2013年2月2日土曜日

埋もれておらむ心なき身は

第4回で遺憾なくその大物っぷりを発揮して下さった井伊直弼さん。
今日はその直弼さんの人生の前半について触れさせて頂きます。
ドラマで登場してきたときには既に彦根藩主の座に就いておられた直弼さんですが、実は普通に考えれば藩主にはなれない生まれでした。
と言いますのも、直弼さんのお父さんは井伊家13代藩主・井伊直中さんなのですが、直弼さんはその十四男なのです。
つまり自分の前には十三人男兄弟がいるわけですから、普通に考えて家督が回ってくる筈がないですよね。
実際直弼さんが生まれた時には、藩政は直弼さんより20歳年上の直亮さんが執っていました。
家督が継げないのなら、養子はとも思いますが、不幸なことに直弼さんの養子話は全くまとまりませんでした。
そういうわけですので、直弼さんは直中さんが亡くなった後、三の丸尾末町の屋敷へ弟の直恭さんと一緒に移り住むことにします。
そこを、直弼さんは「埋木舍」と名付けました。

(実は第4回放映日の朝に、この埋木屋の前を通りました・・・何だか不思議な気持ちです)

17歳から32歳まで、彼はここで過ごします。
「埋木」というのは、自分のことを花開くことない存在と自虐したものでしょうね。
何かここだけ聞くと、直弼さんって卑屈な人だったの?とも思っちゃいそうですが、彼は卑屈どころか、一度やり始めると途中で諦めず、納得するまで徹底してやり遂げなければ、気のすまない性格だったと云われています。
ちなみに埋木舎で生活していたころ、直弼さんは「睡眠時間は4時間で足りる」と言っていたそうでして。
あまり寝ないのも、良くないんだけどなぁ・・・というツッコミは現代科学を知っている身ならではですね。
さて、睡眠時間を4時間にまで直弼さんが惜しんで何をしていたのかと言いますと、勉学と趣味へ没頭してたのですね。
それだけ聞くと、悠々自適ライフに聞こえますが、前述したとおり直弼さんは「一度やり始めると途中で諦めず、納得するまで徹底してやり遂げなければ、気のすまない」性格。
凝り性と完璧主義が混ざったような感じでしょうか?
大工仕事すら本腰入れてやっちゃって、机や小箪笥なども作ってたどころか名前入り工具一式があったとか。
更には、
居合術:新心流(永禄年間に関口弥伍右衛門氏成に始まったもの)から新心新流という流派を興す
和歌:勅撰和歌集の形式に倣い、自作の和歌集『柳廼四附』を編纂
:『筑摩江』を著す
狂言:『狸腹鼓』、『鬼ケ宿』を著す
茶道:奥義を極め、石州流を経て一派を確立。「一期一会」の言葉は彼が生んだとも
学問:国学・洋学等を究める
この他、禅にも真摯に取り組むなど、正しく文武両道と言いますか、始めたことは徹底的に極めて行ってますね。
大河ドラマでも見事な茶筅捌きで容保様にお茶を点ててるシーンがありましたが、あの洗練された直弼さんには、実はこういう経歴があったのです。

しかし時代が彼を呼んだのか何なのか。
直弼さんの趣味没頭悠々自適ライフは、弘化3年(1846)に思いもよらぬ藩主の座が転がって来たことにより幕を閉じます。
埋木舍を出た直弼さんは彦根藩主となり、江戸に出、幕末のうねりの中に身を投じて行きました。
後に大老として権威を振るうことになる直弼さんですが、権謀術数は蔓延り、政務に忙殺される日々の中で、埋木舍での生活を振り返ったりすることはあったのでしょうか。
それとも、花が咲けたことを嬉しく思い、振り返ることなんてなかったのでしょうか。
さてさて、どっちだったのでしょうね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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