2013年4月11日木曜日

歴史の跫音を聴く 其の壱


過日4月7日の日曜日、とある目的があってぶらり京都へ行って参りました。
折角なので、目的達成ついでに目的地周辺の幕末史跡巡りをしようと思い立ち、まず向かったのが京都御所。
「凝華洞」、別名「御花畠」。八月十八日の政変(1863)のときに壬生浪士組(後の新選組)が警備を担当したところですね。
続きまして、建礼門から蛤御門を左手に臨んでみました。
右手にちらっと屋根の端だけ写ってるのが建礼門で、左に小さく見えてるのが蛤御門。
禁門の変(1864)の当時は、蛤御門は写真の位置より100Mほど手前にあったので、どれだけ内裏から近いところで銃撃戦が行われていたか、少しでも感じて頂ければと思います。
丁度御所の春季一般公開が行われておりましたので、普段入ることの出来ない御所内部(内裏)まで足を運んでまいりました。
こちらは「小御所」。
王政復古の大号令が発せられた日の夜、「小御所会議」はここで行われました。
諸種の儀式や、武家の対面にも用いられていたというので、容保様もここに来られたのかな~などと想像しておりました。
寝殿造と書院造が混合した様式の建物みたいです。
奥に「迎春」と書かれた白い看板が立ってるのですが(見えにくいですね・・・)、奥に見える建物は孝明天皇の御書見の間として使用されていたようです。
内裏から出まして、今度は鷹司邸跡。
そうです、禁門の変の時に久坂さんが自刃した場所です。
こちらは鷹司邸跡から堺町御門方面を撮ったもので、写真中央にちょこんと写ってるのが堺町御門です。
こちらも先程の蛤御門同様、少しでも距離感が分かって頂ければなと思います。
御所はこのくらいにして、京都に来た目的を果たしに、旧京都府庁へ。
名前の通りかつての京都府庁で、入り口のところまで馬車で乗り付けることが出来る先進的な建物でした。
入り口の上にバルコニーが設けられていますが、あそこに立った人物は今まででふたりしかいないそうです。
ひとりは昭和天皇、もうひとりはユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンさん。
庁舎の竣工が明治37年(1904)なので、もう一世紀以上経っているわけですが、その間で僅か2人。
次に立つ人がいたりとかしたら、京都中でニュースになったりするのでしょうかねぇ。
ちなみにこちらの建築はルネサンス洋式で、台形型の屋根が珍しいようです。
写真で見えてます建物の壁の白い部分は石で出来てるみたいですが、茶色い部分はモルタルみたいです。
日露戦争の影響で資金不足になったからだとか(竣工は明治37年、日露戦争は明治37~38年)。
さて、ここ旧京都府庁の土地は、かつて京都守護職会津藩上屋敷があった場所の区画そのままです。
なので周りを歩くと、屋敷の土地面積が良く分かります。
旧京都府庁の周りには、在京会津藩士たちの屋敷があったそうです。
本陣自体は金戒光明寺ですけどね。
そして、この度の旅の目的はこちらの桜の樹。
「容保桜」と呼ばれている品名です。
案内板によると、
京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。特徴として、花弁は五枚であるが通常の山桜よりも大輪である。花梗が長く、一文字状に咲き、芽出しも茶芽山桜の遺伝子を持ちながら大島桜系の花の要素も出ている。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長したのも何かの因縁かと思われる。現地の京都府庁は、元京都守護職上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場所に、この様な桜が偶然とはいえあるのが面白い。今後も永く府の行政を見続ける様、守り育てたいものである。これらの事情を踏まえて、新しい個体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当たった、松平容保の名を継承し、容保桜と命名する。平成二十二年 春 佐野藤右衛門

とのこと。
佐藤さんは、桜守として知られる16代目の方です。
咲いたら3~4日で花が散ってしまうみたいでして、この日も折からの強風と雨で花はほとんど残ってませんでしたが、それでも一握りの花が散らずに待っててくれました。
ここの中庭は、円山公園などを手掛けた小川治兵衛さんによるものです。
建物自体がロの形になってますので、屋内何処からでも窓の外に桜を眺められるという、非常に魅力的な場所です。
ちなみに覚馬さんが二代目京都府知事の顧問となったのが明治3年で、京都府会議員初代議長となったのは明治12年の話ですが、その時はまだこの建物は存在していなかったので、覚馬さんが勤めていたのは二条城(そっちに府庁がおかれてました)の方です。
この後、遥々福島から来て下さった福島八重隊の皆様とお会いしたり、一緒に館内を巡ったり、会津グルメのなみえ焼きそばや会津地鶏の串焼きを食べたり・・・と、和やかな時間を過ごしておりました。

其の弐へ続く・・・。


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2013年4月10日水曜日

第14回 「新しい日々へ」

会津名産、絵蝋燭の柔らかい光に照らされた八重さんの輿入れの様子から始まりました、第14回。
覚馬さんとうらさんの祝言の時にも書きましたが、婚の字に「昏」の字が含まれている通り、昔は花嫁は黄昏に出立して婚家にやって来ました。
しかし嫁を貰い受ける側として、権八さんは外に出てたら駄目なんじゃいないのかな・・・とも思いましたが、まあめでたい席ですのでその辺りは気にしないことにいたしましょう。
改めまして、八重さん、ご結婚おめでとうございます。
ちなみに20歳、数えで22歳での嫁入りです。
当時にしては遅いかもしれませんが、親友の時尾さん何て明治に入ってから結婚しますもんね。
年頃の藩士がこぞって守護職として都に取られていたのも八重さんの結婚が遅れた理由かも知れないですね。
八重さんの白無垢姿、非常にお綺麗ですが、白無垢が白いのは、日本では古来白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされてきたからです。
衣装として定められたのは、小笠原流などの礼儀作法が確立し出した室町時代。
綿帽子の起源は、婦人が外出するときに小袖を被いたことに端を発しているようで、それが江戸期に綿帽子になったと。
では角隠しは何処から来たのかと言いますと、あれは幕末期から明治にかけて登場したもので、婚礼衣装の変化を順に追っていきますと綿帽子→練帽子→揚帽子(=角隠し)となります。
ところで、数年前に放送された「坂の上の雲」の第8回の、秋山真之さんと稲生李子さんの築地の水交社での結婚式の様子を覚えておられますでしょうか。
あれは明治36(1903)年6月2日の出来事なのですが、あの時の季子さんの花嫁衣装は黒の裾模様の留袖に角隠しとなっていますよね。
何故かと申しますと、幕末から明治にかけて西洋の考えが輸入され、文化面にも適応される部分がありまして、その影響で神聖な色が白から黒に変わったからなんですね。
もう少し白から黒への変化を語りますと、「坂の上の雲」では正岡子規さんの葬儀の際、律さんや八重さんの着ている喪服は白でしたが、現在私たちが着る喪服の色は黒ですよね。
そこも西洋化によって、色に対する捉え方(認識)が変わってしまったからなんです。
・・・と、随分と話が随分と逸れてしまいました。
祝宴は賑やかに、余計なことをいう親戚や、お酒が進みすぎる人たちがいるのはいつの時代も変わらないようですね(笑)。
しかしご親戚の方が指摘していた、尚之助さんの扶持がない件ですが、蘭学所からの役料は別に雀の涙ではないと思うのですけどね。
そもそもドラマでは触れられてませんでしたが、最初は蘭学所からの役料すら断っていましたので、そんな尚之助さんの人となりをもっと評価してあげて下さいよ親戚一同さん。
権八さんに助け船を出して貰った尚之助さんではありましたが、「衆寡敵せず」と輪の中に参戦し、結果権八さん共々酔い潰れることに。
宴終了後、仕方がないと八重さんはそんな尚之助さんを米俵のように担ぎ上げて運びます。
屋敷を賜ってない尚之助さんの新居は、角場の二階でしょうか、あそこは。
箪笥が一棹に鏡台、豪華さこそはありませんが、権八さんの「」な嫁入り道具が既にそこには並んでいました。
着替えた八重さんの小袖が、今まで赤色系統も混じった色合いでしたが、青色系統で統一されたものに変わってますね。
嫁いだことで、娘らしさを抜いて落ち着きを出そうということでしょうかね、うらさんも青色系統の着物ですし。
さて、嫁入り道具の前に「御祝」と書かれた木箱を見つけた八重さん。

