2013年12月10日火曜日

第49回「再び戦を学ばず」

八重の桜も、次でもう最終回。
たとえば最終回がクリスマスなら、差し詰め今回はクリスマスイブでしょうか。
そう考えたら盛り上がる回なはずなのですが、蓋を開ければ何のその、色々と酷過ぎて「ひと言物申す」じゃとても足りないです。
それでも敢えてひと言でお願いしますと言われたら、「いい加減にしろ!」ですかね。
そんな、クリスマスイブにもなれなんだ最終回一歩手前の49話の感想というか、うん、取り敢えず思ってることと感じたことをいつものようにつらつら書きますよ。
本当は呆れすぎて、第39回の時みたいに切り捨ててしまおうかとも思ったのですが、49週「八重の桜」を見続けて来た立場としては、やっぱり色々吐露したいものがありまして。
前回は口を噤みましたが、今回は敢えて吐き出す選択をしました。

明治23年(1890)10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布されました。
教育勅語って、日本史の授業で単語としては覚えたと思うんですが、その中身まではあんまり触れられないと思うので、この機会に以下に内容を掲載してみます。
お世辞にも読みやすいとは言えないので、こういうのが苦手な方は読み飛ばして下さっても構いませんよ。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽

えーまあ何が書いてあるかと言いますと、親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、夫婦仲良くしなさい、友達と仲良くしなさい、行動は慎み深くなさい、他人に博愛の手を差し伸べなさい、学問を修めなさい、仕事を習いなさい・・・と書いて、それをやって「永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい」という部分に導いてるんですね(ざっくり言えば)。
まあそういう風な内容なのですが、覚馬さんの表情はやや険しく、 「日本はたった二十年余りで文明国家の枠組みを作ってのけた。その揺り戻しが始まった。教育勅語か。教育の名の下に、人を縛るようなごどはあってはなんねえが・・・」 とぼやく始末。
教育勅語に於ける「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、帝への忠義を謳った部分が、ちょっと間違った方向に行って戦後に問題視されるようになったのですが、この時代を生きている覚馬さんが教育勅語に批判的な理由は?と、その辺りは相変わらず不透明なままだったような(私の理解力の低さもあるでしょうが)。
「教育勅語=軍国主義」という図式は、戦後以降の人間の考え方でしょうに。
何より「人を縛るようなごどはあってはなんねえ」とは言いますが、遠回しに会津の日新館での教育や什の掟も否定している発言になってます。
いえね、会津の教育にかつて縛られ過ぎた身の上だからこそ、次世代は自分のように縛られるようなことがあってはならん、という意味を込めての発言ならまだ一応筋は通ってます(一応ね)。
或いは、会津松平家に受け継がれてきた御家訓の縛りと、教育勅語の縛りを重ねて言ってるのか・・・。
どちらにせよ、何となく「ん?」と靄を抱かせる話の運び方だな~と思っていたら、これはほんのジャブにしか過ぎなかったということを、後々で痛感させられました。

さて、赤十字社で正社員として働いている八重さんですが、私最近八重さんのこと完全に見失ってしまってるんですよね、掴み切れないという意味で。
会津戦争で戦ったことを誇ったかと思えば、籠城戦の時に人を殺したことを悔いているようなニュアンスを含んだ発言をしたり、結局どっち付かずの八重さん。
武勇伝なんだけど罪の意識はある、と相反する感情に苛まされている感じでもありませんし。
薩長は会津に攻めて来た!じゃあ武器を手に戦うしかないじゃないの!私はそこで戦功をあげたのよ!戦場じゃ殺さなきゃこっちが殺されるのよ!とまで吹っ切れとは流石に言いませんが、もう少しあの一カ月に亘った籠城戦が、今の八重さんにとって何なのか、明確な位置づけをしても良いのではないでしょうか。
仮にも人を殺したことのある女性が、今度はその手で人を癒す道に進むんですから。
そもそも八重さんが人を殺したという点について、会津戦争でスペンサー銃バンバン撃ってる時からちょっともやっとしたモノを抱えていたんですよ。
ええ、人を殺す覚悟はちゃんと決めたのか、いつ決めたのか、と。
権八さんに厳しく言われてましたよね、「鉄砲は人を殺す道具だ」って。
殺した命の重みは自分や覚馬さんが背負う、八重さんは背負う必要ない、って興味本位で鉄砲習いたいっていう八重さんにちゃんと予防線張ってくれてましたよね。
それでも、やむにやまれぬ気持があって、覚馬さんに「覚悟は出来てるのか」と最後の確認をされて銃を教わったのが八重さんです。
その前置きがキチンとあったのに、籠城戦で人を殺したことにチラチラ罪の意識を臭わせる八重さんが、私の目には非常に気持ち悪く映るのですよね。
だからちゃんと、権八さん言ってくれていたのに、やっぱり覚悟も決めずに鉄砲撃ってたの?と殴りたくなります。

