2013年8月13日火曜日

第32回「兄の見取り図」

米沢から上京し、覚馬さんの家に居を移した山本一家。
さあ新生活だ!・・・と思いきや、旅の疲れが出たのか、しっかりもののの佐久さんも含め、三人仲良く寝過ごしてしまいました。
飛び起きた八重さんが枕元を見ると、そこにはきっちり畳まれて準備されたそれぞれの着物が・・・。
(帯揚げとかまだ一般的じゃないはずなのに、何であるんだろうという奇妙さに少し驚きましたが・・・時代考証頑張って・・・)
それに袖を通して台所へ駆け込むと、既に時栄さんが全て朝食の支度を整え終えていて、やる事なくて身の置き場に困る八重さん。
おまけに覚馬さんの支度まで既に整っているというのですから、物凄い手際の良さです。
自分達は客じゃないから、何かせねばと思う八重さんが労力を呈する隙もありません。
こういう時って、八重さんの立場ですと気まずいですよね。
しかしまあ、朝起きて朝食の支度整えて、覚馬さんの支度も整えて・・・の生活リズムは時栄さんにとっては「毎日の当たり前」ですから。
ある日突然やって来た身の上で、それに食い込んで行こうという姿勢は、ちょっと女同士ですと上手く行かない。
「何かさせて下さい!」と意気込んでやってくるのではなく、静かにやって来る佐久さんが角の立たない、時栄さんの生活リズムへの入って行き方だとは思いますが、まあそこは佐久さん年の功でしょう。
それに女性なら分かると思うんですが、台所に主婦が何人も立つと、却って煩わしいことになるので入って来るな!手伝わなくていいから!みたいなことにもなりますよね(笑)。

父上、三郎・・・九年ぶりに、皆で暮らせるごどになりました。力合わせで、生ぎで参ります。ご安心下さい

朝餉の前に、そう仏壇に手を合わせる覚馬さんですが、この覚馬さんの「皆」の中にうらさんが入っていない悲しさと言ったら・・・。
で、覚馬さんが「皆」という言葉を使うたびに、「皆じゃねぇよ」と言わんばかりのみねちゃんの表情がまた・・・そしてその表情が、覚馬さんには見えていないのがまた・・・。
しかし見えていないからなのか、みねちゃんの様子には気付いていない覚馬さんが、しれっと朝餉を始めようとすると、みねちゃんが立ち上がって飛び出して行きます。

揃ってねぇ・・・皆揃って何かねぇ!

追い駆けようとする八重さんを、覚馬さんが制して代わりに時栄さんを行かせます。
みねちゃんは納戸に籠って、うらさんから貰った赤い櫛をじっと見つめます。
そこへ時栄さんが様子を見に来ますが、納戸の扉をぴしゃりと閉めて完全拒否。
時栄さんに今のみねちゃんがどうにか出来るわけないでしょうに、何故覚馬さんも行かせるのか(苦笑)。
みねちゃんからすれば、時栄さんが居なければ自分はうらさんとお別れしなくて済んだんですから・・・。
しかも同性同士だから、余計に・・・ね。
それに、みねちゃんだけにはありますよね、うらさんのことで覚馬さんを責め立てる権利みたいなの(実は八重さんにはない)。
うらさんからみねちゃんを任された手前、みねちゃんのことを気にかける八重さんではありましたが、覚馬さんはみねちゃんのことも含めた家のことは時栄さんに任せろと命じます。
で、八重さんには他にやる事があるのだと。
そう言って覚馬さんが八重さんを伴ったのは書斎。
そこで覚馬さんは、『万国公法』を八重さんに渡します。

世界の国同士、守らねばならぬ法が書いである。京都では小学生にも教えでる。八重には、難しいが?
まさが。これぐれぇ読めます

学制発布はこの翌年(明治5年)ですが、この時点で既に京都にはふたつ、小学校というものが存在してます。
ただ、米沢から出て来たばかりの八重さんに、いきなりそんな単語出して通じるのかという疑問は残りますが。
『万国公法』は、幕末期、藩校の教科書として取り上げてたところもあります。
でも藩校での教育を受けられたのは武家の男児だけでした。
で、徳川の世が終わって明治になって、今は女の八重さんがその『万国公法』を学べる立場にある。
女性にも学問を、という新たな姿勢に、時代は確実に変わったのだなと思う瞬間です。
その八重さん、覚馬さんに後でテストをするから『万国公法』をテストするから頭に入れて置けと言われ、よく分からないなりに本に齧りつきます。
文字としては「読める」けれども、意味が拾えない八重さん。
しかし持ち前の負けん気のお蔭か、翌朝覚馬さんと京都府庁に行く道すがらにテストされると、なかなか頭に入っていたようですから、八重さん頭は悪くないのでしょうね。
ちなみに当時の覚馬さんの体重は80キロ。
八重さんが会津でよく持ち上げてた米俵は一俵60キロなので、すれ違う人には驚かれてますが、覚馬さんおぶって何処かへ行くなんてことは八重さんには余裕だったと思います(笑)。

そんじゃあこの人が、城に籠って官軍を撃った女傑か?府知事の槇村じゃ、元は長州の微禄もんじゃがな

そんなこんなで覚馬さんに引き合わされた槇村さんが長州の人間だと知ると、八重さんの目に敵意が宿ります。
即座に出て行こうとする八重さんを覚馬さんは止めますが、八重さんの敵意に気付いているのかいないのか(多分気付いてる)、槇村さんは上機嫌で八重さんに話しかけます。
ここで、この府知事の槇村さんと、その顧問を務める覚馬さんのコンビは、一体何の仕事をしているのかについて、ドラマだけでは把握しにくかったので、ドラマの流れを掻い摘みながら補足させて頂きたいと思います。
以前の記事でも触れましたが、遷都と言葉にしていないだけで、今や明治天皇は完全に東京に留められ、日本の首都は暗黙の了解で東京となりつつありました。
天皇という都の象徴を奪われた京都は、それによって衰退の一路を辿ります。
嘉永3年(1850)には29万人はいた京都の人口は、明治5年(1872)辞典で24万4883人にまで減少していて、人口の他地域(主に東京)への流出に歯止めがかからない状態でした。
天皇が東京へ移ったということは、東京へ一緒に移る公家も出て行き来ます。
(鷹司家など、京都に残った公家もいますが)
すると困るのが、公家や朝廷相手に商いをしていた人達と、その産業です。
お客が京都からいなくなってしまったので、大打撃を受けます。
例えば西陣と言った呉服関係であったりですとか、あと菓子商などもですね。
そういった状況に加えて、当時の京都では洋式化を推進し、旧弊を排斥するという動きもあったので(これは全国的にありました)、ひな祭りや門松、五月の大将祭り(端午の節句)などがそれに伴い禁じられました。
他の地域では、外国人の目に不気味だからという理由で卒塔婆を禁じられたところもあったそうです。
槇村さんのところに来ていた嘆願は、そういった経緯からのものです。
しかし嘆願に来ていた人たちが言っていたように、ひな人形作って生活していた人たちからすれば、ひな祭りが禁じられればそもそも人形が売れず、食べて行けないことになります。
この問題を、見事に解決したのが顧問の覚馬さんです。

お前だぢ、日本中でひな人形は幾づ売れる?その数は高が知れでる。しかも、一度買ったら二度は買わねぇ。だが買い手を異国に、世界中に広げだらどうなる?何万両かの商いが、何千万両にも増える。ドイツ人のレーマンに見せだ。京の人形は素晴らしい、是非取引してぇど言って来たぞ

ということで、ひな人形商だけに限らず、大打撃を受けている京都のあらゆる産業をどうやって救い、どうやって息を吹き返させ、あわよくば海外に輸出という形で産業の販路を見出していくか、を考え実行するのが、槇村さんと覚馬さんのお仕事の、大まかなところです。
博覧会という言葉が会話の中で出て来ましたが、その博覧会も、色んな人に京都に来てもらって、色んな人に京都の素晴らしい産業を見て貰って技術交流をはかり、そこで交易の話が結べたら万々歳というのを狙ってのものです。
要は、勧業意欲を高めるためのものですね。
余談ながらこの博覧会で、「祇園や先斗町の芸妓を集めてぱーっと踊らせる」というのは、今もなお京都で開催されている「都おどり」の始まりとなります。
ちなみに京都博覧会の第1回目は明治4年(1871)10月10日~11月11日まで西本願寺書院で行われ、第2回は明治6年(1873)3月13日~6月10日まで御所や仙洞御所庭園で開催されました。
覚馬さんが「異国からの客人のために、英語で都の名所案内を作りましょう。私が草案を作り、妹に手伝わせます」と言っていた外国人向けの英文京都案内が発行されたのは第2回目の博覧会の時です。
印刷機はレーマンさん経由でドイツから輸入したもので、英文原稿は覚馬さんが、アルファベットの活字と植字は八重さんと丹羽圭介さんの妹によってなされました。
が、しかし現時点で八重さんは英語が出来ない。
なのでこれから八重さんにそれを学ばせるべく、女紅場に入れるという。
女紅場というのは、正式には新英学校及女紅場と言いまして、明治5年4月14日に、土手町丸田町下ルにあった九条家の別邸に設けられました(この会話の時点では建設中)。
最初は華族士族の娘のみ入学が許されてましたが、後に一般庶民の娘の入学も許されるようになりました。
英語と高等の和洋の女紅(=手芸)、礼儀作法などを身に着けるための教養所ですね。
覚馬さんはそこで八重さんに教師をしながら英語を学べと言いますが、長州の人間が作る学問所に入るのは嫌だと八重さんは大反発します。
しかし覚馬さんは取り合わず、寄宿舎で暮らす娘たちの舎監を務めるべく、あっちに住み込めと言います。
みねを育てる約束をうらさんから請け負った八重さんに、そんなことが出来るはずもありません。

あんつぁまは、分がっていんのがし?姉様が、なじょな思いでみねど別れだが。私は、姉様と約束したんだし。みねをしっかり育でるど
いいがら、言う通りにしろ
あんつぁまは、人が違ったみでぇだ。長州の者ど笑って話して、手下になって。私にまで手伝いをしろど。・・・あんつっぁまは平気なのがし?憎ぐはねぇのですか?薩摩や長州に攻められで、会津がなじょなったが。城に籠って二千発の砲弾撃ぢ込まれんのがなじょなもんか、あんつぁまは分がってねぇ!あの時、お城にいながったがら