あんつぁまがらだ

包みの中は文、砲術書の『新砲二種』、それから桐の小箱。
文には「これよりは夫婦力を合わせ、紅のごとく赤々と生きること肝要に候」とのお言葉が。
桐箱の中身は結婚式には欠かせない蛤貝で、中身は紅です。
起きた尚之助さんがそれを八重さんの唇に差してくれますが、ちゃんと薬指で差しているのが良いですね。
薬指は普段使わない指なので、それだけ清潔と見做されているのです。
いま指で塗るタイプの紅はお見かけしませんが、指で塗るタイプのリップクリームを薬指で塗ってる人を見かけると、ああよくご存知だなぁ、などと思ってしまいます。

まさしく幸せの絶頂とも言うべき八重さんですが、都の覚馬さんはまさにその真逆の状態でした。
以前から目の不調があった覚馬さんですが、医者に診断された病名は「白そこひ=白内障」。

気の毒だが、いずれは失明するものと覚悟した方が良い
先生、覚馬さんは先年の戦の折に目に怪我を負われております。それが長引いているのでは?
目を痛めたのであれば、それが元かもしれぬな。そこひには違いない
いづ
ん?
いづ、見えなくなんのでしょうが

分からない、と医者は答えます。
治る見込みも難しいと。
しかし、いつ「治る」のかではなく、いつ「見えなくなるのか」を問うた辺り、覚馬さんには「その日」の覚悟が出来てるのだなと伺えますね。
だから、何で自分が、とかありがちな悲観には暮れない。

見えなぐなんのが、俺の目は・・・。目が見えなくて、なじょして銃を撃づ・・・なじょして書を読む・・・何もかんも、出来なくなんのが・・・

自分の目がいつ見えなくなるのか分からないというのは、推し測ることの出来ないほどに怖いことだと思います。
その日が明日か明後日か分からない、今日見えてたものが明日見えなくなるかもしれない。
余命宣告とはまた少し違った意味で、覚馬さんはここで時間を限られてしまったのですね。
その限られた中で、今後彼がどう動いて行くのかはこのドラマの見どころのひとつだと思います。

幕末は時として、世界史の中から日本史を見る必要がある(だからややこしくなってくる)、という旨については、既にこのブログの冒頭で触れたことです。
1856年4月3日、アメリカ南部の首都リッチモンドが陥落し、同月9日に南北戦争は事実上終了します。
勝利を手にしたのは北軍ですが、国を二分した戦いの戦死者は約62万人で、これは現在に至るまでのアメリカ史上最悪の死者数です。
日本が被った南北戦争の波紋は、戦争終結によって不要の産物と成り果てた武器の捌け口となってしまったことでしょう。
武器商人風に言えば、次の市場として日本がロックオンされた。
アメリカが南北に分かれて戦ったように、その後日本もふたつに分かれ、日本人同士の血を流していくことになります。
12代将軍家斉さんが将軍として在った頃と同じ頃に、イギリスでは産業革命が起こり、フランス7月革命(『レ・ミゼラブル』の舞台辺りですね)からヨーロッパ中に革命運動が起こり始め・・・と、世界各国が近代化に向けて、或いは何かに向けてアクションを起こしていました。
その時代の中から長期航海に耐え得る蒸気船が生まれ、それが黒船として日本に来るタイミングと、徳川幕府の屋台骨の限界が、示し合わせたようにほぼ重なるのが、面白いと言えば面白いところです。
日本史の中だけで物事を見ていると、急に黒船が現れて、その存在に日本中が引っ掻き回されて、やがて諸外国が介入してきて日本中が大混乱して・・・と言う風に思えますが、日本の外から幕末を見ると、黒船は来るべくして日本に来て、日本は近代化の波に呑まれるべくして呑み込まれていったのだなというのが分かります。

さて、そうこうしている内に季節は夏。
越前福井城には西郷どんが、春嶽さんを訪ねて来てました。

ご公儀の慢心ぶりには困ったものよ
こんままでは、再び長州征伐の兵を挙ぐことになりもすな

ご公儀も慢心、というのは、第一次長州征伐が西郷さんの献策により一戦も交えないまま終わったことは前回でも描かれたことですが、まあ長州から家老三人の首を差し出された幕府は、「長州は自分たちに屈した」と思ってしまう節があるのです。
それが春嶽さんの指摘する「慢心」の部分です。
その後更に天狗になった幕府は、長州に藩主父子(毛利敬親さん・定広さん)を江戸に呼び付け従わない場合には再び長州征伐の兵を挙げると脅しをかけますが、藩主父子は従いません。
このままだと第二次長州征伐勃発もそう遠くないかと思いきや、結果的に翌年の慶応2年(1866)にそれは起こるのですが、それに臨む薩摩の姿勢がこのときから触れられています。
つまり、内乱など不毛で、いま戦をすればメリケンの二の舞になって世の中が荒れ果てることになるという春嶽さんの言葉を受けて、西郷どんは薩摩に帰って出兵しないように進言すると応じます。
実際、この後起こる第二次長州征伐で、薩摩は兵を出しません。
ですが、長州征伐に兵を出さない、と薩摩の人間が言ったことに奇妙さを感じる春嶽さん。

妙だな。何故薩摩が長州の赦免に向けて動くのだ。長年の仇同士ではないのか?
幕府のひとり天下の世に戻さんがためにごわず。政は公論を以って行わねばなりもはん
共和政治か。わしがかねてから目指しておるこの国の形じゃな
はい。新しか国の形でございもす

共和政治、というのは前回からちらほら出て来たフレーズですが、今は亡き斉彬さんが目指しておられたこれは、実は斉彬さんが在りし頃、春嶽さんも一緒に目指していたものです。
なのでこのシーンは、「全く関係のない西郷どんが春嶽さんを訪ねて来た」というのではなく、「斉彬さんの衣鉢を継いだ西郷どんが、かつて斉彬さんと共に共和政治の夢を追いかけた春嶽さんに会いに来た」という場面になるわけです。
西洋の林檎の「接ぎ木」というのも、その関係があるからこそのものかと。
今年の大河は、こういったもののリンクのさせ方が非常に上手いなと思います。
しかし「西洋の良きものを大いに取り入れ、国内の物産を育てることが肝要じゃと思うておる」とえっへん顔で言う春嶽さんですが、その考えをおそらく春嶽さんに説いたであろう横井小楠さんの名前も少しは出て来て欲しいな、と思いました。
いえ、小楠さん自身は禁門の変の直前に越前藩の政治顧問を辞めて肥後に帰っちゃってますけど・・・。
それじゃあ何で小楠さんの存在にそんなにこだわるのかと言いますと、後々に必ず出てくるであろう覚馬さんの『管見』に必要な存在だからです。
『管見』についてはまたその時に詳しく触れますが、あれは覚馬さんが何かを閃いて書き綴った(正確には口述させた)ものではありません。
色んな人の影響とか受けて、それを自分の中に一度インプットして、アウトプットさせたものだと、少なくとも私はそう考えています。
そのインプットの要員に、小楠さんは不可欠なのですよ。
・・・『管見』、どんな風に描かれるのか、ちょっぴり不安になってきました。

