2013年1月17日木曜日

容保様と照姫様

「八重の桜」第2回「やむにやまれぬ心」観賞中に、容保様と照姫様の場面を見て
とTwitterでつぶやいたところ、有難くも「なるほど」と言って下さるお声などなどが多数あり、ああ少しでもお力になれたなと、とちいさな喜びを噛みしめておりました。
確かに何の予備知識もなくあの場面を見ると、照姫様と容保様の雰囲気に、ただの義姉弟以上の何かを感じるけどでも何だかよく分からない!と思ってしまうのも無理からぬ話かと存じます。
何せ「八重の桜」公式サイトの照姫様紹介文には、
容保と同じく養女で、3歳年上の義理の姉。1842(天保13) 年、子のない松平家に養女として迎えられるが、その翌年、容敬の側室に敏姫が誕生。1846 (弘化3)年、容保も養子として迎えられる。

とあり、何故照姫様が「子のない松平家に養女として迎えられ」たのか、「容敬の側室に敏姫が誕生」したことがどう照姫様に影響を与えたのかが触れられていません。
これも、視聴者の皆様もはてなと首を傾げることになった一因かと。
もしかしたら、追々触れて行く、というプランニングが制作側でなされているのかもしれませんが・・・。
今回はその補足を少しでもさせて頂ければなあ、と思いまして、まずは百聞は一見に如かず、家系図を作ってみました(敬称略)。

拙くて申し訳ないです。
左下にあるこの色が容保様です。
ドラマでも「この身に、会津の血は流れておらぬ」と仰っていたように、容保様は元々会津藩の方ではありません。
元は美濃国(現在の岐阜県)高須藩主、松平義健さんの七男として江戸四谷にあった高須藩邸で生まれました。
高須藩というのは尾張徳川家に嗣子が絶えたときこれを相続するという、いわば優秀なお血筋を担うお家柄でした。
そういうこともあって、容保様のお兄さんにあたる徳川慶勝さんは尾張徳川家に養子入りし、その家を継いでます。
他のご兄弟の皆様も、他家に養子に出されながらもそれぞれの場所で幕末史に巻き込まれていくのですが、今日はその話は少し脇に置いておきます。

話を戻しましょう。
容保様のお父様、義健さんには、お母さんの違う弟がいました。
それが容敬さんです。
容敬さんは諸事情あって七代藩主松平容衆さんの異母弟ということになり、容衆さんが文政5年2月29日(1822年4月20日)に亡くなると、末期養子(御家断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと)となって会津藩を継ぎました。
しかしこの容敬さん、後継ぎの男児どころか、女児ですらなかなか授からない状態でした。
天保13年(1842)、容敬さんは会津藩の支藩にあたる飯野藩からひとりの姫を養女に迎えます。
しかも藩主保科正丕さんの娘です。これが照姫様です。
当時10歳、数えで11歳の、いとけなくして聡明、且つ容貌も整っていた才色兼備の姫だったようです。
おそらく容敬さんのプランニングは、この支藩藩主の姫に、立派な男児を娶せて自分の後を継いでもらおう、というものだったかと思われます。
(しかしそれだと、何故照姫様より先に何処かの家の男児を養子に迎えなかったのかという疑問が残りますので、このプランニングについては私の憶測です。)
しかしこのプランニングが根元から揺らぐようなことが、照姫様養女入りの翌年に起こります。
今まで子宝に恵まれなかった容敬さんが、女児を授かったのです。これが敏姫さんです。
照姫様は敏姫さんのご誕生に、内心困惑したのではないでしょうか。
女児とはいえ実子が生まれたのであれば、照姫様は宙ぶらりんの存在になってしまいます。
容敬さんも困ったでしょう。
養女とはいえ照姫様は元は支藩藩主の姫、対して敏姫さんは会津八代藩主の息女。
「いずれ迎える予定の養子は、どちらの婿にするべきか」という感じでしょうか。
そんなこんなで弘化3年4月26日(1846年5月22日)、容敬さんはお兄さんの義健さんの七男、つまりは甥っ子の銈之丞様を世子として養子に迎えます。
この銈之丞様が、後に元服して容保様になります。

結果的に、容敬さんが銈之丞様をどちらの婿にしたのか(何かこの表現微妙ですが)は、歴史が語っています。
照姫様は嘉永2年閏4月2日(1849年5月23日)、豊前中津藩主・奥平昌服さんに嫁ぎました。
婚礼は中津藩江戸上屋敷(現在の中央区銀座の東部)にて行われたようです。
この照姫様の夫君となられた昌服さんは、明治の頃に啓蒙家として驥足を伸ばす福沢諭吉に邸内に蘭学塾の開校を許すなど、英邁な気質な方だったそうです。
しかし何があったのか、照姫様は4年後の嘉永6年(1853)には昌服さんとは離縁して江戸会津藩邸に戻ってきています。
「八重の桜」での照姫様は、その照姫様から始まっているようですね。
おふたりの間に子はありませんでしたが、別段おふたりが不仲であったと言う訳でも、家風が合わなかった訳でもない。
だのに照姫様自らのたっての願いにより、奥平家を去ったのだと言います。
これは一体どういうことなのか、この時期の世の中の情勢も照らし合わせて少し考えてみましょうか。

けふよりは 君がもとぞと 庭の松 緑の枝葉 さしかさぬらん

この歌は、照姫様がまだ奥平家にいた頃に、容保様に贈ったものです。
照姫様が嫁いで3年後、会津松平家では容敬さんが没し、17歳、数え18歳の容保様が後を継ぎ、9歳、数え10歳の敏姫さんが正室として彼を支えることになりました。
けれども年若い容保様が会津23万石を統べて行くのは難しく、敏姫さんも幼い正室としてそんな容保の力にはまだなれない。
しかし「八重の桜」を見てもお分かり頂けるように、あの時期は黒船が現れたりなどして世の中は騒然としていました。
そんな中に詠まれた照姫様のこの歌です。
「君がもとぞ」の「君」は、おそらく容保様を指しているのではないでしょうか。
つまり照姫様はこの歌の中で、近々容保様の元に戻ることを示唆しているのでは、と私はほんのり考えていたりします。
嫁いでいる照姫様が容保様の元へ戻るとは、つまり昌服さんとは離縁するということに他なりません。
勿論以上は私が憶測したことに過ぎず、照姫様が何故婚家から戻ってきたのか、その詳細は今に至るまで不明のままです。

折角なので、もう少し話を続けましょう。
照姫様が婚家から戻って来てしばらく経った安政3年9月19日(1856年10月17日)、容保様と敏姫さんがようやく婚儀を挙げました。
けれども生まれつき体が弱く、病弱だった敏姫さんは文久元年(1861)に風邪を拗らせて亡くなってしまいます。
敏姫さんの死に際して、照姫さまは「明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに」という詞書と共に、敏姫さんへの哀悼の歌を、次の様に詠みました。

千とせとも 祈れる人の はかなくも さらぬ別れに なるぞ哀しき

敏姫さん亡き後、会津松平家の奥向きは照姫様が担うことになります。
本来なら次代藩主の正室となるべく松平家に入った照姫様でしたので、彼女を容保様の継室にと言う声も家中にはあったそうですが、結局それも実現されないまま、容保様は文久2年閏8月1日(1862年9月24日)京都守護職に任じられ、家中の精兵一千と共に上洛の途に就きます。
容保様が京都に滞在している間も、おふたりの間ではやり取りがなされるのですが、それは本編の時間軸がもう少し進んだ時にでもまた。

ではでは、此度はこのあたりで。


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