京都にいなかった頼母様に何が分かるのです!と言っていた会津首脳陣が脳裏をよぎりました・・・。
確かに現場にいない人間に、現場の生々しい状況を察せというのは難しいことなのかもしれません。
八重さんに散々言われ、それでも黙して語らずの覚馬さん。
そんな兄を、変わってしまった、会津を忘れてしまったみたいだと、八重さんは佐久さんに零します。
私個人としては、変わったとか忘れたとかではなく、被害者の藩の人間でありながら、恨みとかそういったものを乗り越えて、笑って接せる覚馬さんは凄い器の大きいことだと思うんだけどな。
で、佐久さんも覚馬さんは変わっていないと言います。
実は覚馬さん、うらさんの着物もちゃんと用意してたみたいなんです。
忘れてなかったんだなというのと、覚馬さんに悪気はなかったけど、呼ぶ気満々だったというのと。
勝さんや象山先生が妾と正室同居させてるので、それ普通じゃないの?何かおかしい?というのはやっぱりあったのだろうなと。

一方、一向に覚馬さんや時栄さんを拒絶し続けるみねちゃん。
そんなみねちゃんに、時栄さんがお握りとこづゆを作って差し出します。

寂しいやろな、おっかさまと離れて・・・。私、どないしたらええんやろ・・・

きっと覚馬さんのことだから、うらさんがいなくなったからみねちゃんの母親はお前だ、みたいな丸投げしたんでしょう。
そもそも時栄さんとみねちゃんがしっくりいかないのは、覚馬さんが選択を全部女性陣に丸投げにしたからというのがかなりあると思うんですよね。
だから、時栄さんの身の置き方と言いますか、どう処して良いのか分からない。
みねちゃんはみねちゃんで、うらさんを母として思う気持ちが強く色濃く残ってるから、時栄さんのことはすんなり受け入れられない。
どうなるのかなと思いきや、後々でこづゆを食べて全部解決、みたいなことになってたのには少し驚きましたが・・・。
え、そんな単純なものじゃないでしょう?という感じで(苦笑)。

さて、黙して語らず、だった覚馬さんは、八重さんを金戒光明寺に連れて行きます。

こごに、会津本陣があった

そういって、大広間に上がるふたり。
ほんの4年前くらいですと、そこに会津の皆がいて、上座には容保様がおられるという光景がそこにはありました。
4年ってそんなに遠くないはずなのに、何故か幕末から明治の激動にかけては年月が凄く速いので、遠く感じます。

殿には、己の欲などながった。俺達家臣もだ。・・・ただ徳川を守り、都を守り、帝をお守りする。その一心で・・・京都守護のお役目を続げだ・・・。んだげんじょ、俺は気付がねばならながった。もっと大きな力が、世の中をひっくり返しているごどに。・・・会津は底なしの沼に落ぢて行ぐのを、どうにも出来ながった。俺は・・・無力で、愚がだ。薩摩や長州が錦旗掲げて会津を滅ぼしに行ぐのを、止められながった・・・
白河が落ぢで、二本松が落ぢで・・・あの朝、城下に割場の鐘が鳴った。・・・女も子供も、戦った。・・・お城がぼろぼろになるまで大砲撃ぢ込まれでも、弱音は吐がながった・・・会津は逆賊ではねぇがら!間違ったことはしていねぇがら・・・
憎いが。敵が
許せねぇ・・・
俺もだ

ならばどうして長州の人間の顧問などしているのかと追及する八重さんに、これは自分の戦だと覚馬さんは言います。

会津を捨て石にして作り上げだ、今の政府は間違ってる。んだげんじょ、同じ日本の中で、銃を撃ぢ合って殺し合う戦は、もうしてはなんねぇ
んだら、会津は踏み躙られだままなのがし?
いや、そうでねぇ。会津が血を流し、八重が銃で戦っていだ時・・・俺は牢の中で、何も出来ず、ただもがいでだ・・・無念さに、のた打ぢ回りながら・・・俺は気付いた。たった一づ、出来るごどがあるど

そこで覚馬さんが懐から取り出したのは、風呂敷に包まれた『管見』。
提出されたはずの管見が何故覚馬さんの手元にあるのだろうという疑問はこの際黙殺するとして、覚馬さんはこの『管見』に託した自らの思いの丈を八重さんに語ります。

国が敗れ、滅び、灰になっても、その中がら身一つで立ぢ上がる者が、きっといる。・・・俺は書いだ、その者達のために、文明の息吹に溢れる、新しい国の在り方を・・・目が見えなぐなったのも、歩げなくなったのも・・・牢獄で、これを書ぐためだったのがもしれねぇ

すべてはこの『管見』に行き着くためのものだったと思えば、目のことも歩けなくなったことも、経過に過ぎないということでしょうか。
覚馬さんは『管見』の「女学」という部分を八重さんに見せます。
そこには、「国家を治むるは、人材によるものなれば、今より以後、男子と同じく学ばすべし」と書いてありました。
この「女学」と書いた時、覚馬さんの脳裏に浮かんでいたのは八重さんの姿だと言います。
新政府が捨てて行ったわけでは決してありませんが、衰退する京都を復活させるために、覚馬さんは京都を文明(産業と教育)で立て直そうとします。
そのために、覚馬さんに「女学」を書かせた八重さんの力が必要だと。

もっと学べ。新しい知識を、世界の文明を。これがらは、学問がお前の武器だ。会津が命がけだこの場所で、俺ど共に戦ってくれ。にしなら、きっと出来る

黒谷がどんな場所か語られた挙句、こんなこと言われたら、八重さん覚馬さんに協力するしかないじゃないですよね。
覚馬さんも策士だな~と思います。
ところで、よく意図が汲み取れなかったので、覚馬さんの話を少し整理させて頂きたいのですが・・・。
まず「敵は許せねぇ」という思いは、八重さんと同じように覚馬さんの中にもある。
でも日本人同士が殺し合う戦はしてはならない、と言う意味で、復讐心はない。
で、戊辰戦争中何も出来なかった自分は、自分の中にインプットされたものを全部アウトプットして『管見』と書いた。
ここまでは分かるのですが、この『管見』は、つまりは敗者側の人間の中で、立ち上がる人に示す文明の国の在り方、ということになるのでしょうか。
で、その文明の国には、勉強が必要になる。
だから、「学べ」に行きつく?
誤った解釈してたら申し訳ないですが、私の低い理解力ではこれが限界でした・・・。

明治4年(1871)11月12日に横浜港を発った岩倉使節団ですが、彼らの主な目的は幕末に結ばれた数々の不平等条約を、平等なものに改正するための親善訪問と、西洋文明の視察でした。
関税自主権や治外法権など、不平等条約改正に辣腕をふるったのが、陸奥宗光さん、通称カミソリ大臣。
しかしこの岩倉使節団の時にそれがなされたわけではなく、陸奥さんの尽力で条約改正がされたのは明治20年代に入ってからだから、まだ先の話になります。
このときは、襄さんが言っていたように、条約改正の交渉は出来ないと言われてしまいました。
交渉の権限を記した新たな委任状がなければ話が進まないというので、それでは大久保さんが帰国して取りに帰ろうと言うと、そこへ木戸さんがチクリ。

その間、我々は足止めですか?廃藩置県で未だ国が治まらん時に、揃って政府を留守にすることに、僕は反対じゃった。無理に引き摺りこんだんは、大久保さん、あんたじゃ。留守を預けて好き勝手されちゃ堪らんと思うたんじゃろうが・・・

まあ木戸さんの嫌味はさて置き、岩倉使節団ら外遊組と、日本に残ってる留守組の間には、留守組が勝手に新政策や人事異動を行わないという誓約書が作られていました。
しかし廃藩置県という改革が行われた今、日本の情勢は不安定です。
そんなときに新政府が、その誓約書に縛られて何も策を打ち出せないというのは、なかなか問題でして・・・。
自分達のいない間に有力者の独裁(西郷どんなど)を防ぎたかった気持ちは分からなくもないですが、そんな政治の事情に日本国民全体を巻き込むなよ、早く何らかの対策打ってあげて下さいよ、と苦言を呈したくなるのが、この頃の明治政府です(苦笑)。
あと目下日本では征韓論が沸騰していたりもするのですが、その辺りのことはまた追々触れられていくでしょうから、その時に話したいと思います。
何となくいがみ合う場の空気を華麗に読んだ襄さんが退室すると、庭には大蔵さんの妹の咲ちゃん、改め捨松さんがいました。
捨松というのは、「(娘を)捨てたつもりで帰りを待つ(=松)」という意味が込められております。
事情によって離れなければならなかった艶さんたちの、切実な思いが籠った名前ですね。
ちなみに彼女はこの時点で11歳、襄さんは28歳です。
そこへ同じく退室してきたらしい木戸さんが、襄さんに声を掛けて来ます。

新たな委任状など手に入れたところで、どうにもなりゃーせん。アメリカは日本を見下しとるんじゃ。大久保には任せられん
不思議ですね。薩摩と長州は幕府を倒し、新しい日本を作るために、手を取り合っていたのではありませんか?
今は互いに腹を探り合い、競い合っちょる

幕末の薩長同盟からこっち、長州と薩摩の凄いところ(?)は、嫌味は応酬させるし仲が良いとはお世辞にもいえないのだけど、、自分たちの利益に繋がるのであれば嫌味云いながらも仲良く握手や二人三脚出来るところでしょうか。
木戸さんと大久保さんも物凄くゆがみ合っておりますが、色んな人からは「夫婦のような」と言われてますし・・・(笑)。
立ち去った木戸さんの姿に、しかし捨松さんの表情は複雑です。
会津人として、長州の人に心を許せるほどまだ傷は癒えていないが、自分は国費で留学していることに引け目を感じているようです。
しかも留学生はひとりにつき年間800ドルの手当が支給されていますからね。
斗南の極寒で頑張っていた捨松さんのお兄さんの月給が3円なことを考えると、物凄く環境的には恵まれています。
ただ、その環境を整えたのが憎い薩長という一点のみを除いては。
しかしそんな捨松さんに、襄さんは朗らかに言います。

いいじゃありませんか、誰の金でも。むしろ大いに利用して金を使ってやれば良い。あなたの学問のために。美味いものをたらふく食うために!捨松さん、あなたの前には、薩摩も長州も関わりのない、広くて豊かな世界が広がっているんですよ

良い言葉ですね・・・すっと入って来て、心の靄が晴れます。
後にこの捨松さんは、母国語である日本語が不自由が生じるくらい熱心に勉強し、後にその聡明さと美貌で「鹿鳴館の華」として明治に花開きます。

さて、ある日覚馬邸に西郷どんが訪ねて来ます。
紹介された八重さんは、槇村さんの時と同様、目が険しくなります。
西郷どんの方は八重さんを「弥助を撃ったおなご」として知っていたようです。
さてその西郷どん、今日は御所の傍にある薩摩藩二本松屋敷を覚馬さんに譲渡しに来たようです。
東京への人口流出は、天皇に付いて行った公家に限ったことではなく、大名たちもそうでした。
なので京都にあった公家屋敷、大名屋敷は無人の不要物となり、売りに出される始末(女紅場もそう言った場所に建てられましたし)。
薩摩藩二本松屋敷の土地が売り出されたのも、そういった背景からです。
しかし、八重さんは西郷どんが覚馬さんに土地を売ろうと(しかも値段は出せるだけで構わないと)するのを図りかねます。

なじょしてですか?高ぐ売る相手は幾らもおありでしょう。何で、わざわざ兄に?薩摩のお方が、何の思惑があって会津の者に融通してくれんだし
何か一つ違ちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょったじゃろ。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死覚悟で征討軍と戦をした。会津と同じように。新しか国を作るため、戦わんなならんこつになったどん・・・おいは、会津と薩摩は、どっか似た国じゃっち思っちょった。・・・武士の魂が通う国同士じゃち
それなら、なんで、会津が滅びるのをお止めにならながったんだし!