さて、何かを勘違いして慢心気味の幕府が次にしたことは、京都守護職の役料の差し止めです。

京に来て以来の莫大な出費で、日々金繰りに腐心しているどいうのに

金銭問題は常に会津に付き纏っているように思われるかもしれませんが、実際会津の赤字はどれくらいだったのか。
実を申しますと、上洛後は年間に約12万両前後の赤字も赤字、真っ赤な大赤字でした。
寧ろこの赤字を抱えて、よくもまあ何年もやって行けてるなと思うばかりです。
幕府からは役料なども出てましたが、そんなものは焼け石に水、足しにもなりません。
足しにもなってはいませんでしたが、それでも役料さし止めなどとなったら、焼け石にかける水すらなくなってしまうというわけですので、皆様がざわつくのも無理のない話です。

我らが朝廷をお味方に付け、ご公儀に楯突くものとお疑いの様子がごぜいまする

故にその疑いから、幕府は会津を怖れ、その力を削ぐために役料を差し止めるという経緯に至ったのではないかと平馬さんは推測します。
しかし権助さんが言ってるように、会津は先祖代々将軍家に尽くして来ましたし、そもそも京都守護職の貧乏籤を敢えて引いたのだって、将軍家への絶対の忠義を守るようにとの御家訓あってのこと。
それを逆手にとって京都守護職を押し付けておきながら、この掌を返すような仕打ちを前に、こうまでされて都に留まる理由はないから守護職を退いて会津に戻ろうという声が上がるのは当然ですよね。
けれども容保様は首を縦には振りません。

世が平穏にならぬ内は、主上ひとりをお残しして都を去るわけには参らぬ

掘り下げますと、この容保様の台詞で、ある意味会津が縋れるものは孝明天皇の信頼だけだということが露呈してますね。
だから、孝明天皇がいなくなったら会津のその足場そのものが崩れるということになる。
そしてご存知の通り、歴史は皮肉にもそうなったんですよね。
神様も仏様も、本当に残酷で無慈悲です。
容保様は、自分たちが京に残るのはそう長いことではないと言います。

朝廷とご公儀が手を取り合い、長州が禁裏に発砲した大罪に将軍家が裁きを下してこそ、まことの公武一和が相成るものと思う

ここで特記したいのが、長州にとって会津は憎悪の対象ですが、会津(容保様)は何も長州を「憎し」とは思ってないこと。
ただ容保様にとって許せないのは、攘夷を唱える長州が御所へ発砲した不敬のみであって、正すべきはそこだという。
罪を憎んで人を憎まず、ではありませんが、容保様らしいと言えば容保様らしい物事の捉え方だと思います。

もうしばらくの辛抱じゃ。・・・これを成し遂げたら、皆で会津に帰ろう。磐梯山の見守る、故郷へ

容保様にこう言われては、一同沈痛な面持ちで平伏するしかありません。
その夜、月を見上げながら「会津のお城の月を見たい」と零した内蔵助さんと、それを一緒に見上げる修理さんと覚馬さん。
内蔵助さんはさて置き、修理さんも覚馬さんも、それは叶わないことなのだと知っている身からすれば、非常に切ないシーンでした。
八重さんは会津戦争で会津が降伏した日の夜に、「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影」という歌を櫛を使って城内三の丸雑物庫の白壁に刻んだと言います。
会津のお城の月、というのはそこへの伏線かなと、ぼんやり考えたりもしてしまいました。
この歌が詠まれる時まであと約3年です。

その八重さんと言えば、会津で新婚生活大満喫かと思いきや、尚之助さんを「旦那様」ではなく未だに「尚之助様」と呼んでることについて、そういうことを疎かにしてはならないと権八さんから厳しく言われます。
渋々と尚之助さんのことを「旦那様」と呼び始めることにし、鉄砲も撃たずにいますが、お蔭様でもやもやが溜まった八重さん。
道場で居合わせたお雪さんに、どうしたら良い夫婦になれるのか、そのノウハウを乞いますが、お雪さんは薄く笑って自分にも分からないと言います。
お雪さんは、自分と修理さんは夫婦の真似事をしているような気がしているようです。

嫁いでからすぐに、旦那様が都に上られることになったべ。早ぐ良い嫁になって、送り出さねばどばっかり思って・・・諍いひとつしながったげんじょ、私は一度県がしてみだがった。叱られでみだがったし、困らせてもみだがった
お雪様
旦那様が都がらお戻りになったら・・・私はもういっぺん、初めがら夫婦をやり直してぇ

~してみたかった、とお雪さんが過去形で話すあたり、何だか先の展開が透けて見えて切ないです。
あの八重さんとユキさんが、「戻って来たらいつでも喧嘩出来る」的な慰めをひとつもしてないのも意味深ですよね。
それはそうと、結局八重さんは、尚之助さんに「馬鹿なこと」「つまらないこと」を辞めるように怒鳴られてしまいます。

つまらぬことだべが?私は、尚之助様が人に後ろ指指されねぇように、ちっとでも夫婦らしぐなりたぐて
私は鉄砲を撃つおなごを娶った。世間並みの奥方なぞお、初めから望んでいない
んだら、私では世間並にはなれねぇど言うのですか!
ええ、そうです

余りの言われように眉を吊り上げていた八重さんも絶句。
尚之助さんって、実は結構失礼なこともズバズバ言いますよね(笑)。

世間並なんぞにならなくて結構。あなたはあなたであれば良い

自分の妻は他の誰でもなく、鉄砲の名人の八重さんなので、それで良いというのが尚之助さんの言い分です。
思えば尚之助さんはずっと言ってましたよね、八重さんは八重さんであればいい、って。
別に八重さんに変われだの、もっとこうしろだの、そう言った口出しをしたことは一度もなかった。
言ったところで変えられないし変えようとしない八重さんですから、これはこれで良い夫婦の組み合わせなのでしょう。
史実の尚之助さんがどういった方なのか、今はまだよく分かっていません。
だから、ドラマの尚之助さんは創作に依った部分がどうしても多いキャラ設定になっているのでしょうが、上手く人物像が立っていますね。

元治2年4月7日(1865年5月1日) 、元号が元治から慶応に改元されます。
禁門の変などの災異のためですが、このとき慶応の他に候補にあったのが「平成」です。
平成にならなかったのは、字の中に干と戈があり、災異を厭うての改元で、それは却下せざるを得ないという事情から、平成は候補から外れました。
もし平成になってたら、慶應義塾大学は「平成義塾大学」になっていたのでしょうかね。
それはさておき、慶応元年閏5月16日(1865年6月9日)、家茂さんが1万7千の兵を率いて江戸城を発し、同月22日に自身三度目となる上洛をしました。
二度目の上洛は海路を使ったのですが、今回は一度目と同様に陸路での上洛です。
家茂さんこのとき19歳、数えで20歳。

藩主親子が再三のお召し出しに応じぬのは、長州に謀反の心がある故にござります。毛利親子には切腹を申し付け、長門・周防は減藩にすべきと存じます。上様の御出陣の上は厳罰を以って当たらねば、ご公儀の威信に関わりまする

