2013年11月25日月曜日

第47回「残された時間」

明治政府にとって、不平等条約の改正は「早急に何とかしなければいけない」問題として、常に纏わりついているものでした。
そのためには、諸外国と「平等」な立場に立たなければいけない=そういったような国に作り変えて行かねばならない、というので国会議会を開設し、憲法を設けるなどして、先進国らしい国に一歩一歩近付こうと歩んで来たのが明治時代の半分といっても過言ではないと思います。
鹿鳴館などはその計画の一環として建てられたものですが、これは皆様歴史の教科書でもお馴染みのビゴーの風刺絵(「鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習」)でも分かるように、諸外国からは喜劇としか映ってなかったようです。
そうして、条約改正に向けての外交の場として設けたはずの鹿鳴館は、猿真似と嘲られて成果を上げず。
さて、明治20年(1887)7月、条約改正案が挫折したことによって、外務大臣であった井上馨さんが辞任に追い込まれました。
そこで伊藤さんと井上さんは、黒田さんと謀って大隈さんに外務大臣就任を要請します。
ですが北海道の官有物払下げ事件の件で、大隈さんを政府から追った伊藤さんからのこの要請を、大隈さんは受け入れられなかったのか何なのか(まあそうでしょうね)、また伊藤内閣内でも大隈さん入閣を反対する声があり、この打診は不調に終わります。
しかしこの年の暮れに保安条例発布後の内閣強化策のため、再び大隈さんのところへ伊藤内閣への入閣打診が来ます。
とうとう折れた大隈さんは、明治21年(1888)2月1日、伊藤内閣に外務大臣として入閣します。
前置きが随分と長くなりましたが、それが今回のドラマの冒頭シーンです。

・・・あんたとは、政策が違っとるばい

という大隈さんですが、それでも伊藤内閣入閣を決めたのは、お互い潰し合ったり「嫌いだから協力しません」と言ってたりしては、何も出来ないし何も進まないって分かってたからでしょうね。
死ぬ程嫌いだけど、政策も違うけど、向いてる方角は一緒だから協力しましょう、っていう姿勢は幕末の薩長とかと似た感じだと思います。
ちなみに政策が違う、というのはお互いの憲法観ですとか、大隈さんは英国式の政党内閣制を主張していたのに対して、伊藤さんは天皇の大権に仕える内閣制を推した、とものとかの事でしょうか。
その辺り、勉強不足なので曖昧なのですが・・・。
何はともあれ、大隈さんも入閣して不平等条約改正の交渉に向けてまだまだ頑張る明治政府ですが、残念なことに(?)不平等条約を改正するのは、乞われて入閣した大隈さんではなく、剃刀大臣こと陸奥宗光さんなんですよね。
この陸奥さんが尽力した「日米通商航海条約」(明治27年調印、明治32年発行)では、領事裁判権は撤廃されたものの、関税自主権は一部しか回復しておらず、条約完全改正の余地がありました。
陸奥さんの後にそれを頑張ったのが小村寿太郎さんで、彼の尽力によって明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効されました。
これにより、関税自主権も完全に回復しました。
明治は45年までですから、ほぼ明治丸々の時間が費やされたということですか。
条約改正の道はかくも長き、です。

山本家では、先頃生まれた平馬君が覚馬さんの養嗣子となり、79歳、数えで80歳の佐久さんは初孫の相手に・・・と、久し振りに山本家に和やかな時間が流れているように見えました。
憑き物が取れたように晴れやかな顔をされている久栄さんも、神戸英和女学校(現在の神戸女学院大学)への進学を決めているようで。
久栄さんはそこを卒業後、京都にある傍仏語英学校(現在の京都府中学校のことでしょうか?詳細不明)で働きます。
色んな事が起こった山本家だけど、これでようやく落ち着くのか・・・と思いきや、襄さんの体の調子が宜しく無いようで。
自分を労わらずに無理をする襄さんに、八重さんの心配は尽きませんが

今は立ち止まっている時ではありません。来年は、いよいよ憲法が発布されます。立憲国家が道を誤らないためには、それを支える人材が必要だ・・・。国会が始まるまでに大学を作らなければ・・・