しかし覚馬さんの時と同様、西郷どんも八重さんの問い掛けに対しては黙して語らず。
(ちなみに何かのインタビューかで、現会津松平家の当主様は薩摩に対して「武士の情けはどうしたんだと言いたい」と仰ってた気がするのですが・・・どっか似た国ですか・・・うーん(苦笑))
そのまま、覚馬さんならあの土地を世のために役立ててくれるだろうと言って、去って行きます。
覚馬さんは買ったあの土地を、最初は桑畑にするのですが、後にそこには同志社大学が建つのは皆様周知の事実ですよね。
しかしまたしても「黙して語らず」をされた八重さんは、学問をすれば自分の問いの答えが見つかるのだろうかと思います。
多分自分には見えてないものが、彼らには見えている、だからそれを見るために、その地点に追いつくために、学ぶ必要性を八重さんは改めて噛み締めます。
勝ち負け質疑応答は、そこからだと。

学ばねば、勝てねぇな
行って来い
はい

そうして八重さんは、時栄さんともほんのり打ち解け、女紅場という新たなステージへと踏み出して行ったのでした。
幕末のジャンヌダルクを脱ぎ捨て、ハンサムウーマンへと呼ばれる彼女への第一歩ですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月7日水曜日

第31回「離縁のわけ」

会津藩が廃され、新たに下北半島の一部に設立した斗南藩。
そこで強国を作ろうと意気盛んな大蔵さん達旧会津藩の皆様ですが、物事はそう上手く運びません。
もともと会津領の石高は23万石、そこに色んなものが付属して会津28万石、実質的な収入は30万石程度でした。
それが一気に斗南3万石という、数だけ見ると10分の1に落とされたのです。
更に悪いことに、極寒の地であり作物の収穫がほとんど見込めない斗南は、実質7000石程度の石高しかない領地だったので、普通に考えて暮らしが成り立つはずがありません。
そんな不毛の地ともいえる斗南で生きて行くには、林業と海産物に頼るしかなかったのですが、極寒のため港の開設も覚束ない状況でした。
しかも藩士達は、そういう仕事は自分たちの階級がするものではないという感覚がまだ残っていたから(藩に籍を置いてるだけで扶持が貰えると思ってた)、その辺りでも上手く回らなくて行き詰まり。
そういうわけですから、生産高も思うように上がりません。
つまり文字通りの極寒の地獄で、会津藩は藩丸ごと島流しにあったも同然なのですね。

八重さん達は相変わらず米沢の内藤家に厄介になりながら、行商をして生活を立てていました。
八重さん達が何故斗南に行かなかったのか、ドラマでは前回触れられましたが、実際のところの理由は何だったのでしょうか。
はっきりとは分かっていませんが(そもそも戦後八重さん達が米沢にいること自体近年に分かった新事実ですから)、行かなかったのではなく、尚之助さん辺りは後で八重さんを斗南に呼ぶ予定だったのではないかなと思っています。
それなら最初から伴えば良いじゃないかとも思えますが、働き手にカウントされない女ばかり人数のいる家が、ただでさえ貧窮極まる藩の食い扶持を頼るようなことに、躊躇いを覚えたのではないでしょうか。
まずは男手の尚之助さんが斗南に行き、斗南で生活の目途が立ってから、女の自分達が斗南に行く。
それまでは藩のお世話にならず自分達で生きて行きます、というのが山本家にはぼんやりとあったのではないでしょうかね。
少なくとも、「ただでさえ困窮している藩のお世話にはなりません」というのはあったと思うんですよ。
しかし山本家に残された唯一の男手の尚之助さんから、八重さんのところへ離縁状が届けられて、事態は一変。
これで将来的に生活の目途が立ってから斗南に呼んで貰う、という可能性が潰えました。
「待っています」と言っていた八重さんも、待ってる意味がなくなってしまったわけですね。
会津戦争後、八重さんと尚之助さんが離縁したのは事実ですが、いつ離縁したのかは、理由も含めて実際のところは不明です。
ただ明治8年(1875)の書類に、八重さんが 「川崎尚之助妻」や「川崎尚之助妻、八重」ではなく、「山本八重」と記されていることから、少なくともその時点ではもう離縁していたのだろうということが推測出来ます。
一方的に、しかも淡々と離縁を言い渡された八重さんを気遣ううらさんですが、八重さんの心は何処か頑なです。

文も斗南がら出されたのではながった。きっと、何が訳があって・・・
そんじも、話して貰わねば何にも分がらねぇ。困ってるなら知らせで欲しい、苦労してんなら、私も一緒に苦労してぇ!それが夫婦だべ。・・・あの時だって・・・。何でもひとりで決めっつまう。尚之助様は、勝手だ・・・

事情を知らない八重さんからすれば、確かに尚之助さんの行動は自分勝手以外の何物でもない。
こういう時、みっとも無くても良いから言い訳のひとつやふたつされた方が、何も言われないより百倍まし。
・・・ではあるのですが、佐久さんも指摘していた「きっと何が訳があって」の「訳」は、八重さん達の想像も及ばないとんでもない事情だったのは、後々で触れることにしましょう。

一方、斗南藩。
冒頭でも触れた通り、不毛地帯にして極寒という気候も相俟って、困窮する藩士が藩庁に詰め掛けます。
斗南藩の支給は、大人1日玄米3合、子供は2合で銭200文。
普通に考えて、これでは生きて行くのは難しいですよね。
こういった状況下に陥った時、まず最初に倒れて行くのは女子供と老人です。
斗南での生活の過酷さは、会津藩士芝五郎さんの遺書が詳しいので、そちらに目を通してみて下さい。
大蔵から「浩」と名を改めた浩さんが、この冬さえ乗り越え得ればと皆を宥めますが、冬どころか明日すら危うい藩士たちはそんな悠長なこと言っていられません。
米をくれ、と盛んに叫ぶ藩士たちの声を聞いて広沢さんたちが思うのは、「川崎殿の米の買い付げさえ上手く行っていれば」ということ。
どうやら米の買い付けに失敗したらしい尚之助さん。
この場に姿は見えず、では何処へと思いきや、彼は詐欺事件に巻き込まれていたのです。
これが、佐久さんの言葉を借りるならば「きっと何が訳があって」の「訳」に当たる部分です。

会津戦争中、門田町の肝煎、伝吉さんの家に匿われていたユキさんは、戦後、戦で命を落としたお父さんとお兄さんの遺体を捜しました。
ユキさんのお父さん、左衛門さんは加賀谷大学さんの屋敷内にある竹藪で切腹しており、ユキさんがそこへ辿り着いたのは雪が融けた頃。
上顎の骨が見つかり、骨に身内の人間の血を着けるとよく滲むという話から、指先を斬って血を垂らしてみたらよく滲んだので、「これは自分の父の遺骨だ」と浄光寺に、同じく見つけて来たお兄さんの首の骨と共に埋葬しました。
ユキさんは亡くなる昭和19年(1944)まで、会津戦争時の自分達のことを折に触れては家族に話して聞かせ、それが「万年青」という題で書留められてまとめられているのですが、そこで「あの戦争はあまりにもひどく、悲しいことが重なって、思い出しただけで涙が出てまいり、とても話す気にはなれないのです」と語っています。
悲しいこと、の中には、お兄さんとお父さんの骨を捜し歩いたこともきっと含まれていることでしょう。
そのユキさんも斗南に渡っており、僅かな施し米を貰えると聞いて吹雪の中を歩いていたところ、斎藤さんに助けられます。
その斎藤さんによって時尾さんのところへ連れて来られ、晴れて再会を果たすふたりですが、斎藤さんと時尾さんが夫婦になるのはまだ少し先・・・ですよね?
あまりに二人の空気が自然だったから、そう錯覚してしまいましたが(笑)。
ユキさんは、自分を助けてくれた男性が新選組だと知ると、はっと身を固くします。

何でこんな人ど!新選組は人斬りの集まりだど聞いだ。近所の人が言ってだ。長州が会津をこごまで憎むのは、新選組がやりすぎたせいだ。こんな仕打ぢ受げんのは、新選組何か雇ったがらだって
そうでねぇ!斎藤様達は、会津のために命懸げで働いでくれだ。最後の最後まで、共に戦ってくれだんだがら!

ユキさんに一言言わせて頂くと、長州が会津を憎むのは新選組のせいではありませんね、ハイ。
新選組はやり過ぎた、っていつか西郷さんもぼやいていたような気がしますし、ひと欠片もそうでないかと言われたら返答に窮しますが、全部が全部新選組のせいではありません。
長州に恨まれる理由は、もっと大きなところにあります。
つまり、「孝明帝の信用奪って、自分達を御所から追い出して朝敵にした」というのが一番根本にある気がします(八月十八日の政変~禁門の変)。
要は長州にとって会津は、自分達に一時でも朝敵の汚名を着せた張本人なのですよ。
ドラマを見てきた人々は、長州がやったことは朝敵にされても何らおかしくない、やり過ぎ行為ばっかりだったというのはお分かりでしょうが。
そういうことなので、別に新選組のせいじゃないでしょう。
会津が新選組雇ったこと後悔していたかとか、目に余ってたかとか言われると、むしろその逆で信頼寄せてましたし。
しかし澄江さんの発言が的確過ぎますね、「みんな生きるのが辛くて、恨みぶつける先を探してんだ」。
さり気無い台詞ではありましたが、重い台詞だったのではないかと、ひしひしと感じました。
理不尽な苦難に直面した人間は、誰かを恨むことで心の平静を保ったり、その憎しみで自分を支えようとするんですよね。
八重さんは、そんな恨みに塗れて生きるのは嫌だというようなこと(前に進みたい)を、先週言ってました。
ユキさんは、どうするのでしょうね。
近々薩摩藩士の方と結婚されるはずなのですが。