幕府は既に長州再征を考えており、4月には前尾張藩主・徳川茂徳さん(容保様の実兄)を征長先鋒総督に任命して着々とその準備を始めていました。
家茂さんに上洛を願い出たのもそのためです。
だからこの時点では長州征伐に幕府の方針としては固まっていていいはずなのに、何故か総大将の将軍まで上洛させておきながら、未だに長州に対しての処罰の重さを論じるのは、ちょっとおかしくないかな、とも思わなくもないのですが・・・。
老中の阿部正外さんの発言に、容保様は、厳しい処分に出れば却って反発を招くので、藩主親子は押し込め、領地は減封に処するのが適当だと言います。
定敬さんも容保様の意見に同意のようですが、これまた老中の松平康英さんに「手ぬるきことを」と一蹴。
老中さん方から見れば、そもそも家茂さんを都に引っ張り出す様に進言しておきながら、公明正大を手堅く守りつつも穏便にことを運ぼうとする容保様が、「じゃあなんで将軍にお運び頂く必要があったんだ」と映るのかもしれませんね。
そんなこんなで、既に家茂さんも上洛しているにも拘らず、長州征伐の方針はなかなか定まらず・・・。
このもたつきの方が、よっぽどご公儀の威信とやらに関わるような気もしますけどね。

一方、将軍が上洛すれば戦は避けられないと危ぶむ大久保さんは、西郷どんに『叢裡鳴虫』と書かれたものと、洛北の岩倉村にとある人物がいると紹介されて、訪ねて行きます。
大久保さんは文政13年8月10日(1830年9月26日)のお生まれですのでこのとき35歳、数えで36歳。
訪ねた先にいたのは、まあ岩倉村というくらいですから岩倉具視さんです。
文政8年9月15日(1825年10月26日)のお生まれですのでこのとき40歳、数えで41歳。
寂びれた住まいに居を構え、幽居している岩倉さんですが、何故公家だったこの人がこんなところで落ちぶれているのかと申しますと、まあ要は三条さんとはまた違った意味で宮中を追われたのですね。
それが文久2年8月20日(1862年9月13日)の出来事です。
宮中を後にすることになった岩倉さんは、その後攘夷強行論者の武市半平太さんに「洛中にいると首を四条河原に晒す」など脅され、紆余曲折を経て岩倉村に落ち着いたという次第です。
一体絶対どうしてそこまで追われる身になってしまったのかと申しますと、和宮さんっておられたじゃないですか、孝明天皇の異母妹さんで、家茂さん御正室の。
かつて彼女を江戸に降嫁させる推進運動をしたのが、この岩倉さんなのです。
朝廷権威の高揚に努めてはいましたが、結果的に皇女降嫁の推進をしたことが、三条さんたちには「幕府にへつらう公家」と捉えられ、辞官落飾を余儀なくされました。
攘夷派の者どもに首を狙われ、というのはそう言った背景事情です。
しかし野良仕事でもしないと食べて行けない、と岩倉さんは仰ってますが、実際は自分の屋敷のスペースを博徒に貸し出して、場所代をせしめて小金を稼いでました。
蟄居しているとはいえ、ぼろ屋であれ、公家屋敷は藩邸と同じく治外法権で幕府の役人は立ち入れませんから。

ご意見書を拝読し、西郷共々感服仕りました
草むらで鳴く虫の戯言や

そんな岩倉さんの隣に、大久保さんはさり気無く黄金の饅頭を・・・。
ひとつじゃ見向きもしなかった岩倉さんですが、ふたつみっつ重ねられると、破れた団扇でそれを引き寄せてしめしめと頂戴します。

薩摩は田舎もんで、岩倉様のお知恵をお借りせねば、何事もないもはん
強い朝廷を作るというわしの望みは、薩摩の武力なしには叶わん。相身互いやな

そう言って笑う辺り、本当に公家だなと思わされるばかりです。
さて、このふたりが出会って利害を共有し合うというのでしょうか、そうすることによって幕末という時代は会津の目に見えないところで動き始めることになります。
えげつない外交も出来るし、潤沢なバックアップ資金もあるし、西郷どんや大久保さんのような第一線で動ける人が育っている薩摩と、麻呂麻呂言ってるだけじゃなくてちゃんとした実行力と構想力を持つ公家が結びつくと怖いということですね。

将軍が大坂城に入り、いよいよ長州征伐に動き出すように御座います
大久保、この戦、どっちを勝たしてもあかん。幕府が勝ったら、またひとり勝手な政をする
はい
長州が勝ったら、朝廷が意のままにされる
はい
どっちが勝っても、わしらにとって良いことは何もない。ここは、薩摩が上手く立ち回らんとあかんのや
しかし、戦が始まればすぐに勝敗が付くのではあいもはんか。兵力では幕府方が圧倒しています
いや、長州は侮れん。藩内の勢力が変わった。先祖代々の鎧兜を売り払い、洋式銃を買うようにと藩士一同に命じた知恵者もおる。桂小五郎や
逃げの小五郎か・・・

長州征伐長州征伐と対象にされていた長州ではありますが、その内部では幕府への恭順を主張する俗論派(保守派)とそれに反対する正義派(改革派)に藩論が分かれていました。
まず政権を握ったのは俗論派。
そこで第一次長州征伐が起こり、その後正義派の高杉晋作さんが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で挙兵して(有名な「これよりは長州男児の肝っ玉 をお目にかけ申す」のあれです)クーデターを起こし、元治2年の初めには正義派が俗論派を一掃して藩政の実権を握ります。
これによって長州の反論は開国倒幕に統一され、倒幕に向けて軍事力強化が図られます。
岩倉さんの、藩内の勢力が変わった、というのはそういうことです。
また桂さんが先導して長州が洋式調練に励んでいる様子でしたが、このとき長州は幕府から一応は睨まれている状態ですので、軍備を西洋化しようとしても、銃を諸外国から買うことは出来ません。
そこでそんな長州のために、武器の売買の中間地点として請け負ったのが坂本龍馬さんの亀山社中です。
・・・と、歴史はこんな風にぐるりと繋がっているわけですが、この辺りの流れは散々今までの幕末大河でも触れられて来たことですよね。

一方会津では、横山常徳さんがその生を終えようとしてましたが・・・かねてより散々触れているように、この方は1年前の夏(元治元年8月7日)に亡くなっているはずなのですが・・・。
何故生きておられるのだろうという疑問と違和感は尽きませんが、言っていることは正論です。

おかしなことじゃ・・・。幕府のため、朝廷のため、誠を尽くせば尽くすほどに会津はますます泥沼に足を取られて行く。・・・帝からご宸翰を賜ったときの嬉しさ・・・あの時の嬉しさが、今は会津を都に縛り付ける鎖となってしもうた

加えて容保様は、御家訓という鎖にも縛られてます。
そこは以前西郷さんが指摘した通り。
在京の家臣は、一応は納得していますが、同時に会津に帰りたがっているというのは、容保様の姿勢に完全に賛同しているからじゃないという現れですよね。
その二本の鎖に縛られているからでしょうか、容保様は現実的な視点をなかなか設けることが出来ないでいます。
帝を尊守し、古くからの決まりごとを遵守するというスタイルは武士としては鑑なのでしょうが、同時に指導者としての欠点にも成り得ます。
故に会津は、こんな世情下で悌次郎さんを左遷などということも出来てしまう。
新しい観点を持っている人たちへの危機管理が薄いのでね。
既存の価値観に依ったままでは、西郷どんや大久保さんや桂さん、あるいは春嶽さんに置いて行かれるばかりです。
しかしだからと言って、容保様の置かれていた状況を慮ると、容保様を閉塞した時代感の人と切り捨ててしまえないのもまた事実。
尽くした分だけの労力と結果が、常に釣り合わない、場合によっては保障されないのが人の世ですよね。
このドラマに登場してきた人々の言葉を借りるならば、「ままならぬ」でしょうか。

