2013年11月6日水曜日

第44回「襄の遺言」

孝明天皇から容保様に遣わされた御宸翰(と御製)を、容保様が竹筒の中に入れ、生涯誰にも見せることなく、また入浴時以外は肌身離さなかった・・・云々の話については、3月に書いた記事で既に触れた通りです。
夏に京都文化博物館で催されていた「2013年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」にて、この御宸翰の実物を拝見して来たのですが(既に催しは終了しております)、この御宸翰、私が想像しているものよりずっと大きかったです。
いえ、容保様が「肌身離さなかった」というので、アクセサリー以上の大きさではあろうとは思ってましたが、まさか縦47cm×横7cm(錦袋の大きさ)だとは思いませんでした。
正直申し上げるに、あんなものを肌身離さず持っていたら日常生活に於いて邪魔で仕方がないと思うのですが、そこには敢えて触れないことにして・・・。
あの御宸翰は会津が決して逆賊ではなかったと証明する物品であり、だからこそ山縣さんなどはその存在を知った時にそれを買収して、それを闇に葬ろうと(おそらく)したのですよ。
それほどのものなので、会津(というより容保様)にとってはこれは決して軽いものではなく、また軽々しく扱ってはいけないものだと思うのですよ、ええ。
罷り間違っても、今回のドラマのように、たとえ相手が照姫様であっても容保様がそれを余人に見せるようなことは、断じてなかったと思うんですよ
家族でさえ竹筒の存在は知っていても、中には何が入ってるのか知らなかった程ですから、容保様は生涯それを秘して来られたはず。
いえね、ドラマですから、ええそうですこれはドラマですから、今にも儚くなりそうな義姉上に、亡くなる前に彼女には真実(御宸翰)を知っておいて欲しかった、というのがあったんでしょうね。
容保様にとっては照姫様は精神的支柱だったのは、「八重の桜」冒頭から描かれてきた紛れもない事実です。
しかも、かつては夫婦になる予定があったふたりですから(そのことについては此方の記事で)、淡い感情のようなものが通っていなかったとは断言しませんよ、実際どうだったのか分からないのですから。
でも、あの抱擁はないでしょう、あの抱擁は。
「あったかもしれないこと」を創作するのと、「絶対なかったであろうこと」を創作するのとじゃあ、創作物として出された時の意味合いが全然違いますよね?
容保様と照姫様を、プラトニックラブ的に描くのならまだ許容の範囲内でしょうが、あれは完全にアウトでしょう。
何よりあんな陳腐な抱擁のシーンに繋げるために、御宸翰を出汁のように使ったことに(少なくとも私の目にはそう映りました)怒りを覚えます。
以前の記事で「歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しい」と書きましたが、本当いい加減にして下さい、ここ数週間の大河ドラマ。
ドラマだからって、やって良いことと悪いことがある。
況してや歴史を題材にした大河ドラマが、歴史を蔑ろにして如何するって話ですよね。
で、容保様のお子様群と側室方の存在は一体何処へ行ったのでしょうかね?
そこ出さないと、勢津子妃にまで繋がらないんですよ。
勢津子妃まで繋がらないと、本当の意味で「会津は逆賊ではねぇ」が果たせないというのに・・・。
そもそも「八重の桜」って、薩長史観ではなく、朝敵逆賊扱いされた会津の立場から幕末を描くのもコンセプトのひとつではなかったですっけ?
幕末が終わって時代が明治になったらそれで全部終了ですか?
違いますよ、勢津子妃のことがあるまで、少なくとも朝廷賊軍扱いされてきた会津の中ではずっと幕末って続いてたんですよ。

