たい。何が罪で、何が愛か・・・」というこのお話、現代の我々の知るあの『レ・ミゼラブル』なのですが、この頃既に日本でも読まれていました。
正岡子規さんがこれを読んで感動した、という逸話は有名です。
ここで蘆花さんは、小説家を目指す抱負を久栄さんに打ち明けます。

ペンで人間ば解剖するように、人間の本当を書きたか

とはいうものを、その解剖の犠牲になるのが目の前の久栄さんであり、後年ですと捨松さん(『不如帰』にて大迷惑を被りました)なのですね。
小説を馬鹿にするわけでは決してありませんが、小説は飽く迄小説であって、それ以上のものにはなれない。
神様でもない人間が書いたものなので、絶対に視点や考えに偏りが生じますので、そう言った意味では「本当」何てものは誰にも書けないのです。
そんな蘆花さんのペンネームの由来がここで紹介されます。

徳富蘆花。蘆の花は見どころとてもなく
清少納言?
兄に比べれば俺は取るに足らん蘆の花たい。ばってん、俺はそぎゃん花の方がよか

蘆花、という号は久栄さんが指摘した通り、清少納言の『枕草子』(能因本)七十段に由来するもののようです。

ちょっと話を蘆花さんから、お兄さんの猪一郎さんに映しまして、同志社を中退した彼は、押しも押されぬ新進言論人として全国にその名を知られていました。
そのきっかけとなったのが『新日本之青年』であり、襄さんが第三版の序文を寄せていた『将来之日本』です。
襄さんはこの『将来之日本』の最も優れた理解者で、「御近著之将来之日本御送付被下鳴謝之至ニ不堪候」と、子弟でもある猪一郎さんの開花を喜んでいます。
猪一郎さんは自伝で、「予は当時専らスペンサーの進化説や、ミルの功利説や、抑々又たコブデン、ブライト等のマンチエスター派の非干渉主義や、自由放任主義や、若しくは横井小楠の世界平和思想や、それ等のものに依って、予一個の見識を打ち建てるものであった」と書いています。
自由時間を使って自分の勉強を積みつつ(インプット)、自分の塾で学んだことを講義してアウトプットする傍ら、鋭い現実政治批判の論評を磨いて行ったのでしょう。
そういう背景から『将来之日本』や、あるいは『新日本之青年』が生み出された。
仮に猪一郎さんが上京後に東京の新聞社への就職が成功していて、新聞作りに追われる日々を過ごしていたら、これらの作品は生まれて来なかったとも言えるかもしれません。
襄さんは「同志社大学設立の旨意」を猪一郎さんに委託しますが、その背景理由として、襄さんの持つ文明論的国家観と蘇峰さんが意気投合していたから、というのもあると思います。

話を再び弟の方に戻しまして・・・。

叔母様の力を借りるつもりはありません。母を追い出した人に頼るわけにはいかへん

と、久栄さんの母親代わりになろうと努めるのに、全身拒絶を食らう八重さん。
親ならば子は思う通りには行かぬと心得ておくと良い、と民治さんは言いましたが、母親追い出しておいて母親面するのは流石にどうかと思うという点で、この態度は全面的に久栄さんに賛成です。
それはさておき、ふたりの交際が噂になり、八重さんが真偽を質したところ、久栄さんは寧ろ開き直って噂を肯定します。
そこで読み上げたのは、蘆花さんから送られた恋文。
全能至大ノ父、十字架ニ鮮血ヲ流シ玉ヘル子、永久ニ生キテ働ク聖霊、三位ニシテ一体ナル神ノ御前ニ於テ、肯テ御身ト将来偕老ノ約ヲ結バンコトヲ誓ヒ、未来永劫或ハ渝ルコトナカランコトヲ跪イテ神ノ御前ニ祈ル。艱難の山、苦痛の谷も手を挈えて渡らん。
君が将来の夫
吾が未来の妻
これは『黒い眼と茶色の目』の中にある恋文の全文なので、実際蘆花さんがどんな恋文を送っていたのかは知りませんが、とにかく送ってくれた本人を前にして恋文を音読するとか、久栄さんは八重さんに反抗的なのは判りますが、余りにあれじゃあ蘆花さんが不憫です(苦笑)。