程無くそんな会津で、悌次郎さんは蝦夷地の斜里郡代官に任じられます。
悌次郎さんはそれを前向きに受け入れつつも、また会津に戻って来たときには会津が今よりもう少し頭の柔らかい国になっていれば良いと言います。
そして八重さんと尚之助さんに、新しい力はふたりのように古い秩序から縛られない者の中から生まれてくると信じているのだと。
見方によっては、会津が容保様スタイルを貫いた結果の犠牲者が、悌次郎さんとも言えるのではないでしょうか。
そして修理さんもまた、その犠牲者となる。
冷厳に聞こえるかもしれませんが、会津の側面としてはそこはちゃんと受け止めておくべき部分ですよね。
最後に八重さんが指さした先には大きな虹がかかっていましたが、あれはやがて消えていく儚い幸せを意味しているのだろうなと感じました。

しかし今回は対比が多かったですね。
貝に入った紅と薬、喧嘩も出来なかったというお雪さんと喧嘩も出来ちゃう川崎夫婦、飛ばされて行く悌次郎さんと戻る方へ動く岩倉さん、現状維持で役目が終われば故郷へと思う会津と現状打破で強くなろうとする長州、などなど。
こういう細やかな演出があるので、なかなか気を抜いて見ていられないです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年4月5日金曜日

第13回「鉄砲と花嫁」

禁門の変から、長州征伐へ移ろうところから始まりました第13回。
都の焼け跡の惨状に衝撃を受けていた覚馬さんですが、如何呑み込んだのか、今週は明るい表情で復興に尽力しています。
俵をひょいと持ち上げてましたが、妹の八重さんが出来るのですから、お兄さんの覚馬さんも一俵持ち上げるのくらいは朝飯前なのでしょうね。
しかし運ばれてきた米に喜んでいる人の描写を見る限り、とても前回会津を鬼だの何だのと言っていたのと同じ場所の方々には見えないのですが・・・。
冷たい視線を向ける人もいる反面、まだ温かく受け入れてくれる人もいるということなのでしょうか。
ちなみに「会津は都では嫌われ者だった」「長州は都で人気があった」というのが幕末史の一般認識ですが、長州は都での金払いが良かったんですね。
都の方から見ると、そんな長州は要は経済の歯車を回してくれる存在になるわけです。
逆を言えば、会津はそんな長州を追い出した悪者に映ってしまうんですよね、都の方には。
まあ経済回してくれる人がいなくなると、自分たちの生活にも直接的な打撃を被ることになるわけですから、現実的に物を考えれば・・・ね。
人間なんですもん、やはり自分が生きていく方に有益齎してくれる方に傾くのが心理でしょう。

元治元年8月、官兵衛さんが藩士を率いて上洛しました。

戦の報せを聞いて、急ぎ参じましたなれど、叶いませず、残念にごぜいやした

謹慎していた官兵衛さんは、容保様と対面するのは実に7年ぶりだそうです。
その官兵衛さんが率いて来た藩士たちには
「別撰組」という名を与えられ、隊長を官兵衛さんに任じると共に市中警固を命ぜられました。
慶応四年以降だったら別撰「隊」になってたのでしょうかね。
新選組の池田屋でのことなどを聞いて、あれだけ国許の会津で身を揉んでいた官兵衛さんですから、喜びも一入だったことでしょう。

その頃会津では、国許に帰って来ている悌次郎さんが、山本家を訪ねていました。
余談ですが悌次郎さん、このときの帰国の際に結婚されてます。
お相手は遠藤美枝さんといって、祖は正之公の近習の御家柄の方です。
悌次郎さん42歳にして、美枝さん24歳ですから、当時から考えると特に美枝さんはなかなか結婚が遅かったようにも思えますが、この頃の会津は藩内の若い人たちが、京都守護職のお役目として殆ど都にいるので、なかなか国許の娘さんたちはそう言ったご縁に恵まれなかったのが会津の現状だったようです。
相手がいないと結婚出来ませんからね。
勿論、結婚する人たちがいないと子供も生まれませんので、産婆さんは商売あがったりの状態だったみたいで・・・。
財政的な問題と並行して、そういったことも会津の国許ではぽつぽつ問題として芽吹き出しています。
それは今はちょっと横に置いておきましょうか、脱線しますので(笑)。

おー、お見事!話には聞いでだが、大した腕だ
私の腕は未熟だけんじょ、この銃はなかなかのもんでごぜいやす

悌次郎さんは銃を見せて貰い、尚之助さんが改良を重ねたことに頷きながら「これなら会津でなくても高く腕を買うところはある」と言います。
その言葉に、きょとん、とする尚之助さん。
悌次郎さんはとあることを、少し言い出しにくそうに切り出します。

実は、都を発づ時に覚馬さんに頼まれてな。もし川崎殿が会津を離れるごどを望むなら、余所で働げるよう力添えをよろしぐど

これが今日の用向きだったのでしょう。
常々このブログでも触れていますが、悌次郎さんはおそらく会津藩で一番他藩に人脈を持っていて、多方面に顔が効きます。
だから、会津ではない、尚之助さんを正当に評価してくれるところへ導くことも出来るのですよね。
誰も尚之助さんに会津に留まれと、縛り付けるようなことは誰も言ってません。
そういう何処にもまだ根を張ってない存在であるからこそ、出来るならば会津に根を下ろして欲しいという先週の覚馬さんの文があったわけでして。
なので、先週と言ってること違うのでは?と視聴者としては首を傾げたくなりますし、尚之助さんもそれを指摘していますが、どうやら先週とは状況が変わったようです。

覚馬さんは迷ってだ。川崎殿を会津に留めで良いものがど
私の腕は、もう要らぬということですか?
いや、そったことではねぇんだ
でしたら
象山先生が落命されだごど、お聞き及びが?

どうやら蛤御門のことは会津に届いていても、その数日前に起こった象山先生の訃報は届いていなかったようです。
というか、この場合は蛤御門のことが情報としては重要性と緊急性が濃厚だったので、象山先生のことが後からの出来事に掻き消されるような形になってしまったのでしょう。

刺客に襲われで亡ぐなられたのだ。その後、佐久間家がなじょなったが・・・お取り潰しだ
そんな・・・
象山先生のお働ぐに、松代藩は何ひとつ報いながった。それどころが、煙たがる向ぎさえあったど聞ぐ

・・・うーん、象山先生のことについて再三突っ込んではいることですが、佐久間家お取り潰しは松代藩の方々が象山先生の働きを認めてなかった云々よりも、象山先生の人間性がおそろしく藩の中で嫌悪されていたということをちょっとこのドラマではスルーし過ぎではないでしょうか。
これだと松代藩の方々が単にイヤな奴集団になっちゃうような・・・いえ、象山先生に好意的だった人たちから見れば、松代藩がそう見えるのは当然かもしれませんが。
まあ、要は物事に於ける視点の置き方ですけども。
覚馬さんも仰ってたように、悌次郎さんも象山先生の一件から、会津も他藩のことは言えないと言います。

秋月様。会津は、そんな薄情などごろではねえがらし
うむ。んだげんじょ、会津は頑固で新しいものを容易ぐは認めねえ。その銃にしてもそうだ。川崎殿がどんだけ力を尽ぐしても、それに見合うだけの地位を得るのは難しかんべ。それでも会津に留まることを良しとすんのか

史実はどうであったのか、詳しい部分は勉強不足故私は知りません。
でもこの象山先生の一件から、果たして尚之助さんを会津という畑に根付かせたところで、という考えの変化を展開させていくのは上手い運び方だなと思いました。
ただ、当人の八重さんと尚之助さんにすれば、振り回されていい迷惑だったでしょうが(苦笑)。

覚馬さんからふたりへの言伝だ。遠慮も気兼ねもいらねぇ。己を生かす道は、己の考えで決めで貰いでえ、ど

勝手だな、と思わない辺り、本当八重さんと尚之助さん良い人ですね。
さて、縛るものが何もないという現状と、象山先生の訃報。
このときの尚之助さんの心に重く圧し掛かったのは後者でしょうが