川崎尚之助と言う人物が、会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男、という認識が、近年までされていたのは既にブログで何度か触れて来たことです。
その認識を覆す、即ち川崎尚之助史に大きな前進を与えたのがあさくらゆうさんだと言うのも何度か触れたことだと思いますし、その著書は私がブログを書く上でも大変重宝させて頂いております。
参考文献にも挙げさせて頂いてますし、以下の文章の殆どもその著書を参考にさせて頂いてます。
さて、では川崎尚之助史はどのように覆ったのか。
それは、「会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男」から、「懸命に斗南藩の困窮を救おうとしてた男」に認識が改められました。
「きっと何が訳があって」の「訳」の部分を考慮する形で、この辺り補足させて頂きます。
尚之助さんが斗南の野辺地に到着したのは、明治3年10月、同月23日には開産掛を命じられて函館に渡っています。
函館に渡った理由は勿論、斗南藩の窮状を打開するためです。
尚之助さんは交易が盛んにおこなわれている函館で、商人との取引を成立させ、藩の資本を得ようとしていたのでしょう。
しかしビジネスをするにも、今の斗南藩には元手となるものが何もないので、出来る取引は先物取引だけです。
まず尚之助さんは、その先物取引に応じてくれる相手を探す所から始めなくてはならなかったのですが、それに応じたのが米座省三さんという、斗南藩商法掛を自称する人物でした。
実はこの米座という人が詐欺師だったのですが、そうとは知らない尚之助さんは米座さんの紹介の元、将来斗南で収穫される見込みのある大豆を担保に、デンマークの商人であるデュースさんと広東米の交換取引の契約を交わします。
これで米は手に入ったかと思いきや、事態は尚之助さんの思わぬ方向へと転がって行きました。
まず米を受け取るべく、明治3年12月19日に尚之助さんが米手形を出そうとしたところ、その米手形がありません。
何でも米手形は、米座さんがイギリス商社、ブラキストン商会に預けたのだとか。
米手形がなければ米が手元に来ないので、尚之助さんは預けられている米手形を取り出そうとしますが、ブラキストン商会から借用証を書くように言われます。
そこで米座さんと共に署名した借用証を同月20日にブラキストン商会に持って行った尚之助さんですが、今度は拒否されます。
実は米座さんは、ブラキストン商会から個人的に250両の借金をしており、それが完済されない内は米手形を渡すことが出来ないと尚之助さんは言われてしまいます。
米座さんは逃亡し、尚之助さんはここに至って米座さんに騙されていたことに気付きます。
斗南藩商法掛何て真っ赤な嘘で、米座さんの正体はただの出入り商人でした。
しかし、米座さんは斗南藩士ではありませんので、彼の作った借金250両も、それが完済されているされていないも、斗南には与り知らぬところです。
それより米手形を、と求める尚之助さんでしたが、ブラキストン商会はそんなの関係がない、と尚之助さんの言い分を突っぱねます。
やむなく尚之助さんはブラキストン商会に対し、訴訟を起こすのですが、ここからまた更に状況が複雑化します。
そうです、取引相手だったデュースさんが、期限になっても大豆が入荷されないことに怒ったのです。
実は尚之助さんが栽出来ると見込んでいた大豆ですが、結局斗南ではその栽培に成功しませんでした。
なので尚之助さんからすれば、入荷したくても物がないし、そもそも大豆と取引した広東米は米座さんのせいで未だに尚之助さんの手元にはありません。
が、それはデュースさんからすれば尚之助さん側の事情であり、怒った彼は尚之助さんと米座さんを詐欺罪で訴えます。
これが明治4年3月末の出来事。
同年7月11日に米座さんが東京で逮捕され、ブラキストン商会との一件は米座さんが単独で仕組んだ仕業ということで落着し、同年12月には念願の米手形が斗南藩に渡ります。
米手形が来たということは、広東米が斗南に来たということで、一件落着・・・と思いたいのですが、更に事態は続いたのでした。
つまり米相場の関係で、米を換金しても、契約時の3分の1程度の1582両にしかならなかったのです(契約当時の相場だと4500両)。
この差額約3000両を損金として、全額弁済してくれないと、詐欺罪で訴えた裁判の和解には応じないとデュースさんは言います。
ドラマで出て来た、「3000両近い賠償金」というのは、おそらくこの3000両のことを指しているのだと思います。
まあそれで、藩民全員の明日の米さえ危うい状態の斗南藩が、3000両何て大金を払うことが出来るわけありません。
尚之助さんも、この支払い責任が今の状態の斗南藩に向けられたら、斗南藩の人間全員を路頭に迷わすことくらい分かっていたでしょう。
なので、斗南藩の指示でやったのだろうと言われても、

いいえ、藩命では御座いませぬ。・・・全て、私の一存で執り行ったことに御座います

そういって藩に迷惑が及ばないようにしたのですね。
供述記録によれば、尚之助さんが斗南は無関係、独断でやったこと、というのを言ったのは明治5年6月のことみたいです。
で、時間軸を少し遡って、八重さんに離縁状を送って来たのは明治3年3月以降のことだとは思いますが、その頃の尚之助さんってごたごたに巻き込まれてる真っ最中か、函館で資本求めて物凄く苦労してる最中です。
今回時間軸が非常に整理しにくい物語の運びになっていますが、「訳」は尚之助さんがそう言う立場に立たされていたからだと思います。
勿論、そんな「訳」を米沢にいる八重さんが知る由もないのですが・・・。
で、斗南藩の対応としては、広沢さんが尚之助さんの米の買い付けは、斗南藩のためにやったことだから捨て置けない、というものの、浩さんは3000両の借金を払って尚之助さんを救うことより、尚之助さんを切り捨てて藩に害が及ばない決断をします。

にしは・・・川崎殿を見捨てるお積りが!それでは、あまりにも!
鬼だ!・・・鬼だ俺は

さぞや断腸の思いだったでしょう。
でも実質上藩民全ての命を預かっていると言っても過言ではない浩さんは、感情論に走れないのですよね、巻き込むものが多すぎるから。

明治2年に、戊辰戦争の論功行賞が行われるのですが、主立って取り立てられる比重は薩長出身者に偏っていました。
そうなると、重要ポストを巡って薩長が反目すると言いう流れも然ること乍ら、それって徳川幕府が薩長幕府に首がすげ代わっただけじゃないの?と首を傾げる者もしばしば。
中でも、木戸さんと西郷さんの間には確執が生まれていました。
特に木戸さんが西郷さんに不信感を募らせた経過は、ちょっと今回割愛させて頂きますが、このふたりは新政府に於いて、参議に就任していました。
ところが、西郷さんには他の参議や各省の卿や大輔などといった高級役人を一旦全て辞職させ、適切な人物を任命しようという考えがありました。
一方で木戸さんは、まず廃藩置県を行って官制を改革し、そこから人事に着手すべきだと主張していました。
結局この主張は木戸さんの方が通り、新政府は廃藩置県に踏み切ります。
何より新政府、笑えるほどにお金がないのです。

新政府を築くのに、お銭がのうてはどうにもならん。役に立たん士族らは、もう面倒見てられやしません
じゃから今こそ、政府が全てを握るべきです。藩を廃絶し、その代わりに県を持ちます。土地に縁故のない人間を長として送り込むんじゃ
そいでは武家の世を、すっかい終わらすっちゅうことになってしまいもんど
いずれは、やらにゃあならんこと。第二の王政復古です
じゃっどん、藩を潰せば二百万の武士が職を失うこつにないもんど
また、戦になっかもしれもはん

大抵抗が予想される廃藩置県。
そのために西郷どんが呼ばれ、親兵を設置し、大隈重信さんと板垣さんも参議に任命されます。

兵はおいが引き受けもんす。じゃっどん、こん廃藩置県、万一失敗じゃった時には、全員腹を斬る覚悟でおってくいやんせ。武家の世に幕を引くっちゅうとは、そいほど重かこつごわんで

親兵という武力を背景にした、一種のクーデターですね、廃藩置県は。
廃藩置県の詔が下ったのは明治4年(1871)7月14日ですが、もしこれに反対する藩や人物がいたら、西郷どんがこの親兵を使って屈服させるという図式です。
つまり、廃藩置県の構想は木戸さんだったかもしれませんが、実行出来たのは西郷どんの力あってこそだったのです。
でもまあ、反乱分子が出てこないはずがありませんよね。
だって、会津藩のように「戦に負けた組」なら兎に角、「戦に勝った組」の自分達がどうしてそんな目に遭わなきゃいけないのだと、納得しかねるでしょうし。
余談ですが、実はこの廃藩置県、西郷どんの故郷薩摩の久光さんは最も強硬な反対者でして、この実行に激怒しています。
まあ、西郷どんは久光さんとはずっとしっくり来てない関係でしたので、久光さんが怒ろうが如何なろうが、西郷どんの中ではどうでも良いことだったでしょうが。
しかしあの協議の場で、「武士の世の中終わらせる」ことの本当の意味が見えているのは、西郷どんと岩倉さんくらいじゃなかろうかと言う気がしました。
西郷どん、贅沢なな暮らしして威張る西洋かぶれの役人に嫌気がさしてましたから。
だから、そんな人間らが武士の世の中終わらせると口先だけで言ってるように聞こえるけど、本当に意味分かってるのか?本当に重みが分かってるのか?となってるのではないかかなと。
で、本当にその意味が分かってた西郷さんだから、西南戦争に巻き込まれて行ってしまったのかなぁ・・と。

廃藩置県が施行されると、斗南藩もなくなります。
浩さんが、尚之助さんを蜥蜴の尻尾のように切り離してでも守ろうとした斗南藩がなくなるのです。
今まで藩というものに、武士は俸禄を貰うという形で養われていたようなものですが、その藩が無くなってしまっては養い手を失うことになり、且つ武士が武士である意味も根本から揺らぎます。
主にさぶらうと書いて侍、即ち武士です。
藩が無くなれば、その主=藩主の存在もなくなるということですから。
藩でなくなった斗南には、新政府から役人が来て治めることになります。
つまりここに、生き地獄を耐え抜きながらも夢見て来た会津再興の望みが潰えたのです。
生活力のない武士は既にお払い箱。
では武士だった者はどう生きて行くべきかというので、栄達を目指すなら学問を究めるか軍人になるかですね。
『坂の上の雲』の舞台はもう数年先ですが、秋山真之さんが母親から「貧乏が嫌なら学問をしろ」と言われていたのも、長州派閥に冷遇されていた松山藩出身者のレッテルを持っていたが故のことでしょう。

廃藩置県のお達しに八重さん達も驚きを隠せませんが、そこに重ねるように驚くべき報せがもたらされます。
やって来たのは獄中、覚馬さんと一緒に居続けた野沢さん。
彼は手紙と共に、覚馬さんの消息を山本家に持って来たのです。
覚馬さんが生きていたことに喜ぶ山本家ですが、覚馬さんの状況を聞いている内に、八重さんは去年覚馬さんが牢から出された「去年」の部分に引っ掛かりを覚えます。
つまり、牢から出た去年から今まで、どうして放って置かれたのか。
どうして去年から今までの間に、自分で会いに来ようとしてくれないのか、人を寄越すのか。
京都へ皆を呼びたいという覚馬さんの申し出をどう思うよりも先に、八重さんのもやもやは募って行きます。
何より、野沢さんはどうも何か重要なことを隠している。

どなたが・・・おいでなのがし?身の回りのお世話は、誰が?

