2013年1月14日月曜日

第2回「やむにやまれぬ心」

相変わらず愛らしいことこの上ない八重ちゃんから始まりました、第2回。
今年度の大河のOPについて、実は未だに掴みかねている部分があります。
分かるような、分からないような・・・な状態なのですが、まあOPは漠然とした把握でも問題ないでしょう。

さて、先週に引き続きまして、鉄砲を撃つことを諦めない八重ちゃん。
手習い所で皆が『女今川』を書いている中、ひとり鉄砲の図解を書いてる辺り、もう鉄砲にぞっこんですね。
『女今川』というのは、当時の女性の習字のお手本兼教訓書です。
「今川」というのは、今川了俊の今川状から来ています。
対して、山川与七郎君たち男の子が暗唱しているのは『論語』。
日新館でまず最初に入学するのが「素読所」で、進級試験などを経て平均18歳でここを卒業します。
しかし飽く迄「平均」ですので・・・道は険しいけど、頑張れ会津の少年たちよ!
(しかし、什の掟の「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」を破っちゃってるのは・・・まあ、ドラマだから仕方がない、と目を瞑るところでしょうかね。)

場所は変わりまして、神奈川。
幕末を騒がせたペリーさんの、切ないくらいの一瞬のご登場でした。
あまりに一瞬でしたので、ペリーさん補足をさせて頂きますと、彼が最初に浦賀へやってきた1853年の時、彼は第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアさんの国書を携えて来てたのですが、ペリーさんが遠路はるばる日本を目指している間にこのフィルモアさんが選挙に負けてしまいましてね。
代わって大統領の座に就いたのが穏健なフランクリン・ピアースさん。
次に日本へやって来た時、つまりはこの場面の時はその穏健な大統領の意向で、最新鋭の軍艦は使わせてもらえず、おまけに「実弾は駄目だよ」的なことも言われていたらしいです。
要はアメリカ本国の強い後ろ盾が、なかったわけじゃないんですけど、まあなかったんですね。
ペリーさんが威圧的な態度で幕閣や日米和親条約に臨んだのも、そういった部分を見せまいと思っていたところもあるんじゃないのかなと。
そのペリーさんに頭を下げられた象山先生。
本当一瞬だったので何てことない風に見えますが、実はあれ、凄いことなんです。
その場に居合わせた幕臣の川路聖謨さんが、「ペリーが頭を下げたのは貴殿だけであろう」と言ったと伝わっていますが、ペリーさんが頭を下げたのは象山先生に対してのみだったのです。
誰にも彼にもぺこぺこしてた訳じゃないのです・・・象山先生、凄いお人ですね。

凄い象山先生とペリーさんのお次は・・・また幕末史で知名度抜群の方のご登場です。
薩摩弁なのでもしかしたら、と思ったら案の定西郷さんでした。
・・・あ、でも今作は西郷さんと言えば頼母さんと隆盛さん、ふたりおられるのでややこしいですね。
というわけで、私は前者を西郷さん、後者は西郷どん、と呼んで区別させて頂くことにします。
その西郷どんが微笑ましく見守る中、後の八重さんのひとり目の旦那とふたり目の旦那が一緒に豚に振り回されるという、何とも摩訶不思議なシーン。
少年の名前は新島七五三太、言うまでもなく後の新島襄その人です。
天保14年1月14日(1843年2月12日)のお生まれですので、この時11歳、数えで12歳。
八重さんと結婚するのはこれより22年後のことです。
余談ですが、上州安中藩の安中(現在の群馬県安中市)というのは、後の赤報隊事件が起こった場所です。

さて、妹の八重ちゃんが鉄砲熱に浮かされているのなら、兄の覚馬さんは黒豚・・・じゃなくて黒船熱に浮かされております。
というより、黒船の向こうにある「西洋」という未知の世界の技術や知識に、本人の言葉を借りるなら「取り憑かれてる」。
寅次郎さんの言葉を借りるなら、それもまた一種の「狂気」。
八重ちゃんが鉄砲を諦められないのなら、覚馬さんは黒船に乗る、というのを諦められない。
何だかんだで似た兄妹ですね。
しかし黒船に乗るには、密航ということになり、見つかれば死罪は免れません。
死罪になれば、覚馬さんの首ひとつじゃ事は済みません。
藩にも藩主にも、家族にも迷惑がかかります。
そのため、覚馬さんは黒船に乗り込む前に、脱藩に勘当に~云々と言ってたのです。
それらのものから全部自分を切り離して、文字通り身ひとつで乗り込もうとしてたわけです。
枝葉な情報になりますが、幕末史に○○藩脱藩浪人というのが目立つのは、ひとつはこの覚馬さんのように藩に迷惑はかけられないからとした人がいたからです。
別のタイプとしては、藩というしがらみが邪魔と考えてた人もいます。
龍馬さん何かはきっと後者のタイプかと思われます。