何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め

この台詞は象山先生から覚馬さんへの言葉でしたが、言葉自体を直接受け取ったのは尚之助さんでしたよね。
その言葉を思い出し、角場で落涙する尚之助さん。
何かを始めて、阻害されて、蹴散らしたけれども蹴散らし方が拙くて死後もなお阻害される象山先生。
覚馬さんはこの言葉を第3回で受け取ってますので、今度は尚之助さんの番、というのは少し変かも知れませんが、今後自分は如何していくのか。
蹴散らして行くのか、邪魔の入らない開明的な場所へその身を移すのか。
八重さんとの縁談云々を抜きに考えても、尚之助さんの選択の時ですよね。

手紙やら伝言やらで、散々国許のふたりを振り回しているなど全く気にしていない(というかきっと悪気が皆無)覚馬さんは、上洛した官兵衛さんに会いに行きます。
官兵衛さんは別撰組の隊士に槍の稽古を付けている最中でした。
隊士たちが持っていた稽古用の槍が、会津で覚馬さんたちが道場で使っていたにもそうですが十文字槍なのは宝蔵院流槍術だからでしょう。
官兵衛さんは、蛤御門で手柄を立てた覚馬さんたちには負けてられないと意気込みますが、それにしても長州攻めはいつ始まるのだと声を荒げます。

ご公儀の方針が定まらねぇみでえです
殿は、公方様がご上洛され、全軍の指揮をお執りになるよう、江戸に進言しておいでなのですが・・・

確かに理想で言えば、幕府の棟梁である将軍が勇ましく指揮を執って長州征伐に乗り出すのが絵になるのでしょうが、如何せん将軍が上洛して、その上戦に赴くとなれば莫大な費用が掛かります。
残念なことに幕府には、その費用を賄うことが出来ないのです。
武家の棟梁として保つべき面子という面倒くさいものがありますので、みすぼらしいなりで将軍を送り出すわけにも行きませんしね。
これは幕府を情けない、と言うよりは、じゃんじゃか諸外国に喧嘩を吹っかけてるのに賠償金請求書は全部幕府に回す一部の藩とか、黒船来航による物価高騰から始まる不景気とか、そう言った経済的な背景事情もあります。
いえ、確かに情けないと言えばそうですが、当時の人たちだって「無い袖は振れん!」と思っていた部分もきっとあるでしょう。
あと家茂さんが江戸から出して貰えなかったという節もありますね。
その辺りを大奥サイドから見た話については、『篤姫』参照で。
そんな一同のところへ、広沢さんが戦の報せを持って来ます。
主語が抜けてたので、てっきり長州征伐だと思い腰を浮かせた官兵衛さんですが、戦は戦でも長州と異国の戦でした。
元治元年8月5日(1864年9月5日)から始まった四国艦隊下関砲撃事件です。
馬関戦争とお呼びした方が多少は皆様にも馴染みがあるでしょうか。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国に長州が攻撃された事件です。
事の発端は、長州が文久3年5月10日(1863年6月25日)にやった攘夷実行にあります。
以前の記事でも触れましたが、あの時の要は報復がこのときですね。
当たり前というのも何だか変な表現ですが、この事件は長州の惨敗です。
近代兵器を積んでる17隻の艦隊と、大砲の数さえ足りずで覚束無かった長州では、火力差に雲泥の差があります。
まず大砲の飛距離からして違いますから、長州の大砲が敵艦には届かないのに、敵艦の大砲は長州に届くということになります。
その結果、5日に前田浜占拠、6日に壇ノ浦占拠、7日彦島占拠・・・と、ことごとく長州は艦隊にやられました。

(画像:Wikipediaより拝借)
フェリーチェ・ベアトの撮影したこの写真は日本史の教科書などでもお馴染みですが、これは前田砲台を占領したイギリス軍です。(訂正:この写真は実際は「洲岬砲台」とのご指摘を受けました。ベアトが写真説明の時に「前田地区の砲台で撮影」と記したので、おそらく「前田砲台」になってしまったと思われるとのことです。ご指摘とご教授感謝いたします)
惨敗を喫した長州はこの一件をターニングポイントに、無謀に攘夷を唱える姿勢から、開国勤王へと舵取りの方向を変えていきます。

時代は日を追うごとに確実に動き始めている中、主人公の八重さんにも大きな転機が訪れました。
改良に改良を重ね、元込め式のライフルを作ることに成功した尚之助さん。

筒の内側に螺旋の溝を彫りました。異国製のようにはいきませんが、ずっと命中しやすくなったはずです

私は銃には不勉強なので詳しくどうこう解説は致しかねますが、そういうことのようです。
試し撃ちは八重さんではなく尚之助さんが。
尚之助さんが銃を撃つのは何だかとても久し振りのような気がしますが、弾は見事的の真ん中に命中。
そのことに最後の自信を得たかのように、尚之助さんは八重さんに毅然と向き合って言います。

八重さん
はい
夫婦になりましょう
え?
私の妻になって下さい
そったごど・・・あんつぁまの文のごどは忘れるようにど、秋月様が言わっちゃ。んだがら、縁組のことは、もう・・・
文のことはどうでも良い。私が自分で考えて、決めたことです。お父上にお許しは頂きました。八重さん、一緒になりましょう
駄目です!それは出来ねぇす
何故ですか?私では頼りないですか?八重さんに相応しい男ではないと思っていました。だから、一度は縁談をお断りしたのですが・・・なれど、これを作ることが出来た。日本で最も進んだ銃だと自負しています。たとえ生涯浪人でも、この腕があれば生きて行ける
んだがら・・・ならぬのです。尚之助様を、会津に縛り付けではなんねぇのです。・・・あんつぁまの文が来た時から私はそう思っていやした
八重さん
ずっと仕官に拘ってだのはあんつぁまだ。尚之助様は昔がら、そったごどちっとも望んでおられながった。いづでも、何処にでも旅立って良いのです。やりでぇごどを、おやりになって頂ぎでぇのです!
私はここで生きたい。・・・八重さんと共に、会津で生きたいのです

道が幾つあっても、人ひとりが選べる道はいつだってひとつですからね。
八重さんは尚之助さんの求婚を受け入れました。
その昔、八重さんに「会津は頑固」というのを言葉に出して教えてくれたのは尚之助さんで。
尚之助さんは頑固の国(会津)ではない場所でも十分通用するだけの能力を備えていて、八重さんもそれを十二分知ってて。
でもそんな尚之助さんが、この先その能力を阻むことになるかもしれない頑固な会津で、自分と生きることを選んでくれた。
あなたは会津そのものだから、と八重さんに言ったのは大蔵さんですが、尚之助さんにとっては、八重さんが会津で生きていく理由なのですね。
つまり会津残留は八重さんあってのこと。
しかも八重さんは八重さんで、普通のおなごではないことを自覚して生きて来て、照姫様ご祐筆選抜騒動の時に改めてそれを痛感させられた部分があります。
あの時普通ではない自分を認め、必要としてくれたのは尚之助さんでしたが、今度はそんな自分と一緒に「生きたい」とまで言われましたからね。
嬉しくないわけないでしょう。
八重さんの嫁入り決定に、山本家も嬉々とした雰囲気に包まれます。
下女と下男のお吉さんと徳造さんも大喜びで、しかし山本家を離れるわけではないので「嫁に行く」と言うわけでもなく、しかし「婿取り」というわけでもなく。
こういう場合の仲人もどうしたら良いのだろうかとも頭を悩ませつつ、でもまあ嫁入り道具は人並みに揃えてやろうと、顔を綻ばす権八さんが何とも言えない幸せそうな表情なのが、見ているこちらまでつられて笑顔になります。