・・・と、今回の記事も冒頭からそこそこ荒れていますが、ぼちぼち次の場面に着手しましょうか(既に意欲低迷してますのでさらっと行きます)。
話の主軸としてあったのは、同志社英学校を同志社大学にするための奔走と、私学の学校から徴兵令免除が撤廃されたことについてですね。
後はアメリカンボードとの確執もでしょうが、当ブログでも折に触れて補足してきた通り、正直これって今に始まったことじゃないんですよね。
アメリカンボード側としては、自分達が資金を提供するスポンサーなのだから、襄さんは所詮雇われ校長にしか過ぎない。
でも八重さんは違う、八重さんは襄さんが作った学校だから、同志社の権利の全ては校長の彼にあると主張。
どう考えたって噛み合うわけがないのですが、今更この問題に八重さんが直面してるってことは、八重さんはにこにこ笑って綺麗なお洋服着て、紅茶を淹れることしかしてなくて、夫の立場や苦境何て全然理解してなかったってことになりませんか?
それが、アメリカンボードとの現状を知った途端に、変な使命感に駆られつつも「ジョーのライフは私のライフ」なんて言われても、この八重さん説得力皆無ですよ。
で、この噛み合うわけないのを理解していないのか、宣教師の教師陣と真っ向からぶつかり合う八重さん。
襄の留守に勝手なごどはさせねぇ」と本人言い張りますが、平行線をたどる事が見えている両者に折り合いをつけたのは佐久さん。
敵を作る方法でしか喚けない八重さんに対し、佐久さんの我が身を切ってでも一歩退くお裁き加減は本当にお見事でした。
ハンサムウーマンって、こういうことを言うんじゃないでしょうかね。
ドラマの八重さんもいい加減佐久さんからこの辺りのノウハウ学びましょうよ(苦笑)。

順番が前後しました。
明治17年4月、襄さんはイタリア・スイスなどを巡ってアメリカへ行く旅に出ます。
大学設立資金集めのためとドラマでは銘打たれていましたが、実際の旅の目的は激務からの解放という目的の方が色濃かったようです(事実上不可能に終わりますが)。
襄さんは外遊に出て日本を離れる前に、同志社大学設立のための発起人会を発足させます。
京都商工会議所にて二日間に亘り発起人会を設立させた後、彼は京都を発ち(4月5日午前9時半発)、大阪を経て神戸から船に乗ります(4月6日発)。
まずそこから長崎に行って(4月8日着)、香港(4月12日着)、シンガポール(4月20日着)、コロンボ、スエズ(5月13日着)、ブリンディージ(5月17日着)、ナポリ(5月18日着)、ローマ(5月23日着)、トリノを経てワルデンシアン渓谷(6月21日着)でひと夏を過ごします。
8月5日にアイロロに着いた襄さんは、ホテル・オーベルアルプに部屋を確保し、翌6日の午後にアンデルマットからホスペンタールの方へ散歩に出掛けます。
マックス・カメラーさんというドイツの紳士がこの時一緒だったようで、サン・ゴタール峠を目指したのですが、次第に襄さんは呼吸困難になり、50メートル歩いては休み・・・と言うのを繰り返し、とうとう砦には辿り着けなかったようです。
その後ホテル・プローザにて夕食を終わらせた襄さんは益々気分が悪くなり、その翌日の午後、画用紙に英文で遺書を認めました。
ドラマでもその様子は描かれていましたね。
折角なのでその遺書の内容の日本語訳を、ブログの参考文献としても挙げている岩波文庫『新島襄自伝』から引用してみようと思います。
 一枚目 私は日本人で、母国に派遣された宣教師である。健康を損ねたので、やむを得ず、健康を求めて国から離れた。昨日ミラノからアンデルマットに到着し、ホテル・オーベルアルプに宿泊した。今朝ドイツの紳士と一緒にサンゴタール峠へと旅立った。私の容態が悪くなったので、彼は私をここに残してアイロロへ進んでいった。呼吸が苦しい。これは心臓の故障に違いない。
 私の所持品は僅かなお金とともにホテル・オーベルアルプに預けてある。私がここで死んだ場合には、どうかミラノ市トリノ通り五十一のチュリーノ牧師あてに電報を打ち、私の遺体の処置をお願いして頂きたい。どうか天の御父が私の魂をみ胸に受け入れてくださいますように!
 一八八四年八月六日 ジョゼフ H・ニイジマ
 これを読んだ人は誰でも、私の愛する祖国日本のために祈って下さい!