続きまして、妹サイド。
権八さんの鳥撃ちのお供に加えて貰って、何だかそれだけで足取りの軽い八重ちゃん。
この「お父っつぁま~」の腕前あって、あの覚馬さんの腕前と言うべきでしょう、権八さんお見事!
撃ち落とした鳥を拾って来いと言われた八重ちゃんが鳥のところへ行くと、まだ鳥は生きてましたが、すぐに権八さんが銃で仕留めました。
死んだ鳥を抱える八重ちゃんに、権八さんは、鳥を殺したのは鉄砲の弾で、弾に急所を射抜かれたら必ず死ぬことを教えます。

鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば、人さ撃ぢ殺す

角場の的を狙って撃ってるのは、シューティングゲーム感覚で面白く見えるかも知れない。
でも、戦場だとその的は人間ということになる。
それ(人)を撃つ=「人を殺す」ということを恐れることも知らないまま、形だけ真似ていてはいつか鉄砲に我が身を滅ぼされる。
だから砲術やる人間は、学問と技の両方を磨かなければいけない、なにより立派な武士でなければいけないと権八さんは諭します。
八重ちゃんが軽い気持ちで鉄砲に熱を上げていたとは思えませんし、でもどれだけ深い思い入れがあったのかも分かりません。
分かりませんが、権八さんは砲術の家の人間が背負う重み(=命の重み)を八重ちゃんに背負わせたくないということで、「ならぬものはならぬ」だったのです。

次は覚馬と三郎が背負う。おなごのお前には、到底背負いきんねえ。二度と鉄砲の真似事はすんな。いいな

鉄砲をやりたいという八重ちゃんに、ならぬ、の一点張りじゃなくて、父親の深い情愛がそこにあったのですね。
八重ちゃんも八重ちゃんで、お父さんの言うこともお母さんの言うことも分かってるけど、それでも諦められないものがちいさな胸の内にあったのでしょうね。
言葉にはっきりとは表せなくてもさ。

さて、覚馬さんは「黒船に乗る!」と息巻いてましたが、一足先にそれを実践した人がいます。
万が一のことを考えて、爪中万二という変名を使った寅次郎さんです。
結果論から言いますと失敗しまして(というより黒船に乗船して密航を訴えたけど拒否された)、しかも自首しました。
(寅次郎さんが密航を試みたシーンはスルーですか…ちょっぴり期待してたのに 。)
そのため伝馬町の牢屋敷に送られたのですが、寅次郎さんを使嗾したとして、象山先生も投獄させられます。
象山先生が、密航を企てた寅次郎さんに送った送別の詩というのは以下。
  環海何ぞ茫々たる五州 自ら隣を為す
  周流形勢を究めよ 一見は百聞に超ゆ
  智者は機に投ずるを貴ぶ 帰来は須らく辰に及ぶべし
象山先生は投獄から半年後に国許蟄居の判決が下され、獄衣に縄を打たれて錠前付きの切棒駕籠に乗せられ、江戸から松代に護送されました。

象山先生のいなくなった佐久間象山塾は、それはもう閑散としたもので。
数分前には豚が走り回ってた場所とは思えないくらいです。
がらんとした塾の中で呆然とする覚馬さんと尚之助さんに、「よぉ」と明るい声。勝さんです。
手にした扁額には「海舟書屋(かいしゅうしょおく、と読みます)」の字が。
この「書屋」と言う言葉は少し聞きなれないかもしれませんが、要は「本がたくさんある」というようなニュアンスです。
そこから転じて、文人が自分の家の雅号にも用いられてました。
以前放送された『坂の上の雲』にて、正岡子規さんが「獺祭書屋主人」の雅号を使っておられた(墓碑銘にも刻まれています)のは、『坂の上の雲』をご覧になられた皆様の記憶に新しいかと思います。

・・・話が逸れました。
勝さんはこの「海舟書屋」の扁額を「俺の塾に掲げようと思ってね」などと仰ってますが、勝手に持って行って良いの?(笑)
この勝さんの言う「俺の塾」は、赤坂田町(現在の東京都港区赤坂)に開いていたという氷解塾のことでしょうか。