という襄さんを止めることが出来ません。
使命感に駆られる姿は、さながら尚之助さんを彷彿させるのですが、やはり意図的でしょうか。
そんな新島邸に、ある日猪一郎改め蘇峰さんと、市原さんが訪ねて来ます。
蘇峰さんの民友社が作っている「国民之友」は売れ行き好調のため、この頃毎月2回、第一第三金曜日定期刊行になりました。
ちなみに定価は1冊金8銭、半年12冊前金90銭、全国無逓送料で広告料は一行金10銭。
その「国民之友」に、襄さんと諭吉さんの記事が掲載されたのは、明治21年3月2日号。
曰く、「何となれば二君は実に明治年間教育の二大主義を代表する人たればなり、即ち物質的智識の教育は、福沢君に依つて代表せられ、精神的道徳の教育は、新島君に依つて代表せらる」。
他にも「福沢君の事業は噴水の如し」に対して、襄さんを「宛も木の葉を潜る精水の如し」と書いていたりと、この記事は評判を呼んだようで、「国民之友」というメディア媒介を通じて襄さんは有名になります。
寧ろ無名でありたい、と襄さんは功名心が低いのですが、

ばってん、名声が高まれば、大学設立に力ば貸してくれる人が増えっとです

という蘇峰さんの指摘はまさにその通りですね。
後ろ盾らしい後ろ盾がない独立状態なので、使えるコネクションは最大限に活用していきましょうということですよ、要は。
この蘆花さんの記事によって、大隈さんがいたく共感を覚えて募金を呼びかける集会を開いては、というとろこまで話が発展したようですが、ここで懸念されるのはやっぱり襄さんの身体の具合。
八重さんが「大警視」と呼ばれていましたが、実際に彼女が過度な心配性みたいなのになったのは、襄さんの余命宣告を受けてから以降だそうですね。
しかしまあ、大隈さんも大臣就任でまだばたばたしてるだろうからと、襄さんの上京は気候が良くなったら、と繰り越されます。
4月、上京した襄さんと八重さんは、九段にある大隈さんのお邸にて募金集めの会を開きます。

大学設立の目的は、一国の精神となり、柱となる人々を育成することにあります。まず文学専門部を創設し、歴史、哲学、経済学などを教え、更に理学部、医学部と広げる計画です。しかしながら後者の建築や教員の招聘には、莫大な金がかかります。どうか、援助をお願い致します!

錚々たるメンバーの前でそう演説する襄さんですが、正直なところ、もっとこの演説内容濃くして欲しかったなと(苦笑)。
現代では大学がポコポコ出来てますが、この時代で大学作るのって簡単じゃないんです。
それをこんな風に演出されたら、その重みが全く感じられないものになってしまうだけでなく、この程度で多額貰えるの?という印象を抱いてしまいます。
大切なところなので、頑張って欲しかった・・・。
まあドラマでの演説内容はさて置き、この集会は大変手ごたえがあったようで、襄さんは「大いにその賛成を得たり」と「同志社大学設立の旨意」で書いています。
ちなみに寄付金額は、青木周蔵さん500円、大隈さんと井上さんが1000円、益田孝さん、大倉喜八郎さん、田中平八さんが2000円、平沼八太郎さんが2500円、岩崎久弥さんが3000円、岩崎弥之助さんが5000円、 渋沢栄一さんと原六郎さんが6000円、と「同志社大学設立の旨意」には書かれています。
他にも勝さんですとか、榎本さん、後藤象二郎さん、あと福沢諭吉さんも寄付してくれたみたいですね。
因みに気になるのが、この頃の金額を今の価値に直すとどのくらいになるのか、ということでして。
これはこの時代に限ったことではないんですが、当時の金額を今の金額に改めるのって、実はすごく難しいことなんです。
いえね、大体この頃の1円=現在の1万円って考えればいいんですが、物の価値が違うので同じ1万円だと考えない方が良いんです。
例えば、100円で鉛筆1本買える時代と、100円で鉛筆10本帰る時代だと、文字の上では同じ100円なのに、そこで意味されてる100円の価値って同じじゃないですよね?
分かり易い比較対象として、明治23年時の伊藤さんの年棒が5000円ということから見て行けば、皆様ぽーんと凄い額を寄付したんだなぁ・・・ということを漠然と掴んで頂けるかと。