手厳しい言葉が自重しませんが、次に行きましょう。
お兄さんの浩さんと一緒に、京都守護職時代の会津で何があったのかを書き残そうとしている健次郎さんが、取材として覚馬さんに話を聞きにやって来ました。
そこで覚馬さんが、在京時代の会津のことをつらつらと語り始めます。
視聴者としても、嗚呼こんなシーンあった、あんなシーンあった、と懐かしさを誘う回想シーンの羅列ではありました。


勤王の志は、薩長も持っていだ。薩摩の西郷、長州の木戸。彼らにも、思い描く日本の見取り図はあった。会津には戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ!
あんつぁまは、会津が間違っていたど言うのがし!?望んで戦をした訳でねえ!私達のご城下に、敵が土足で踏み込んで来たのだし!
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。御家訓のこの一条に、会津は縛られでしまった。・・・いくつもの不運があった。謀に乗せられもした。それでもまだ、引き返す道はあったはずだ
覚馬先生!あなたは、忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか!?会津には、義がありました!
向ごうも同じように思っていただろう。誠意を尽くす事は尊い。んだげんじょ、それだけでは人を押し潰す力をはね返す事は出来ねえ!
繰り言など、聞きたぐない!覚馬先生は、長ぐ京都にいる間に会津魂を忘れてしまったのではありませんか!?
健次郎さんは、長州の人達の助けで学問を修めた。捨松さんは、薩摩の大山様に嫁いだ。 皆恨みばっかり抱いでる訳でねえ。・・・んだげんじょ、亡ぐなった仲間達を思ったら・・・会津が間違っていだどは、・・・決して言えねえ!これは、理屈ではねぇんだし!

幕末史で忘れちゃいけないのは、基本勤王の志は誰もが持っているということです。
帝を蔑ろにしたいわけじゃないけど、ただそれぞれの人が各々思う、あるいは信じる道を選んで進んだ、そんな時代なんです。
ずっと前にも言いましたけど、幕末は思想が交錯する時代なんですよ。
幕末はイマイチ苦手、と言われる理由には、もしかしたらこういう時代の性格があるのかもしれませんね。
はい、ところですみません、この応酬は一体何の茶番劇ですか?
私の記憶が正しければ、「八重の桜」 のコンセプトのひとつに、薩長史観ではない会津から見た幕末史を描く、というのがあったように思います。
そうして描かれ続けて来た会津を通しての幕末は、会津は誠実だけど愚直で、それ故にああなりました、と、大筋はそんなもので、

私は、何度考えても分がらねぇ。天子様のため、公方様のため尽くして来た会津が、なじょして逆賊と言われねばならねぇのが。会津の者なら皆知ってる!悔しくて堪んねぇ・・・。死んだ皆様は、会津の誇りを守るために、命を使っだのです。どうか、それを無駄にしねぇで下さい!本当は日本中に言いてぇ!会津は逆賊ではねぇ!