幕府は大べら棒よ!この国が変わるために、一番役に立つ人間を、罪人にしちまった

この「罪人」は寅次郎さんを指しているのか象山先生を指しているのか・・・察するに象山先生かな。
水を指すような話を持ち出して申し訳ないですが、『氷川清話』を見るに、勝さんはあまり象山先生を高く評価してません・・・。
物知りだったけど、どうも法螺吹きで困るよ、とか何とか言ってた気がします。
ですが一方で、後に象山先生が暗殺されたときにはその死を深く悼んでいたり、象山先生にのみ「先生」の敬称を用いていたので、・・・ひょっとして、勝さんは今日風にいう“ツンデレ”だったのか!という気もします。
再び私が脱線している間に、勝さんがまた深いことを言います。

西洋の技術と、東洋の道徳

そういう時代を、自分たちが作っていくのだと語る勝さん。
「時代」を「自分たち」が「作って」いくのだと自負している辺り、非常に幕末らしいです。
幕末史は色んな人が、それぞれの思いを胸に抱いて行動したことで彩られてる歴史の一頁ですが、勝さんの自負は、その誰の心にも多かれ少なかれ宿っていたのだと私は思います。
その作ろうとした時代の先に、「幕府」「開国」「朝廷」「攘夷」「尊王」もろもろが引っ付いて絡んできたのだと。
私はこの、勝さんが「海舟書屋」の扁額を持って行ったシーンは、象山先生から勝さんへのバトンタッチが行われた感があるなぁ、と思って眺めてました。
(象山先生も、もう一回くらいは慶喜さんに開国論もろもろ説くために出てくるでしょうが。)
ドラマでは触れられませんでしたが、象山先生はオランダ砲術に出会い、オランダ語を二ヶ月でマスターし、『海防八策』というのを天保13年(1842)、当時の松代藩主・真田幸貫さんにに献上してます。
この『海防ハ策』の内容は、坂本龍馬さんの『船中ハ策』にも組み込まれてます。
バトンの流れは、象山先生→勝さん→龍馬さん、ということでしょうね。
『船中ハ策』は決して龍馬さんひとりで成り立った訳じゃない、というのが良く分かります。
その芽吹きは、ここに既にあったのです。

歴史モノと言えば、物語に華を添える女性陣も忘れてはなりません。
というわけでご登場しましたのは、稲盛いずみさん演じる照姫様。
正しい表記は「熙姫」なのですが、公式ホームページなどを見るに「照姫」表記されていますので、私もそちらに合わせることに致します。
照姫様は天保3年(1832)のお生まれです。
「婚家を離縁されて戻ってまいりました」と仰ってるので、このシーンは嘉永6年(1853)頃でしょうか。
とすればこのとき21歳、数えで22歳。
窈窕たる雰囲気が何とも言えません。
会津女性の憧憬の対象になるのも、宜な宜な。
照姫様の離縁ですが、彼女は嘉永2年(1849)閏4月2日、豊前中津藩主・奥平昌服さんに嫁いでます。
ふたりの間に子はいませんでしたが、不仲だったわけでも家風が合わなかったわけでもなく、離縁は照姫様たっての願いだったそうです。
ドラマで説明がなかったので、容保様と照姫様の雰囲気に「義理とはいえ姉弟にしては・・・」と思われた方も結構おられたようで(苦笑)。
もしかしたら追々触れられていくのかもしれませんが、やっぱり何らかの説明は欲しかったですよね。
実は照姫様は、本来容保様のご正室となるべく、会津松平家に養女として迎えられたお方なのです。
ですが照姫様が養女入りした翌年、前藩主・容敬さんに敏姫様が生まれたので、その話は立ち消えました。
あの描かれ方は、そういった背景事情踏まえてのものだと思われます。
その関係もろもろについては、また別に記事を設けて触れようと思います。
余談ですが、容保様と照姫様がおられる会津藩江戸上屋敷は、江戸城西之丸内桜田門外にありました。

大きな地図で見る
Aの場所が桜田門。
9000坪くらいの大きなお屋敷だったそうですので、現在の日比谷公園などは会津のお屋敷だったということなのでしょうか。
ちなみに、北に隣接して、和田倉門(地図上ですと「写真」の字の丁度下くらい)の脇に中屋敷があったそうです。

