2013年1月12日土曜日

第1回「ならぬことはならぬ」

初回は74分の拡大版。
冒頭は南北戦争(1863年のゲティスバーグの戦い)から・・・おお、そこから入っていくのね、と何だか新鮮な心地でした。
幕末というと、単にこれまでの「日本という枠組みの中だけで日本を見る」のではなく、「世界情勢の中の日本」という視点がどうしても外せないので。
故に、この大観した挿入の仕方は良いなと思いました。
ドラマ冒頭でも言ってましたが、「南北戦争で使われていた銃が、その後日本にやってきた」のです。

そして、場面はそれから5年後の会津へ・・・。
砲弾打ち込まれてる鶴ヶ城を見て、この時点で込み上げてくるものを自制できませんでした。
そこへ銃を手に砲弾の中を潜り抜けるひとりの女性・・・言わずもがな、今年度の主人公、山本八重さんです。
持っているのはスペンサー銃、冒頭の南北戦争では北軍が使っていました。
八重さんは弘化2年11月3日(西暦で言えば1845年12月1日)生まれなので、西洋風に年齢をカウントすればこのとき22歳、数えで判断すれば24歳。
着ている袴は、鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸にて亡くなった弟・三郎さんの形見だと言われています。
場所は鶴ヶ城北出丸、八重さんが対峙しているのは言うまでもなく薩長連合軍。
よく「新政府軍」と言われてますが、改元の詔書が出されたのは西暦でいうところの1868年10月23日ですので、会津戦争のこの時点では新政府も何もないジャン、ということで私は「薩長連合軍」と敢えて呼びます。
余談ですが、彼らのあの尖った被り物を見て、いつもとんがりコーン!とんがりコーン!と言っているのは私です(笑)。
八重さんが敵方の大将をひとり仕留めておりましたが、『彰義隊奮戦之図』などでもおなじみの熊毛頭に陣羽織姿の将兵は、実際にはほとんどいなかったと思われます。
ちなみにこの珍奇大将ファッションが登場したのは上野戦争の頃。
江戸城開城の際に差し押さえたヤクの毛を使ったのでは、という説もあります。
色が薩摩=黒毛、長州=白毛、土佐=赤毛で統一されていた、というのは俗説らしいのですが、八重さんが仕留めた大将の熊毛が赤色で、後ろの少年兵が「薩摩の隊長さ仕留めだす!」と言っていたことから、本ドラマではその俗説に則るようです。
まあ、その方が視聴者にも分かりやすいですもんね。

ならぬことはならぬのです

八重さんも冒頭の戦闘シーンで口に出したこの言葉。
おそらく今後50話を通じて、折に触れて出てくるかと思います。
また、これについては追々触れましょう。
ここでやると、話がなかなか進みません(苦笑)。

さて、OPの間に冒頭わずか数分で昂った心を何とか落ち着かせ、ふと「物語は何処から始まるの?」と今更ながらに疑問に思いました。
八重さんだけのエピソードではどう考えたって1年50話持ちませんので、そこは彼女の故郷・会津と、幕末の会津の歴史を巻き込んでドラマ化していくんだろうなということは安易に予想出来ますが、それでも何処から?と。
黒船来航?安政の大獄?桜田門外の変?京都守護職拝命?
と思いきや、容保様のお国入りからでした。
嘉永4年(1851年)五月からこのドラマは始まるそうです。
冒頭の会津戦争の17年前ですね。
まだ平和でどのかな会津・・・17年後にはああなるだ何て、このとき誰が考えたでしょうか。
如何にもお転婆なリトル八重ちゃんの傍らにいる「時雄ちゃん」は、後の新選組三番隊組長・斎藤一さんの奥さんになる人です。

子役や俳優陣の皆様、会津弁お上手だな~と思いつつも、会津弁に馴染みのない私はなかなか聞き取れず・・・と思っておりましたら、NHKが私のような人がいることを読んでいたのか、字幕が!
後で知ったことなのですが、方言に字幕が付くのは28作目「翔ぶが如く」以来のことのようです。
同じ日本語を聞いているはずなのに字幕・・・なんだか変な気分です。