集会を終えた襄さんが次に向かったのは、赤坂の氷川にある勝さんのお宅。

今まで会った人間で、本当に恐ろしいと思ったのはふたりだ。一人は薩摩の西郷、もう一人は横井小楠先生・・・

と、ここでようやく小楠さんがご登場です(名前だけですけどね)。
満を持して何てもうすっかり通り越して、何で今更出すんだ、という突っ込みを思わずしてしまいたくなりました。
勝さんのこの言葉は有名ですが、横井小楠という人にことごとく触れて来なかったので、「誰それ?恐ろしい人なんだ」程度の認識しか与えられないのが非常に惜しい。
積み重ねの甘さのつけが、こんなところにも回って来てしまっているようです。
(ちなみに小楠さんのことについては、此方の記事で既に書いております)
勝さんは襄さんの大学設立について、お金が必要なのも分かるし、そのために寄付を募ったというのも理解した上で、でも彼らが同志社に投資するのは「キリスト教の大学は、西欧化の象徴に使えると踏んだんだ」と鋭い指摘をします。

折角の大学を、紐付きにする気かい?官からの独立、自由教育を謳っている新島さんが・・・。政府のためでなく、人民のために作る大学だろう?だったら、その志を全国に訴え、国民の力を借りて作っちゃどうだい。一人から貰う千円も、千人から一円集めるのも、同じ千円だ
でも襄の体は一づです。日本中を説いで回ることは出来ません
徳富がいるじゃねぇか。国民之友には数万人の読者がいる。これを載せて読んでもらえば、数万人相手に集会を開くようなもんだ

ここで物を言うのが、ペンの力ですね。
ペンは剣よりも強し、とはよく言ったもの。
最後の方でも描かれましたが、襄さんはこの「国民之友」を始め、全国二十あまりの主要新聞に「同志社大学設立の旨意」を掲載して貰いました。
(因みに該当文書はこちらで読むことが出来ます)
こういうスタイルは明治時代ですよね、やっぱり。
先程の「国民之友」の号でも、襄さんと福沢さんは「二君素より其志す所に於て一も同じき所あらず、然れども独立独行、政府の力を假らず、身に燦爛たる勲章を佩びず、純乎たる日本の一市民を以て、斯の如き絶大の事業を為し、且つ為さんとするに至つては、則ち其揆を一にせずんばあらず」と、はっきりと「独立独行」の仁だと書かれていることですし、紐付きにならないよう襄さんには頑張って貰わねばなりませんね。
それに体の方が付いて行かないのが、襄さんの切ないところではあるのですが・・・。
そんな襄さんのために、勝さんが鎌倉の静養所を紹介しれました。
(鎌倉って大磯のすぐ近くじゃないかと、不覚にもどきりとしてしまいましたが・・・これも狙っての事なのでしょうか)
町の射的で遊んだ八重さんの腕は今も劣らず、襄さんは駄目駄目で・・・。
このやり取りも良いですが、個人的には襄さんの猟銃のエピソードが見たかったなぁ、と。
「あなたは鳥を打ちに行くのではなくて、鳥を追いに行くんだ」って八重さんに言って欲しかったですし、「もしもし、うちの鳩を打ってはいけませんよ」って注意される襄さんが見たかった(笑)。

良いものですね、こんな風に二人だけでゆっくり過ごすのは

というのも束の間、宿の部屋には何故か槇村さんが我が物顔で寛いでいて、これには襄さんも八重さんも吃驚です。
「いわば同志社の生みの親」と自負しているらしい彼は、募金集会のことを聞いて襄さんに寄付してくれるのですが、生みの親は飛躍して物事考えすぎでしょうに(笑)。
しかしながら一切問題、槇村さんも寄付していたという話はあるのでしょうかね?
手元の資料を探る限りでは、彼の名前は見当たらないのですが。
でなければここでの彼の再登場は、視聴者へのサービスとしか考えられないのですが、兎にも角にも相変わらずでしたね(男爵になっているはずなのに)。

京都に戻った八重さんは、明石さん(京都舎密局に出仕していたあの明石さんです。覚えておられる方少ないのでは・・・)から襄さんの病気は治る見込みがないことを告げられます。
心臓が偉く弱っていて、次に発作が起きたら破れるかもしれないと。
実際にはドクターは明石さんではなく、ベルツさんと難波一両さんの合診だったように記憶していますが、さしもの八重さんも襄さんの余命宣告に平静ではいられません。
そのまま真っ直ぐに家には帰らず、買い物をして気を落ち着けて帰宅した姿がドラマで描かれていましたが、実際の八重さんもそうしたそうです。
襄さんの書いた『漫遊記』には、夫の余命を知った八重さんを「八重ノ愁歎一片ナラス、大ニ予ノ心ヲ痛メシメタリ」と記されています。
余命宣告のことを本人には隠そうとする八重さんでしたが、