ここでようやく野沢さんの歯切れの悪さの理由が判明します。
つまり、覚馬さんには時栄さんという人がいて、ふたりの間にはこの春に女の子が生まれたと。
視聴者はずっと時栄さんの存在を知ってましたので、遂に山本家の耳に入ったか・・・と言うような感じですが、うらさんからすれば愕然とする事実ですよね。

その頃の覚馬さんと言えば、二条城に定められた京都府庁で、府参事の槇村正直さんと会っていました。
現在の場所に京都府庁(ちなみに京都守護職屋敷跡)が出来たのは明治37年ですので、覚馬さんが京都の行政に関わっている間の府庁は二条城でした。
槇村さんは長州藩士で、木戸さんに重用されており、京都府権参事の二代目ですね。
『管見』の見識を買われた覚馬さんは、その槇村さんの顧問のような形で新政府に出仕していたのですが、この時点では廃藩置県が終わっているので、正式に京都府十等出仕扱いの身分です。

帝が東京にお移りになられて、都はすっかり寂びれてしもた。元の如く、いや前よりももっともっと、繁華に立て直さにゃーなりません
立派な仕事です。まずは人材の育成。これがらは女にも、教育を授げるごどが肝要ど存じます
その通り。先生が獄舎で書いた建白書にもそうありましたな。あれには目を開かされた。こげな知恵もんが賊軍にもおるんかと・・・あ、これは失敬。力を合わせ、都を一新させましょう
はい。私の命は、そのために拾ったものど思っております。精一杯努めます

以前の記事で、「都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にある」と書きましたが、その関係が槇村さんの言葉にあります。
つまり、明治政府は遷都ではないとは言張るものを、実質遷都以外の何物でもない明治天皇のお移りが実行され、天皇が東京にいるのですからまず公家がそれに伴って東京に移住します。
町人らも東京や大坂に移住し、人口流出により京都は人口が激減、町は寂れて活気を失います。
それを復興させるべく、尽力していく・・・というのが後半の覚馬さんの主な生き方になります。
今もなお京都で行われる都踊りなども、覚馬さんと槇村さんの行った復興の一環だったと思います。
勿論失敗に終わってるものもありますが、今の京都にちゃんと残ってるものもあるのですよ。

と、まあ覚馬さんは無事で、しかも京都でなかなかに活躍しているという知らせを受けて、うらさんは喜びたいのに喜べません。
勿論それは、時栄さんの存在を知ってしまったから。
そんなうらさんを見て、八重さんは覚馬さんに文を書くと鼻息を荒くしながら、京都には行かないと佐久さんに言い放ちます。

覚馬に会わねぇつもりが!死んだものど諦めかげでだ覚馬が、折角生ぎでいだのに
あんつぁまが会いに来たら良い
京都府顧問というお役目があって、来たくても来られねぇんだべ
京都府の役人は、薩長の者達だべ。あんつぁまは、なじょしてその下で働いでんだ?おっかさまは悔しぐねぇの?
訳があんだべ。会って話してみねぇど、何にもわがんねぇ
姉様のごどは?あんつぁまのお戻りを待って、みねを立派に育てて来たのに・・・こんな仕打ぢ、あんまりだ。家にいるおなご、まず追い出して貰うべ。そうでねぇど、姉様とみねを連れで都には行げねぇ!
んだら、覚馬の娘も追い出せど書ぐのが?その子を、家がら放り出せど書ぐのが?私達が覚馬は死んだがど思ってたように、覚馬も、山本家は死に絶えだど思ってたのだもしんねぇ

何だか今回は、「訳」という一言に集約される意味が各場面でありすぎるようにも感じますが(苦笑)。
まあ、ここは佐久さんが正論ですよね。
覚馬さんが詳細は「会ったら話す」と言うようにしか伝えて来てない以上、会わない内からは何も言えないのですよ。
この伝え方がそもそも少し卑怯だな~と感じなくもないですが(苦笑)。
そしてそれから数日後、うらさんは佐久さんと八重さんに、いつ都に行く予定だと尋ねます。
そして、みねちゃんも都に連れて行って欲しい、でも自分はこっちに残ると。
都に行くならうらさんも一緒にという八重さんに対して、佐久さんは覚馬さんのことが許せないのかと静かに問います。

ずっと考えでおりやした。京都に行って向ごうの親子ど、一づ屋根の下で暮らせるものか・・・
あんつぁまの妻は姉様だ。遠慮はいらねぇ、堂々としてたらいい
そんなごど、出来んべが?こんな荒れた手で、顔もくすんで、すっかり歳取っちまった。都の若い娘に焼きもちも妬かず、堂々どしていられんべが?きっと、旦那様に恨みぶっつげる。向ごうのおなごを憎んで、繰り言を重ねる。そんな情げねぇ母親の姿、みねには見せたぐねぇ。私が行ったら、みねのためにならねぇべ・・・。私にもおなごの意地がありやす

一度も会わなくて良いのかと確認する佐久さんに、覚馬さんには赤い櫛が似合っていたころの自分を覚えていて欲しいから、と言ううらさん。
・・・本当、「女の意地」ですねぇ~。
でも凄くよく分かります。
好きな人に思い出してもらう自分は、いつも綺麗でいたいのです。
よく「別れたくない!別れるなら死ぬ!」とか泣き喚く潔くない現代女子もいますが、それは見苦しい。
実際問題、覚馬さんは目がもう見えてないので、若かろうが何だろうが、見えないから関係ないんです。
でもそこじゃないのよね、うらさんのいう女の意地は。
手が荒れてようが、顔がくすんでようが、見た目じゃない。
うらさんにとって大切なのは、覚馬さんの中にある自分像を、如何に綺麗なまま保っておけるかということなのです。
男性視聴者諸君はこの辺りの女の心境をどう受け止められるのでしょうか・・・。
そしてみねちゃんとうらさんの、別れの日がやって来ました。
おっかさまと離れたくないと泣くみねちゃんに、うらさんは覚馬さんから貰った宝物の赤い櫛を持たせて、送り出します。
一見思い出以外覚馬さんに連なるものは、これですべて手放したように見えるうらさんですが、これって覚馬さんがみねちゃんの持ってる赤い櫛を見るたびに、否応なしにうらさんのことを思い出さざるを得ないということになりますよね。
うらさん自身がそれを狙ったのかどうかは知りませんが、ただ覚馬さんの両目は光を失ってしまってるので、意図を含んでの行動だとしても肝心の覚馬さんに櫛は見えないという悲しい落ちが・・・。

山川家には、浩さん、二葉さんの他に、官費留学でアメリカに留学している健次郎さん、会津藩士の小出光照と結婚した操さんなどがいるのですが、末娘の咲さんは斗南にいた頃、浩さんの提案で函館に行かされ(里子に出されたとも)、そこで住込みの勉強を始めました。
誰のところかは諸説あるようですが、外国人宣教師のところだったみたいです。
その函館では北海道開拓が始まっており、責任者の黒田清隆さんはアメリカの西部開拓を見習おうと、何人かアメリカに留学生を送ります。
健次郎さんが含まれたのはこの留学生組だったのですが、清隆さんはアメリカの女性の地位の高さを知って、女子も留学させるべきだと考え、女子留学生も募りました。
留学期間は10年、費用は全て国家負担で、年間800ドルの手当も支給されるという破格の留学待遇だったにもかかわらず、一次募集には応募がなく、二次募集で5人集まったそうです。
この5人の中に、12歳の咲さんと、そして有名な津田梅子さん(当時8歳)がいました。
敗戦、斗南行、廃藩置県・・・と苦労の出来事続きでしたが、山川家の皆様は懸命に前に進もうとしています。
が、そんな時、平馬さんが浩さんの前で、二葉さんに山川家に戻るようにと言います。
この場合、つまりは離縁ですね。
姉に何か至らぬことがあったのかと膝を進める浩さんに、平馬さんは首を横に振ります。

いや、何も不足はねぇ。俺には過ぎた妻だ。んだげんじょ・・・今はそれが重い。東京でやり直す気力が、もう俺にはねぇ。・・・こごに穴が開いぢまった」

別れるのは嫌だと言う二葉さんですが、平馬さんは自分を抜け殻だと言います。
会津も斗南もなくなって、心が折れたのでしょうね。
そんな時に、しっかりものの奥さんの存在は確かに重いでしょう。
あ、なんか自分もしっかりしてなくちゃいけないのかな、って気負うか、支えられることを申し訳なく思って気が滅入るかしますので。
この後平馬さんは北海道に渡り、第20回でも出て来た水野貞さんと再婚して、教育者としての道を歩んだのであろうと言われています。
北海道に渡った後の経緯はよく分かっておらず、平馬さんのお墓が見つかったのでさえ、昭和63年(1888)のことでした。

明治4年(1871)10月、八重さん、佐久さん、そしてみねちゃんが京都に到着します。
住所を片手に辿り着いた一軒の家には山本覚馬の表札が。
扉を開けて、訪いの声を掛けて出て来た女性に、八重さんの顔は強張ります。
どころか、目に殺気すら宿っていたような気がしなくもないです。
覚馬さんの家は、河原町御池通りにありまして、新門辰五郎さんのお屋敷跡でした。

(現在地周辺はこんな場所です)
百坪の敷地に、台所付で部屋が五つあったこの物件を、36圓で買い取ったのです(ちなみに覚馬さんの月給は45円)。
ぱっと見て頂いても分かると思いますが、斗南で苦労して来た人たちや、米沢で行商を続けてその日暮らしを続けて来た八重さん達とは違って、覚馬さんは破格ともいえる待遇を受けております。
応対に出た時栄さんが、八重さん達を玄関に案内しようとすると、廊下から壁伝いの手探りで覚馬さんが現れます。
八重さんと、佐久さんと、みねさんの存在を確認する覚馬さん。
うらさんの名前が出てこなかったのは、おそらく事前に手紙か何かで伝えていたのでしょう。
そもそもいつ頃京都に到着予定です、の連絡もなしに八重さん達が京都に行くとも思えませんし。
覚馬さんが失明したことなど知らなかった佐久さんは、その姿はどうしたのだと訊きます。
ここで、八重さんが気にしていたこと、即ち何故覚馬さんがすぐに自分達を捜しに来てくれなかったのか・・・などなどの「訳」が判明します。

こんな体になっつまって、探してやるごども、迎えに行ぐごども出来ながった。すまながった・・・助けに行ってやれなくて。会津を守れず、滅びるのを止められながった。すまながった・・・