うちら、今から結婚するつもりや
何を馬鹿なごどを
健次郎さんは、同志社辞めて東京で小説家になるというてます。うちも東京に着いて行く
学生の身で結婚など許せるはずがねぇ!
山本家から追い出した女の娘や。厄介払い出来てええやないの。うちも追い出して下さい
厄介者な訳ねえ!家族だがら反対すんだ。そんな結婚、久栄のためにならねえ
叔母様にうちの結婚を反対される謂れはないわ。母親にでもなったつもり何か!レ・ミゼラブルいう小説。ここには我が子のために命をかける母の愛が書いてあります。いっぺん読んでみたら叔母さんにも分かるやろ

個人的に、この発言をしている久栄さんが『レ・ミゼラブル』の内容をちゃんと汲み取れてないような気がしてならない・・・。
コゼットのことを自分に都合よく解釈しちゃっただけなんですかね。
・・・あれ、自己の都合よく何かを解釈するそういうところ、蘆花さんと似てますね。
もしかしてそういうさり気無い演出をにおわせてるのですか?(そんな訳ない)
小説で食べて行けるのか、いうことについて、この頃の日本で小説だけで食べて行こうとして失敗した例が樋口一葉さん。
その失敗を繰り返さないように、小説家をサラリーマン的にして、小説家を食べて行ける職業にしたのが夏目漱石さんです。
きっとこのまま蘆花さんが上京しても、小説家として一本立ちになれず、樋口さんルートを辿ってただろうなぁ、と感じずにはいられませんが、どうなってたでしょうね。

明治19年(1886)6月、襄さんと八重さんは仙台の東華学校開校式の出席を経て、函館から札幌に避暑に向かいます。
冒頭のみねさんの出産が明治20年なので、また時系列がおかしなことになっていますが、もうあまり深く考えないことにしましょう。
個人的には、北の大地に渡った八重さんが、斗南のこととかは脳裏を掠めもしないのね・・・と・・・(苦笑)。
このとき八重さんと再会したユキさんの、薩摩藩士との結婚のことは、このブログでも何度も触れてきたことですので、もう書かないでおきます。

気になる久栄さんと健次郎さんの恋路の行方ですが、結果論から言ってしまうと成就しません。
ただその結果に至るまで、一体どんな道程を辿ったのかについては、やっぱりよく分かっていないのです。
前回の時栄さんの時と同様、『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが事実のように捉えている人もいますが、繰り返します、『黒い眼と茶色の目』は小説です
なのでそれを鵜呑みにするのはかなり危険なことですので、少し違った角度から蘆花さんと久栄さんを見て行きましょう。
ドラマでは一方的に、蘆花さんが久栄さんを捨てて上京した形になっていました。
ところがところが、『黒い眼と茶色の目』では寄って集って自分の恋を諦めさせに掛かった挙句、黒い眼(=襄さん)が恋愛というプライバシー問題に介入して自分達の関係にとどめを刺した、と、まるで蘆花さんが被害者のように描かれています(まあ一度読んでみて下さいませ)。
実際に分かっている情報を辿ると、蘆花さんは明治20年12月17日に襄さん宛てに決別の書簡を出して同志社を飛び出して失踪、その後翌年2月に水俣に現れるまでの二か月間については何も書き残していません。
この空白の時間、蘆花さんが久栄さんとのことで心が荒れていたのは想像に難くありません。
気になるのが、後年(大正3年)『蘆花日記』にて、蘆花さんが