と、開城のときの八重さんの台詞に全部集約された、と思っていました。
勝ち負け、何が正しい何が正しくない、とか白黒はっきりつけるのではなくてね。
だって、戦争における間違ってる、正しい、何て延々と続く水かけ試合なんですよ。
なのにそこに「正しい」「間違ってる」の色を置いて無理に分けようとするから、変なことになる。
それを悟ったのか、健次郎さんがもう少し後の場面で「どちらにも義はあった」って言ってましたが、普通に考えてあの時代の人間が「薩長も会津もどっちも正しかったんですね」という考えに間違っても至れるはずがない。
ああいう歴史の出来事の全体図を上から見下ろして物事を論じらえる立場には、後世を生きる現代人にしか立てません。
だから、現代人の会話を聞いているように感じたんですよね。
紛れもなく明治時代なのに、何故か現代人がいませんか~、という払拭しようにも出来ない違和感。
義が~義が~と、義という便利な言葉が飛び交っていましたが、自分側ではない人の義が、自分の義と相交えないのはいつの時代だってそうなんですよ。
でも自分の義が絶対正しくて、他の義は全部間違っていると全否定の姿勢は、柔軟性に大きく欠けます。
視聴者側としても考え方や捉え方のバランスが難しいところではありますが、しかしその判断っていうんですかね、それは視聴者に放り投げておけば良いところだと思うんですね。
薩長側と会津側、どっちが「正しかったか」なんて安直な二元論で振り分けられるほど、幕末(というか歴史)は簡単なものじゃない。
何でもかんでもドラマの中で善悪決めて、色分けして纏めようとするから、おかしなことになる。
余剰があって、そこをどう感じるのかは視聴者に委ねます、っていうのがどうして出来ないんでしょうねぇ。

そしてやっぱり、『教育勅語』にしっくりと来ない覚馬さん。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の部分がどうにも小骨のように引っかかっているご様子です。

国を失う痛みは、誰よりも俺達が知ってる。人を戦に駆り立でる力を、止めねばなんねぇ・・・。だが、俺は今も無力だ。人間の知恵や知識で戦を避けるごどが出来ねぇのなら・・・学問など、無駄なのか・・・

また突っ込みどころ満載な発言ですね。
ちょっと話を幕末の頃に戻して、そもそもどうして徳川幕府が倒されたのか、という明治維新の核の部分に触れてみましょう。
触れる、といっても黒船来航からの約15年間の出来事全部をなぞっていたらキリがないので、細かいところは割愛させて頂きますね。
「何故諸藩の中に幕府を倒そうという声が上がり始めたのか」、この問いの答えは至って簡単、「徳川幕府に任せてちゃ駄目だ」と思ったからです。
現代人の我々が、この政権には任せてちゃこの国は駄目になる・・・と思うのと通じるものがこの辺りはあると思います。
で、今まで300年近くパックス・トクガワーナに浸ってたのに、何でいきなり幕府を「駄目だ」って思うようになったのかというと、植民地化への危惧があったからです。
300年近く日本が鎖国してる間に海の向こうでは産業革命が興って、列強なんて言葉で飾られるお国達が植民地行為の触手をアジアにまで伸ばして来てて、アメリカでは南北戦争が起こって・・・と、世界史の渦の中に否応なく日本史が組み込まれていくことになってしまったのですよ。
幕末が日本国内だけの視点じゃなくて、世界の諸国にも視点向けなきゃ全貌掴めなのはそういう事情からです。
国を閉ざしている状態では、この渦に巻き込まれるのをやり過ごすことは出来なかったのです。
でも「開国?いやいや、朕は異人が嫌いです」という孝明天皇を筆頭に、鎖国保持派がその辺りの事情をどうもうまく呑み込んでくれなかったんですよね。
で、開国を迫ってくる諸外国とその派閥との間に立った幕府も頑張るんですが、その舵取りがもうグダグダ過ぎて、「徳川幕府ってもう駄目じゃん。こんなのに国の舵取り任せてたら、日本は外国の言いなりに成り下がる」という危機感を持った人たちがいたわけです。
幕末は思想の時代、と言いましたが、そんな状況に置かれて「じゃあどうすれば良いのか」と各々が考えてそれぞれ行動したから、思想の時代なのです。
内に目を向ければやれ佐幕、やれ攘夷、やれ開港などの議論が飛び交ってるわ、外からは西洋諸国の圧迫があり、内外多事多難な時だったんですよ。
勿論幕府も、公武合体とか手段をあれこれ講じて、この難局を乗り切って行きましょう、とか無策だったわけではありませんよ。
でも植民地にされるかもしれない、という危機感からお尻に火が付いていたのでしょう、明治維新の原動力ってそこにあると思うんですよね。
彼らだって、何も「幕府憎し」で倒幕を掲げたわけじゃないんです。
そうじゃなくて、任せておけない幕府を国のてっぺんから排除して近代化装備しなきゃ、植民地化ロードまっしぐら、阿片戦争後の清の二の舞、という絵図が頭の中にあったんですよ。
要は、国のてっぺんに居座るものを「駄目じゃないもの」に挿げ替えたのです。
倒幕したらしたで、明治に入ってやれ近代化近代化って忙しなくしていたのも、おそらくそういう背景事情があるからだと思うんですよね。
覚馬さんもそういう見通しが出来ていた人なので、『管見』では植民地化を防ぐために軍力を上げる富国強兵を唱えてるし、国力を上げるために殖産興業を掲げてます。
(今ふとこのブログ書いてて、脚本家は『管見』に目を通してないんじゃないかなと思いました)
でも今回の覚馬さんや健次郎さんや八重さんの言動は、仮に植民地にされそうになったとしても話し合えば何とかなる、という何とも生ぬるいお花畑政策を論じているようにしか聞こえないんです。
「繰り言など、聞きたぐない!」を通り越して、戯言言うな、という感さえします。
国(会津)を失ったって言うのでしたら、植民地への危惧は他の人より濃くても良いのではなかろうか。
挙句の果てに、同志社の卒業演説で「二度と再び、戦うごどを学ばない」と壇上で覚馬さんにスピーチをさせる脚本。
本当にいい加減にしてくれと思いました。
いえ、戦争万歳って言ってるわけじゃなくてですよ。
「戦は駄目」的なオーラを振りまく覚馬さん(八重さんもですが)の姿に、この人は文政11年に生まれて幕末生きて来たのよね?明治になってから、現代からタイムスリップしてきたんじゃないですよね?とな、感じずにはいられなかったのです。
つまり、覚馬さんの口を借りて現代人の価値観で考えたことを言わせてるよね、と。
史実の山本覚馬という御仁を眺めて、あるいはその彼が書いた『管見』に目を通して、まかり間違っても「非戦」の言葉は出て来ないと思うのですよ。
若かりしき頃の覚馬さんが、象山さんに「先生、攘夷というのは夷狄がら国を守るごとですね」というと、象山さんは