そうして実に9年ぶりの涙の再会を果たした八重さん・佐久さんと覚馬さんではありましたが、その感動とは真逆の温度差を以ってそれを眺めているみねちゃんが印象的です。
みねちゃんは赤子の時に分かれた覚馬さんのことを覚えてないので、「誰?この人」という状態なのでしょうね。
しかもこの人が余所に女の人作ったから、自分はおっかさまと離れ離れにならなきゃいけなかったんだと分かると、心中複雑でしょうね・・・。
みねちゃんと覚馬さんと時栄さんの関係は、今後どう描かれていくのでしょうか(苦笑)。
しかしながら当時の時代感覚としては、妾(時栄さん)の存在は当たり前だったというか、少なくとも責められるものではなかったです。
まあそういう風習の時代だったので、多分山本家の皆様も、都にいる覚馬さんに妾がいないとも限らないなとは思ってたはずです。
1ミリも考えてなかったはずはない。
山本家の皆様が「もし妾がいたら」の延長線で、妾との間に子供がいることも想定してなかったわけではないでしょう(吃驚はするでしょうが)。
そもそも盲目になった覚馬さんにとって時栄さんは、言葉悪いけど使い勝手の良い優秀な使用人だったわけですよ。
で、使い勝手良いので長く傍に置いてたら戦が起こって、何だかんだしてる間に「お嫁に出すにはちょっと自分と近い距離で長居させすぎた」となったから、囲ったんじゃないかと。
だって時栄さん、お嫁に行くのに外聞悪いでしょ。
年頃の娘が盲目とはいえ5年近く男の家に通って世話してた、というのは。
で、その外聞の原因が自分にあるなら、囲ってやろうかとなったのが、覚馬さんなりの時栄さんへの責任の取り方だったと思うのですよ。
だから覚馬さんが時栄さんを囲った経緯は、男女の恋愛感情よりも先に、「責任を取る」という義務が来ているような気がするんですけどね。
視聴者からすれば(特に女性視聴者は)、うらさんをずっと見て来ただけに色々心中複雑になるとは思いますが、史実でうらさんが何て言ったのかは知りませんが、覚馬さんはうらさんを京都に連れて来るなとは言ってません。
うらさんが拒んだ。
つまり、覚馬さんから見れば手を放したのはうらさんなのです。
何でうらさんが手を放したかというと、ドラマですとそれが「女の意地」で先程触れたように上手く表現されてたと思います。
別に正室と妾が同居するのも、時代的な感覚としては珍しいけどおかしくはないのですよ。
覚馬さんの尊敬する象山先生や勝さんも、そんなことしてましたしね。
でもうらさんは、一緒に住んでても、自分は正室でも、嫉妬はするし、時栄さんに普通に接せるかも分からない。
嫌なことばっかり言う女に成り下がるかもしれない。
そんな女になった自分を覚馬さんの前に見せつけるって、それは完璧武家嫁を貫いてきたうらさんには許せないことなんですよ。
「赤い櫛が似合っていた頃の私を覚えていて貰いたい」というのは本当難いほど上手い台詞でして、覚馬さんの記憶の中のうらさんは、「完璧武家嫁」のうらさんのままで終わってる。
それを悪い方に更新させるよりはと、うらさんは思ったのです。
きっかけはどうあれ、手を放したのはうらさんの方。
・・・ではありますが、特に女性視聴者は「時代背景は分かるけど」ともやもやしてて良いと思います。
実際私も、感動すべき再会シーンのはずが、色々苦いものを感じてほろりとも来なかったので(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月1日木曜日

第30回「再起への道」

会津戦争から半年が経った、明治2年(1869年)2月。
アメリカのマサチューセッツ州にあるアーマスト大学内の礼拝堂で、聖書を手に一心に祈っているのは、随分お久し振りの登場の襄さんです。
襄さんがボストンの土を踏んだのが、1865年(慶応元年)のこと。
その後アントンヴァーにあるフィリップス・アカデミー英語科に入学し、翌年アントンヴァー神学校付属教会で洗礼を受けています。
1867年(慶応3年)6月にそこを卒業した襄さんは、9月にアーマスト大学に入学しました。
襄さんはアーマスト大学が初めて受け入れた日本人学生で、今では26歳になっています。
枝葉になりますが、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士ことウィリアム・スミス・クラークさんに化学を教わったみたいです。
学長のジュリアス・ハーレー・シーリーさんに、日本で革命が起こって明治という新しい時代が始まったのだと襄さんは言います。

しかし同じ国の人間が争った傷は深く、痛みはたやすく消えない。報復のために、また戦が起こりはしないかと・・・。互いに恨みを捨て、神の愛と正義のもと、新しい国作りがなされますように・・・。死者と、残された者のため・・・。そして、悲しみ、憎しみ、恨む心を癒し給え

「八重の桜」前半部分のテーマが、幕末の会津の正当性と拙さと、歴史の流れを会津視点から追うことによって、薩長史観からではない幕末を描くことだったのだとすれば、襄さんの言葉は「八重の桜」後半部分の大きなテーマでもありますね。
時代が明治になって、しかし負けた藩の人々の傷は消えませんし、報復のためというのは少し謎ですが、西南戦争が起こる。
日清・日露戦争の頃まで軍の中では薩長出身者が出世街道に乗れ、負けた藩の出身者にはいつもハンデがあった。
明治維新と呼ばれる革命の尾が、色んなところで濃厚に尾を引く中で、それらを「癒し給え」と言えてしまうのはなかなか超絶的なようにも見えますが、それは彼がキリスト教であり、アメリカにいることで日本ではない視点から日本のことを見られるからでしょう。

とうことで、始まりました明治編の30話。
会津戦争中、改元の詔によって元号が既に明治に変わったことは以前の記事で触れた通りです。
少し時間軸が遡りますが、慶応4年7月17日(1868年9月3日)、通称「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」と呼ばれるものが発せられ、江戸が東京になります。
かねてより新政府の中には、明治天皇を中心とした新しい国と政を展開すべく、遷都を行おうという声がありまして、その候補地として大坂が有力視されていましたが、やがて江戸が最有力候補地になりました。
しかし千年以上都として栄えて来た京都を離れると言うのは、公家や宮中の保守派、京都市民にとっては考えられないことであり、事は慎重に運ばれました。
そう言う背景もあったので、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」では「江戸が東国第一の大都市且つ要所であるため、天皇がここで政を行う」とし、それはつまり政治の中枢と天皇が京都から動くわけですので「遷都」になるのではないかと思うかもしれませんが、遷都ではなく「東西両都」という方針を、公家や宮中の保守派、京都市民らへの配慮から取ることにしました。
なので、「東」の「京」なのですね。
飽く迄京都から見た名付け、ということになっております。
明治元年10月13日(1868年11月26日)、東京に行幸した明治天皇が江戸城に初めて入り、その日江戸城は「東京城」と改称され、皇居と定められます。
これらの流れから、「遷都」と明確には言っていないものの、事実上都が京都から東京に移っている、あるいは移そうとしているのは誰の目にも明らかです。
新政府としても、さっさと東京に遷都したかったのでしょうが、事は慎重に進められ、「東西両都」の方針の元、明治天皇は東京と京都を行ったり来たりする羽目になります。
結局明治3年(1870年)3月14日、明治天皇の京都還幸の延期が伝えられ、そのままずるずると「遷都」の二文字が明確に出されていないだけで、ゴリ押しのように都は東京という風になって行きます。
何故こんなことをずらずら書いているのかと申しますと、都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にあるからです。
その辺りのことはまたその場面に差し掛かった時に触れるとして、さて本編に入りましょうか。

会津戦争後、故郷の会津を離れた山本家は米沢藩にいました。
どうしていきなり米沢藩に御厄介になっているのか、作中で思いっきり飛ばされたので急なことに見えるかもしれないので、少し補足させて頂きます。
会津戦争が勃発する前、米沢藩から藩士43人が砲術修行として会津に来ていたというのは既に以前の記事で触れました。
それに加えて山本家には、奥州列藩同盟の米沢藩との連絡役として遣わされた米沢藩士が逗留していました。
尚之助さんも、砲術修行に来た米沢藩士に指導を行っていましたし、つまり山本家は米沢藩士の宿舎兼学校のような場所になっていたのです。
そのご縁があって、八重さん達山本家はその修行に来ていた米沢藩士の一人、内藤新一郎さんの家に厄介になっているのです。
米沢藩に移ったのは何も山本家に限ったことではなく、米沢と会津の藩同士の関係も相まって、多くの会津藩士が戦後米沢に移住しました。
列藩同盟の片翼だった米沢藩ですが、藩士の宮島誠一郎さんが奔走したお蔭で、戦後処分の領地削減は18万7000石が14万7000石(※数値訂正しました)になっただけです。
23万石(実質は30万石ほど)を悉く没収された会津藩と比べると、変な言い方になりますが、頼られても大丈夫な家や余力ある家が多かったのでしょう。
ちなみに仙台藩は藩主父子東京に謹慎の上、62万石から28万石に減封、玉虫左太夫さんと若生文十郎さんは処刑、長岡藩は藩主東京に謹慎の上、7万4000石から2万4000石に減封、盛岡藩は23万石から13万石に減封、庄内藩は藩主東京に謹慎の上、17万石から12万に減封となりました。
こう見ると、特にもう片翼の仙台藩と比べると、米沢は処分がまだ軽い方で済んだことが数字の比較でも良くお分かり頂けると思います。
しかしそれでも、ただ飯を女四人分食べさせてもらうだけの余裕が内藤家にもあるわけではないので、八重さんは行商で日々の生計を立てていました。
売るのは主に反物や、それで作った布製品。
今日も今日とて精を出して、みねちゃんとそれを売り歩いていると、会津藩士の未亡人の千代と言う女性に出会います。
あちらは、戦で鉄砲隊を率いていた八重さんを知っていたようで、しかしそう言われた八重さんの表情はやや複雑そうなものでした。
そこへ田村屋宗右衛門という男が出てきて、八重さんたち武家が商いをしていることに同情し、反物を一反買ってやるように言います。
みねちゃんには、食べるものにも苦労しているだろうと蕪を渡そうとしますが、「いらねぇ」とみねちゃん。
うらさんはしっかりみねちゃんを武家の娘として育てたようで、どれだけ貧しくても施しは受けないということですね。
結局八重さんが蕪を頂くことでその場は収まりましたが、武家の誇りはもうずたずたでしょうね、八重さん達。
でもその痛みを抱えて、女四人で力を合わせて生きて行く。
しかし、PTSDのようなものに魘される八重さんは、見ていて痛ましいです・・・。
ちなみに戦に敗れた旧会津藩士たちは「会津降人」と呼ばれていました。
またこのとき、彼らの故郷には「白河以北一山百文」という汚名を着せられていました。
先程八重さんが売っていた反物が一反500文でしたので、一つの山が反物二反と同価値であると見下されていたのです。