 二枚目 私はチュリーノ牧師に対し、遺体をミラノに葬って頂くようお願いする。そしてこの文書を、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市ジョイ通り四のアルフィーアス・ハーディー氏あてに送って頂きたい。同氏とその夫人は、ここ二十年にわたり私の恩人であった。主がお二人に、十分な酬いをお与え下さいますように。同氏にあてて直ちに電報を打って下さい。
 どうか私の頭髪を少し切り取り、それを日本の京都にいる愛する妻あてに、キリストにあって分かちがたく結ばれているしるしとして送って下さい。日本に対する私の計画は挫折するであろう。しかし有難いことに、主はすでに私たちのためにこれだけ多くのことを成し遂げて下さった。主が日本において、引き続きさらに素晴らしいことをして下さると私は信じている。願わくは主がわが愛する祖国のために、数多くの真のキリスト者と気高い愛国者を生みだして下さいますように!アーメン、アーメン。
この後続く自伝によれば、襄さんは胸の圧迫感を抑えるために胸に芥子を貼り付けたんだとか。
と、一時は遺書を綴るほどだった襄さんの容体ですが、夕方になると多少楽になり始め、翌日には馬車でアンデルマットに移動しています。
10日にルツェルンのワイセン・クロイツ・ホテルに到着した襄さんは、翌11日にようやく医師の診察を受け、心臓の左の部分が悪く、弁膜がきちんと閉まらなくなっていることを教えられます
しかし一命を取り留めた襄さんは、そのまま帰国せず、体調が良好なのを良いことに更に旅を継続、イングランドを経てアメリカに向かいます。
当時7歳のヘルマン・ヘッセと会ったり、クラーク博士と接点持ったりなどしているのですが、その話はさて置き、9月23日にニューヨーク港に着いた襄さんは、翌年の12月に帰国するまでアメリカに滞在します。

さて、もう順番かなりごちゃごちゃになってますが、今週の新たな登場人物で特記すべきは青木栄次郎さんでしょうか。
先の展開を知る人からすれば、広沢さん何て人間を連れ込んでくれたんだ!と突っ込みたくなりますが、まあ青木さんだって最初から問題抱えた人だったわけじゃないですからね。
・・・演出は全開でそう言う感じになってましたが(苦笑)。
まあ青木さんのことは次回に取り上げられるので、その時に触れるとして、今回はお久し振りの再登場となった広沢さんについて触れることにしましょう。
(ちなみに青木さんは広沢さんの縁戚ということにされてましたが、それについてはドラマの創作だと思います)
廃藩置県後の明治5年5月27日、広沢さんはイギリス人二人を雇って「開牧社」という牧場を拓いており、現在でいう青森県三沢市に昭和の終わりまで存続していたそうです。
洋式農法による未墾地開拓、洋種を基とした日本家畜の品種改良、肉食と牛乳による日本人の食生活を改善を掲げた牧場は、スタートは八戸藩大参事の太田広城さんとの共同経営でした。
一頭の西洋馬から始まったともいえるこの牧場なのですが、覚馬さんも指摘していた通り、開牧社のお蔭で暮らしが立った会津人も大勢いまして、広沢さんを買った大久保さんが政府要職にスカウトしても、首を縦に振らなかったそうです。
本人からすれば、政府に仕えない位置からお国を支える、という意思があったからでしょうが、政府の人間になると、自分の牧場があることによって日々生活出来ている会津人はどうなるのか、というのもやっぱりあったと思います。
少しでも世の中の役に立たねば、死んだ者だぢに叱られっつまう」というのは、本当にそんな広沢さんらしい台詞だなと。
そんな立派な広沢さんが、青木さんの縁戚という位置に勝手にされて、青木さんを登場させるための出汁に使われていたように見えたのも、これまた眉を顰めたくなる作り方なのですが・・・。
駄目ですね、最早何処を突いても、文句しか出なくなってきてます(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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