2013年12月17日火曜日

みねにかかれるむら雲のはれる時

幕末、「朝敵」の汚名を着せられ、会津戦争で鶴ヶ城を開城・降伏し敗者となった会津。
その汚名返上と名誉挽回までの道のりは並大抵のものではなく、長い長い歳月がかかりました。
容保様と同じく「朝敵」となった慶喜さんは、明治31年(1898)3月2日に明治天皇に拝謁を許されていますが、容保様はその機会に恵まれないまま、その生を終えられました。
つまり容保様存命中には、会津の汚名返上も名誉回復も、叶わなかったということです。
さぞやご無念だったと存じます。
その辺りの心中は、私なんぞの筆では到底書き尽くせません。
けれどもその容保様のご無念は、彼の後に続いた会津の人々が晴らしたのでした。
まずその第一として挙げられるのが、何を差し置いても浩さんと健次郎さんのご兄弟による『京都守護職始末』。
「八重の桜」の視聴を続けていた方はご存知のこの『京都守護職始末』、現在は平凡社さんから出版されていて、我々は普通に買うことも読むことも出来ます。
ですが出版に至るまで、それこそ紆余曲折を経たのもまた、「八重の桜」の視聴を続けていた方にはご存知の通りです。
ここでちょっと、『京都守護職始末』の刊行に至るまでのアレコレを、年表にしてみましょうか。

明治26年(1893):松平容保没する
明治30年(1897):山川浩、執筆着手
明治31年(1898):浩没する
同年:山川健次郎、宸翰と『京都守護職始末』草稿を貴族院勅選議員の三浦梧楼に見せる
明治35年(1892):健次郎、会津松平家に三万円の下賜金を得ることと交換条件に、『京都守護職始末』の出版を見合わせることを受け容れる
明治37年(1904):北原雅長、『七年史』発刊
明治44年(1911):元会津藩士とその関係者のみ、という限定範囲で『京都守護職始末』の出版が許される
大正11年(1922):健次郎、『會津戊辰戦史』の編纂に着手
昭和6年(1931):『『會津戊辰戦史』』完成、健次郎没する
昭和8年(1933):『會津戊辰戦史』発刊

『會津戊辰戦史』とは何ぞやと思うかもしれませんが、『京都守護職始末』の続編だと捉えて頂いて問題ないと思います。
『七年史』は神保修理さんの弟、北原雅長さんによって書かれたもので、文久2年(1862)から明治元年(1868)までの7年間の会津の歴史が綴られています。
これを出版したことにより、雅長さんは不敬罪で投獄されてしまいました。
会津藩の誠忠を披瀝しようとしたのが、政府に睨まれたのでしょうね。
そういう空気だった中、よくまあ出版したものだ・・・と思いますが、「正したい」「汚名を雪ぎたい」と言う気持ちがそれだけ強かったということの表れでもありますよね。

ですが個人的に、会津の汚名返上の決定打は『京都守護職始末』の出版から更に17年後の出来事だと思います。
つまり昭和3年(1928)9月28日、松平節子さんが秩父宮雍仁親王と結婚し、秩父宮勢津子妃となった件です。
節子さん(成婚にあたり勢津子と改名)は容保様の六男・恒雄さんの長女で、秩父宮雍仁親王は昭和天皇の実弟です(=今上天皇の叔父)。
朝敵の汚名を背負わされ続けていた会津藩の血を引く節子さんが、皇室に輿入れをしたことによって、その汚名の返上が叶った瞬間です。
当時まだ存命だった八重さんはこの輿入れを大変喜び、「萬歳々々萬ゝ歳」と喜び溢れる書を残しています(福島県立葵高等学校にあります)。
嗚呼本当に嬉しいとき、人は嬉しいという言葉しか使えないのだろうなと、そう強く思わされますね。
ちなみに八重さん、この喜びに居てもたってもいられず、京都から東京まで御婚儀奉祝のために列車で向かいました。
八重さんに限らず、このご成婚は会津の人々にとっては最上級の慶事でした。
聞いた話ですが、故郷から勢津子妃のお車を見送る会津の人々の列が延々だったとか、その他にも色々とお話が残っているようです。
このとき八重さんは、こんな歌を詠んでいます。

いくとせかみねにかかれるむら雲のはれて嬉しきひかりをそ見る

歌意は説明するだけ野暮なので控えますね。
勢津子妃の婚礼と同年、昭和天皇の即位が行われました。
奇しくもその年は戊辰戦争から60年ということで、鶴ヶ城を開城した日に程なく近い11月17日、会津所縁の人たちで構成されている京都会津会は、金戒光明寺塔頭の西雲院に集まり、境内にある会津藩殉難者墓地の墓前で秋季例会を開きました。
その時の集合写真が、八重の桜紀行にも出ていた以下のものです。

中央には容保様の子、保男さんと恒雄さんが座っており、前列左から3人目が八重さんで、前列の中央寄りに帽子を手に持っているのが健次郎さんです。
八重さんは、会津所縁の人々との再会を喜んだようで、この写真の裏に「千代経ともいろも変わらぬ若松の木のしたかげに遊ぶむれつる」 という歌を書き残していました。

会津に着せられた朝敵の汚名は、それこそじわじわと雪が解けて春が近付くような速度で、長い時間と段階を経て、60年かけてようやく晴れたのです。
60年の中で、それに立ち会えずに亡くなった方の方が多いと思います。
それでも誰かがバトンを繋いでいくように・・・そして「その日」が来た。
新時代を、旧会津藩士たちがどれだけ懸命に生きてそこにたどり着いたのか。
会津が大河ドラマの題材になったのを機に、知って欲しい、忘れないで欲しいと思いました。

ではでは、此度はこのあたりで。


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