戦後の会津藩の処分について、寛典論と厳罰論に分かれ、木戸さんはやはり長州だからか、容保様の処刑を主張して譲りませんでした。
結論としては死一等を減じ、永禁錮、城と領地の没収と言うことになりました。
しかし、それでは会津の戦争責任は何処へ行くのかという話になります。
これについては、照姫様の実弟、ご実家の上総飯野藩保科正益さんが、この件の首謀者は田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんの三人だと朝廷に上申しました。
前者の二人は既に故人となっておりますので、事実上は萱野さんが一身に全てを背負わされることに、これではなってしまいます。
そんな話が明治政府に通るわけがないだろうと思われるかもしれませんが、会津藩が土佐藩や米沢藩、薩摩藩などに働きかけ、実質上の犠牲者は萱野さんひとりだというのを認めさせたのです。
勘の良い方はお分かりだと思いますが、萱野さんは席次で言うと四番家老でしたので、もし西郷さんが城を出ていなければ、萱野さんが腹を斬る必要はありませんでした。
西郷さんがいないから、萱野さんにお役目がスライドしてきたのです。
そして明治2年(1869年)5月18日、萱野さんの刑執行日がやって来ます。
刑の前に麻布広尾にある保科家に、大蔵さんと平馬さんがやって来て、萱野さんに詫びを言います。

此度は・・・戦の責めを一身に背負って頂き、まことに・・・申し訳ございやせん
城中にて戦の指揮を執ったのは私でごぜえます。まことは、私が・・・私が腹を斬るべきところを・・・
馬鹿者、皆で死んでなじょする。一身を以って、御主君をお守りするのは武士の誉れだ。このお役目、にしらには譲れぬわ

仮にもう後二人、故人分の首を差し出せと言われたら、間違いなく大蔵さんと平馬さんの首がそれになったのでしょう。
ですが、そうしてしまっては会津再興の目途が立たなくなりますので、会津上層部はそうならないようにしました。
結果この二人は首が繋がったのでしょう。
そんな萱野さんへ、容保様の文が差し出されます。
今般御沙汰之趣、竊ニ到承知恐入候次第ニ候。右ハ全ク我等不行届ヨリ斯ニ相至候処、立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至リ、不堪痛哭候、扨々不便之至ニ候、面会モ相成候身分ニ候ハハ是非逢度候ヘ共、其儀モ及兼遺憾此事ニ候。其方忠実ノ段、厚心得候事ニ候間、後々ノ儀ハ毛頭不心置、此上為国家潔ク遂最後呉候様頼入候也 五月十六日 祐堂 萱野権兵衛へ(星亮一、1995、奥州列藩同盟、中公新書)

この手紙の趣旨をまとめると、ドラマにあったように「権兵衛、ひと目だけでも会いたかったが、今の身の上ではそれも許されぬ。そなたの忠義、終生忘れぬ」と言うことになるのでしょう。
目頭を熱くする萱野さんに、更に青山の紀州藩邸に預けられている照姫様からの歌が寄せられました(ドラマで映っていたのは歌だけでしたが、本当は歌だけでなく手紙部分もあります)。
そこには「夢うつつ思ひも分かず惜しむぞよまことある名は世に残れども」と書かれており、容保様と照姫様のこのときの文と歌は、現存しております。
機会があって目にすることが御座いましたら、どうかこのときの場面を思い出して下さいませ。

まことある名は、世に残れども・・・。ありがたい。これほどの、ご厚情を受けて、わしは幸せ者よの。ただひとつ、無念なのはな、会津が、逆賊の汚名を晴らす日を、見届けずに死ぬことだ。戦で奪われたものは、戦で取り返すのが武士の倣い。頼むぞ!そうでねぇと・・・そうでねぇと・・・、死んだ者たちの無念が晴れぬ!!!

そうして想いを託し、萱野さんはその場を去ります。
表向きは、戦争責任を取るということで斬首を言い渡されていた萱野さんですが、保科家の温情で武士として切腹の形を取ることが許されました。
しかし、萱野さんの言葉で少し気になったのが、「戦で奪われたものは、戦で取り返せ」と、復讐を煽っていたこと。
前者の「戦」と後者の「戦」は含まれている意味が違うのかとも検討しましたが、そうでもないようですし・・・。
何と言いますか、会津の家老としての無念は察しますが、でも家老の最後の言葉らしくない、非建設的な言葉だなと感じてしまいまして。
それに、容保様の最後の君命は「生きよ」だったじゃないですか。
これは復讐するために生きろ、と言うわけじゃないですよね。
会津の民ひとりひとりがあってこその「会津」だから、容保様は皆に生きて欲しかったわけで。
「死んだ者たちの無念」というのは、生き抜いた先に晴れさすことが出来るのであって、復讐でそれを晴らすのは、容保様の君命と照らし合わせても何か違和感を覚えるなぁ・・・と。
とてもいいシーンのはずだったのですが、台詞後半に何だか妙な引っ掛かりを覚えてしまいました(苦笑)。

そして権兵衛さんの刑が執行された日は、奇しくも、箱館戦争終結と同日でした。
箱館の五稜郭に拠点を構えた旧幕府軍ですが、北の大地まで転戦を重ねた土方さんは一本木関門の乱戦の中で5月11日に落命し、18日に総裁の榎本さんが降伏を決意します。
鳥羽伏見の戦いから1年半、戊辰戦争がようやくここに幕を下ろしたのです。
降伏の日、榎本さんと盃を交わした西郷さんは、本当は自分の役目だったのに萱野さんひとりに責めを負わせたことを申し訳なく思いながら、そっと呟きます。

わしは・・・生きる。千恵・・・わしは生ぎっぞ。わしらの会津を、踏み潰してった奴らが、どんな世の中作んのが、この目で見届けてやる

箱館戦争後、西郷さんは上州館林藩国許お預けになりました。
切腹した萱野さんや、それに同調した大蔵さん達とは違い、西郷さんは復讐心は灯ってないように見えました。
ただ、「見ていてやる」と、ある意味達観の境地に至っているとでも言いますか。

みねちゃんと田村屋の千代さんを訪ねた八重さん。
八重さんは千代さんの息子、長次郎さんの槍を見てあげるのですが、その時千代さんから鉄砲を教えて欲しいとせがまれます。
常の八重さんならば・・・というより、会津時代の八重さんなら喜んでそれを引き受けたことでしょう。
しかし今の八重さんは、首を縦に振りませんでした。
八重さんなら絶対に教えてくれると思っていたのでしょう(同じ会津の女性ですから、自分の復讐心も分かってくれるだろうと思ってたのかな)、しかし芳しい返事を貰えなかった千代さんは声を荒げます。
薩長に恨みを晴らしたくないのかと詰め寄られる八重さん。
八重さんとで恨みを晴らしたくないわけではなさそうですが、どうにもそこへ踏み込んでしまえない何かが彼女の中にはある様子(これは最後の方で判明します)。
薩長への憎悪と、強くなって薩長に一矢報いるようにと我が子に言い聞かせる千代さんを、八重さんは複雑そうな目で見つめます。
会話を聞きつけた中村屋さんが、「毎日毎日仇を討てだの恥を雪げなど、同じ繰り言並べて、辛気臭くてかなわんわ。会津、会津と念仏のように唱えでるけども、そだな国はもうとっくに潰れてなぐなった。落ちぶれ者が。食べ物が欲すければ裏に回れ。会津の者なんぞがずうずうしく屋敷に上がりやがって」と、物凄い暴言を吐きます。
怒ったみねちゃんを千代さんが庇い、その千代さんが殴られて八重さんは彼女が生きるために田村屋さんの妾になったことを知ります。
この期に及んで会津への侮辱を止めない田村屋さんに、八重さんは稽古用の槍を取り上げて一瞬で田村屋さんをやり込めますが、千代さんに止められます。
八重さん、目が本気だったので、千代さんが庇わねば確実に撲殺してたんじゃないかな。
千代さんは、田村屋に何かあったら長次郎は生きて行けなくなるから、止めて欲しいと八重さんに縋ります。
あんな男に縋るようにしなければ生きて行けない自分を、情けないという千代さんに、八重さんは言います。

何にも情けなくねぇ。今は、生き抜くこどが戦だ。生きていれば、いつかきっと会津に帰れる。それを支えに、生きて行くべ

情けなさを感じているのは八重さんも同じですよね。
武家の身なのに、行商して、施しまでして貰って、本当は屈辱だしプライドもずたずただけど、でもそうしなくては生きて行けない。
アイデンティティーや自身の方向性は見失ってしまっている八重さんですが、容保様の最後の君命をあの場で聞いていたからか、今は「生きよ」だけを忠実に守っています。
それを「どう生きるのか」という色付けが、今後なされていくのでしょうね。

さて、次なる場面は東京護国寺会津藩士謹慎所ー・・・と移る前に。
まさかスルーするとは思いませんでしたが、一瞬自分が寝てたりして見逃したのかとも思いましたが、やっぱりスルーされてた物凄く大事なことを補足させて頂きます。
萱野さんが切腹したその約半月後の6月3日、会津城下の御薬園にて容保様の御側室、佐久さんが、容保様の嫡男慶三郎さんをお産みになりました。
後の容大さんのご誕生です。
容大さんは後の八重さんと襄さんにも関わりが出てくるお方ですし、何よりも降伏やら何やらで暗いニュースばかりが続いていた会津にとって、容保様に和子様がお誕生されたことは、藩士らにとってはこれ以上ない吉報だったかと思います。
なのに、何故か華麗にスルーされました・・・私は不思議でたまらない。

皆聞け。とうとう、御家存続のお許しが下りたぞ

と平馬さんは報告しますが、この「御家存続」は明治2年9月28日に、明治天皇が慶喜さんと容保さんの罪を赦し、翌29日にお生まれになった慶三郎さんを以って会津松平家存続を願い出るように、と保科正益さんに伝えたという背景があります。
つまり、御家存続のお許しには慶三郎さんの存在が不可欠だと言うのに・・・やっぱりスルーされてますね、不思議です。
そして同年11月14日に慶三郎さんは「容大」と実名を定め、家名存続の許しを得、華族に列し、陸奥国の下北半島を中心とする3万石を下賜されました。
ということで、平馬さんも言っていましたが、御家再興の地は会津ではありません。
それに不平不満を言う会津藩士たちですが、実は他の候補地に、会津藩の旧領であった猪苗代もありました。
では何故猪苗代を選ばなかったのか。
撰びたくても、選べない事情があったからです。
ドラマでは基本、容保様を何処までも綺麗なお殿様と描くことを貫いておられますが、実際幕末会津の百姓視点まで視線を下げてみると、必ずしもドラマの通りの素晴らしいお殿様ではないのです、容保様は。
孝明天皇に義理立てたという美談の裏側には、会津の国許の財政状態を省みなかったという面もあります。
長きに亘る京都守護職の在職で、藩の財政は火の車、農民には重税が課せられ・・・というのは何度かこのブログでも触れて来た、会津藩の事実です。
そのため、会津に戦火が迫った時、薩長に加担してしまう農民もいました。
これも以前ブログで触れたことですが、農民からすれば殿様が帝の信頼篤かろうが、忠義が如何とか言っても、それでお米が大量に獲れるわけでもなければ、お腹が膨れるわけでもない。
寧ろ、その殿様が一日でも長く都に滞在するから、重税で喘がなくてはいけない。
彼らにとっての良き殿様は、重税を背負わせず、明日の生活と食事を保障してくれるような統治をしてくれるお殿様なのです。
容保様にも容保様の事情があったのは勿論そうですが、農民にもそんな言い分があるわけです。
だからでしょうか、容保様が謹慎先の滝沢村から東京に護送されるとき、「至る所で人々は冷笑な無関心さを装い、すぐ傍で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津候が国を出て行くところを振り返って見ようともしない」という目撃情報が、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスによって残されています。
で、そんな農民たちは会津降伏後、旧支配層に対する嫌悪を一揆という形で爆発させるのです(ヤーヤー一揆)。
そんな庶民の怒りが渦巻く旧会津領を、再び旧会津藩が再支配するのは困難以外の何物でもありません。
故に猪苗代ではなく、陸奥国の下北半島が選ばれたのです。
ただ、会津の農民の全員が会津藩時代の統治を嫌っていたわけではありません。
会津の処分の論議がされていた時、会津の農民500人は全国に分散して「旧会津への復帰再興」を願い出ています。
また、北海道も候補地に挙がっていましたが、黒田清隆さんが北海道開拓は会津人には向いていないと、却下しました。