元治元年9月15日(1864年10月15日)、ほの温かい空気の会津から一転しまして、大坂の専稱寺に現れた西郷どん。
大坂の専稱寺そのもの今は残っていませんが、場所は以下の地図付近だったと思われます。

大きな地図で見る
勝さんを訪ねて来た西郷さんではありますが、流石に庭で薪を割ってる男が当人だとは思わなかったようです。
後の江戸城無血開城で顔を合わせるふたりですが、名乗り合ってましたし、初めて顔を合わせたのはこのときだと思います。
(ドラマでは皐月塾に西郷さんが訪ねて来てましたが、あそこでは顔を合わせてなかったということでしょうかね)

勝先生、征討令が下ってふた月が経つっちゅうのに、幕府はぐずぐずと時を無駄にしちょいもす。どげんしたら良かかと
何故、それを私に聞くんです?
亡き先君に申しつかりもした。国事に迷った時は、勝先生をお訪ねせよと
斉彬公ですか。お懐かしい・・・。で、アンタは長州を如何したいのです
無論、厳罰に処するべきと。領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす
挙国一致して、長州を討つってわけか。マアおよしなさい。そんな戦、幕府のためにはなるかしれねえが、日本のためにゃなりませんよ。そもそも内乱なんぞにうつつを抜かしている時ですか?下関を襲った異国の艦隊が、もし摂津の海を攻め込んで来たらどうします?腰砕けの幕府にゃ、打つ手はねえでしょう

ならどうするのが良策かと問う西郷どんに、勝さんは幕府だけに任せるのではなく、国を動かしていく新しい仕組み=共和政治を作るのだと言います。
幕臣である勝さんが、封建制で保たれて来た徳川幕府のやり方を否定してることになりますが、勝さんってこういう方ですもんね。

日本中には優れた殿さまが幾人かはいる。越前の春嶽公、土佐の容堂公、それから薩摩だ。雄藩諸侯が揃って会議を開き、国の舵取りをするんです

斉彬さんもこの政治体制を目指しておられました。
しかしこの体制については、前年(文久3年)に参預会議が数カ月で崩壊、この2年後に将軍となった慶喜さんの元で設けられた四侯会議が、慶喜さんの性格が災いしてすぐに崩壊してしまうという・・・(苦笑)。
2年後の失敗はこの時点ではまだ勿論発生していないわけですが、参与会議が短期間で崩壊したことについては勝さんは如何思っておられたのでしょうかね。

肝要なのは、己や藩の利害を越え、公論を以って国を動かすことです

とは仰いますが、徳川幕府が「幕府」である限り、幕府は己の利害を必ず考えるでしょうね。
面子は捨てられない、最高権力者の地位にいたい、・・・と、後の慶喜さんを見ていれば何となく感じることですが(個人的に)。
そういう風に幕府の性格みたいなのをなぞって行くと、共和政治を実現させるためには何が一番それを阻んでいるのかがくっきりと見えてきます。

わかいもした。・・・たった今、おいは目が覚めもした。天下んために何をすべきか、はっきりとわかいもした。あいがとごわした

勝さんとの会話のやり取りで、西郷どんも斉彬さんが提唱してた共和政治を阻むものの姿がくっきりと浮かび上がったのでしょうね。
だからこそこの発言だと私は捉えたのですが、如何でしょうか。
そして西郷どん開眼発言に、少し喋りすぎたかも、と苦い反省をする勝さんでしたが、既に後の祭りです(笑)。

元治元年10月22日(1864年11月21日)、大坂にて長州征長の軍議が開かれます。
総督は安政の大獄の時に、春嶽さんと一緒に隠居・謹慎の処分に下された尾張元藩主・徳川慶恕さん改め慶勝さん。
前にも触れましたが、容保様の実のお兄さんです。
ドラマでは尾張藩主、としていましたが、この時点では藩主の座は退いでいると思います。
文政7年3月15日(1824年4月14日)のお生まれですので、このとき40歳、数えで41歳。
副総督は、いつの間にかドラマでお見かけしなくなった春嶽さんの養子、松平茂昭さん。
天保7年8月7日(1836年9月17日)のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳。
征伐軍の参謀は西郷どんです。
しかしその参謀が、長州に恭順を勧めるべきだというのですから座はどよめきます。
それでは幕府の体面に関わると言う茂昭に、西郷どんは兵力さで幕府の威光を見せつけること、戦わずして勝つことが善の善なるもの、と孫子の兵法を引用して茂昭さんを論破します。
これによって征伐軍の方針は和平へと一転するのですが、「戦をしなくて良い」の意見に諸藩が飛びつくように右に倣えして、結果戦が起こらなかったのは、やはりここでも各藩の財政的な事情があったからだと思います。
西郷どんは勝さんに、「領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす」と仰ってましたが、 表向きには石高36万石の長州を征伐したところで、分け前の半分が朝廷に行くのでしたら残りは18万石。
それを征伐に参加する36藩で分け合うと、結局貰えるのは平均して50000石というささやかなものだけ。
手柄によって増減するでしょうから、下手をすれば貰えない可能性だってあるわけです。
しかし戦の出費は膨大且つ藩の財政に余裕がない。
この損得勘定のそろばんを弾けば、やる気も起きないというものです。
ひとつひとつの藩の動向を丁寧に探っていければ、幕末史がもっと面白くなるのでしょうが、生憎と36藩全部には手が回りません・・・(苦笑)。
そんなこんなで、長州征伐は一千も交えることなく、長州川が家老三人の首を差し出して恭順の意を示したところで終わりました。
それから八月十八日の政変の時に長州へ落ち延びた実美さんたちを、筑前藩大宰府に移す様に、というのも条件の中に含まれていました。
いずれも「朝敵」に対しては、随分と寛大な処置だったように思えます。
その処置に関して、二条城で納得いかないと憤慨している御仁がおりました。慶喜さんです。

征長総督め、薩摩の芋酒に酔って腑抜けになったとみえる
芋酒?
西郷という名の芋じゃ

ところが今度は、容保様が長州征伐に家茂さんの上洛を願い出たことを遠回しに批判めいて指摘します。
何かと以前から容保様にねちねちと嫌味っぽい慶喜さんですが、一会桑政権という連携がありますので、

江戸の老中は、京都守護職如きが将軍の進退に口を挟むべきではないと嘲笑しているようです。
何より江戸城に籠りっきりの幕府の偉い様方は、遠い都の現状を本当の意味で知りません。
そのため、慶喜さんや容保様が、朝廷の権威を笠に着て幕府を脅かすのでは、という噂まで立つ始末。
火のないところに何とやらとは申しますが、これは完全に誤解なのでしょうが、今のように即座に情報伝達が行える時代ではないので、これもまた仕方がないことではあるのでしょうが。

江戸城の連中は何も知らぬ。そのくせ帝のご信任篤い我らを妬み、京都方などと名付けて痛くもない腹を探ってくる

今回ばかりは、慶喜さんに同情を覚えますね。
しかし日頃京都守護職として黒谷でお勤めされている容保様に対して、普段慶喜さんって何処で何やってるのかなあ、という印象がないわけでもないですが。
そしてこの江戸と京の間に起こる軋轢は、会津藩内でも発生してました。

江戸藩邸からも訴えが参っております。幕府の役人達が会津を京都方と呼び、何かと嫌がらせをすると
京都守護職は、ご公儀がら押し付けられだお役目ではねぇが。金ばかり嵩んで、国許も疲れ切っているどいうのに

修理さんに、土佐さんはそう零します。
しかしこの行き違い、そして国力の疲弊を放置しておくわけにも参りません。
容保様の体調のこともありますし、ここらが潮時か、とふたりは見極めます。