敵を知ろうとせぬのを愚かというのだ。目と耳を塞いで戦が出来るか。まことの攘夷とは、夷の術を以って夷を防ぐことにある

と返しました。
そのために西洋式の海軍が必要、そのために西洋式の歩兵隊の訓練が必要。
つまり、従来の侍の仕組みのままじゃ駄目なんだ、阿片戦争に敗れた清と同じ轍を踏まないためにも、と目を開いた覚馬さんが、かつてこのドラマには存在しました。
ちゃんと、近代化武装しなきゃ清の二の舞になるって分かってる覚馬さんが、このドラマにはいたのですよ。
このときの覚馬さんは一体何処へ行ったのでしょう。
二度と再び、戦うごどを学ばない」って良いじゃない、素敵じゃない、と受け取られる方もおられるでしょうが、それは私たちが「現代」から「歴史」を「眺められる」立場にいるからです。
当時(歴史の当事者)の色んな感覚をね、後世から歴史を見物するように眺められる私達がどう評しようが、それはまあ一種の現代人の特権みたいなものですし、勝手にすればいいと思います。
でもね、視点の置き場所を間違えてはいけません(前にも全く同じことを言いましたが)。
現代を生きる私達を構築してる世界観があるように、歴史にもその時代その時代を構築して来た世界観というのがあって、その中で生きてた人がいる。
全部現代人の物差しで測ったら、そりゃ誤差やおかしな部分も続出しますよ、測る対象が「現代のもの」でないんだから。
現代人の物差し使っていいのは、現代ドラマ作る時だけですよ。
これは大河ドラマです、時代相応の物差し持って来て下さい。

明治25年(1892)12月28日、覚馬さんが自宅で64年の生涯を閉じます。
同月30日に同志社のチャペルで葬儀が執り行われ、襄さんと同じ若王子へ埋葬されました。
大正14年(1925)11月9日、その生前の功労を嘉して従五位を朝廷から贈られました。
惜しむらくは、その「生前の功労」がこの大河ではほとんど触れられなかったことでしょうか(苦笑)。
逸話らしい逸話も何ひとつとして満足に触れられず、悔やまれることだらけです・・・。

そろそろ筆も疲れてきたところ何で穏やかに行きたいのですが、それを許してくれないのが今週の「八重の桜」でした。
山川兄弟から覚馬さんの訃報を届けられた容保様は、「二人に託したいことがあっての」といってご宸翰を出します。