新しい藩名を、斗南とする。北斗以南皆帝州という詩文から取った。最北の地も、帝の領地。我らは朝敵ではなく、帝の民であるとの意味だ

斗南という藩名は、「自分たちは賊徒ではなく、朝敵ではなく、北斗の星(=王)を仰ぐ民である」という想いが込められています。
しかし自分達は「会津藩」の人間であり、名前を奪われてまで新政府に従うことはないと、藩士たちはなかなか納得しません。
けれども「斗」と言う字は「闘う」という意味があります。
なので、ただ新政府に従うわけではないのだと、名前に込めた意味を説明しながら、大蔵さんは言います。

我らは会津武士。戦い続けていつの日が、故郷の土地と、会津の名を奪い返す。まず国の力をつける。そのためには、交易だ。会津にはなかった海が、斗南にはある。北辺の地に強国を作る。反撃の狼煙を上げんのは、その時だ。どの地も全て、戦場と思え

しかし彼ら再起の心をへし折るように、斗南の地は土地が痩せてるわ極寒だわ・・・だったのです。
(止めは版籍奉還と廃藩置県)
何より、比較的裕福な七戸藩の土地は綺麗にのぞかれる形で斗南藩の領地は与えられましたので(=痩せた土地ばかりの場所)、3万石とは名ばかりの、実質は7000石ほどのされる不毛の地でした。
そして斗南藩の赤貧を何とかしようとして、尚之助さんの運命が大きく左右しまうことになるのですが、それはまた機会が来たら筆を割くとして・・・。
平馬さんの、「斗南は決して、楽土ではねぇ」というのは、その辺りのことも薄々気付いていたからでしょう。
さて、大蔵さんはこの度、斗南藩筆頭の大参事に就任しました。

これを潮に、わしは全ての役職を退く。戦の首謀者はまことはわしであった。頼母様を退け、奥羽諸藩と結んで戦に突き進んだ
義兄上・・・
わしはもう、藩を率いてはいけぬ。後の事、にしゃに託してえ。頼む・・・!

平馬さんは本当に斗南開拓失敗後、北海道に渡って姿を消します。
以後長きに亘って歴史に埋没しており、お墓が発見されたのも昭和63年(1988)のことでした。
二葉さんと離婚したことや、水野貞(第20回でちらっと出て来ましたよね)とのあれこれは伝わってるのに・・・ということで、平馬さんの後半世については、今後の研究が進むことが期待されます(少しずつ進んではいるようですが)。

平馬さんと大蔵さんの会話の中にありましたが、1868年10月、秋月さんは健次郎さんと小川伝八郎さんを、長州藩参謀の奥平謙輔さんに預け、越後方面へと脱出させます。
奥平さんは安政6年(1895)に秋月さんが萩を訪ねた時に顔を合わせていたようで、その縁がここへと繋がったのです。
ちなみにこの奥平さん、会津藩は鳥居元忠さんのように最後まで戦うべきだったと書いたのですが、秋月さんがそれを取り消せと言ったので取り消したというエピソードもあります。
この後健次郎さんは、17歳でアメリカに留学し、帰国後は東京帝国大学に奉職するのですから、命がけで勉強しろというおじじさまの言葉に一片たりとも背かなかったのですね。
彼がアメリカに行ったとき、九九も出来なかったのは有名ですから、本当我々の想像を絶する、血の滲むような努力をしたのでしょう。
少し見習わねばならない勉学姿勢ですね。

明治2年(1869)10月、米沢の八重さんのところに大蔵さんが訪ねて来ます。

会津の、再興が叶いやした

開口一番のその報せに、佐久さんは泣き崩れて喜び、御家再興の御祝にこづゆを作ります。
大蔵さんの口から、会津の皆様の近況が語られます。
斗南に行くことには意気盛んだったり、山川家の皆様はおじじさまは亡くなられたそうですが、女性陣は皆達者のご様子だとか。
八重さんが気にはなっていたでしょうが、訊きにくかっただろう尚之助さんのことは、代わりにみねちゃんが訊いてくれました。
尚之助さんは今は東京にいて、一緒に斗南に行くことになったのだと。
そこで、話の途中だがと、こづゆが供されます。

あれから、一年だ。一年、よーぐ生き延びた・・・。皆で、祝いさせてくなんしょ

うめぇな、うめぇな、と涙ぐみながらこづゆを食べる皆様。
こづゆって、こんなに上手かったんだべか」、と八重さんも涙をぽろぽろ零しながらこづゆを食べます。
別れ際に、大蔵さんは八重さんを斗南に誘います。
新しい国を作るために八重さんの力を借りたいとのことですが、この言葉がちょっと地に足がついてないですね。
だって、八重さんの「力」といえば、砲術の知識が豊富なことと、鉄砲の腕が素晴らしいことです。
それらの「力」は、斗南では何の役にも立ちません。
なのに、何を以って大蔵さんが「重さんの力を借りたい」と言ってるのか、いまいち伝わって来ないなと思いました。
しかし八重さんは、千代さんから「鉄砲を教えて欲しい」と請われた時同様、首を縦には振りませんでした。

私は・・・怖えのです
怖い?
この前、会津を侮辱した人を、もうちっとで殺めでしまうところでした。お城に籠もって戦っだ時、私は、一人でも多くの敵を倒しで、死ぬ覚悟でした。戦場だったから・・・会津を守るための、戦だったから
八重さんそれは
今でも三郎の、お父様の、死んだ皆の無念を晴らしてえ。んだげんじょ、恨みを支えにしていては、後ろを向くばかりで、・・・前には進めねえのだし。さっきのこづゆがあんまり美味しくて、皆で頂けるのが嬉しくて。・・・もうしばらく、こうして生きて行っては、なんねぇべか?

鉄砲の腕が何の意味もなくなって、会津は降伏して、自分達は武家のプライドを砕きながらも必死で生きて行かねばならない。
弟も父も戦で亡くし、兄は生きてるとは信じてるけど未だに消息は分からない。
自分の最大の理解者だと思っていた尚之助さんは、自分が男の「山本三郎」として謹慎所へ行くことを許さなかった。
それに、八重さんは会津がどうして逆賊呼ばわりされなくてはいけないのかも分からない。
八重さんの中に広がっているのはそんな無明荒野ですが、八重さんはそこを、恨みや復讐を杖に歩いて行く気はないのです。
何をすれば良いのか分からないけれど、そんな状況だからこそ、こづゆを皆で食べたような小さな幸せを大切にしていきたい。
西郷さんは達観、大蔵さんたちは再興に意欲を燃やす道へとそれぞれ選択しましたが、八重さんの選んだのはそれなのです。
いや・・・しかし大蔵さん、八重さんにずっと淡い思いを抱いていましたが、どう頑張ってもいつも八重さんの視界に大蔵さんが入ってないっていうのは、物凄く辛いでしょうね・・・。
で、そんな自分から口にするのは複雑だったでしょうが、八重さんからは言い難いだろうなと思ったのか、尚之助さんに伝えることはあるかと大蔵さんは言います。

川崎殿は、仰せでした。開城の日、己の勝手な思いで八重さんから誇りを奪ってしまった。それを返すために、斗南の地に八重さんの故郷をもう一度作りたい。その思いを、胸に斗南に行くんだと
尚之助様に、伝えてくなんしょ。待っていますと

そう答えた八重さんの顔は、少しだけ優しいものでした。
尚之助さんも、この小さな幸せの場に加われる日が来ることを八重さんは待っているし、きっと疑ってもないのでしょう。
その実現場所が、尚之助さんが頑張って拓いてくれた斗南か、故郷の会津か、何処になるのかは分からないけれど。
・・・次回予告がその八重さんの心を微塵に砕いてましたが。

年が明けた明治3年(1870)3月、会津藩氏たちは斗南を目指したました。
旧会津藩士は、藩士家族を含めて約2万人いましたが、その内2000人程が会津若松で帰農、1500人程が東京に出て、残り約17000人4300戸が斗南に向かったようです。
移動手段は主に海路で、新政府軍からアメリカの輸送船ヤンシー号を借りて、新潟から南部の地に向かいました。
陸路ですと二本松、仙台、盛岡、沼宮内、一戸・・・と、下北半島に向けて延々と歩いたのでしょう。
尚之助さんはこの斗南行の列の、最後の方におられたようで、この年の10月くらいに斗南に到着しています。

さて、「再び咲くために」と各々が出発し始めた後編がこうして始まりましたー・・・と思いきや、急に場面が京都に変わります。
どうやら京都で新生活を営んでいる覚馬さんのお屋敷のようです。
良い生活をしているのか、以前よりも時栄さんの着物が上質なものになっているように見えます。

不自由な体で、世話をかける。宜しく頼む
へぇ
芳い匂いだ。花を飾ったのか
椿どすねや
見えなくても、花を愛でることは出来るようだな
そうどすな

何だこのシーン(とやりとりは)と思うほどの、何となくそっと頬を染めながら視線を外したくなるようなアダルティーな空気を朝から自重しないふたりですが、場面が変わった直後にすぐに本妻(=うらさん。しかも綺麗な着物来てる時栄さんとは違って、薄汚れた格好をしている)が映るあたり、編集容赦ないです。
いやもう、何と言いますかこの辺りに考察の筆を突っ込むのは野暮と言いますか、「どういうこと?」に対しての答えは数秒後の次回予告が全部暴露してくれちゃってたので敢えて私は言うまい。
その辺りは次回分に回すことにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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