さて、時は移ろい安政3年(1856)の秋。
約3年の江戸遊学を終えた覚馬さんが会津にお戻りですが、一瞬道中で歌っているのが覚馬さんだと思ってしまいました。
馬子さんだったのですね、良いお声で(笑)。
そして、ここから八重さん役が鈴木梨央さんから綾瀬はるかさんへ交代。
八重ちゃんから八重さんへとなってるわけですが…八重さんはこのとき11歳、数えで12歳なので、交代は少し早かったんじゃない?という気もします。
城下まで帰ってきた覚馬さんが驚いたのは、三年の月日を経て八重さんが華麗な変貌を遂げていたからではなく、妹が軽々と米俵を持ち上げていたことに対してでした(笑)。
一俵は60kgですので、覚馬さんじゃなくても驚きますよね。
しかし八重さんの凄いのは、史実でも12か13の頃に、本当に一俵を4回ほど持ち上げたということです。
覚馬さんを魂消させた八重さんですが、髪型に目をやれば桃割れが良く似合っています。
桃割れというのは十代の女の子が結う髪型です。
しかし桃割れを結って可愛くなっても、八重さんの胸にはまだ「砲術さ習いでぇのです」「鉄砲、撃ってみでぇ」の気持ちが燻り続けています。
覚馬さんは、昔は八重さんのこれを「子供の戯言」として聞き流していたようですが、三年経った今でも妹がそう思ってることにさぞや驚いたでしょう。
でも諦めろって言われて諦められるのなら、とっくに諦めてるよね(しかしこの八重さんはまだ11なのですけど・・・)。
覚馬さんと違って、その三年間もずっと八重さんの鉄砲熱を知っていた権八さんは、今話の冒頭で八重ちゃんから奪い取った砲門入門書の写しを覚馬さんに見せます。
曰く、何ひとつ教えてないのに八重さんは勘所は掴んでいるとのことで、権八さんは八重さんの未知能力を「天性」と称します。
おまけに八重さんは膂力もあるし、胆力でも男の人には負けない。
しかし・・・。

んだげんじょ、それがなんになんだ。今でせぇ、世間並がら外れたおなごだ。この上鉄砲なんぞやったら、物笑いの種だ。へぼならばまだ良い。良い腕になったら困んだ。おなごが鉄砲の腕振るう場所はどごにもねぇ。いずれ切ねぇ思いをする

そんな父としての思いが権八さんにはあるのです。
天性の種を持っていても、女性である限りその種が花開くことはない。
命の重みを教えた時もそうでしたが、権八さんは八重さんのこと本当に深く思いやってますよね。
「ならぬことはならぬ」で闇雲に八重さんの鉄砲熱を押さえつけてたんじゃなくて、八重さんの女性としての人生もちゃんと考えての「ならぬ」だったわけです。
ただ、権八さんが親として八重さんの先々の人生のことまで視野に入れて思いやるのに対し、3年離れていたからか江戸遊学で色々見聞したからか、覚馬さんは少し違いました。
覚馬さんは、おなごでありながら鉄砲を一心に学ぼうとする八重さんの姿が、「自分と同じ」だと思います。
自分が胸が焼かれるように黒船に取り憑かれたのと同じように、八重さんも鉄砲に取り憑かれている。
寅次郎さんの言葉を借りるなら「狂気」、七五三太少年の言葉を借りるなら「やむにやまれず」。
江戸でこのふたりとこの言葉に出会った覚馬さんだったからこそ、権八さんとは違う角度で八重さんの鉄砲熱を受け止められたのでしょう。
覚馬さんは八重さんに、鉄砲を教えてやることにします。

それが鉄砲の重さだ。命のやり取りする武器の重さだ。にしは侍の娘だ。始めっと決めだら引ぐごどは許さねぇ。弱音吐ぐごども許さねぇ。まだ、極めだどごで誰が褒めでくれるどいうごどもねぇ。嫌なら今すぐ銃を置け。覚悟はいいな

権八さんが八重さんに伝えた「命の重さ」のことも、八重さんが第1回で容保様に「武士らしいと言われた」と泣いていたことも、おなごの身で鉄砲続けたら世間が八重さんをどう見るかも、全部全部、この言葉に込めての覚馬さんの台詞のように思えました。
同時に、八重さんを「娘」「おなご」として見ている権八さんに対して、覚馬さんは八重さんを女も男も関係なく、一個の人間として捉えたんだなとも思いました。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村