会津が逆賊でないことの、ただ一つの証ゆえ
では何故、秘しておいでだったのですか?これを世に出せば、殿の御名は雪がれたはずにございます
開城の日、生きよと言われた・・・。八重の言葉を考え続けた・・・皆のためにも、ご宸翰を世に出すべきかと。なれど・・・都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。・・・世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ。・・・それだけは避けねばならぬと

良いシーンなのでしょうがご宸翰の扱われ方が不満というただ一点のために、物語に入っていけない・・・。
ご宸翰、だから何でこんなに気安いアイテムとして使っちゃうかなぁ。
うん、あのね、ですからこのご宸翰はそんなに気軽にホイホイ人目に晒して良いものじゃいあと言いますか、容保様存命時は秘された存在だったのですよ。
存在が公になったのは容保様没後のことで、そこがあのご宸翰の貴さではないのかなぁ。
まあ大方、『京都守護職始末』刊行の経緯で、山川兄弟が土方さんとか谷さんにこのご宸翰見せたので、そのエピソードからここでバトンのように山川兄弟にあれが渡されたという演出になったのでしょうが。

いつか・・・ご宸翰を世に出してくれ。わしが、死して後に・・・会津が如何に誇り高く戦ったかを訴え、死んでいった者達の名誉を回復せよ。・・・ただし、一国を滅ぼしたわしの過ちは、再び同じ道を辿らぬための戒めとなせ

ただし以下の台詞、何故作ったのでしょうか?
事ここに及んで「会津が間違っていました」的な発言を、他でもない容保様にさせる意味が解らない
解りたくもない。
ご宸翰のこともそうだけど、会津松平家に土下座しなきゃレベル再びですよね、これ。
ここからは飽く迄私見になるので、ちょっと美化しすぎじゃない?妄想入りすぎじゃない?と思われるかもしれませんが、まあ私見なので重く捉えないで下さいね。
ご宸翰を出せば汚名は雪げた、という浩さんの意見はご尤もです。
でもじゃあ容保様が、何故そうしなかったか、ですよね。
それに対する答えとして、「都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ」という容保様の言葉が、非常に的を射ているなと。
それに、孝明天皇からの純粋な信頼の証であるご宸翰を、そんな陰謀塗れた世界で掲げて汚したくなったというのもあるんじゃないかなと。
でもそれじゃあ、浮かばれない会津藩士たちもいるわけです。
ご宸翰出せば、彼らに乗っかった汚名の二文字を消してやることだって出来るのに、そうせず、ただじっと、何も語らず誰にも言わず、ただご宸翰を身に着けていた容保様。
お優しい方ですから、ご宸翰を表に出して会津に日を当ててやれないことに、ずっと心を痛めてたことかと存じますが、その一方で、世間にどれだけ「逆賊の殿様」と言われようが、真実を証明するご宸翰を身に着けていることで、一人ひっそり慰められていた部分もあるのではないかなと。
とまあ、この辺りは飽く迄私の妄想にも似た私見ですが、しかしやっぱり「ただし」以下の台詞が要らない。
「会津は逆賊ではねぇ!」ではなかったのですか?
それを「会津が間違っていました」ってしたら、結局いつもの薩長史観の幕末じゃないですか!
コンセプトに反しているじゃないですか!
これでは一体何のための京都編だったのか、何のための守護職時代の場面の数々だったのか、分からなくなってしまいます。

容保様が亡くなられたのは、明治26年(1893)12月5日午前10時。
59年の、筆舌に尽くしがたい生涯でした。
新聞に掲載されたその訃報に接し、八重さんは色んな人に置いて行かれる寂しさに涙します。
そんな八重さんの背中に置かれる襄さんの手と、

亡くなった人はもうどこにも行きません。あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように。強くなるように

といういつかの襄さんの言葉。
手を重ねはしますが、敢えて振り返らないのがこのシーンで表したい「前に進む」という演出でしょうね。
ここだけは唯一今回良いシーンにも見えました・・・もうちょっと色んな積み重ねや、登場人物の書き込みが出来た骨太大河になってたら、このシーンは号泣シーンになっていただろうと思うと、惜しいですね。
そして「前に進む」八重さんは、日清戦争が勃発した明治27年(1894)、看護婦取締に命じられ、看護婦20人を選抜して広島陸軍予備病院へと向かうのでした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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