さて、お国入りされた容保様、演じておられる綾野剛さんも綺麗なお顔立ちをされてますが、実際残っているお写真の容保様も美男子です。
後々の話になりますが、京都守護職を拝命して容保様が御所へ出入りするようになったとき、宮中の女房達は御簾の裏からキャーキャー色めきだってたみたいです。
・・・女性って、いつの時代も本当変わらないのね(苦笑)。
その容保様、このとき数えで16歳。
京都へ上洛するのはこれより11年後のお話になります。
何となくですが、「京都守護職・松平容保」な容保様はよくお目にかかりますが、「会津藩主・松平容保」というのが描かれるのはかなり珍しいのではないかと思います。

容保様の基本情報、会津藩、土津公こと保科正之様、ご家訓もろもろについては、また後日・・・。
さっきから、なかなか話が進まないので(滝汗)。

容保様のお国入りと共に、八重さんのお兄さん、覚馬さんも江戸から帰ってきました。
覚馬さんは文政11年1月11日(1828年2月25日)のお生まれなので、このとき23歳、数えで24歳。
八重さんとは17歳差の兄妹です。
これも後で知ったことなのですが、山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助さんらしいです・・・へー(訂正:甲州流軍学の祖は小幡景憲さんではとのご指摘を受けました。ご教授感謝致します)。
で、そのお家に生まれた八重ちゃんは、お父さんやお兄さんが鉄砲を扱う姿を見て、自分も!となります。
覚馬さんが「鉄砲は大きくて重いからおなごには無理」と言ってましたが、覚馬さんが持ってたゲーベル銃の重さは大体4kgです。
2リットルのペットボトル2本分くらいですので、成人女性になれば左程問題ないと思います。
八重さんは後に、四斗俵(約60kg)をひょいと担げる女性になりますし・・・。
いえ、ここはお兄さんが妹を心配して、という意味で言ったわけであって、それ以上の深い意味はないと思いますけどね。
ちなみに冒頭の会津戦争で八重さんが持っていたスペンサー銃の重さは、ゲーベル銃よりも少し軽い3,5kg程度のものと、少し重い4,6kg程度のものがあるのですが、どっちをお使いだったのでしょうね?(追記:八重さんの使っていたのは3,5kg程度の「スペンサー騎兵銃」であり、4,6kg程度のものは「スペンサー歩兵銃」とご教授頂きました。ありがとうございます。)

さて、容保様がお国入りなされたところで、追鳥狩が行われることに。
追鳥狩というのは、平たく言えば藩士の士気の高揚、武備の充実を目指した軍事訓練です。
徳川斉昭さんも水戸でガンガンやってました。
それに向けて、鉄砲の扱い方や打ち方を学びに来る門人に、覚馬さんが「狙いを定めたら、闇夜に霜の降る如く、静かに引き金を引く」と言ってましたよね。
あれは戦国時代の雑賀衆の教えです。
第二次世界大戦のころまで日本軍隊の射撃訓練で言われてたそうです(今はどうか知りません)。

追鳥狩が始まる前に、一番鳥を争う選手の紹介をば。
まず中村獅童さん演じる佐川官兵衛さん。
武芸に秀でた猛将ですが、この後ちょっと問題を起こして謹慎の身になります。
「鬼官兵衛」の異名は、鳥羽・伏見の戦いのときに退却する時も悠然と傘をさしていたことから来てます。
1831年10月10日(天保2年9月5日)のお生まれですので、このときはまだ20歳、数えで21歳。
続きまして、先日の正月時代劇では大御所・北大路欣也さんが演じておられた西郷頼母さん。
大河ドラマでは西田敏行さんが演じられます。
云わずと知れた幕末会津の家老ですが、就任するのはこれから9年後の話ですので、このときの西郷さんはまだ家老ではありません。
文政13年閏3月24日(1830年5月16日) のお生まれですので、このとき21歳、数えで22歳。
何となくドラマとかでは、容保様はずっとお若いままで、西郷さんは中年の渋いオジサマ、的な配役が多いように思えますが、容保様と6つしか実は違わないんです。
そして最後に、選手ではありませんが、八重ちゃんと木登り競ってた少年・山川与七郎は、後の山川大蔵です。
1845年12月4日(弘化2年11月6日)のお生まれなので、このとき6歳、数えで7歳。
明治期に、大山捨松という有名な会津女性がいるのですが、彼女はこの与七郎君の妹です。
このとき彼女はまだ生まれて一年程度の、ほんの赤子でしょうが。