久栄は余が離縁した妻ではない、皆が離縁さした妻である。
細君は余が親迎した妻ではない、皆が結婚さした妻である。
故に余は満足しなかった。
と書いていること。
ここから読み取れる蘆花さんの言い分は、久栄さんとのことも奥さんとのことも、自分ではなく外から不本意な決定を迫られた、ということです。
女性が見たら激怒しそうな、自分のことを棚に上げた無責任発言ですね(笑)。
まあ、蘆花さんは「自分の書いた痕跡で見れば、余は従来常に他動的で、自発的に動いたことはない」と自分で言ってしまってるので、こういう風な言い方をするのはよくあったのでしょう。
しかしこう言っておきながら、蘆花さんは久栄さんとの出来事を実に三度も叙述します。
言わずもがな、それが『黒い眼と茶色の目』という作品です。
一回目の起稿は、久栄さんと別れてから日の浅い明治21年(1888)~明治22年春頃、日久奈温泉の泉屋で書き上げました。
二回目の執筆は上京後、兄の猪一郎さんの民友社で翻訳の仕事に従事していた明治25年(1892)頃。
そして明治26年(1893)7月20日に久栄さんが亡くなり、三回目は大正3年(1914)9月~10月17日に綴られました。
このとき蘆花さん、妻の愛子さんと結婚して二十一年目です。
何故三度も綴ったのか、ということについては、年月の段階を踏んで自分の中にあるものを「書く」ことによって昇華させていっているように私には見えます。
第一回目は、久栄さんとのことがあってからまだ日も浅かったので、久栄さんへの復讐などの気持ち、遣る瀬無い鬱憤の放出などの意味合いが強く(愛憎)、第二回目もそういった感じで筆を動かし、第三回目には今いる自分の妻と、後遺症として残る久栄さんと、そして自分の関係や距離感の整理、という意味合いがあったのではないかな~、と私などは捉えています。
その証拠に・・・というには少しおかしな表現ですが、大正3年の日記で、蘆花さんは「余は『茶色』で潔く彼女を永久に葬る」と言っています。
これは書くことによって、自分の中にいる久栄さんとのようやくの決別が出来たと取っても良いのではないでしょうか。
第一回と第二回の原稿が残っているわけではないので、比較も出来ないままの推論で大変申し訳ないのですが。
勿論過去の記録文学として仕上がっているこの小説が、ふしだらな女(=久栄さん)に弄ばれた被害者(=蘆花さん)、ということで、蘆花さんの自己を正当化し、合理化するために書かれた作品とも受け取ることも出来ます。
もう少し興味深い記述を、同じく大正3年に蘆花さんが残しているので、如何に引用させて頂きますね。
十月三日
何故に「茶色の」を書く乎。要するに自己肯定の結果である。真実の自己を押し出す勇気がやっと出たからである。斯くて久栄は大ぴらに世の肉縁薄かった先妻となり、細君は後妻となるのである。久栄が隠し妻である間は、細君は世の真の妻ではない。余が久栄を公表し、細君が久栄を包容するに至って、余と細君の結婚は成立するのだ。「茶色の」表面に細君の片影もないが、背景には確固とした根強い細君が居る。細君が十分に入って来たから、久栄は出るのだ。
十月六日
「久栄さんは十六七の子供なのに、あなたが今日まで引っ張って育てゝ居なさる」と細君曰ふ。
十月十日
余は細君を自分流儀に愛した。然し過去の幽霊に対する愛も終始動いた。二つの愛は終始絶間ない葛藤を起こした。細君が来て今日に到るまでの廿一年間は其二つの勢力の消長史である。・・・・・・余は長い長い内諍の後やっと細君を専愛する心になった。ついに此三週間以内の事と云ってもよい。父の死が余を解放したとも云へる。最後の試験に細君が及第したからとも云へる。・・・・・・過去一切を久栄にやって、はじめて余と細君の真の結婚は成就するのだ。
十一月一日
細君曰く、久栄さんがあなたの心の最奥を占め、私が其外を占めていたと。厳密な定義に於いて、最奥が細君で、中層が久栄で、上層がまた細君だったのだ。余曰く、実は今日まで久栄を愛して居た、「黒い眼」を出すのも一は久栄の心の最後の在処を探らん為であった、久栄が余を捨てたや否やまだ余の安心はついていなかったのだ。
(徳富蘆花1928、蘆花全集10、蘆花全集刊行会)
以上の抜粋部分を読んで汲み取れるのが、『黒い眼と茶色の目』は蘆花さんの中で久栄さんという存在をぐるぐる回して、それを昇華ないしは決別させるための作品だったということで。
なのでただの「久栄への復讐作品」と終わらせるのも、「蘆花の被害妄想小説」という言葉で片付けてしまうのも、間違いではないのですが、それだけじゃ片付けられないものが含まれていると思うのですよね。
故に軽々しく、あの二人の間に起きたことは『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが全てです、とも言って欲しくないなと。
何だかまとまりのない記事になっていますが、結局のところ、歴史の真実や当人同士が何をどう思ってただ何て、当人ら以外の誰にも分からないんですよねぇ・・・と、無理矢理まとめさせて頂きます(着地点見失った!)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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