私には、やることがあるんです!その日が近いなら、準備をしなければならない!死を恐れるような男だと思っているのですか!怖いのは死ぬことではない、覚悟を決めず、支度も出来ぬままに突然命を断たれることです

と言われ、心臓がいつ破れてもおかしくない状態にあることを告白します。
自分の体がそんな状態だというのに、襄さんときたら「可哀想に・・・驚いたでしょうね。一人で、そんな話を聞いて」とか、本当に泣きそうになりましたよ。
聖人君子過ぎる・・・と思ったら、そうでもないという部分がこの後描かれていて、今回のこの演出は好きだなと思いました。
寝ている襄さんの口元に、心配した八重さんが手を持って行って呼吸を確認したのは、八重さんの手記『亡愛夫襄発病の覚』で触れられているエピソードですね。
妾は、日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかも知れず。左様なれば我が大困りだから安眠せよ。と度々申したり。

襄さんは自分の死後の八重さんを殊の外案じていたようで、明治22年5月には「大和の山林王」と呼ばれる吉野の土倉庄三郎さんに手紙を書き、300円を預けるから、「マッチ樹木植付のコンバネーとなし下され(マッチ棒用の植林の共同出資)」と依頼しています。
まあこの背景には、お金遣いの荒い八重さんの、自分の死後の身持ちを案じて・・・というのも大いに含まれているのですが。
で、ここで初登場時から視聴者に「天使」とあだ名され、さながら聖人君子を絵に描いたような人であった襄さんの、人間らしい心中吐露が見られます。

何一つ、容易く出来たことはない・・・邪魔され、罵られ・・・全ては主の思し召しだと思えば、試練も喜びに変えられた。でも・・・耐えられない!ここまで来て、大学が出来るのを見届けられない何て・・・こんなところで死ぬ何て。・・・主は何故、もう少し時を与えて下さらないのだ!・・・死が、私に追い付いてしまう・・・

要は言葉の装飾全部取っ払ってストレートに言うと、「死にたくない」んですね。
死ぬことを恐れてるわけじゃない人間の「死にたくない」。
何故か、それはここで逝ってしまったら、未練が残るからです。
その未練とは言わずもがな、大学を作ること。
うんうん、と頷きながらそんな襄さんを見守っていたのですが、その後八重さんの口からとんでもない台詞が飛び出て、一視聴者としても目玉が飛び出そうになりました。

もういい!もうやめでくなんしょ!ジョーの心臓が破れてしまう!大学なんかいらねぇ!襄が命を削るぐらいなら、大学なんか出来なくていい!

この嫁は夫の夢を全否定した挙句、「大学は他の人でも作れる。ジョーでなくても」とトドメの言葉までご丁寧に・・・。
いえね、八重さんの夫を失いたくないっていう気持ちは分かるんですよ。
襄さんの夢は知ってるけど、それと命とを天秤にかけたら、やっぱり命の方に傾いたからもっと我が身を大事にして欲しい、って気持ちから飛び出た言葉なんだろうなというのも分かるんですよ。
でもそう思わせるだけの夫婦描写が、果たして今までありましたか?
小楠さんの時と同じく、積み重ねの甘さのつけが、ここでも回って来てしまっていますね。
「ジョーのライフは私のライフ」の一言で全部集約出来てたと思ったら大間違いですよ。
しかしまあ、嫁に面と向かって今までやって来たことを全否定されたのに、襄さんは怒りもせずに言います。

私がいなくなっても、きっと後に続く人たちが自由の砦を作り上げてくれる。私もそう信じます。・・・けれど、そのためにはまず誰かが種を蒔かなければならない・・・一粒の麦が、地に落ちなければ・・・

これは新約聖書『ヨハネによる福音書』第12章24節「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」ですね。
襄さんの使命感とか、国家に対する思いというのはドラマでは最低限にしか触れられていないので、この台詞も最低限の規模でしか響きませんが、それでも良い台詞だと思いました。
ただやっぱりというか、その言葉を受けた八重さんが、「そうでした、これはジョーの戦でした」と納得する思考回路が、少し謎でして。
そんなに簡単に納得出来るなら、最初から全否定してあげなさんなや、って思わずにはいられない。
まあ全ての原因は、積み重ねの浅さでしょうけどね。
だから台詞同士が全く共鳴し合わず、中身の詰まってないものに聞こえてしまう。
ともあれ次回で襄さんご退場ですね。
脚本は相変わらずですが、今回の心中吐露の場面と言い、部分部分はオダギリさんの熱演ぶりが光っているので、臨終の場面も期待したいと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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