ギャラリーサイド、覚馬さんを推していたのは、後に西郷さんと同じく家老になる萱野権兵衛さん。
会津戦争で会津降伏後、「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と容保様を命がけでかばい、会津藩の責任者として切腹させられた御仁です。

さて、木から落ちて西郷さんの大激怒を買ったお転婆八重ちゃん。
通りがかった容保様(この追鳥狩で、配を揮う容保の姿の凛々しさ美しさに全員が感動して、「土津公の再来」と呼ばれたそうです)が取り持つも、「ならぬことはならぬものです。無罪放免にしては、ものの道理が立ちませぬ」と西郷さん。
私はこの「ものの道理が通らない」というのが、「ならぬものはならぬ」の意味を理解する上で大切ではないかと、個人的には思っております。
その話はいつか触れるとして、八重ちゃんに申し付けられた罰は「しっぺい」。
容保様もその罰に納得されたようで、微笑んでおられました。
しっぺいは、「什の掟」に背いた子供への制裁のひとつでして、無念→しっぺい→絶交、の順に制裁が重くなっていきます。

その容保様と西郷さん。
「万が一、ご主君に過ぢあっどきは、命を賭してお諫めもいだしまする」という西郷さんの言葉に、後の彼の行く道を思い出してしまいました。
西郷さんはこの言を曲げず、ずっと諌めますよね。
家中からどれだけ白い目向けられても、ずっとそれは変わらなくて・・・。
このシーンは、そこへ繋がる伏線なのかな、と。
そして次の凧合戦のシーンも、和やかなシーンのはずなのに、伏線にしか見えませんでした。
先程名前だけ触れた捨松さんが、後に鶴ヶ城籠城中の手記を残しているのですが、こんな記述があります。
“私たちにはまだ十分に余裕があると敵に思わせるため、一体何をしたと思いますか。女の子たちは祝日などのよく遊ぶ凧を揚げるよう言われたのです。男の子も一緒に加わり、食糧もすっかり底をつき、飢えのためやむなく降伏するまで揚げ続けたのです” (野口信一、2005、会津藩、現代書館)
   
思わずこのことを思い出し、楽しい場面のはずなのにしんみりとした心地で見てしまいました。

気を取り直して、凧揚げ。
大人なのに真剣に打ち込んでいる御仁は長州の吉田寅之助さん、後の松陰さん。
一緒にいるのは肥後の宮部鼎蔵さん。
寅次郎さんは実に楽しそうに凧揚げしてますが、実は東北遊学のための通行手形が間に合わず、手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を犯しての旅です(笑)。

断固として事を行うとき、人はみんな狂喜ですけー

寅次郎さんのこの言葉は、何だか凄く印象に残りました。
あなたの後に続いた長州藩士が、その狂喜の元でこの会津まで攻め入るだ何て、雪見酒を洒落込んでる寅次郎さんは露も思わなかったでしょうね。
宮部さんもその狂喜に巻かれてか、池田屋で新選組の襲撃を受けて自刃するだ何て思わなかったでしょうね。
まま、それはもっと後の話です。

そして嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、招かざる客ペリーさんwith黒船来航。
同年秋、江戸の木挽町(現在の東京都中央区銀座南東部)に覚馬さんの姿がありました。
佐久間象山塾への入塾希望だそうで。
(ちらりと豚を飼育しているのが見えましたが、豚は1頭100両の価値がありました。)
ちなみに、ドラマでは「しょうざん」先生と言っているように聞こえますが、象山の正しい読みは「ぞうざん」です。
しかし入塾許可を乞う覚馬さんへの、象山先生の問題がまたまた苦笑いを禁じ得ないものでした。
いわく、「二十四斤カノン砲に五貫目砲弾を詰め、斜角十一度にてこれを撃つとき、その飛距離は?」。
私も覚馬さん同様、ぽかんと口を開けておりました。
全く分からない・・・そもそも、即答出来る人っているのでしょうか(謎)。
あ、象山先生の会話の中で出てきた「舎密(せいみ)術」というのは今でいうところの化学です。
ともあれ、ちょっぴり意地悪な象山先生にそれでもと縋っている内に、覚馬さんは悟ります。