なあ、修理よ。我らは一体、何ど戦っているのであろう

幕府から貧乏籤を引かされ、役目に励めば今度は幕府から痛くもない腹を探られる。
怨みは買うは、国力疲弊するわ財政破綻寸前になるわ、唯一得たものと言えば孝明天皇からの熱い信頼だけ。
何とために会津から遥か遠いこんな場所で、毎日頑張っているのだろうと、ふっと疑問に浮かべてしまったこの土佐さんの一言、物凄く深いと感じました。

この年、覚馬さんは公用人に、大蔵さんは奏者番、平馬さんは若年寄に出世しました。
そのことについて平馬さん宅で、二葉さんがお祝いを言っていますが、砲術の家の人間である覚馬さんが、武ではなく公のことに関われる公用人に取り立てられたのって、実は凄いことなんじゃないだろうかと思うのですが、どうなんでしょう。
それはさておき、平馬さんが二葉さんに人形を贈ったこのやりとりが個人的に好きです。
ぎこちないんですけど(主に二葉さんがお固すぎて)、結婚前に「仲良くしましょう」と言った平馬さんの言葉はちゃんと守られようとしてるんだなと。
平馬さんは義弟にあたる大蔵さんに、大蔵さんも何か妻女が喜びそうなものを贈ってやれと言います。

櫛でも紅でも良いんだ。おなごはみな、そったもんを喜ぶ。・・・いや、みなどは言えんな。覚馬さんの妹御なら鉄砲の方が良さそうだ
紅白粉より鉄砲です。んだげんじょ、あれもとうとう縁付くごどどなりやした
はあ、そんな勇ましい御仁がいやしたか

縁付く、と聞いたときの大蔵さんの表情が一瞬止まるのは、最早お約束ですね。
お相手が尚之助さんだと聞くと、平馬さんは膝を打ちながら灯台下暗しだと言います。
良かった良かった、とおめでたモードの平馬さんに、驚いて膳のお銚子を倒してしまう二葉さん。
一方ひとり、黙り込んでいた大蔵さんでしたが、やっぱり八重さんに未練が残ってるのかな~好きだった人の結婚話なんて聞きたくないよね~などと思っておりましたが・・・。

良い・・・良いご縁です
え?
まごどに、良いご縁です。おめでとうごぜいやす

顔を上げてそう言った大蔵さんの表情が、国許を離れるとき(第8回)に八重さんに「あなたは会津そのものだから」と言った時のあの表情と非常に似ていました。
解釈は人それぞれでしょうが、やっぱりまだ八重さんへの気持ちは残ってるんじゃないのかな、と言う印象を受けました。
でも国許発ったときみたいに、はっきりと言葉では言い表さない。
この先も一生秘めていくおつもりでしょうか・・・そういう気持ちは引き摺っても全然軽くなってくれないものなんですけどね。
その大蔵さんも、八重さんのあれこれに反応を示しますが歴とした妻帯者なわけでして。
会津で家族が大蔵さんの昔ことを話している中に、大蔵さんの昔のことを知らないが故に輪に入っていけない登勢さんを、そっと気遣う艶さんが素敵でした。

季節が巡って、再び春・・・ということは元治2年(1865)でしょうか。
八重さんの花嫁衣裳である、純白の羽二重の打掛が届けられます。
それに淡い笑みを注ぐ権八さんの横顔が何とも言えず・・・これ、八重さんが家にいるままだからこうですが、嫁いで他の家に行くとかなってたら、絶対に権八さん泣いてたんじゃないのかな。
その場合、覚馬さんの時は大量に耳かきを作ってましたが、何を作ったのでしょうね(笑)。
近々花嫁衣装に袖を通す八重さんはといえば、三郎さんと角場にいました。
嫁入り前だというのに、何処までもいつも通りなのが却って八重さんらしいです。
角場であれこれいう八重さんに、三郎さんは口を少し尖らせて言います。

あーあ。当てが外れだ
ん?
姉上が嫁に行けば、角場は俺の天下だと思ったげんじょ

現代で言う、お兄ちゃんが出て行ったら子供部屋は自分が使える、というのと似た感覚でしょうか。
しかし世界でたった三人の山本家の兄弟で、覚馬さんはずっと都というのもあるので、このふたりの絆みたいなのは、描かれてはいないけど色々と察することが出来ますよね。

姉上・・・おめでとうごぜいやす

弟からの言祝ぎに、八重さんは少し恥ずかしそうに微笑み返しました。
ゆっくりゆっくり幸せが向こうからやってくるような、緩やかな時間の運び方が好きです。

一方、西郷さんの栖雲亭を訪ねた悌次郎さんは、ふたり仲良く筍を七輪で焼きながら西郷さんに京の情勢などを話します。
筍が終始、物凄く美味しそうでした。
会津は京の丸太町に洋式調練の練兵場を開くことになったようで、蛤御門の件が軍事改革を促す良い呼び水になっているという現状は良い傾向かもしれませんが、会津の国許では単にそうとは捉えられません。
ただで軍事改革や洋式調練の練兵場を開くことは出来ません、当然お金がかかります。
ただでさえ守護職拝命前の時点で藩の財政が赤字だった会津ですが、その後赤字は酷くなる一方で、借財も増えるばかりです。
悌次郎さんも財政が苦しいことは薄々承知してたでしょうが、国許に帰国してからそれがよく分かったようです。
国許の人々が倹しい暮らしをしているのを、きっと目の当たりにしたのでしょうね。

公用方には不満を持づ者もいっぺいいんだ。国許がら見れば、都を我が者顔に仕切ってるように見えっからな。横山様の御尽力にも拘らず、にしにお役目が付かぬのもそごらあだりのごどだ

以前の記事でも触れたことですが、この時点で横山さんは亡くなっていると思うのですが・・・(横山さんは8月7日没)。
それはさて置き、そこへお茶を持って来た千恵さんによれば、八重さんの祝言の仲人は悌次郎さんが務めるようです。
ドラマの西郷さんは八重さんを気に入っている様子ですので、もし謹慎になっていなければ西郷さんが務めていたのでしょうね。
しかし仕官が敵っていない尚之助さんは、藩士でないので拝領屋敷がありません。
なので、何処に嫁「入り」は出来ず、嫁「入り」らしく送り出すことも出来ないのを少し気の毒そうに思う千恵さんですが、そういったことを気にしない山本家の面々ではあっても流石に・・・とおもった西郷さんは、ここでひとつ年長者(といってもこのとき34歳、数えで35歳ですが)の知恵を出します。

いや、折角の祝言がそれでは・・・。ああ、わしに考えがあんぞ


会津にも遅い春が訪れ、桜の花が爛漫と咲き誇る砌。
柔らかい陽光が差し込む秋月邸で、わたわたとせせこましい悌次郎さん。

仕度は整いましだがー?

と、開いた扉の向こうには白無垢で身を包み、綿帽子を被った八重さん。
見ているこちらも思わずうっとりしてしまうほどの美しさでしたので、悌次郎さんが感嘆するのも無理からぬ話ですね。

これは魂消だ。すっかり見違えだ
秋月様。今日はこちらのお宅がら嫁入りさせて頂ぐごどとなり、ありがとうごぜいます
いや何、頼母様のお知恵だ

どうやら西郷さんの「考え」とはこのことだったようで、秋月邸から嫁入り行列を出立させる、ということだったのですね。
これで八重さんも「嫁入り」が出来ることになりました。
勿論史実ではどうだったのかどうかは分かりませんが、ドラマの八重さんは色んな人に温かく見守られながら嫁いでいくのだなと、心がほっこりするシーンでしたね。
丁度この回の放送時(2013年3月31日)は、桜が綻び始めた砌でして、狙ったのかどうかは分かりませんが、現実とドラマの季節がぴったり重なっているなと思いました。


ではでは、此度はこのあたりで。


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