足りねぇのはそれが。大筒の撃ち方より、まず元になる知識。いや、異国を知る目

覚馬さんは、物凄く考え方が柔軟な人なんだな~という感想はさておき、この佐久間象山塾。
よくよく見てみれば、凄いメンバーです。
 ・佐久間象山(この時点で42歳、数えで43歳)
 ・勝麟太郎(後の勝海舟。この時点で30歳、数えで31歳)
 ・吉田寅次郎(後の吉田松陰。この時点で23歳、数えで24歳)
これから幕末オールスターゲームでもあるんですか?って状態ですね。
知名度抜群メンバーの中で、さり気無く出てきた優しい目元の出石藩の浪人(確か医家の三男)、川崎尚之介さんは、後の八重さんの夫となる人です。
もう役者が出揃ってる感があるのは、私だけでしょうか(笑)。

話はちょっと逸れますが、幕末と言えば「佐幕」やら「尊王」やら「攘夷」やら、何かとややこしい時代でもあります。
非常にややこしいので、あまり分かりやすく説明出来る人っていませんし、過去の幕末大河でもあんまり分かりやすくないまま取り上げられてました。
が、今作は違いました!
佐久間象山塾での「攘夷」の解釈が素晴らしかったです。
「先生、攘夷というのは夷狄がら国を守るごとですね」という覚馬さんの台詞くらいまでなら誰もが承知してると思うのですが、この言葉に対する象山先生の返しが凄い。

敵を知ろうとせぬのを愚かというのだ。目と耳を塞いで戦が出来るか。まことの攘夷とは、夷の術を以って夷を防ぐことにある

そのために、西洋式の海軍が必要。
そのために、西洋式の歩兵隊の訓練が必要。
つまり、従来の侍の仕組みのままじゃ駄目なんだというところに行きつきます。
阿片戦争に敗れた清と同じ轍を踏まないためにも!
・・・と、江戸のとある塾ではそんな風にして柔軟な考え方が開けているのにも拘らず、嘉永7年(1854)の江戸城溜之間詰めに集められた諸侯の頭のお固いことお固いこと。
お固さ筆頭は、海防参与の水戸藩主・徳川斉昭さん。
そもそも攘夷論は水戸学に端を発しているので、水戸学どっぷりで育った斉昭さんからすれば「開国なんて以ての外!さっさと夷狄を打ち払え!」となるわけです。
その斉昭さんに対するは、斉昭さんと比べたらまだ頭柔らかいかな~と思しき彦根藩主・井伊直弼さん。
彼は「徒に諸外国とことを構えるよりは、いったん和議を結んで、その後臨機応変に対応していけば良いじゃない」という考え。
ここで象山塾で出てきた侍の仕組み云々が出てこない辺り、直弼さんも言ってしまえば「固い」。
固いもの同士頭をがつがつぶつけ合ってるところに、見目麗しき容保様が弁舌を奮って、ひとまずその場は収まります。
が、腹の虫が納まらないのか、斉昭さんが容保様に「会津葵のご紋服、御身にはちと重すぎるのでは御座らぬか」と皮肉を残していきました・・・。
あなたの七番目の息子(慶喜さん)が全部投げ出して、会津葵の紋が全部背負ったんですよ?斉昭さん。

黒船来航が幕末史そのものを揺るがすこととなった・・・というより、黒船が来たから幕「末」が来たんだろうなという気もしますが、その件の黒船を覚馬さんと尚之介さんが横浜まで見に行きます。
当時の横浜は、横浜村という戸数100戸にも満たないしがない漁村でした。
砂浜に六連銭の旗がはためいてたのは、松代藩が警備担当をしていたからです。
余談ですが、当時の松代藩主・真田幸教さんは松平定信の曽孫にあたりますので、八代将軍徳川吉宗の玄孫となります。
黒船を前に、覚馬さんは「あの船に乗る!」と目を輝かせますが・・・次回予告から察するに、来週は寅次郎さんが黒船に乗り込んでくれるようです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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